ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。脱出!」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

廃仏毀釈_過去帳の抹殺で。  

 

 

 

明治以降、西洋文明礼賛になっていった原因のひとつは、
廃仏毀釈(1868年頃から約5年間)で、
過去帳が抹殺」されたからダ〜〜ッ、という、
今更?の時代錯誤でニッチな話題&こじつけの自説…。

 

以前にも、なぜ日本には新興宗教が多いのか、というテーマで
廃仏毀釈に触れてみたが、最近の現代日本人心理の変貌ぶりに
日常で度々違和感を抱き、改めて引き合いに出したくなった。

 

 


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今を楽しく生きる意義は疑うべくも無く、
たとえその楽しさが能天気であっても…。

けれども、今、生きていることは過去の因果があって
自身も存在している訳で。その因果をまた次世代が受け継ぐ。


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過去からの因果を想像するための系譜、その記録の過去帳
(中世イエズス会奴隷貿易集団に加担した隠れ切支丹勢力
封じ、一般人に波及しないよう幕末まで寺院で管理した戸籍)

身近な事実情報や口伝(近い方法)が当たり前に残っていたなら、
多様な記憶を蓄積する性質の人間にとっては、
生物としてまともな生き方、江戸期までの、この地の風土に相応しい
理に適った暮らし方が、現代にも生かされたかもしれない。
子孫自身の内部からの判断材料にもなって、
外部・遠い存在(政治経済の支配・マスゴミや狂育)からの情報に流されず、
その支配を阻めたかもしれない。が、現代日本はそうではない。


現代日本人の判断力や価値観は近代以降、マスゴミ・狂育の台頭で
外側からの情報に翻弄され盲目にされ続けた約150年間。

幕末までの社会よりこの期間、西洋産業革命に端を発し、
次世代に莫大な負の遺産

(特に自然環境破壊、生態系崩壊・食物連鎖混迷・肉体劣化)を
作り続けてしまっている。

 

廃仏毀釈について寺院仏像などの破壊が目に見える形で、
その被害を伝えているが、一方で過去帳が喪失されたことに
目を向けることはあまりないように思う。

が、むしろ過去帳が失われたことの方が
一般人にとっては実害が大きかったのではないか、と考えてもみる。

 

(ホントはずっと政府が隠蔽し保管している、と推察。
先祖が半島系出身の公務員優遇の事例を某書籍で読み知ったので…。
過去帳が今も尚、寺院でわずかに保存されていることについて、
差別的な情報と定義して、某大宗教団体など部落差別の視点からか
人権問題を訴えている向きもあるようだ。
〈差別問題を訴える団体にも真実と偽物があるだろう。
過去帳の件は、根底がプロパガンダのように思う。〉

 

だが、昨今の保険証番号や免許証、
マイナンバー制度やクレジット、ポイント…カード類の
個人情報の蓄積や、Faceb00kでの、
限定公開で信用獲得の方法が、
むしろ個人詳細情報は闇勢力への進呈と化し、
ネットショッピングによる個人趣向情報の獲得、
スマホ等ラインの対人情報が、半島系介し支配層に
利用される裏側の流れを想像すると、
現代の個人情報の扱いの方が、
広告主側の旨味はもちろんのこと、
それ以上に不気味で、気付かない状態での格付けや、
監視社会に一般人が無防備に加担し続け、
支配側の意図的差別の温床にもなろう。


その果ては、個々情報のあらゆる蓄積によって、
近未来に人類が生物としての生命活動を
剥奪されかねない人工知能へ、無意識に加勢…の危惧を思う。)

 

 

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明治時代(近代)以降の先祖について私たちは
多少知っていて仏壇や墓で拝んでいるのに、
江戸時代(近世)までの先祖をほとんど知らないが故に、
軽んじている。もしくは、お伽話のように、
(実際それは欧州支配層の意図だったのだが。)
時代の延長線上にはない、まるで異国のことに思える程、
薄ぼんやりとしている。


また、江戸時代の人々へ、身体を酷使し打ち拉がれた生活者、
武士が常に庶民の愚行を裁いているような支配社会、
近代科学を知らなかった未発達社会のイメージを
マスゴミドラマ映画小説等で刷込まれている、
西洋科学礼賛に汚染脳されているワレワレ。
下手すれば近世までの先祖をバカにしている。
ナンとも、けったいなワレワレ現代日本人。

ところがどっこい真逆な世界だったわけで。
コレを汚染脳と言わずして、何と言おう…。
ちと大げさかぁ。笑…。いやいやホント笑えない。

 

最近では仏教への信心がある人くらいだろうか。
先祖を敬うことを心がけてきたはずの日本人だったが、
ご先祖様の対象が大半の日本人にとっては、
三〜五代前の祖々父母迄。
近代、明治以降の家系の経緯だ。
どんな家族構成で、生業は何だったか。
祖父は戦争へ行ったとか、被害はどんなふうだったとか。
どんな出来事・苦労があったか、親や祖父母から口伝くらいのもの。
生きている者同士が伝えるから3〜5代位になってしまうのは
当然かもしれないが、それでも古い時代の記録が残っていたら、
系譜を知り自身を知る大まかな手がかりには
なるだろうが、そうではない。

 

もう今では団塊の世代以降が祖父母の人が占めるようになったから、
現代日本人の受験や就職の競争社会からの価値観や記憶が多かろう。

 

明治以前はせいぜい、武士だったとか、庄屋・酒蔵・豪商だったとか、
どこそこの殿様に仕えていた家系だか、公家だったとかで、
傍からすれば、箱もの・肩書き・お家自慢に
げんなりする程度のことを耳にするだけ。

 

 

