ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その4

 

映画についても書いておこうと思う。

 

 

ロードショーとして配給される映画には、

多くのプロパガンダが込められていることは

周知されているだろう。しかもそれは、公開される前から汚染脳のために、

特に注力し宣伝する映画は明らかに政治戦略も込められている、と思う。

例えば、象徴的に思い出されるのはワァーキングガール(1988)という映画だ。

M&Aが盛んなUSAの土壌を日本に持ち込むため、企業買収の認識を

やんわりと一般化させキレイ事にするのに、また進歩的なイメージを

与えるのに、格好の映画となったことだろう。

しかも女性労働者を倍増させるのにも一役買ったに違いない。

 

例に漏れずワタシも鑑賞したのだが、当時は企業買収の意味が

今ひとつ分からなかった。かつ主人公の職業が抽象的で変な仕事、

不自然なことではないかなぁ、くらいは思った記憶がある。

 

 

プラザ合意が背景にあって、1991年バブル経済を崩壊させた。地価急落、電電公社民営化でNTT株価の急騰と暴落劇、山一証券破綻や、スキャンダルをマスゴミで取り沙汰し長銀などの解体、再編が続き、外資の息が掛かった銀行に変わって、企業への貸し剝がしが頻発した。倒産件数は毎年更新。人材、資産、技術は徐々に吸い上げられて、怒涛の如く日本企業は外資企業に買収され続けていった。郵政民営化が更に日本経済に大打撃を与え、現在の日本は正規雇用の悪化、賃金低下、法人税所得税引き下げと、大企業還付金のための!消費税増外国人労働者流入など、マスゴミで本質とは違う問題点を取り上げフル活用し、世論を狂わせ、その後、国体を揺るがす諸悪の問題の列挙にいとまがない。

 

 

いち娯楽映画がバブル崩壊を牽引したとまでは言わないが、

1988年公開映画と1991年バブル崩壊に様々な意図が全く無かったとも思えない。

大衆側の知ったつもりになるM&Aに対する漠然とした認識や進歩的という錯覚。

恐怖と同様に、「憧れ」という類の肯定感によった集合意識のエネルギーは大きく、

社会を動かす原動力ということを偽ユダは、熟知していることだろう。

繰り返し書くことだが、中世以降すべての大陸諸島を欧州貴族勢が強奪強姦破壊で、

民族社会を植民地化していった。それが、装いを変え国際機関云々を使い完全防備で、

合法化された略奪行為が、M&Aあり、民営化であることを日本人全体が、

終戦直後、せめて昭和30年代頃から日本人リーダーらが、

それを研究分析し波及させなくてはならなかったのだ。

年月を経て、日本人が偽ユダの胸算用に気付いても後の祭りであった。

 

欧州貴族勢や国際金融家らの巨悪を払拭するのに

戦争は論外で、かつ経済競争力でもなく、方法はただ一つ。

今後の未来、偽ユダの生命の水であるお金の消滅。

生命維持装置である変幻自在の政治経済システムの消去、

それに類する概念がこの地球から消える生き方を

各々が模索すること。自然破壊による人工物にはできる限り依存しない生き方、

そして地に足をつけた生活の中でアミニズム・精霊信仰・八百万神を

改めて思い出すことだと思う。

人間本来の意識を思い出させないために、

人工物質人工空間を増やし続けてもいるだろう。

 

 

 

ロードショー映画の中で瑣末なことでは、特定メーカーの飲み物を

さり気なく主人公が飲んでいたり、

画面の中に偽ユダが大好きなカバラ数字が入っていたり、

性的な文字が子供向けアニメに潜ませてあったり、ネズミィ映画では

子供がキャラクターグッズや雑貨を欲しくなるような

小道具が繰り返し映像に出てきたり。

サブリミナルという言葉も流行ったが、

様々な映像汚染脳に大衆は、未だ無防備だ。

もちろん、日本でもドラマのみならず、ニュースもプロパガンダ

大いに仕込んであることは分かっているが、それは割愛しよう。

 

