ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

仕事と労働‥‥‥怠け心について。

 

とある Youtuberの言葉を引用し、

アルゴリズムが(ワタシ)視聴者に暴力を奮ってくる〟という、

Youtubeの現況下に於いて(笑)。

 

武田邦彦氏の動画を時々視聴させて頂いている。

半年ほど前、しばらく「怠け心」について(内省を込めて?!w)考えていた時、

視聴した動画で「働くとは何か」について語っておられ、

思索のヒントになる氏の一部の解説が、記憶に残った。

だが、うっかりその動画がどれであったのか忘れてしまった。

怠け者故か_w、内容がうろ覚えだから、氏の伝える主旨と外れ、

ヘリクツ程度の私見だが、書き留めたい。

 

武田氏は、東洋というか日本と西洋の思想の違いに、

「働く」という捉え方が大きく異なるであろう、と

指摘しておられたと思う。

そこに旧約聖書のアダムとイブ(エバ)の寓話を引用され、

大変参考になった。


*****************

以下

アダムとエバ - Wikipediaより転載  *(旧約聖書の要約文章)

旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には生命の木と知恵の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったという[2]。

この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す[3]。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する剣の炎を置いた[4]。

その後、アダムは930歳で死んだとされるが、エバの死については記述がない[5]。また、「善悪の知識の木」の実(禁断の果実)はよく絵画などにリンゴとして描かれているが、『創世記』には何の果実であるかという記述はない。

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「アダムとイブ」は、誰もが知っている人間の罪の始まり、

原罪を描いた話である。

 

余談であるが、旧 約 聖 書の知識は皆無の私が恐れ多くも、
この創 世 期「ア ダ ムと イ ブ」の中で、ツッコミを入れたいところがある。(苦笑)

 

**********

アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、

その中央には生命の木と知恵の木と呼ばれる2本の木があった。

それらの木は全て食用に適した実をならせたが、

主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。

 

**********

 

「善悪の知識の実を食べてはならない」という神からの命令で、
すでに判断できていたアダムがいるではないか?!と。

 矛盾を感じ、稚拙な…疑問が湧いた。

それはともかく。

 

**********

この結果、蛇は腹這いの生物となり、
女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、
額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、
地の実りが減少することを主なる神は言い渡す。

**********

 

西洋での働くとは、〝額に汗して働かなければ食料を手に出来ない〝

神の命令に背いた罪が故の〝原罪が始まりの苦役としての労働〟、

〝労働すなわち罰〟という捉え方が、

貴族が支配し、尚も続く西洋思想の底流にあるのだろう。

それが中世以降、世界中に波及してしまったことを

問わねばならないのではないか、と。

 

 

一方、日本人にとって働くとは、それと同じではなさそうだ。

明治から西洋文明礼賛となった以前。

 

布教と称しフランシ スコ  ザビエルら(ポ ルトガル勢の日本襲来ダ)が

来た中世キリスト教は、日本でも仏教を破壊し国家をも破壊の狙いで、

九州を中心としたであろう一時期には多くの信者を集めた。

主に中世、日本支配層切 支 丹らの残党によってキリスト教の影響は、

江戸社会の伏線として残存し続けた。

徳 川 政 権はそこに厳重な警戒を行なっていたことを

現代では、鎖国政策下での厳罰を〝切 支 丹への迫害〟という解釈でマスコミや教育、

観光地などでも喧伝されている。

(現代はキリスト思想を利用した偽ユダによるプロパガンダが覆い尽くしている)

 

2019/11/24当方ブログ記事を参考までに

http://tadaimachan.hatenablog.jp/entry/2019/11/24/215610

 

 

わずかな例であるが、江戸時代については、

年貢で幕府へ納めることは義務に違いなかったが、

100年も年貢率が変わらないほど、長閑な社会であり、

お上に申請せずとも、暮らし向きを良くするよう農民は

次第に、農地を拡張できたようだ。よって、米作は余剰になっていき、

江戸中期にはすでに貧しくはない社会であったという。

やせ我慢の意味合いで、「武士は食わねど高楊枝」の言葉が

残っているのは、暇な役人仕事の虚無なプライドの代償を揶揄し、

実態(働くことは心身の豊かさへ)を明かしてもいようか。

 

江戸社会は、食べていくために体を使い働くことが、

楽しみや生きがいを見いだせる社会状況だったと言える。

 

幕末訪日欧州人が、「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」、

という残された記述も、それは真実だろう。

 

 

遡って、現代で縄文時代と呼ばれるようになった、

数千年から1万年以上前のこの列島に、

倭人と呼ばれる人々が定住し始めた頃。

共和的な集落で社会が作られていたようだ。

長(おさ)も、そうでない人々も、共同で、作物を育て収穫した食料を

神(自然霊・八百万神)へ供えたのち、

平等に分配する、平和に暮らす社会であった、と言われている。

 


体得してきたその名残りは、7世紀、主に渡来と思われる人々が天孫降臨を謳って
政治を掌握し始め、日本と呼称するようになって戦乱の多い時代も経たけれども、
江戸末期まであった、と私は捉えるし、
現代社会でもわずかに、それは残っているかもしれない。

 

例えば、リーダーが謙虚であること、質素であること、
平等であることを美徳とし、そうした振る舞いを
尊敬に値する長と見なす価値観は、
現代の日本人であっても、たぶん共感することだと思う。

 

書籍「逝きし世の面影」の中で、幕末訪日欧州人らは
先制政治社会と聞いて訪日したが、将軍に謁見した時、
主君は質素な身なり素朴な佇まいであったことを

意外だとする、見聞が記されている。
中世、訪日欧州人を接待する宴席で、織田信長自ら食事の給仕をする様子に
欧州人たちは驚いた話も、読んだことがあり興味深かった。

 