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闇の勢力について知り得た矢先、渡辺京二著『逝きし世の面影』に出会った。
それまで私たち先祖、江戸時代に生きた一般の人々の真実の姿、
その精神性の豊かさを知る機会がほとんど無かったのは、マスゴミや狂育で意図的に、
一般の生活総体の情報をブロックされてきたであろうことを思わずにはいられなかった。

 

 

故に、過去帳がそれなりに残存していたなら、
具体的な事実に基づいて、先祖や地域、生活、生業の事も実感を持って口伝ができ、
「系譜への想像力」ともなって、西洋礼賛に傾いていく明治期世相の
不自然さを見分け、政治経済・狂育マスゴミ汚染脳用の西洋ブランド志向、
肩書き・箱ものに拘る軽薄さ、虚飾を嗅ぎ分け、
眼力・心眼、直感の力で、19〜20世紀の大戦争さえも
被害回避の可能性を考えてみたりする。
江戸期から続く、自然環境と調和した心地よい社会の
継続も有り得たようにも思う。

使いたくはない語彙だが、
アイデンティティ」(自己一貫性容認)は系譜を踏まえる意識であり、
心眼を保つのに不可欠のように思われる。

 


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ちなみに、先述書籍の幕末訪日欧州人の観察記録集によると、
貴族階級や上級武士は虚弱な容貌、貧相な印象で、
逆に庶民は皆、肉体が立派で幸福感にみなぎり、
生き生きとしている、と伝聞している。
彼らに相応しく階級差別の視点ではあるが、的確な観察だろう。

(西洋文明を受入れるにあたって、編み出された明治政府の造語多数。
差別的用語「士農工商」や「競争」という熟語もそのひとつ。
また、食用牛など四つ足と呼ばれる動物の屠殺は明治以降。
明治以降に部落差別が激化したのではないか。
某宗教団体は寺院にわずかに残存する過去帳を人権(平等)のためと
抹殺を唱えるも、明治政府造語の差別的語彙には辻褄が合わない。

有識者いわく江戸期は、階級差別が無い社会だった、と伝える。
江戸の街ではお互いの出身地を聞かないのが礼儀だったり、
武士も町人も一緒に行事や趣味を楽しんでいたという。
むしろ、武家が町人に気配りをしないと暮らせない程だったとも。
あるいは、遊女の年季が明けると、女性として豊富なキャリアとして評価され、
おけ屋が嫁ぎ先の世話をしたという。


江戸社会の豊かさの要因には、

ユダキリ・イエズス会(一夫一婦制や処女性への強固な宗教倫理を含め)を
排除したお陰で、人にとって、動物としての性への寛容さや昇華・自浄作用が具わった、
バランスのとれた世界だったであるのだろう。

 

社会に競争という言葉が無い時代の子育ては、

きっと生物としての幸福感を満たすものだったろう。

 

日本人全体が内面的な自由と平等を享受すると共に、
自然の豊かさが幸福感を醸した時代の余韻を完全に忘却し、西洋礼賛になってしまった、
近代から現代日本をつくづく遺憾…に思う。
(明治以降の造語辞典が必要だなぁ、と思う。)

 

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江戸期は長年、戦争が無かった故に武士(戦士)の出る幕はなく、
米などの年貢で貨幣流通も現代よりずっと少なく、性への寛容もあってだろうか、
一般社会では犯罪もほとんどなかったという。
自然淘汰のようにして一般社会の政治支配が手薄になってくれた
お陰の時代。
‘なってくれた’と指したのは、
中世末期から江戸初期にかけての政治采配
(秀吉の伴天連追放令や、鎖国、切支丹禁教令/秀忠期)に
中世の日本人指導者の民族や風土保守への英断に、感謝の念がわく。

 

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◇肉体労働を請負う発展途上国と呼ばれた国々が、
昨今、知的労働を主軸にして来た国家を凌駕し、身体の為せるマンパワーによって
国の底力を付けてきているようにも見受けられる。
ある意味で、自然淘汰(平等さ)は身体によって、
いつでもどこにでも起きる…ことを見てとれる。
電脳・脳化社会が生命の意義を滅ぼすことも窺わせる。

 

◇国家が役に立つ意義は、蛮族国家、価値観の全く異なる民族への、
防衛外交であり(主に、ユダキリに対して)、
民族性・地域性・固有性の保守で、それは自然摂理遵守のためだ、と。


◇経済最優先の結末として、植物動物生物全般の原種・在来種の
人為的意図的な激減・絶滅、生態系の自然環境破壊は痛々しい。
日本のみならず各国地域の人の、
情緒・感性、固有の文化を根幹から劣化させる。


◇日本人が中世イエズス会がらみの南蛮貿易により、
世界中へ奴隷として推定10万〜20万人(当時人口2〜5%)を
二束三文で売買されたのだ。かつ子女の悲惨な扱いを知り(天正遣欧少年使節団…記録)
中世イエズス会による日本(主に九州)の寺院破壊もひどかったようだが、
それよりも、日本人奴隷の問題は深刻で悲惨だった。

そして現代日本人が全くそれを知らないって、どういうことナンダ??…と。
中世、欧州勢によってアフリカ南米アジアと同等か、
それ以上の悲惨をワレワレの先祖が劣悪な被害に遭っていた、ノデス。

 

◇中世欧州ユダキリの略奪殺人強姦の歴史から現代マスゴミの虚言喧伝に至るまで、
見せ方・アピール・パフォーマンス(だけ)が、
巧妙で上手過ぎる西洋文明を世界中が崇めてしまって…、
ずっ〜〜〜と催眠状態・心眼喪失。トホホ)))

 