分かったような指摘をしても、所詮単なる鑑賞者の私には漠然として

憶測めいたことしか言えないのだが。

 

未来イメージを偽ユダのシナリオ(旧約聖書)の予言的

内容に則した表現にしていることもたっぷり含まれているだろう。

予言(予定)らしき内容を映画に盛り込むのも、

そうした未来を召喚したい偽ユダらの願望に違いない。

 

更には殊に思うのは、「真相や真実」を隠蔽するために、偽ユダである体制側は、

映画やドラマ等で微かに「真相や真実」を実は表現しているのではないか、と

思うのだ。これを具体的な例で挙げることができないので

説得力はないが。(笑)

 

ともかくは、数年前から、映画を鑑賞する行為は不本意にも

すべからく偽ユダ主導の未来ビジョン、

元地球人が地球に帰還する悲願のための、

 改ざんされたであろう旧約聖書の、人口削減のシナリオ

実現するための協力者になってしまうことを感じてきた。

加えて、真相や真実を無意識レベルとしても視聴した時、

偽ユダらの存在を温存する仕組みが、映画などにもあるのならば、

決して、見てはならない、とまで思うようになった。(変人デス・笑)

尤も、映画やドラマを見るとプロパガンダや偽言説の汚染脳オンパレードと

受け取ってしまうようになった情報の蓄積で、楽しめるハズもなく。(笑)

 

 ************

 

そんな変人になったワタシも、十〜三十歳代の半ばまでは、

マメに映画をウカウカと見てきた。

十代の頃は映画に興味を持つ友人に誘われるままに、

USAのロードショーで大ヒット映画と言われるものをいくつも見た。

 

高校までは特に映画が好きではなかったけれども、古い映画について

耳にする俳優女優の固有名詞が今ひとつ判らず、二十歳の頃から、

心がけて、単館上映の名画と言われる古い映画、主に洋画を見ていた。

単館上映では、古い映画のみならず、マイナーな監督の新しい映画も

上映しているから、気になる映画情報があれば、それも鑑賞してきた。

それはそれとして、楽しめる世界であった。

だが、表現の自由憲法で謳うにも関わらず、

財団法人(偽ユダ系デショ)として映倫なるものが

映画配給のため君臨する、暗黙かつ実質的な法規制がある。

(参考https://www.eirin.jp/index.php

戦前の映画法を悪法と定義したGHQの置き土産ダナ。

 

時には、潜在的プロパガンダのためにマイナーな映画も網羅しての、

映画配給であることを何となく感じる。

 

例えば、地道に単館上映している東ティモールを応援する

ドキュメンタリー映画「カンタ!ティモール」は、

製作者が純粋が故に、偽ユダの意図を

反映させてしまってもいる、と思うのである。

独立国家という一見、有志を思わせる政治的動向、

大衆自らの政治運動=(教育や倫理、宗教価値観、

マスゴミを使い、大衆自らの意志と思い込ませる刷り込み)

が、偽ユダの仕掛ける罠であったことが、

独立を果たしてしまったその先に、見えてくる。

 

だからこそ、映倫を通過し上映ができるのだろう。

独立の果てに何があったかの結論から言えば、

オーストラリア(偽ユダ国家)が油田利権をまたもや収奪したに等しい。

(日本ODAインドネシア経由でたんまりUSA軍需産業にカネを巻き上げられ、

   偽ユダ圏オーストラリアに石油採掘権が転がり込んで、という

 ビリヤードの如くいつも通り弄ばれている。

 かつ、インドネシアへのODAは二十数年間USA軍需産業の旨味じゃないか。

 ワレワレの税金で。。。悲しすぎるワナ。苦笑;)

 

インドネシアからの独立というのは、インドネシア

石油利権を絶対に渡さない偽ユダのいつものやり方であった。

 