昔の日本人が、立場・役割の上下関係を重んじる反面、
生活者としての個人に上下は必要がないという感覚を持っていたのは、
米作という農耕を中心とした社会発生が根底にあるからかもしれない。

 

数千年前から1万年以上も前に、この列島に共和的な社会集落の痕跡があると
判明してきている昨今。
旧約聖書が成立した時代よりそれ以前の、社会にとって働く意義や動機が、
異質であることを武田氏が指摘したことに、共感せずにはいられない。

お互いに協力しあって、等しく分かち合う中に、
〝苦役としての労働〟に、なることはあるのだろうか?と。

 


西洋文明に基礎知識はないがご容赦いただき。

西洋社会は奴隷と貴族の構図が社会の発端と私は理解している。

 

 イサヤという霊能力を持った人(当時は特殊な出自)が、

ユ ダ ヤ人主導(貴族)の放埓な社会に対する改革の挑戦が、

宗教活動となっていったというのだから。

 

新約聖書はキリスト誕生からの書物。

旧約聖書ユダヤ教キリスト教が指南書としていること自体、

深淵たる謎である。現代社会の闇に繋がっている気がする。

この書が、キリストが誕生する前からの、

ユ ダ ヤ人の宗教書であることは間違いない。

 

ユ ダ ヤ人の出自は、倭人とも重なる部分があることを
K氏説やその他諸々の情報で語られているが、
太古の時代、ひとまず一万五千年前まで
テレパシーのあった人類世界の時代から考えると、
旧約 聖書という文字(言葉)を使ったものが、

人工的な書物(信じている方には申し訳ないが

ルシファーが神となるための書)という印象を受けてしまう。

犠牲と救済を自作自演する…人工の世界。

信じる如何の以前に、謎めいた書物だなぁと常々思う。

 

(現代でキリストと呼ばれる、イサヤの出自や復活奇跡のエピソードの前後関係を
 K氏の講演で聞き、真偽は確かめようがないが、
 その説を歴史の流れに当てはめると、事実ではないか、と
 思わざるを得ない説による伝聞がある。)
参考までに
https://blog.goo.ne.jp/powbbie/e/fadc25393cf67fc926eef40b35e1c3af

 

 

 

ともかくは縄文時代よりは、かなり後の時代になって、

旧約 聖書は編纂された書だと思う。

 

 

* * *

 

共和的な集落の社会に、神の〝命令〟はあっただろうか。

あるいは、必要だっただろうか。


逆に言えば、神の命令があるとすると、
共和的で平和な社会は生まれなかったのではないだろうか。

 

神の命令で、共和的な社会を作ることも、人間の本性・素質を問えば、
それは無理であろう、と。

 

人間は魂の乗り物として肉体を纏ってこの世に生を受ける。
魂だけの状態をこの世に生まれてから私は、確認できてはいないが、
様々な臨死などの話を聞くとおそらく、
肉体が無くなった後にも、意識というものは存在するようだ。

度々話題にする死亡体験者のK氏は、意識は完全な世界であり、
あの世は退屈だと言っておられる。
つまり、この世では物質が存在し、肉体という道具を授かって
大いに使って、使い切ってあの世に旅立っていくことが
魂の極上の喜びなのだろう。

肉体を持たない意識だけの状態の退屈さを
この世でも、怠けたい、面倒臭いというぼんやりとした欲求・感情は
せっかく授かっただろう肉体と意識の連携の中で、

元来、心身を休める以外に、起こらない感覚ではなかろうか、と。

 

 

 


人間は他者から命令されて行動することは、自分自身を省みても、
肉体の性質から考えても、最も苦痛なことである。
何か命令や指図を受け行うことが苦痛なのは、動物としての人間・万人の性である。
まして、命令に背むき厳罰が下ったとしたら、
生きる気力は失せるのではないか。

 


例えるなら、猫は秀逸な手本である。(笑)

共同生活において、身につまされている。(泣)

 

 

人々の生きる気力が現代に近づくにつれ、失せてきたように思うのは、
日本であれば、明治以降の軍事政治社会の中で、命令と競争の教育に始まり、
年貢が、税金という義務に変わった貨幣の性質を思うし。。。


〝肉体の苦痛・苦役〟を回避せんとする刷り込みの

〝便利さの追求=如何に肉体を使わず、更に知恵をも使わず

物質を他動させるか〟が、

知識としての科学技術のお陰と喧伝されてきた。

(闇と光を暦をも支配する偽ユダが、奴隷用キリスト教思想_を駆使した自作自演の世界)

(人類使用禁忌であるはずの、石炭・石油の燃焼によって

 回転する道具とリンクした発端の、産業革命___他国に利用させ

 偽ユダの不徳を回避と富収奪。コアの物質の回転とピストン動作による

 エネルギーの創出・拡大____ことわりの矛盾と歪みの発生)

 

 


働く=仕事ではなく、〝貨幣を得る=労働〟に変換させられ、
農耕という、すべての人が食べるために必要な仕事、
協力し合って生きる喜びを

西洋的な政治は、残念ながらそれを喪失させたのではないか。

西洋的な旧約聖書に端を発している社会通念が台頭し、自主性、主体性

生きる気力・やる気が、腹の底から湧かない状態に

大衆が陥ったのではないか、と。

 

 

 

 

 