◇現在の戸籍同様、過去帳は象徴的に記憶を辿る系譜の単なる材料
(人名、出生・死亡・家族名・血縁有無・家系様態・職業など)に過ぎない。
ただ、年代毎に全体の出生死亡によって社会状況・史実が明確になる物的証拠になる。
過去帳は、隠れ切支丹を幕府がなぜ排他しなければならなかったのか、
中世の日本人奴隷被害を証明できた可能性も考えられる。更に遡れば、
現代に続く朝廷が535年(K氏説)以来、倭国の傀儡であることの
判明を回避するため、明治政府陣営は廃仏毀釈過去帳抹消に至ったのか、
と妄想にまで及ぶ。)

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で、、、「内政は庶民に任せろっ」、「政治家の役割は外交ダ。

シニョレッジは最小限にして、デキレバやめてクレ。
政治権力が国内一般人の生活の邪魔をするなっ」てなことを思う。
まあ、現代政治家にはまったくもってムリだろう。。。
シニョレッジ生命線の闇勢力とグルだからなぁ。

大企業株、年金・保険資金や公社民営化後の株、闇の勢力が運用。
税金半分はUSA国債購入。


現代日本は‘闇支配勢力皆さまのための政治。
国民は、労働も消費も勉強も遊びも病気も拝んでも…
何デモカンデモ、カネがらみ全ては、
支配指数‘UPナ・ノ・ニ、民主の文言で、無自覚状態。
偽善政治、ココニ極マレリ。



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*********

 


話を戻し…。
過去帳廃仏毀釈によって失われたことで、
幕末以前の先祖の人生、身近な出来事や系譜がすっぽ抜けてしまった。
それは、自分自身を知るための想像する材料の喪失、
まるでパズルのコマを無数に失ったように。

 

過去帳(明治以前の戸籍)がそれなりに残存し公開に障壁が無ければ、
具体的な事実に基づいて、先祖や地域、生活、生業の事も実感を持って口伝ができ、
もっと『地に足が着いた古い先祖への畏敬』を今でも

しっかり持っていたかもしれない。

各々のアイデンティティが、お仕着せの西洋礼賛を嗅ぎ分け、
眼力・心眼を切瑳することへ意識を向ける内省も有り得ただろう…。

自身とあまり関係のない喧伝用の歴史上人物、
特に西洋の著名人、人生や性格、文化や歴史には、
やけに詳しいの…に。

己の曾々々…祖母父のことは、全然知らない。

ホントは…異常なこと、、、ではないデスカ???
どうかしていやしないかぃ?と。

手書きではない、印刷物って怖いなぁ、と思う。
(いつか書きたいテーマダ)

 

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ここまで、日本人がマスゴミや狂育でどっぷり汚染脳されたのも、
個人の、自分なりの、疑問や違和感を過去の様々な系譜
(親や祖父母…先祖から口伝してきた事)に
照らし合わせ、想像し判断する材料を奪われたこと、を思う。

 

ルーツ、系譜を想像する能力に蓋をしているような思考。
系譜を想像できないことは、

例えば、トラウマを解消できないとか、
家系で同じ問題が繰り返されてしまうことだろうか。

が、負の面よりも、むしろ先祖が地域社会で貢献したこと、
特技や才能や知恵があった先祖のこと。
家系を誇りに思える日本人の真実の姿、先祖の情け深さ、
優しさ、忍耐強さ、逞しさを知り得たかもしれない。

そうした系譜によって自身を内側から感じ、感謝を持って
自信につながる、あるいは内省する情報が、
ごっそり抜け落ちているのである。

 


問題の原因の理由を考えてもキリはない。

けれども、わずかにでも系譜に想像や検討を付けながら
人生の過去からの大きな流れを感じて生きることは、
多少なりとも、元来の自身のアイディンティになる(なった)だろう。

 

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長くなったが、
ホントはココからが伝えたいことナンデス。


ルーツ・系譜を知る情報、材料を失ったということは、
先祖のことのみならず、
「様々な事柄・生活の系譜への想像力を閉ざされた」ように思う。

記憶を探る思考の作業に、全く分からない領域があると、
それに関して思考停止になってしまう。
それに付随した思考を無意識に無視する癖が付く。


些細なことなら影響もないだろう。が、
大半の国民が、自身の先祖へ思いを馳せる情報が3〜5代より以前、
ぷっつりと事実の記録・記憶が途絶えているのである。


で、話は飛躍するが、その記憶喪失・催眠の状態が、
日本風土に合わない衣食住・生活全般を
安易に受入てしまう発端であろう、と。

それは、
現代の肉食偏重であり、
過剰な金銭崇拝であり、(明治期に汚染脳された勤勉労働・金銭労働)、
育児・教育の過度な叱咤であり、競争意識、優越劣等感であり。
サラリーマン的職業感(元来の生物としての自由意志の喪失)を当然として受け入れてしまったり。
空気・水・風景が汚染され自然環境が破壊され続け動物昆虫植物が異変をきたしていても
疑問や違和感、恐怖心が湧かなかったり。
差別化、排他意識であり、
大衆汚染脳支配用の偉人伝や文化人有名人芸能人のような、
外付けのふわふわした有名性に執着し夢想する人生イメージを促し、
ピラミッド型競争社会の構造に加担していたり。
物質偏重や物質との関わりの混乱(ゴミ問題の根源)、
便利や安易な消費による合理効率化であり。

とどのつまり、ユダキリが演出し続ける、西洋礼賛の汚染脳であろう。

 


ファーストフードやコンビニや簡易加工食品への無防備さ。
大豆やトウモロコシを加工した遺伝子組替え食品に何の疑問も
持たず受入れてしまう想像力の無さ。

砂糖、塩、大豆、米、油という基本食材、
洗剤や衣類…のあらゆる自然環境破壊へのプロパガンダ
長い年月で継続されていても、表面的な情報に目を奪われ、
利己的健康意識に目を向けるばかりの、
汚染脳情報で疑問が湧かず、あらゆる問題の系譜が
想像できなくなっている。