そうなるためのシナリオは、キリスト教が事前にティモールに蔓延り

インドネシア側からのイスラム教の脅威というプロパガンダによって、

大衆はそれを刷り込まれている。そして、独立という偽の理想を掲げ、

毒の実がまたもや、結実してしまったのだった。

 

日本中世の真相、キリスト教者の仮面を被った悪魔の商人たちが、

獣の如き扱いで日本人を奴隷とし世界中に数十万人が売買されていったこと。

各地で寺社仏閣破壊があったこと。欧州勢の極めて利己的な貿易をアジアで

繰り広げその悪行によって、日本はバテレン追放令や鎖国せざるを得なかった時代。

その史実、歴史の本質を見れば、毎度お馴染みの茶番劇であるのにも関わらず。

 

大衆は、キリスト教ユダヤ教あるいはスピリチュアル動向の本質を未だ見抜けずにいる。

イスラム教を悪とみなすパターンを持って、毎度のことである。

 

国連が偽ユダ所有の機関であることが、証明・周知されない限り、

ほぼ不可能だけども、もしインドネシアが石油利権を確保できていたなら、

東ティモールは、自治区という形で住民が素朴な暮らしが未来へ続く

可能性があったかも知れない。

元来、平等な形で資源地を各国の所有と認め、自然保護を主眼に

自治区を維持させ助力するのが、理想の国連の役割だろう。

が、偽ユダ機関がそんな善意・良心を発露することなどあろうはずがない。

 

 

 

インドネシア・東南アジア・アジア全体の情勢としても、

姑息すぎる偽ユダ勢力に、またもや騙され、

いい迷惑の独立運動プロパガンダとなってしまった、

・・・という解釈である。

 

 

 

 

 

 

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その3

 

 

話を演歌に戻そう。^^

 

昭和40年代前半の生まれであるワタシが少女の頃は、

演歌が流行歌として全盛期であった。

だが、幼い頃のワタシは演歌を街のどこかで、

TVやラジオで聞こえてくるたびに、

耳を塞ぎたくなる程、苦手だった。長調の演歌はそこまで

毛嫌いしていなかったが、短調の演歌が大嫌いだった。

が、ふと気を許すと歌詞が耳に届き、それを解釈、受け止めると、

あまりにも重くて心がざわつき、両手で耳を塞ぎたくなる

衝動に駆られるほど、生理的に耐えられなかった・・・

そんな記憶が今も残る。

 

一体、どういう人たちが短調の曲、悲しい人生を歌った歌詞に

心を動かされるのだろうか、と。

 

大人たちの複雑な心理。夜の世界での感情の捌け口。

家庭の悩み、将来不安、生活、仕事、お金の不満や失敗、不倫や失恋。

心配・不安、後悔、憧憬や焦燥、嫉妬、諦念、悲哀、自己否定、自虐。

執着、あらゆる罪悪感。。。

 

暮らしに疲れた大人たちが、どこかのカビ臭い空間で、

流行歌、重たい波動の音楽を聴きながら、憂さ晴らしに

人生の悲哀を音に、歌詞に、感情をのせ溜息をつき、共鳴し、

明日への生きる気力を絞り出しているのだろうか・・・と。

 

生理的な感覚からか。これから生きていく幼いワタシは、

人生ドラマの暗い面を拒絶したい気持ちが込み上げて来て、

「嫌い」だったのかもしれない。

 昭和30〜40年代に演歌と並行してビートルズの影響であろう

若者向けの華やかで軽い流行歌もあったけれども。

 

時代は流れ、昭和の末から平成の時代にかけて、流行歌のトーンが

はっきりと変わったことを感じていた。

その頃から、流行歌が悔恨を癒すような重たい歌詞、歌謡ではなく、

人形よろしく着飾ったアイドルらが、言わば稚拙な恋愛気分を歌う

歌詞やメロディーに変わっていったと思う。

その頃、思春期にさしかかり、錯覚か?!