そして、カテゴライズされた宗教、それに依った思想・思考は、

人間の生きる気力の発露・発動を撹乱し、制御し、封じる、

〝最も有効な支配〟のシステム・組織・媒体である。 

と、思う。

 

 

 

神は上(うえ)ではなく、

神と人は共にを体現となる農は、

ひとつの叡智と、感じる。

 

どうだろうか。。。

 

 

 

 

***********

 

 

小作農者的立場からの概観。。。六

 

 

脱穀作業も昔の方法で米作を行っている

自然農のご夫婦のところへお手伝いに行った話は

先述した。

農作業を手伝うことに金銭あるいは現物の報酬はない。

不耕起農業塾の行事としてそれがあったのだが、

仲間の知人は少々不満げであった。私も、多少気持ちは分かった。

けれども、無償さという活動は

個人から社会まで必要なことを常々感じてきたから、

むしろ、面白そう、やりたい、という動機で

その脱穀作業に参加させてもらった。

 

約十年前。

四十歳代前半に、2年間自治体と農協が施行する農業学校へ私は通った。

福岡正信氏の著書「わら一本の革命」に影響された私にとって、

授業の内容は疑問だらけで、大変であった。

それでも、現代農業について今まで知らなかったことを

知ることができ、良かったと思う。

 

その学校の期間で、今も思い出すのは、

ナスの栽培やイチゴやイチジクの出荷、桃の栽培中の摘果作業だ。

 

ナスの栽培の授業で、驚いたのは特級の、

傷が一つもない形の良いピカピカのナスの栽培過程。

高値で販売されるために、行わなくてはならない作業である。

ナスの「皮」に傷をつけないために、葉の剪定を行うのだ。

たまたま、強雨が降ってきたタイミングで、大きく成り始めた

6月初旬のナスの実に、ナスのトゲのある葉っぱが擦れ、

傷が付かないよう、風雨の中、葉っぱを剪定したことは印象深い。

 

ナスの木が揺れる中、植わっている木々を潜るようにして

あちこちの葉を剪定し切り落とした。

あくまでも、特級ナスにするための皮に傷をつけないようにという、

いつか農業者として自立・実践のためと指導を受けつつ、

神経を尖らせ作業を行った。

 

どの作物に関しても、収穫に都合が良いように、

葉や木をとことんコントロールしての栽培の教授が、

講義ごと繰り返された。

 

野菜を育てるという単純なことではなく、工業製品に

限りなく近い状態の商品を目指して、

効率重視で野菜が育てられる現場。

 

それまでは、消費者という立場でしか野菜を捉えたことがなく、

市場に出回る商品としての野菜の背景について、何一つ知らなかった。

農業を営む人たちが、こんなにも神経を擦り減らし、

キレイな野菜を育て作って、市場に出されていることを。

ここまで、キレイな野菜を作らなければならない

消費社会とは何なのか?

今まで能天気に、スーパーなどで

キレイな野菜を選んでいる自分が愚かしいことを思った。

 

見た目だけで選ぶ消費社会の汚染脳。

浅はかな行動をする金銭支配の社会構造の中で、

都市暮らしは、上澄みでしかない、と思った。

 

イチゴのパック詰めも悲しいくらい、精密な作業がある。

農協で規定のパックやフィルムを農業者が購入し、

規定の重量に合わせ、パック詰めをする。

自然物の多様さを忌み嫌うがの如く、

パックの上段下段を配するのにイチゴの形や色、

見栄えを判断し、神経を使っての作業がある。

 

桃の木に花が咲く頃に、

市場で高値にするための桃の出荷時を想定し、

美しい花をジャンジャン、もぎ取る作業。

 

受験に因んで農家の方が喩えて言っていた。

受からせるためではない。優良果実を選りすぐるため、

落とすことを前提に、珠玉の一滴のために、という作業であった。

イチジクも、重量で判断されるから、

雨の降った翌日が収穫時と農家の方が言っていた。

 

 

どれもこれも、現場を知ると

易々と消費していいものだろうか?と

思わざるを得ない、現場があった。

 

消費社会の一人として、計り知れない恩恵。

まして、海外で、欧州貴族・国際金融家が株主の

奴隷支配から延長線上にあるプランテーション農業で、

輸出入される作物の背景、重労働の方々のご苦労は、

想像を絶するものがある。

 

能天気で今までごめんなさい・・・と。

金銭の授受で穴埋めできるような

範囲ではなかろう、と。

 

農業に結局、携わっていない私は、

そのご苦労に、ただただ平伏す思い。

複雑な思いでスーパーの野菜売り場を見る。

自然農によった野菜を少々育てたり、

買わせて頂いている。

 

「小作農者的」と称したのも、

小作農としての対価はひとまず横に置いて。

仮にとて、生活に猶予ある状況下の貨幣経済

それを理屈にするとややこしいが。

 

ともかく、今までの膨大な恩恵・お陰様・感謝の意として、

無償の行動が、社会を変えるきっかけかもしれない。

 

お金を払ってスポーツジムへ行く筋トレより、

農作業を手伝えば知恵取得に筋トレに加え、

仲間との共感や感謝があり、合理的ではないかぃなと。

 

無償で、農への活動に参加を始めると

少しは貨幣経済=人工的な人間社会=

貨幣の短絡的な〝ギブアンドテイク〟___の崩壊の

一助になるのではなかろうか、と。

そんな思いでいる今日この頃だ。

 

 

 

 

 

小作農者的立場からの概観。。。五

 

 