箱もの、ブランド的なレッテルに囚われ、
外的な基準でしか信用は成立せず、心眼を失っている。


マスゴミのニュースも各々が系譜を記憶し観察し、
想像すれば、概ね見抜けるようなことも、
すっかり騙される。連日騒ぐ一過的なキャンダルに目を奪われ、
バッシングに加勢し、肝心なことを見失うよう仕組まれている、
それに気付かない。

マスゴミで飼育された電脳家畜の現代人。


あらゆるところに汚染脳プロパガンダがちりばめてあっても、
ルーツ、系譜を想像する能力に蓋をしているような思考状態が
現代日本人にもすっかり染み付いてしまっているが故に、
国際金融家&半島系八タさんらの策略に
嵌まりっぱなしなのである。

系譜の想像力の遮断症候群。
(最近は症候群という言葉も使わなくなったなぁ。笑)

 

 

 

己を知ることは、人生に於いて要であることは言うまでもない。
ミクロな自身を知る視点と共に、
幕末と明治の落差は、国家神道を掲げ戦争漬けの軍事国家にするため、
国際金融家が手引きした明治政府の暴挙にだったことを知ること、
その時期から、一般人の思考停止がマスゴミや狂育で仕向けられつつ、
自らが加担してしまった、
マクロからの視点、その流れも自覚したいもの。

 

昨今のスピリチャルブームの前世とかで
根拠の曖昧な情報に、多くの人間が惹かれてしまうのも、
こうした事実関係が、すっかり抹消されている面もあるだろう。

前世を否定はしないが、真実の歴史ではないと思う前世ストーリー、

喧伝用の偽歴史の前世判断は、一笑に付す。

 

 

欧州へ行くと、国の歴史のみならず地域家系の系譜を
よく理解していて、(キリスト教会管理下で保守・継続)
古い時代からの誉れに、各日本人の自国の歴史知識の浅薄さに
たじろぐようなことも耳にする。

 

が、欧州国際金融家の思惑で操作された
明治政府が仏教破壊や民族の系譜を断ち切らせるに至ったことを
思えば、欧州の歴史を崇めている場合ではない。

まして、
奴隷制で繁栄に至った欧州文明に、何の敬意を払う必要があろうか。

 

現代のワレワレがマスゴミを通じて崇める欧州文明は、

主に、江戸文明からの‘逆輸入’が多分に含有されていて、
現代社会の文明の価値観が成り立っていることを
ワレワレ日本人は、知る由もなく、探ることさえ気付けないほど、
西洋礼賛汚染脳…ナンデスョ、と。

 

*********

 

選民用の家系や肩書きの話、
喧伝用歴史上の人物、武勇伝など、
生命の根源、三次元の生命としては
ホントは何の役にも立たない気がする。

 

………今更、過去帳を捜索すわけにもいかない。

 

いわゆる、公家やら上級武士やら庄屋やら酒蔵やら豪商なら、
それなりに系譜が探れて、やっぱりウチは良い家系…で、となろう。

が、
そんな自慰的な自慢の古くさい価値観など、
もう、どうでもいい、唾棄すべし、と。

脱・汚染脳のためにも。

 

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で、

オチのようなことだけれども。

 

「記憶と忘却・偶然と必然」は
「意識と無意識」の世界で

相関関係があることを常々思う。

 

過去のことに囚われず、

今を楽しみ、過ぎて行く瞬間、瞬間を
あっさり歓喜をもって忘却することは、

偶然を纏う、良き必然が起きる

宇宙の、三次元の、則を
感じてもいる。

 

 

ともあれ、

真実を嗅ぎ分ける内省力を弱めてしまった

この地のワレワレ。

 

 

なぜ、先祖はこの地に暮らすようになったのか。
遠い先祖はどんなふうに食べ物を得ていたのか。
先祖はどんなふうに結婚をし子育てをしていたのか。
先祖の寝る時間や寝具はどんなふうだったろうか。
先祖の衣類はどうやって調達し、また洗濯をしていたのか。
先祖は排泄をどんなふうに行なっていたのか。
先祖はどんなふうに水を火を得て暮らしていたのか。
先祖はどんな日用品を使って暮らしていたか。


先祖はどんな家に暮らしていたのか。
先祖はどんなふうに文字を暮らしに役立てていたのか。
先祖はどんなふうに美や音を楽しんでいたのか。
先祖はどんなふうに旅をしていたのか。
先祖はどんなふうに動物たちと関わっていたのか。
先祖は自然をどんな思いで見つめていたのか。

ワタシは、満天の星々に夜空が埋め尽くされていた時代に、
深い憧憬を憶え、現代都市の夜空には悲しみしか感じない。

 


想像と事実と系譜が一致していくよう、
日々の暮らしを見つめることが
肝要に思う、この汚染脳時代。

 

自己の内なる「虚勢・虚栄」を客観し、
自己の内なる「怨念・執念」を解放し、
今、中庸に生きる意識へ起点が在れば、判れば、
結局、過去はどうでもいい話なんでしょう…ケドネ。


意識化して無意識に戻す、作業の時代だなぁ、と思う。

 

 

 

 

 

 

 

ケイタイばっかり見ていると、今にロボットになっちゃうよ

 

 

マスゴミは国際金融家らの出先機関と、ワタシは認識している。が、

子供の頃はそんなこと知る由もなかったし、かつ

今よりは人道的な道具だった気がシナクモない気がスル。

 