時代は明るい方へ向かっているようにも感じていた。

思えば、幼い当時の昭和の後半は、

高度経済成長で活力を取り戻した日本社会と言えど、

第二次世界大戦の爪痕もまだ残っていた。

時々、繁華街には軍服をまとう元兵隊さんが

戦地で、片足を失い、募金(カンパ)を求める姿が記憶にある。

祖父母の戦争中の話を繰り返し聞かされたり、

戦後GHQの占領下に、日本人がどんな扱いだったかを父母からも聞いていた。

戦争で夫を亡くした知人や親戚のこと。空襲で隣人が無残な死をとげ

それを目にしたこと。学校へ行けど、軍事演習よろしく、

戦争のための労働を子供たちも強いられた。

50Km先の街の空が空襲で燃え赤くなっていた日のこと。

空襲の最中を祖母は幼い父や叔父を乗せた乳母車を押し逃げ惑い、

命からがら助かったこと。疎開のため荷物を送ったが、

国鉄への空襲で全て焼けてしまったこと。

食糧は配給制となり、一般国民がかつてない

ひもじい生活を数年間続けざるを得なくなったことも

繰り返し聞かされた。今の2000万円位を米一俵を得るのに使ったこと。

雑草を食べることもあった超食糧難、

そしてあらゆる物が失われた、無くなった昭和16〜20年〜23年頃、戦中戦後の時代。

 

 

ところで、音楽そのものは実は短調の曲の方が、

人の心を癒す性質を持っているらしく、流行歌が

重い演歌など、短調の曲になっていたのも、戦後の重さを

まだ引きずっていた当時だから、大衆はそれを受け入れ

やすかったのかもしれないと、後になってそんな解釈もした。

 

 

今の時代に目を転じ考えてみると、

社会問題に発展してしまう勢いで、多くの人間が不倫

不貞に興じていたり、風俗の世界に身を置き、性を売り

生活を凌ぐ人がある昨今。子育てを公的機関に任せ、

金銭労働を否が応でもせざるを得ないライフスタイルに

世の中の金銭礼賛の風潮がそう仕向けてもいる。

家族愛は風前の灯火と化していることをそこかしこで聞く。

他人事ではないのだが。

 

 

 

 

幼少期に流行した大衆歌謡。

その歌詞は不倫を歌い、失恋を歌い、奈落の底に落ちた女性の哀歌

裏切りや憎しみを男女の物語として何気なく大人たちが口ずさみ

その横で子供の頃、耳にした昭和の末までの世代。

その世代が、家庭を持ち子供を産み育てた平成の時代。

感情、欲求、欲望が、無意識の中で外部からのマスメディアの

音楽や映像で、魂を見失うような暗い未来ビジョンが、

実は流行歌などの使い捨ての音から、言葉(言霊)から、

影響を受けて来たことも考えられるかもしれない。

想念が、様々な音や文字で汚されている可能性がある。

もちろん、映画やドラマ、小説もそれと同様だ。

感情を汚染され、欲の方向が歪んでいくよう、

大衆があらゆるマスメディアを無意識に享受できる環境を

奴らは技術等で作り出している。

 

 

潜在意識に影響する幼少時代に、受けたマス(大量)の影響が

次世代社会、その風潮を作り出してしまう。

 

妊娠中に、不倫を歌った歌謡曲を聴くよりも、

ヒーリング音楽やクラッシク音楽の方が、胎教に良いだろうことは

今更、言うまでも無いだろう。

 

 

昨今は、人形化したアイドルの「グループ」がマスメディアを席巻している。

20年位前からすでに映像画像は幼稚化を促すような

CGアニメ映像がもてはやされている。

 

前述した考え方を踏まえれば、

マスゴミ・マスメディアを支配する体制の意図が、

日本人の幼稚化・ロボット化 そしてアンドロイド化を加速を促すべく、

若年層の無意識に刷り込んでいることが窺える。

 