脳内ホルモン・アドレナリンを大放出するために、

ゲームに没頭したり。
暴走運転をしたり、爆音で音楽を聴いたり、賭け事に興じたり。
肉食が享楽となり生命への畏怖はどこへやら…。
集合無意識の汚泥の顕れの如く、
陰湿なイジメやDVがあらゆる世代で蔓延っていたり。
汚染脳によって虚栄を満喫する偽の想像力=妄想が、
大金を稼いで羨望の的になる事が人生の夢・勝者という
常識だったり。
〝卑しさ・浅ましさ〟が精神の原動力となって、

荒々しい意識へと陥っている昨今。
大衆の哀しき混乱はどこから来るのだろうか、と。

 


現代日本人の極端な潔癖さ・完璧主義や自閉的になる元凶が、
昔の日本とは変わって、自然に則した循環が欠けていることは、
大いに要因があるだろう。
人工社会システムの中に取り込まれた現代生活では、
地球規模では非常識でも、人間社会では
〝常識〟になってしまう。


ゴミを税金によって処理するということへ
漠然と生理的違和感を感じるものの、
疑問を持たせない社会システム、教育、人間社会の常識。
それに目を向ける思考をも欠落させる汚染脳・欺瞞のもと、
惰性で便利、営利を追い求め、自らの知恵を喪失している。

 

江戸社会ではほとんどゴミという概念が必要でないほど、
物資を使い切る社会であったそうだ。
髪の毛一本まで役立てたと言われるほど
人口密度の高い江戸の町は特に物のサイクルが

商売と結び付き盛んに行われていたという。

 

それらを徳川幕府鎖国政策のせいで資源などの輸出入を行わなかったから、
貧乏臭い暮らしだった、と批判し、

生活が快適になったのは西洋化によって科学技術が進歩したお陰だ、と

ありがたがる見方をする日本人がほとんど。
電気の恩恵は如何ばかりか、と。
電気が文明開化の象徴として、

物質社会へのステレオタイプの肯定がある。

 

 

江戸社会では朝4時頃には起きて5〜6時頃に出勤だったという。
電灯が必須なのは、現代の暮らしのリズムが

遅い時間へとズレているからではないか。

エアコンがない時代は大変だったと言う人もいるだろう。
だが、冬の季節でも日常で体を大いに使う生活に

冷え性はあまりなかったのでは?と。


暑い時、水分を含んだ大地が広がり、水辺は美しく、
木陰があちこちにあれば、涼やかな風が吹いてきたことを想う。


暑さを凌ぐのに、冷風がどうしても必要な現代は、

〝科学技術を精鋭するような頭の労働〟に偏っているからかもしれない。

 

飛行機や電車、自動車がない時代は遠いところへ旅行へ行けないと思うかも
しれないが、風景が全て絵になる世界で、自然美のある場所は全てである。
膨大な量の映像画像を目にする現代の、記号としての名所だ、

観光地だ、世界遺産だ、と騒ぐことが、本末転倒のように思う。

 

その昔。食べ物も、自然栽培は当たり前。

新鮮な食べ物は住んでいる場所によりけり。
素材の美味さに勝る、食べ物はなし。


人工的な加工食品の悪魔的な味に魅了されるのは、家畜の如く飼い慣らされ
素材の美味しさを知らない人工的な暮らしの現代人の悲しさではないか。

地下資源を膨大に搾取する物質文明や偽言説で人間の心を惑わすマスコミ台頭や
西洋的価値観を是とさせる教育の社会とは異質で、
自然の一部としての人間の暮らしであったその昔、精神の矛盾は少なかったと思う。
西洋礼讃社会へと変貌したことで、精神の複雑さを極めている。

そして人生観・死生観も変容してしまった。


ルシファー的支配は死への恐怖のイメージ洗脳が要で、
大衆の精神をどこまでも貶めていく。

 

ともかく、現代社会で輸出入されている

物質・資源で不可欠と思える物は、
ほぼ皆無ではないか、と私は思っている。

知恵や知識こそは、各国で共有されて然りのはずのそれが、

特許や著作という偽ユダ思想の権利の縛りで障壁が著しい。


石油を軸として輸出入を重視するのは、貨幣の流通を激増させる中で、
欧州貴族・国際金融家の実体のある富

(領土や資源地や秘宝、知的財産と永続的な権威権力)を

増やし掌握のためであり、
秘密裏にかつ合法を装い、日本を筆頭に諸外国の資産・資源を奪取し、
偽ユダ以外の権力組織を解体し、大衆の遺伝子を劣化させ他民族を激減させ、
偽ユダ支配の世界統一という野望のためであろう。

 

欧州貴族・国際金融家が裏で手引きし、ぼろ儲けのための巨大戦争
その〝真の目的〟に対して、政治的駆け引きとして国防のために、

貿易・膨大な物資の輸出入が、

国民が使わざるを得ない物質に埋もれる人間社会の常識こそ

現代社会のゴミ問題や環境汚染の根本原因ではないのか。

 

現代日本人にこんな捉え方をする人はあまりいないとは思うが、

つまりは仕事と称し
〝やらなくてもいいことをやらされている〟のである。

貨幣という架空の価値の創出のための大衆の労働状況を
膨大なゴミという存在は、証明してくれているのではないか。

 

 

自然の一部である生物としての人間が、

自然を破壊しながら便利さを追求し、利己に拘り、

次第に、知恵や礼節、自然と共に暮らした先祖の培った精神性が失われ、
五感、直感は鈍くなり、体力や気力が失われ、ならなくてもいい慢性病になり。
人との心の関わりが複雑になり、金銭も絡んで疑心暗鬼になり、

バランスを崩した精神は、アドレナリンを疑似体験の刺激で

脳内に分泌させたくなる。


脳だけが忙しない社会に変わってしまったと思う。

 