例えば、昭和50年代のNHKは、午後11時〜12時になると、

日の丸が風にたなびく映像と共に、君が代が流れ

放送を終了した。右翼な印象でニッポン側の政治的な洗脳があったにせよ、

組織への信頼感や期待感が少しはあった。

(ワタシ子供だったのにそんな時間まで起きていたとは…。ーー;)

 

民放でもアニメを放映する時間帯の企業CMの隙間に、

かの怪しい広告機構だったとは思うが、

「テレビばっかり見ていると今に尻尾が生えてくる」

というキャッチコピーで子供達がアホにならないよう、

テレビから自戒の警告もしてくれた記憶。

(TV大好き過ぎて一週間の主にアニメスケジュールは暗記していたワタシは、

かつ、各局系列や新聞社との連携や特徴を漠然とは認識してもいた…。

20代後半に自作総論として、芸能界芸能人(公共電波の便乗・露出人間)は

“人間博物館、あるいは人間標本”用だね〜…と

友人に話したら、そうだね〜と同意してくれて、妙に嬉しかった…。

 

マスゴミ業界を末端で従事し、実感としての素朴な感想ダッタノ…ノサ。)

 

 

ヤツラにとってはあらゆる戦略があって、

1960年代〜マスゴミ・TV信用基盤の獲得キャンペーン期

だったからなのかもしれない。

いや、公共の電波を使う企業や公共団体としての責任、

良心が、少しはあったのだろうか。

 

(日本側の視点で言えば、ヤツラは、他国と戦争中や冷戦中は、極東が手薄になるから…。

50〜60年代は朝鮮戦争やらキューバ危機やら…東西冷戦体制の基盤整備、

70年代はベトナム戦争でUSAヘトヘト、石油経済でチャージして。

80年代からはイスラム圏略奪&破壊、イイ戦争、

90年代アフガニスタン・ユーゴ・ウクライナ等で共産主義実験国を解体。

想定外〜<失策>。

一般人にとってまともな社会だったから…ね。

 

00年代前後は、マスゴミバーチャル戦争ゴッコで湾岸や911

(ハイテク戦争技術でバーチャル戦争での回避)

 

スケジュールご多忙中は、

北やら中国と日本はほどほどの威嚇&抑止用(他国インチキ貿易折衝のため)。

で、最近は他の地域がお暇で、北と日本を騒がせている訳で。心中お察しします。 笑)

 

いかんせん、マスゴミに触れる程、想念が汚れるなぁ〜

というのが実感だ。

 

 

 

「八百万神の世界観の一筋縄ではいかない面倒な、

曖昧さが特徴の、自然種系に近い大半の日本人」を

少しでも簡易に支配したい偽ユダや半島系支配層(人工種系)は、

まず是が非でも、曖昧でない思想や世論を二極に、

分断させたかったのだろう。

 

戦争責任を追求させ喧伝する左派と、

天皇制肯定を喧伝する右派を造ったのは、

マスゴミの司令塔(GHQ)戦略だった訳で。

(ある意味この地では、

それさえ抑止に変化ヘンゲしてしまう気もするが…。

  

戦前の日本は書籍販売が自由で、卸問屋が多数あったというが、

戦後GHQ占領政策で、失笑に値するのは著書出版にあたって、

書籍の卸問屋を解体し書籍流通を「日販または東販」を

通さないと全国有名書店に書籍が並べられない法整備をした経緯がある。

 

焚書という言葉が暗に示しているのは有史以来、

外世界からの情報が支配のために、如何に制御されて来たかを

物語っている…。

 

市販の約9割くらいの書籍からは(今はネットも…)

勉強するほど、

情報を外から集めるほどに、

自分の主体的な意識、内なる意識を見失うよう

汚染脳世界がそうできているのだなぁ、と…。

 

文字・印刷物・電子媒体による知識や思想や世論が、

如何に後付けで、

自分の内なる発露ではないことを

ワタシたちは身を持って感じないと、マズいんじゃないかな…と思う。

 

 

 

だけれども、汚染脳世界を究極的に見つめると、

自身の内面世界を外面世界に映し出している。

現世「うつしよ」とはよくできた言葉だなぁ。

 

客観主観という境界の意識をどこで付けるか…の判断と、

その曖昧さと、相対の面白さ…。

 

 

己の暗部を見るのに、外部のダークサイドへの投光。

プチ・パラレルワールドかぁ。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

白髪

 

 

中年後半になったワタシだが、

日常で、ちょっとしたことで知らなかった、という

ことが、時々あることのひとつ。

 

1月に美容院に行った時、白髪染めの話になって、

美容師さんに「白髪染めはしないですか?」と聞かれた。

「白髪は結構ありますけど、たまにヘナで染めますが、

まめにはできないですね。化学染料は使いたくないし…。」

と、応えた。

 

「一度、化学染料で髪を染めた人が、ヘナを使うと

赤茶けたような、あまり綺麗な色に染まらないんですよ。

お客さんは化学染料の白髪染めを使っていないから、

赤茶けた色にならないですね。」と言われ、納得した。

 

ヘナで染めると赤茶けた色に、皆なるんだと思っていたから、

あの色にワタシの髪はいつなるんだろう?と怖々思っていた。

が、染めた時の色が徐々に薄くなっていくだけで変色はなく、

いつも不思議だった。

 

未だに化学染料の白髪染めは使ったことが

無かったので、美容師さんとの何気ない会話で

やっと訳が分かった。

 

 

化学染料のヘアカラーの毒性も、健康被害や環境問題へ繋がっている。

たまに、ヘナを使うか、次第に増えていく白髪も

楽しめばいいかな…と。

 