流行が、時代が、と安易に受け入れたり、

流行遅れとして

伝え続けてきたかけがえのないこと、

大切なことを切り捨てていくことが、

普遍性を見失い、

偽正義や偽倫理観に翻弄され、個人の闇が深まっていく。

個々の大衆のその闇こそが、偽ユダ勢力のエネルギー源とも言える。

 

*************

 

なぜ、数十年前に歌謡曲が重くて暗いく淫らな歌詞を

なんとなく、皆が聞き口づさんでいたのか。

無意識であるから、口づさんでしまっていたのか。

流行というものが、恐ろしい汚染脳であることに気付かない。

 

垂れ流されるアチコチの大衆音楽がいつの間にか

大衆各自の深層心理に潜り込み、

社会構造の破壊は長期的な意図をもって、

謡曲、歌詞にさえも、含有されているだろうことを

今一度、指摘したい。

 

そして、歌手に限らないが表現する才能のある者が

時に、純粋に親孝行のため、誰かのために自分の本意とは違う、

己を商品商材として、お金のため、

金銭を追い求める生き方を選ぶとき、

悲しいけれども世の中に、

負の種蒔きになる可能性があるのではないだろうか。

 

誰かを喜ばせたいが為に、と止むを得ないとしても、

それを自覚し覚悟して己を商材として

生きる表現者など、皆無だろう。

単にその恐ろしさを知らないのだろう。

 

右も左も知らない表現者たちが、夢だとか成功、お金のためとして

何者かを目指し金銭社会で負の種蒔きをする時、

それは〝ルシファーの供物〟になっていくこと

自覚した方が良い時代になって来たように思うが、どうだろうか。

 

 

 

 

【ひとりごと】

聖書の世界が無知であるワタシにとって、

書いて良いものかどうかわからないが、

〝イサクの燔祭〟に近いことが希釈され広がって現代社会の現象に

なっている気がする。

 

もともと、日本人は神という考え方は、

八百万神・・・宇宙摂理であり、

自然界はギブアンドテイク・契約・交換条件では無い。

 

 

〝神との契約〟というものが不自然に感じる。

 

(神との契約の時点で、自己救済の希求・利己がある。

〜無償さ〜を人間が大いなる自然に〝望んだが為〟

それと引き換えに、人間の疑念を〝証明する意志・行為〟を

一神教の〝神を信じる〟としたのだ、と思ったりする。

自己欺瞞が正義となった。

欧州ユダキリ教の虚の世界が、あっという間に世界中を覆ったのだ。)

 

彼らの言っている(聖書の世界)神は、堕天使である。

日本支配層も明治以降は彼らの世界観(一神教)なのだ

 

 

ルシファー的世界観に埋没しているこの世界。

虚の想念の枠の中で繰り返されている666の世界。

(元ユダ地球人・現金星人&地底人種が、地球に数千年間の関与か?!)

現 金.星人ダヨ(笑)

 

聖書にまつわる啓蒙、

その信者さんらが、宗教物語が心の支えになり、

照らし合わせ、一過的な原因の解明、救済の一助として、

虚の世界で、その言説が参考に、役立つのは、

当たり前だ、ということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その2

 

 

大衆に届けられるマスメディアからの音楽に

変遷があることは言うまでもないだろう。

 

技術の進歩?変化で音楽制作の現場でも、今やコンピュータ

無しでは成立しない。Appleは1970年代から音楽をPCで制作できる

道具として、進化してきたのは皆の知るところだ。

 

ところで、技術云々の話ではなく、音楽というものも流行という形で、

時代の空気を作るのに一役買っている。ほぼ半世紀を一応、思い出す

ことができるワタシにとって、音楽や映画、ファッション、美術や文学に

偶然にヒットする、流行したとは言えないことを感じるのである。

 