物質礼賛社会、物質主義、唯物論についてあれこれ疑問をたまうも、
答えを明確に発言し、影響力を持っている私ではないから、
ほんの少しだけ、気付いた者から疑問を伝え、

心の有り様や暮らしの在り方をちょっとでも変えようとの思いで

繰り返し同じ蘊蓄(ウンチク)をたれている訳だが。

 

 

ネガティブなことばかり書いてしまったが、
そろそろ本当のことに気付き、行動を起こしている人たちが
現れ始めている機運もある。

 

まだまだ食で肉体エネルギーを得る今のところの人類にとって、

食物を育てる事_得る事が必須なのは言うまでもない。

更には、農という仕事、植物を育てる中に、

人生や社会、地球についての学びのエッセンスが

まだまだ膨大にあるだろう。宿題の状態だと思う。

 


農業ではなく、「農」に変わっていくこと。
「天下泰平」というブログの執筆者が、

〜半農半X〜を謳っておられる。

「半X」は、個性が生かされる趣味や仕事という意味だろう。

 


その生き方に私も共感するところである。

 

 

 

免疫力

 

 

大通りを車で走っていて、信号で止まった。
ふと大通り沿いにある焼肉店の看板や広告文言を目にする。
するとそこに、ペット同伴可と書いてある。
珍しいなぁと思いつつ、
注文の多い料理店」の話を思い浮かべてしまった。(苦笑)
まさか、そんなことはなかろう。

それは別として、現代日本人の潔癖症ぶりに、
一石を投じているようにも映った。

 


新型肺炎の罹患の流行が、マスコミによるものではないかと思うほど、
連日、盛大に喧伝している模様。

マスコミも集合無意識のウィルスみたいなものだ。
今回も偽ユダ発の人工ウィルス兵器であろうことは、言うまでもなく。


 

虚言伝聞団体のマスコミ情報を遠ざけているものの、

YouTubeやネット界隈で熱心に、
拡大状況やら予防の声がけをする方もおられ、否応なしに、

その病について情報が入ってくる。この記事もその一端を担って

火に油を注ぐ内容か。。。と、すればあしからず。

 


ところで、風邪を引く時は、寝不足であったり、極端に疲れたり。
食事が不規則や偏食であったり、寒さで体を冷やしたり、心配事が重なったり、と。
風邪に至る寸前の要因を探り、段々と予防の方策も体得するものだ。

 

 

そういえば以前、街でひどく咳をしている人が近くにいて、
嫌だな、、、うつりたくないな〜、と思った数時間後から、自分が風邪を引いた。

一応、ウィルスの伝染だろう、と思ってみた訳だが。


いやいや、咳き込む人と関わる人は他にもたくさんいる。
それでも風邪がうつらない人もいるのは、何であるか。

自身の体調が優れなかったという時でもなかった記憶。

 

と思うと、その咳き込んでいる人に、嫌だな〜という思いを一瞬でも
抱いた自分ではないのか。

つまり、その瞬間に免疫力が落ちるのでは
なかろうか、と考えてみたりした。

 

嫌だなぁ〜という思いが、免疫力を落とす。

 

 

感染るという現象は、物質的にウィルスが移動するだけではなく、

意識が反応した状態が大いに関係ありそうだ。

パズルのピースが合うかの如く。

 

負の感情からの影響は、自律神経のバランスを崩すものなのだろう。

 

マスコミがウィルスの流行を盛り上げるのに一役買っている

ネガティヴキャンペーンは、

それを承知で情報の垂れ流しを行ってもいるだろうか。

 


前向きに生きる姿勢は、生きる知恵の一つであり真実・事実である。

人間は基本的に前方へ向かって歩く。
わざわざ、背面を前に向けて歩みを進めることもないし、

前を向いて後ろへ歩くという体の構造でもない。

ほとんどの生物も成長という現象も含め、そのような造りだと思われる。
乗り物だって、全て、前に向かって目的地への移動のための道具である。
存在全ては方向性というものが常に、

宇宙の流れの中に組み込まれている、と思う。

 

嫌いとか、嫌な思いをしたくない、という感情は、

恐怖心や不快感の〝過去の記憶〟

(物質次元の現象は即ち過去の事柄)についての反応と言える。

 

留まる反応、変化を拒むことでバランスを崩す。

全ては今の連続であり、今という瞬間は常に中庸で、

一歩前へという意識・意志が、未来を今に引き寄せる。

生物の本質は、つまり 前向きさであり、

元来は、当たり前のはずである。

 

 

ずいぶん前のことだが、心理学研究者であった故河合隼雄氏の著書の中で
読んだ「人間は精神的に成長すると好き嫌いが減ってくる」という言説は
印象深い。

 

事実・実感の経験が豊かになってくるほどに、外的世界に対して

感情という反応は一時の細波として、静観できるようになっていくのだろう。

感情の観察が身につていくる。何が起きても、客観的に対処、判断できる、

意識のコントロールが段々と立体的にこなせるようになる。

様々な経験が、微細な判断を構築し、やがて大らかに、

寛大にという状態が、一つの成長と言えるだろうか。

 

それとは程遠い当方はさておき。(苦笑)

 

歳を重ね老化で免疫が下がっていく代わりに、

心が成長しているなら、それが予防にもなろうか。

まあ、寿命は決まっているというのだから、ジタバタしても仕方がない。(笑)

 

 


街で咳き込んでいる人に、

遭遇したら、一瞬、嫌だな〜という思いがよぎることもある。

それを思ってはいけないと自分を責めるのではなく、

思った自分がいるという事実は受け止め、改めて心の中で切り替えて

「早く良くなりますよう」「お大事に」と祈る。


受け入れ難い場面で、嫌だな〜、うつりたくないな〜と、

感情的に保身を〝真っ先に思ってしまう〟ことを上手く切り替える

ことができれば、おそらく免疫力も下がらずに済むはず。

究極の保身か?!