体調や精神状態が良い時は白髪も減る気がする。

寝不足や体調を壊す、心配事があると一気に白髪が増える。

髪も心身の状態を知る内なるバロメーター。

白髪を真っ黒に染めてしまうと、次はいつ染めようか…と、

生え際ばかり気するだけで、体調管理には役立たない。

 

 

ともあれ、白髪をあまり気にしない、

そのうち似合うようになれたら、と思う。

マスゴミがバラまく若者世代の流行やカルチャーが席巻し、

もてはやされ過ぎ、それに引きずられるような

日本社会の風潮への疑問と、ささやかな抵抗だ。

 

 

若者礼賛を基準にし見栄えばかりに拘った美容は、

身体を傷め、環境を汚し醜くする…。

 

元来、老成し風格のある大人、老人には、

白髪は似合うと感じる。

(自身がそうなれるかは、カナリ疑問デスガ。)

 

 

日本の大衆文化が、戦後からだろうか。

低年齢層向けで、陳腐にさせられているのは、

やっぱり、企業&マスゴミ…ヤツラの作戦ダナ。(遺憾ダ)

 

 

 と、言ってもあらゆる「事象・事柄」は自分都合の解決などしないもの。

その諦念から、見方を変える、受入れる、適当さみたいなところに、

拘りという執着心からではない、

アイディンティ(自己の一貫性)のようなものが

発生するもんダ、たぶん…。

 

場当たり的な化学染料の白髪染めも、

それを阻んでいるってなことカナ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広告を非表示にする

日々の小さなありがとう…の、積み重ね。

 

 

目標を達成し結果を評価される、

才能を磨いて世間に賞賛される、

地位名誉を得て社会で尊敬・羨望を集める、

幸福感は、確かにあるだろうけれども…。

 

 

毎日、誰かとの何気ないやり取りの中で、

「ありがとう」を伝える相手の喜びや、

誰かに「ありがとう」と言われて、

こちらも、温かい気持ちになる。

 

そんな日々のお互いさまの積み重ねに、

満足できる自身でいたいなぁ、と思うこの頃。

 

 

 

何だか道徳の教科書みたいなんですけど。。。(〜〜;)

美的感覚を満足させるのには・・・

 

ヘアーインディアンのことについて

先述の抜粋から…。

 

(温かい文章を引用しても、ワタシの言葉は

 刺ばかりの多弁で恐縮…汗)

 

 

 

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「子どもの文化人類学」原ひろ子著(晶文社) より

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 31頁より

機械といったものがほとんどなく、道具も最小限の品で生産し、消費し、

楽しみ、美的感覚を満足させている彼らは、文字どおり、“からだ”そのものを

使って生活しているのですから、からだとつきあうすべてを心得ているのも

無理からぬことでしょう。

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生活の道具を作ることが、すなわち美的感覚を満足させていると、

思えば、ごく当たり前の本質だけれども。

(偽)現代文明社会のワレワレはもう、忘れかけている。

 

草木生物その命を絶って、地上の自然から幾ばくか

頂戴する素材で、自身の知恵や技術を使い

無から有を生み出す。絶つ痛みを感じつつ、作る歓び。

美的感覚の発露は、元来、自然の普遍な造形への畏敬と、

自然の一部である身体感覚が生活で育まれる中での、

精神活動の結実…なのだろう。

 

 ******

 

(偽)現代文明社会を見ると、生活で体を使って

「痛みを内包した…作る」という仕事が、

他人任せとなり減っていく程に、

人間が堕落しているように思う。

知恵を失い阿呆になるのだなぁ、と。

 

人生から「創造」という、人が人である所以の

必須項目を排除させ、カネで調達・消費を促し、

便利の偽解決、快適の偽満足。

人間の精神が物化に向かっている気がする。

手仕事があった時代の、温かい日本の人柄、人の良さは、

どこかへ行ってしまった。

 

 ****** 

 

多国籍企業の運営する森林破壊後の巨大農場や地下採掘で、

過酷労働者によって産出された原料は、

工場のハイテク機器の動作を駆使し、

機械が数多の物品を大量に作ってくれ、

商社・流通を経て、いち個人は、

人工社会労働の奇々怪々”の苦悩の対価で得た

カネ”を払えば、何でもかんでも、手に入る。

みんなと同じ物が。

 

 

生活で身体・知恵をできるだけ使わず、

便利・快適を追う自然を排除する社会で、

本質の美的感覚・美意識…延いては良心は、育たない…。

選択の自由と称する、単なる組合わせに過ぎない。

コーディネートレベルで、作っているという錯覚。

ごく 一部の企業人間だけ頭脳労働を振り絞る。

 

ルーツやアイディンティの無い、根拠の無い、味も情緒もない、

軽薄で冷たいデザイン、造形。

花だ熊だ兎…、模様を配したデザイン、

絵本やアニメ、キャラクター、商品に自然物が登場し夢はくれても、

野生の熊や兎、野の花、造形が、表現者らに実感は無かろう。

直線前提の造作は、人工・工業的ご都合でしかない。

 

想像力を駆使しても、何か』…が、足りない。

(偽文明の消費経済で破壊している

自然をモチーフにする矛盾。目逸らしの汚染脳)

 

 

商品を手にした消費者が、

オシャレ、カワイイ、タノシイ、キレイ、カッコイイ、ウマイと

言っている対象もその反応も、

記号だ。

(実体のない虚のシンボル・作為の共有認識)

 

消費者の脳に「快感」(←洗脳研究のツボ)を

伴って記憶されたメディアからの偽原型イメージ(ネズミィー的戦略)が、

広告戦略でしつこく流布され、流行とさせる。

企業デザイナー・クリエーターらも、消費者も、

仮想記憶の反芻だ。(コピペ状態)

幻影のキャッチボール

 