例えば、ファッションやデザインに流行色や流行のスタイルというものがある。

これは有名な話だが、2〜3年前から流行るように

計画し決めてあるということだ。現場をワタシは知らないが、

例えるなら、流行色がいち会議室で決まっている、と言っても過言ではないのだろう。

そうした話しをファッション業界に身を置いた人から聞いたこともある。

 

発信者、生産者側は、不透明なガラスの向こうの密室・会議室で、

風潮や流行、世相を意図的に作っていると言えるだろう。

マスで流されるそれら流行が、

結局、消費者の行動を促すため、問題や悩みが消費行動に繋がるように。

 

密室は政治だけではない。

カルチャーというものも、意図的に密室で作られている。

大衆の集合無意識が作っている訳ではない。

むしろ必需品の消費よりも、

嗜好、好き嫌い、感情に影響を与えるものの方がドル箱として、

市場規模が無限大であることを国際金融家は熟知しての、

密室からの流行・世相が必須であろう、と。

 

カネを巡らす経済が根底にあるものは、

すべからく神の見えざる手と称して、

その実態は、国際金融家らの手によって、集合無意識さえも手の上で

転がされているのが、産業革命以降、マスゴミが発生して以来、

約200〜150年間ではないだろうか。

 

 

 

 

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その1

 

 

音楽や映像は、ダイレクトに深層心理に届くように感じている。

いや、届いてしまう・・・と私は、ひとまず警鐘を鳴らしたくなる。

 

 

いきなりだが、

故・藤圭子さんという天才歌手のことを

引き合いに出したい。

藤圭子さんを知っている人は、それほど広い世代ではないだろう。

〝八時だよ!全員集合〟という土曜日、昭和のTBS大人気番組

歌謡ステージコーナーによく出演していた演歌歌手である。

 

昭和40年代に、若い女性の歌手でありながらも、

情念の強烈な歌謡を大衆に届けた。

ワタシ自身の年齢を経た今、動画でたまたま視聴し、当時を思い出し、

昭和四十〜五十年代のTV人気番組を通じてだが、

まさに天才歌手をON TIMEで接していたのだ、と改めて思う。

 

 

宇多田ヒカルさんの母親であることは、

現代日本人なら知っているだろうか。

 

子供の頃、かの番組で藤圭子さんの歌い上げる演歌が、

あまりにも重たくて暗くて、幼い私にとっては苦手だった。

けれども、とても印象が強かった。

 

才能とは、受け手にとって

嫌いとか、好きを超えて、幼心をも「揺さぶられるエネルギー」が

印象という形で残る。それを彼女の才能が証していた気もする。

 

 

 

 

 

ところで、ご本人の藤圭子さんは、レコード会社作詞作曲家が与える

彼女に歌わせる曲とは裏腹に、十代の彼女は素朴で音楽の感性は、

情念を歌い上げることだけの才能が、

ご自身の本質的なメッセージではなく、

音楽そのもの「楽」(がく・・楽しさ等)を表現したい、

才能に溢れていた、と死後の逸話から、私は感じ取った。

ファンキーさ(破壊力)や未来感・・・。

過去ではなく未来のエネルギーの才能を

秘めていた人と感じた。

(遠い存在なのに、おこがましい発言かもしれないが。)

 

 

音楽とは元来、生命を謳う楽しきものであり、

演歌という歌謡ジャンルの縛りの中で、

後悔や哀愁という負の世界の中の癒しを大衆に与えることだけでは、

彼女の音楽への情熱は、満たされなかったのだろう、と

想像したりもする。

 

だがしかし、藤圭子さんの母親の暮らしを豊かにしてあげたい、

その一心で、人生の目的は、

 彼女の才能が、昭和40年代当時の日本芸能界の

ドル箱のひとつと化していた。。。

 

そんなゲンジツのことを画面の向こうで、

偽りの芸能業界と個人の能力がある故の、駆け引きがあったからだろうか・・。

藤圭子さんの(歌わなければいけない)歌謡が、

あまりにも暗く重たく感じ、繰り返すが当時のワタシは好きではなかった。

苦手だった。

 