 

〝真っ先に思ってしまう〟ことに、

視覚や聴覚、言説の汚染脳の仕業ありき。

つまりは、マスコミ情報の十八番。恐怖心の扇動だ。

 

 

 

精神論で片付けたいスポ根教育世代の私が言うことは、

話半分に留めて頂きたいが。

予防も、心の有り様から始めてみては、と思った次第。

 

己の意識を鍛える事が

世知辛い世の中を逆転させるきっかけにも、

少しはなるんじゃなかろうか、と。

 

あらゆる既成観念

(マス偽情報・教育による知識・科学的なあれこれの言説)がなければ、

「ああ、咳しているなぁ」と感じるだけかもしれない。

赤ちゃんや動物は、病の人に対して先入観を持たない。

かと言って、無防備さも三次元では限界がある。

 

 

加えるなら、体調管理が大切な時期には

規則的な生活にする事や食生活の是正など、

ジャンクフードやコンビニ食で腹を満たす習慣や、

肉食やスウィーツへの極端な執着を改める、

良き契機になればとも思う。

 

今回の人工ウィルス騒動は、中国や日本への経済的打撃を

目論んで、統一通貨を整備したい欧州貴族・国際金融家の

前哨戦と、私は捉えている。

 

 

 

 

 

 

小作農者的立場からの概観。。。四

 

年初めのブログです。

今年もお付き合い頂けましたら幸いです。

よろしくお願い申し上げます。

 

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手作業による脱穀を体験させてもらって、
農者の取りこぼしのお米がスズメをはじめ、
多くの生物への「与え」となることを感じた。

 

飼い猫の食べ残しさえも、
また、生物の意図無き生理的な行動には
地球の摂理が畳み込まれているようで、それと重なった。

 


ずいぶん前だが、農家として暮らす義父がネギか大根
だったか、少々残った野菜を惜し気もなく捨てた。
ラップを巻き保存する方が無駄、とこちらを見て呟いたことを覚えている。
都市出身でそこで暮らす嫁への皮肉と感じたが、
それは別として、ラップを使うことの無意味さは、同感だった。
農業で暮らす地域では、採れ過ぎた野菜に困ることもあるのだから。

 

わざわざ、石油製品のラップを遠くまで買いに行く手間と経費。
わずかな野菜のために輸出入が繰り返された石油製品を
消費するのは、地球規模の無駄だ。
工業製品の消費が一人にとってはわずかであっても、
製品を作るだけで、大量の資源や大規模な設備を要する。
つまり、工業というもの、それが貨幣を異常なまでに重要視させ、
地球を磨耗させることを
貨幣の多寡で翻弄される消費者の立場では、無自覚となり盲目となる。

大地から、生活が切り離され、遠くなるほどに。

(自己愛の元凶でもある。)

 

工業化・人工化が、

ほぼ無意味な税金制度(既得権益者の免罪符と化している)と相まって、

貨幣の重み・厳重さを増幅させ、

電子マネーも同様。更に強固なものにする)
大衆の人生時間を更に切売りという虚無の人生苦労を

汚染脳状態の感情が貨幣を完全肯定させて来た。

 

地球生物の本来の素朴な生命の営みが、

進歩発展・便利快適・時短迅速という

薄っぺらな喧伝による錯覚で、大衆は翻弄され続けている。

 


それが支配者層

(欧州貴族や国際金融家=資本家(偽ユダ)や各国の特権階級)
君臨を強固なものにしていることに、

便利礼賛・西洋礼賛プロパガンダ

マスゴ三狂育汚染脳で、

肉体や知恵が劣化し続けていても、

その自覚がない現代大衆の私たち。

 

言葉はよろしくないが、大衆全体の活動が、

寄生虫の汚城と化している____。

 


お金を介さず、大地で自ら食物を育て、採取が中心の暮らしでは
もったいない_無駄、という感覚は、お金で手に入れた物品であろう。
生物として当たり前の感性を失わずに済むのである。

 

都会では他人の労力を介して手に入れる野菜は値段が高い。
都市近郊の新鮮な自家栽培の無農薬野菜など、更に貴重だ。

ラップは簡単に安価に手に入る。




野菜を土に返す田舎生活の環境があるから、

義父が野菜を捨てる時に、ほぼ罪の意識は起きないのだろう。

都会暮らしでは残飯を焼却ゴミとして捨てざるを得ず、

自治体ゴミ収集車に託す他ない。

主婦の多くが、無意識にしろ抱え続けているであろう罪悪感。
残渣や糞尿屍を土へ戻らせることができない。
生物として当たり前の循環が、
損なわれた人工的な社会では、集合無意識の中で
その罪の意識は、「生理的違和感」として延々と消えないのではないか。

 

 

 

 

小作農者的立場からの概観。。。三

 

 

脱穀の手伝いへ行く二週間位前だったか。。。

気ままに食べ残しをしている飼い猫たちの

餌の器を何となくぼんやり見ていた。

日本人は、食べ残すことを良しとしない道徳観?風潮?があるが、

猫は、平気で食べ残す・・・。(苦笑)

お腹が空いている時はペロリだが、ご気分次第である。

 