 

虚栄ファッション、陳腐建築インテリア、捏造ドラマ、

粗雑日用品、偽工業食品…。

あっという間に、飽きて忘却、ゴミと化す。

 

  

経営戦略でブランド”化した、他者が本物と銘打った

(苦労話や美談がほんの少しだけある)物を

ブランド”と仰々しく演出し看板を掲げたがる。

鬱屈した優越感を味わうことを美と倒錯する、汚染脳。

生産者も消費者も、“ブランド”ごっこ・選民意識に、余念がなく。

そこに群がる、卑しき醜態。

 

 

 

企業人間が労働に心血注いでも利益追求の上は、

社会荒廃のベクトル。

コンピュータ波及も加勢し、カネありきの

偽現代文明社会に、本質の美は無かろう。

 

「自然との対話・身体の実感・生活の精神性」、

「心」「命」が宿っていない偽現代文明の“物”。

 

  

のイメージ操作や虚飾幻想レッテルの価値観。

特にブランド信奉者の西洋・欧州礼賛たるや、甚だしい。

明治から今日、自尊心を失った、いや失わされた現代日本人。

 

嘆かわしきは、陳腐な偽美的感覚(記号汚染脳)を

満足させるための生産物に

漏れなく、〜自然破壊〜付いてくる。

 

 

 

マスゴミや企業より、ネット影響だろう

個人の動向の変化が速くなり、

少し良い兆しも、ある気がしなくもない…。

 

ともあれ、 ヘアーインディアン彼らのように

カネの存在しなかった、対価の概念を必要としない、

美意識へ向かう社会を想像する。

 

 

 

 

普遍の知恵と一過の知識。

 

 

比較しないこと、と思うのだけれど。

己を知る、内省に用いることも少しはあるか、と言い訳しつつ。 

 

 

 

ヘアーインディアンのヘアーとはウサギのことなのだそうだ。

余談。

 

 

さて、 先述の一節を一年程前に、家人に読んでもらった時。

地球に人が暮らし続ける深い知恵に、心を揺さぶられた。

 

人間が生活するために、地球を利用・搾取することではなく、

地球の一部に人も存在している「大いなる仲間」を自覚している、

ヘアーインディアンたちの偉大さを改めて思う。

 

現代人の生活が如何に傲慢で我儘か。

現代人の宗教や倫理観や科学技術や文化文明の…、

軽薄さを感じてしまう

 

 

狩りのために犬の食糧を優先する人たち。

ペットのように従属させるのではない。

家畜のように人間が食べる目的でもない。

他生物同士はお互いの能力を提供し合って「生き抜く」。

自身が命を繋ぐのには、他生物と互いに平等であることを

食をもってして、わきまえている人たち。

地球の掟を体得している。

 

野生動物を狩猟して、その命を頂く食の神聖。

腹が減ること、飢えることを恐れる、文明を標榜する現代人。

その落差。

 

(偽)文明しか知らない私たち現代人はカネで食糧を得ることに

疑問は無く、当たり前”だ、と思っているからこそ、

飢餓が恐しいのだ、と。

一応生物であるワレワレは、他人任せの食糧調達が危ういことを

無意識には感じるからでもあろう。

かつ、教育体制の中の歴史で、メディアビジュアルで、

貧困のステレオタイプ的イメージが頭から離れない汚染脳。 

 

ヘアーインディアンの生き様から想う。

飢える、ことと飢餓は、違うのだ、と。

 

飢餓への恐れは奪い合う、

醜さ、餓鬼を想像させる。

有史に書き込まれている戦いは、

餓鬼同士の争奪戦でもあったから。

文明人と標榜する我々自身の中の醜さから目を逸らすが、故に。

 

 

ヘアーインディアンの人たちは、飢えることは恐怖ではない。

暮らしの中で行事のように受け入れ、

互いが平等に分かち合う。

飢える行事の中で更に、肉体と精神を知る、

崇高な精神を自身の中で深めていく。

きっと、飢えるとは植えるへ繋がる、人の知恵なのだ。

 

(偽)現代文明側の人間には、その気高く繊細な精神性が、

分かることはないだろう。偽食を飽食することが幸福・幸運なのだから。

加えて偽食世界で本物を志向する

極みの卑しさを「セレブ」ごっこに視る。

 

エスキモーの人たちと、時に争奪もあるというが、

(偽)現代文明側の醜悪な独占とは異なろう。

 

すべての大陸で繰り返されているキリスト教徒らによる

宗教の強要が、無念でならない。

 

大地と暮らしている人々を迫害した後、キリスト教者が救済した

だのの美談ばかりが、(偽)現代文明側で、

一人歩きしていることに呆然としてしまう。

 

正に、大地を生きる人々の精神性や生きる知恵を

地球から失ってしまうことは、

この星の哀しみのように想う。

 

現代人は全て外側の世界に翻弄され他人任せ。

果ては、健康の美容の不老の為に、

断食と称し自己の健康維持に活用しご満悦。ワタシもデス(汗)。

死ぬまで自身のことを分からぬまま。

卑近で凡庸な(偽)現代文明の我々。 

 

 

 

笑いというものは逆境の時の心の支え合いの発露でもあり、

優しさ思いやりであることを

昔の日本人たちの慎ましやかな暮らしの中にも

ほのぼのとした笑いがあったことを彷彿とさせる。が、

 

ヘアーインディアンの人々は身体の状況に合わせて、

笑いのトーンをも、自ずと変わる。

品性とは、こういうことなんだ…、と気付かされる。

 

昨今の(偽)現代文明はどこもかしこも、嘲笑であり、

ひん違いの「貧」であることに、気が付きもしなくなっている。

 

 

 