が、宇多田ヒカルさんの作品が大ヒットした以降、

宇多田さんの曲調・センス(六感)がワタシは好きで、

藤圭子さんと親子関係であることを流れで知って、

逸話をYouTubeなどで知り、思いがけず素朴で明るさを持った人物

だったのかと知った。死に至った理由・事情は、明るさとは裏腹だったことを

単なる視聴者側は知る由もないが。

 

大衆側からのメジャーな人物に対しての

プライバシーの詮索は、虚無ではあろうが、

失礼ながら参考までに想像の域で書かせて頂いたので、ご容赦を。

 

 

幼少の頃、好きではなかった、嫌いだった感情が、

何だったのか。。。

思えば、つまりは、

芸能業界の闇を幼いなりにいち視聴者が、

感じ取ったことだったのか、とも思った。

 

 

 

 

 

 

「旅」について思うこと  ____4

 

 

話は逸れるが、何かの大きな美術展覧会が催され、
足を運んだことがある人も大勢いるだろう。
その展覧会に行くきっかけは、街角のポスターだったり、TVの紹介番組だったり、
店頭のチラシだったり、代表的な絵画の印刷物や画像を目にして、
好奇心がそそられ、行った人も多いのではないか。
もし、その代表的な絵画の画像を事前に目にしなければ、行くのかどうか。
単に、(原始的?)人から聞いて行くより、

その展覧会に能動的に行く気になるのかもしれない。
(最近では、そうしたマスゴミ情報の拡散も、
スマホ等台頭で印刷物やTVの喧伝威力が衰退しているから
少し前の世の中の動向であろうか。)


●●展では、印刷された絵画と、展示の実物を比較しながら、
「やっぱり実物はすごいねぇ」と
呟く、見学者。あるいは、心の中で、印刷物より印象が薄くて落胆するなど。
ワタシも印刷物や画像に影響されるそのひとりであった気もするが、
つまり画像を駆使した前情報が多い程に、能動的に、
自主的に選択した気がする。(←ここが現代の汚染脳である所以と思う)

 

かつ、教育や経済活動由来の、
比較で物を見る思考も、いつの間にか刷り込まれている。
前情報が全く無く、その実物の絵画と対面した時、きっと違う印象や感想・感動が
起きるのではないか。前情報が当たり前過ぎて、
間接的かつ前情報の印刷物や画像映像は、
固有の、オリジナルの、感想感動や想像を阻んでいるかもしれない、と思うのだ。


(原始的な手法の)人から聞くことは、
曖昧のようだが、自分なりに思考・問答する所作が起き、
丁度良い知らせ、情報としての価値を足らしめる、ように思う・・・。

実物を見る行為が、前情報(ほぼ喧伝情報)、
過去の情報と実際の体験の実現性の中に、
快感を見出す行動が、単に確認作業になっているようにも思う。

いわゆる目的の達成感のようなものにすり替わる。
現代人はそれを好奇心が満たされたとして
納得する習慣・思考回路になっているのではなかろうか。

 

それは旅行でも同じことが言えると思う。
最近ではインスタ映えという言葉で
沸き立つ、巷の風潮が顕著だろうか。
インスタグラムのベストショット画像を多数の人が共感し、
そこへ旅行したくなる。特別な何かを食べたくなる。
どこぞの誰かの旅行先の幸福そうな佇まいに憧憬を抱く。

少し前の世の中の風潮であれば、
TV番組のタレントやレポーターらが海外を
取材したものを見ると好奇心を刺激され
視聴者側は同じような経験をしたくなる。
雑誌のグラビア写真、旅行パンフレットなどで、
判で押したような欧州の古城や庭園の画像を見て、
セレブな旅行に憧れる。
一般的な旅行者がいない秘境や現地・他民族の独特な習俗を映像で見れば、
個性的な旅もどきのイメージが膨らんで冒険心も駆り立ててくれた。