野良猫ならもう少し貪欲に食べると思うが、

それでも動物たちは皆、自分の腹の具合にとことん正直だ。

ある意味すごい。良き心地こそ正義だ。

猫という生き物から人間が学ぶべきは

「唯我独尊」か、と度々思い知らされる。

 

 

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前回「小作農者的・・・」の記事で、余剰が循環を生み出す、と述べた。

稲作の「手作業に近い脱穀作業までは、まだ余剰が微かに残る」

ことが重要と改めて感じ、脱穀の手伝いで実感した訳だが。

 

つまり、手作業の中での取り残しのお米は、

鳥たちの餌になっているのだ。

田んぼでは主には、スズメだと思うが、様々な鳥たちや生物らに

餌が期せずして、「めぐる」手作業が多かったその昔は、

たくさんの種類の生物がいたのだろう。

 

農薬のせいでトキが絶滅したという一部のことではなく、

生物全体の生態系が醸す多様性、自然循環、

糞や死骸や昆虫や魚類や微生物のあるべき様相を喪失してきたのは、

自然環境をも人工に作り替えての〝機械化〟が

大いに要因であっただろう。

 

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話は逸れるが、

幕末、当時の江戸社会の様子から明治初期までを見聞録で残した

訪日欧州人らは、日本を「野鳥の楽園」と感嘆した。

それら膨大な記録を編纂した「逝きし世の面影」(渡辺京二著_平凡社)では

江戸社会の日本を「子供の楽園」と幕末訪日欧州人に言わしめ、

緑豊かな生物全体の楽園であり、庶民は親切で幸福感に満ちていた、

国民は皆、健康的で生活に満足している様子であることが切々と綴られている。

人の良さ、良心的な世界があった。政治には義が存在していた。

異邦人の観察によって書かれたからこその実相。

杉浦日向子著書には江戸中期から幕末頃には米作が余剰の記録もあるとのこと。

 

 

全く関係ないところからの論文のリンクだが、

参考までに(http://hist-geo.jp/img/archive/179_043.pdf

 

 

知らなくてはならない現代日本人が、

本当の江戸社会の姿を知らない。

 

昨今は、CMや時代劇ドラマなどで似ても似つかぬだろう、

古い先祖を貶めるような下品な映像で汚染脳せんとしているのが見受けられる。

 

改めて偽ユダ配下のC|Aや、ユダキリ教勢力のコントロール下で、

(〝移民〟の個人に発生する劣等感や、その中で有能な人達を利用しながら)

民族破壊が目的である故の、

日本と韓国系のメディアが束ねられ在日系エージェントによって、

マスコミ汚染脳支配があることが窺い知れる。

(欧州以外の他国も同様の方策・手法がなされて来たと思う)

 

 

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先日、山田盟子氏の著書から抜粋で、

イ エ ズ ス会、キ リ シ タ ンらによって、

中世では日本人も膨大な人数の

奴隷被害を受けていたことを伝えた。

更には、別記事から知ったのだが、

中世東南アジアでの欧州勢の奴隷支配によって、

独裁的不均衡貿易が常態化しており、

マ ニラ・マ カオへ日本兵約三千人を派遣せざるを得ない

ス ペイン・ポ ルトガル・オ ランダらとの紛争などもあって

当時日本は国防として、交易・国交を縮小するに至った、

それが鎖国的な極縮小外交政策であったことを

日本史では決して伝えない。

 

約270年間、外交を極限まで縮小し続けたお陰で、

江 戸社会に生きる庶民が幸福感を持っていたという真実。

 

その史実から読み解けるのは、 明治維新を機に、

再びイ エズス会を中心とした偽ユダ勢力が、装いを変え、

カ ルマ的なもの(因果応報・罪悪感)が発生するような

露骨な暴力の奴隷支配ではなく、いわゆる国際金融家らは、

経済侵略、マ ス汚染脳による支配、暗黙かつ長期的かつ抜かりない計画の上に、

表面では合法的に、

真の目的は〝資産強奪・国家破壊・民族抹殺〟として乗り込んできたのが、

明治政府の樹立であった、と。

現代日本を多面的に観察すれば、

それが、露骨に浮き彫りになっているのではないか。

 


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日 本 銀 行 や イ ンフ ラ 整 備(水 道・電 力・鉄 道・郵 政・産 業 株 式 化など)の

半ば強制指導の支援(欧州技術者多数の召喚)と、

(戦後から現代ならば、偽ユダ設立のI M Fや世 界 銀 行、
他国家を借金漬けや問題漬けにし、

国 連・W H ●や赤+字、ユ 二セ フ・ユ ネス コ・脳減賞のように

マ スコミやC Mイメージ・欧州的尊大な権威圧力による問題の喧伝増幅を軸にして、

他国家の政治経済民意・医療や慈善事業や文化などを偽ユダ勢が、

政治侵食・政治家投入する手法と明治 政府と欧 州勢の関係は酷似している。)、

軍事につながる産業の輸出入を爆増させ、

日 清 日 露、大 東  亜(太平洋)大 戦さえも画策をセットにされていた。

 


偽ユダ勢に軍 事 産 業を中心に、

国益・国力が間接的に吸い取られる〝寄 生 虫〟という

実態を見抜くことなく、当時の明治日本政治家や経済人は、

経済を右肩上がりにする政治的な競争社会が

世界の常識・是であるかのように刷り込まれた。

(この辺りが、現代の既得権益者の発端であろう。)


(かつ、偽ユ ダ勢による他国の王朝崩落の残党ら権威を流用するという、
巧妙過ぎる手法も政変や軍事戦略の底流にある。
〜フ ランス革 命やロ シア革 命、

 文 化大革 命やベル リンの壁崩壊などもすべて偽 ユダ裏 工作による茶番〜)