中世の人体解剖図を欧州人の功績として

日本人も周知しているけれども。

日々の中で、動物の命を頂く時に、内臓を知り、

自身と変わらない他生物の肉体の内的宇宙を知ることのセンス。

どちらが、まともな好奇心なのだろうか、と。

 

 

 

自然の中で河や湖の刻々と変化する水、氷の様子を

見て直感的に感じて、命に関わるからこそ、

真剣に想像し嗅ぎ分けている人々。

 

工業製品の精密機器で計測して分析して、記録し…。

何年もかかってやっと自然のひとコマの現象を証明し、

どこだかの賞賛を浴びんとする…(偽)現代文明側の人間。

悠久の自然の中で結局、何になるのであろうか…。

 

一瞬一瞬違う、すべてが流転する

自然を確率として理解し、しばらくは知識になっても

年月を経れば、やがて、どうでもいいデータになろう。

知恵にはなり得ない。

 

大地と暮らす「普遍の知恵」と 偽文明「一過の知識」を…

思い知る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プチ断食 追記2

 

 

 

家人から勧められ

心が揺さぶられた…本の一節。

少し長いが転載を。

 

 

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「子どもの文化人類学」原ひろ子著(晶文社

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26〜31頁より)

 

もうひとつ、“飢え”によっても、肉体と心を統合した

“自分”を知ることができるのだと、ヘアーインディアンはいいます。

 

 十月になって、河や湖が凍りはじめるという氷結期に入ると、

水中に張ってあった魚網をひきあげ、河や湖を舟で渡ることをさしひかえます。

いったん薄氷ができても、暖かい日が訪れるととけてしまうので、氷結は

一進一退をくりかえしながら、だんだん厚さを増してゆきます。そして氷の

厚さが一メートルぐらいになると、その上を荷物をのせた犬ぞりに、

人が数人ついて歩いても安心だという状態になります。

このような結氷期、一ヶ月前後を要します。ヘアーインディアンの住地は、

多くの湖と、無数の河川におおわれています。河川は、夏は舟、冬は犬ぞり

通路となり、湖はいわば巨大なロータリーとなるのです。

 しかし、湖や河川が多いので、凍らないときには陸づたいに移動できる範囲が

非常に限られてしまいます。ひとつのキャンプ地でまかなえる食糧源がすぐ

枯渇するので、ヘアーインディアンは、キャンプを常に移動して生活するのですが、

氷期にはその自由がなくなります。同様に、五月前後の解氷期にも舟が出せず、

犬ぞりも使えず、魚網も張れない状態が一ヶ月ぐらい続きます。

犬ぞりをひく犬の食糧をけずりすぎると「いざ、移動だ」、「いざカリブ狩だ」

といったときに犬が動けません。ですから、食物が不足してくると、

人の方が我慢するわけです。

 

 たとえば、人の食糧としてウサギ一羽分しかないとき、それを鍋に入れて

水煮にします。生後一年以内の赤ん坊がいるときには、その子の必要量を

確保し、次に、これから狩りに出る二人の男たちにウサギの後ろ足を

一本ずつ食べてもらいます。残りの人間は、スープをすすり、肉は一口だけ

食べて、テントの中で寝袋に入ったまま、ゴロゴロしているのです。

 いつもなら、夜を徹してでも昔話や世間話にうち興じ、冗談を連発して

にぎやかに過ごすことの得意な人たちですが、食糧の枯渇しているときには、

口数も少なくなり、静かに、狩に出た男の帰りを待ちます。でも、ただ

だまっていると、気が滅入りすぎるというわけで、ときおりだれかが

軽い冗談をとばします。すると、皆はクスクス笑って気分をかえるのです。

大笑いするとますますお腹がすくので、クスクス笑うのです

 

 子どもたちも、おとなと同じように飢えをしのびます。

お腹がペコペコでなにか食べたいという感じから、胃がひきしまっていく

ような気分にかわり、そのうちに全身の力が次第に抜けていき、腸の動きも

不活発になります。目はくぼみ、肌のつやも消えて、ねむたいような

ねむれないような気分になっていきます。

 でも、ねむってしまって、火の気を絶やしたら、お腹がすいているだけに

凍死しかねません。ですから、テントでゴロゴロしている人たちは、交代で

薪を割り、ストーブにくべていくのです。

 子どもたちも、テントの外に積んである薪をストーブの脇まで運び込んだり、

点火用のつけ木をこまかく割ったり、いろいろな仕事を分担します。そして

用事が終わると、また寝袋にころがり込んで、狩に出た人が何か獲物をもって

帰るのを、二日でも三日でも待つのです。

 

 こういったことは、結氷期と解氷期に限ったことではありません。夏でも、

そしてとくに冬には、二十四時間から四十八時間ぐらいの間、うすいスープしか

口に入らないことがあります。

 しかし、農村地帯の飢饉とちがって、狩猟民のヘアー・インディアンの場合には、

今日か、明日か、一週間後には、なにか食べ物がみつかるという

希望が常にあります。

 また、獲物を解体するときには内臓まで細かく観察している体験から人間の

からだの内部を類推して、飢えの時期には、内臓の機能などをあれこれと

考えながら、自分のからだに生じる変化をよみとります。

 そのほかに、長く歩くと、どこの筋肉がどういうふうに疲れるかとか、

重い荷物を背負うコツとか、水はどんなペースで飲むといいとかとか

自分のからだのいろいろな部分と常に問答をくり返しています。

 

 機械といったものがほとんどなく、道具も最小限の品で生産し、消費し、

楽しみ、美的感覚を満足させている彼らは、文字どおり、“からだ”そのものを

使って生活しているのですから、からだとつきあうすべてを心得ているのも

無理からぬことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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