高級ホテルの映像を見るとそこに佇む自分を想像する。
美しいリゾートホテルのビーチの写真は
ゆったりとした休暇を演出してくれそうだ、と。

画像映像で好奇心を促される。

それは人生に不可欠な旅への憧れではなく、
先述した前情報による衝動、欲求欲望は、
所詮、大衆=ゴイム脳が反応しての、
消費としての〝旅行〟に過ぎないだろう、と思う。

 

 

 

 

 

「旅」について思うこと  ____3

 

 

 

時間の消耗量と移動の距離量の違いと、様々な出会い触れ合いの増減が、

「旅」と「旅行」は、似て非なるもの、と感じることを述べた。

 


現代人にとって旅行は、長距離・短距離への目的地を問わず、
ほとんど乗り物を使うから短時間の移動が可能だ。
移動の道程は、速いことと快適なことが不可欠と思う。

目的地は非日常を楽しむ場であり、好奇心を刺激される状況、非日常環境を
体験するべく、向かう。その中で、食べ物、建物や施設、風景、人や生物などの
喜ばしき出会いがあることを期待して出発する。
最近では、サプライズと称する刺激も期待のうちに加わっているかもしれない。

期待通りの出会いや、速くて快適なことが可能なのは、
お金がそれらを限りなく保障してくれるから、旅行というものが成立するとも言える。

換言すれば、カネ支配下の人工世界で安全安心が前提の、
刺激や感動、好奇心向学心で、時間を過ごせば、非日常と解釈し
リフレッシュや癒し、見聞として、旅行というものに満足する(できる)。

 

地球資源をあらゆる物質・機械・エネルギーに変化、駆使した科学技術社会は、
お金を得るための犠牲・我慢の労働が根底にあるから、
お金が役に立つ社会になったとも言える。
旅行に於いては何の役に立っているのか。つまり人工が保障を前提とする
「快適さ・速さ・便利さ・見聞や人為的な感動や刺激」を得るためである。

 

喜ばしき出会いを期待して出発し、
現代の旅行は、期待通りか、それ以上の予期せぬ感動が得られるそれは、
どれくらい実現しているのだろうか。
そして人生に好影響の時間となっているだろうか。

 

旅行した者が幸福な時間・経験を得たにも関わらず
時に、自慢の種に受け取られたり、
優越感や劣等感の温床になっている場合もある。
経済格差を感じさせる。
人生を豊かにする経験ではなく、
現代人の旅行が、金銭に支配されたゴイムの消費行動でしかない
ことを示しているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

「旅」について思うこと  ____2

 

 

 

 

旅行と旅という言葉、熟語と単語について

子供の頃、考えていた記憶がある。

 

 

観光という熟語を習った時、「カンコウ」という音から、

観〝行〟という漢字と、勘違いしそうだが、

明治初期の使節団が成したとされる、文明開化としての

「光」を観るという意味合いの旅であるような

「カンコウ」の説明が、子供心に印象深かった。

(今の私は〜【文迷】と捉えているが、当時はそんなことは知る由もない。

しかもilluminate/光を照らすカラダッタノカ?!)

 

多分それは、小学高学年の時の、先生の補足の余談であったと思う。

その余談を聞き私の中では「観光」という熟語が、明治以降という

印象であり、同時に旅行という熟語も明治以降だろうと考えた。


訓読みの「旅」という言葉は江戸時代までの、

機械化・燃料動力化(燃料を使って移動する手段・自動車や電車)

されていない社会の、足を使う、人と触れ合う、

そして旅情を感じることのできるものが旅だと受け止めた。


時間の消耗量と移動の距離量の違いと、様々な出会い触れ合いの増減が、

「旅」と「旅行」は、似て非なるもの、と

今も、そんな風に感じている。


現在は、「旅」ではなく〝旅行〟という感覚が一般的だと思う。