 

その偽ユ ダのための軍事であり、国防が茶番劇になるよう偽 ユダは

国家や文化、大衆思想に、〝事 前に〟標的の各 国 家・両 国 家に

隠 密に 工 作・侵 食・侵 入 してくるのが、

有史以来の実態なのである。

 

(同じパターンであり同じ騙し打ち・ペ テンに引っかかっているのである。

道 徳 観、倫 理 観や宗 教 観 が、それを覆い隠すのである。

 

〝愛する、とか、信じるとか許すとか。

頭脳明晰の優秀さやら、

運がいいとか波動が高いやら、

金持ち・成功者とか、センスが良いとか〟

 

 どこぞの神かは知らないが・・・

神に選ばれし者擬きの大衆基準の分断が、

集合無意識の憧憬を増幅させ、マスゴミメディアの制御による、

薄っぺらな見せ方の価値観が主流となってしまった。

 _見える世界での優位性。

〝印  刷 や 映  像 画 像 などのマ ス情報〟によって。)

巧妙の極みとしか言いようがない____。

 

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全大陸の中 世キ リスト教 布 教と奴 隷支 配、強 奪 強 姦 破 壊 の体と、
関ヶ原の合戦でキ リ シタン大名が東西軍に潜り込んでいる
それが、雛形で、彼ら子弟らはそのパターンを複雑化して
現代に使っている訳で。
現代でも似たパ タ ーン、同じ手法が続いているのである。


まずは、一般大衆が真相を知らなければ、同じことが繰り返され、
次第に地球の人類社会は、偽ユダ支配のもと奴ら以外は劣化し続け、
現在の地球人大衆は戦争や人工天変地異やこれから先の、UFOがらみの
エセ宇宙人(本当は元 ユ ダ)攻撃などで、

悲惨な形で、偽ユ ダ以外が用済みにされる。


その果てに地球上の_ユ 一 トピアを謳う

偽 ユ ダ 選民〝救済〟思想のための旧約聖書


現地球人をあの手この手で「霊魂の動向」をも加味して排除を目論み、

元ユダが帰還するだろうことを
K氏講演より聞くも、一般論からすれば、笑い話として
一蹴される妄想談である。

 

(現代ではK氏説は仮説に過ぎないが)


この説をもとに史実として私は捉えている。
それを狂気的なファンタジーとする人ばかりだから、
折角の?死亡体験K氏による最も重要な説が、

プロパガンダ仮説と同様の域に埋没してしまう、と思うのである。

 

 

表側の世相をマ スコミで操作する。
日本人、国民自らの意志のように

政治・経済・思想思考(宗教・教育)を
操作すべく、新聞や雑誌・書籍などの印刷物は、

可視できない毒ガスの如く標的の国、一般社会に侵入し
(偽善的かつ建前の)民主と権力監視を掲げ、

情報網メ ディアとして明治時代からマ スコ三が君臨する約150年。


また、欧州貴族が完全支配者を主張すべく、

他国の超権力を制御する意図で、

天 皇 に勲章を押し付ける(奴らの建前は授与)形で

国家として属国の位置付けを偽ユダらが演出した。

 

キ リシタン子孫や下層武士・下層公家・在日人らが意識的か無意識かは

人物によって違うと思うが、ペ テンに騙されるようにして売国奴と化し、

現代日本に至ったと言える。

明治以降、政治経済マ スコミや教育などの日本を破壊するため、
それを大衆に気付かせない、

西洋礼賛、明治礼賛、貨幣礼賛、権威権力礼賛、

無能力化のための便利礼賛のプ ロパガンダがひたすら続いている。

 

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現代日本人が食べる分量の多さや好き嫌いで、

食べ物を残すことへの罪の意識。

 

と、ここまで書き、話は逸れてしまい

長くなったので、また改めて。      m(_ _)m

 

 

 

***

自然に学ぶ。

 

 

西洋的〝愛〟は、マネー・金・貨幣(交換条件)が、あっての言説。
お金がある世界では、対称(表裏)のようにして、

愛という行動・感情に崇高さを見出し、
無償という形でアピールできる。犠牲というパフォーマンスになる。
つまり、英雄感(ヒロイズム)、自己顕示欲が満たされる。
そこに溺れて逝く、善人(偽善者)の有史以来(約2000年)の世界。。。
自己欺瞞が発生してきたのではないか。



(江戸社会までは、〝愛する〟という意味は、人形を愛する、壺を愛するという
執着心として使われていた。
「慈悲心」をLOVEと訳して、愛という翻訳が成立し、
現代で多用する造語ができた経緯がある。(杉浦日向子著を参照)



言葉について揚げ足取りをしたいのではない。
だが、ユダキリ教による作為的な解釈が、明治以降行続く「愛」という単語の、
言霊としてワタシは違和感があるので、
その感知を整理したくなって、常々このように考えている。)




だからこそ、これからはそうじゃない。

無為自然から私たちは真に「無償さ」を学び、

自然循環を学ぶこと。

体現・体得していく。

内なる自然に気付く。

自然回帰。




「情け」は人の為ならず。

情とは、心青し。

地球である。




己の生き様が、いつか何処からか…、
「糞か。実か。」を受け取るまでに至る時間の経緯という事実。
三次元の実相。

相反して、
損得・欲望が、客観・観察を疎かにしてしまう虚の人工世界。



植物を中心とした自然が、

地球の、人間の、

同源・動源。

宇宙摂理の入り口に、未だ、立ち往生しているワレワレではないか。



と、そんな風に思う。