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ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。脱出!」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

白髪

 

 

中年後半になったワタシだが、

日常で、ちょっとしたことで知らなかった、という

ことが、時々あることのひとつ。

 

1月に美容院に行った時、白髪染めの話になって、

美容師さんに「白髪染めはしないですか?」と聞かれた。

「白髪は結構ありますけど、たまにヘナで染めますが、

まめにはできないですね。化学染料は使いたくないし…。」

と、応えた。

 

「一度、化学染料で髪を染めた人が、ヘナを使うと

赤茶けたような、あまり綺麗な色に染まらないんですよ。

お客さんは化学染料の白髪染めを使っていないから、

赤茶けた色にならないですね。」と言われ、納得した。

 

ヘナで染めると赤茶けた色に、皆なるんだと思っていたから、

あの色にワタシの髪はいつなるんだろう?と怖々思っていた。

が、染めた時の色が徐々に薄くなっていくだけで変色はなく、

いつも不思議だった。

 

未だに化学染料の白髪染めは使ったことが

無かったので、美容師さんとの何気ない会話で

やっと訳が分かった。

 

 

化学染料のヘアカラーの毒性も、健康被害や環境問題へ繋がっている。

たまに、ヘナを使うか、次第に増えていく白髪も

楽しめばいいかな…と。

 

体調や精神状態が良い時は白髪も減る気がする。

寝不足や体調を壊す、心配事があると一気に白髪が増える。

髪も心身の状態を知る内なるバロメーター。

白髪を真っ黒に染めてしまうと、次はいつ染めようか…と、

生え際ばかり気するだけで、体調管理には役立たない。

 

 

ともあれ、白髪をあまり気にしない、

そのうち似合うようになれたら、と思う。

マスゴミがバラまく若者世代の流行やカルチャーが席巻し、

もてはやされ過ぎ、それに引きずられるような

日本社会の風潮への疑問と、ささやかな抵抗だ。

 

 

若者礼賛を基準にし見栄えばかりに拘った美容は、

身体を傷め、環境を汚し醜くする…。

 

元来、老成し風格のある大人、老人には、

白髪は似合うと感じる。

(自身がそうなれるかは、カナリ疑問デスガ。)

 

 

日本の大衆文化が、戦後からだろうか。

低年齢層向けで、陳腐にさせられているのは、

やっぱり、企業&マスゴミ…ヤツラの作戦ダナ。(遺憾ダ)

 

 

 と、言ってもあらゆる「事象・事柄」は自分都合の解決などしないもの。

その諦念から、見方を変える、受入れる、適当さみたいなところに、

拘りという執着心からではない、

アイディンティ(自己の一貫性)のようなものが

発生するもんダ、たぶん…。

 

場当たり的な化学染料の白髪染めも、

それを阻んでいるってなことカナ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日々の小さなありがとう…の、積み重ね。

 

 

目標を達成し結果を評価される、

才能を磨いて世間に賞賛される、

地位名誉を得て社会で尊敬・羨望を集める、

幸福感は、確かにあるだろうけれども…。

 

 

毎日、誰かとの何気ないやり取りの中で、

「ありがとう」を伝える相手の喜びや、

誰かに「ありがとう」と言われて、

こちらも、温かい気持ちになる。

 

そんな日々のお互いさまの積み重ねに、

満足できる自身でいたいなぁ、と思うこの頃。

 

 

 

何だか道徳の教科書みたいなんですけど。。。(〜〜;)

美的感覚を満足させるのには・・・

 

ヘアーインディアンのことについて

先述の抜粋から…。

 

(温かい文章を引用しても、ワタシの言葉は

 刺ばかりの多弁で恐縮…汗)

 

 

 

***************************

「子どもの文化人類学」原ひろ子著(晶文社) より

***************************

 31頁より

機械といったものがほとんどなく、道具も最小限の品で生産し、消費し、

楽しみ、美的感覚を満足させている彼らは、文字どおり、“からだ”そのものを

使って生活しているのですから、からだとつきあうすべてを心得ているのも

無理からぬことでしょう。

***************************

 

 

生活の道具を作ることが、すなわち美的感覚を満足させていると、

思えば、ごく当たり前の本質だけれども。

(偽)現代文明社会のワレワレはもう、忘れかけている。

 

草木生物その命を絶って、地上の自然から幾ばくか

頂戴する素材で、自身の知恵や技術を使い

無から有を生み出す。絶つ痛みを感じつつ、作る歓び。

美的感覚の発露は、元来、自然の普遍な造形への畏敬と、

自然の一部である身体感覚が生活で育まれる中での、

精神活動の結実…なのだろう。

 

 ******

 

(偽)現代文明社会を見ると、生活で体を使って

「痛みを内包した…作る」という仕事が、

他人任せとなり減っていく程に、

人間が堕落しているように思う。

知恵を失い阿呆になるのだなぁ、と。

 

人生から「創造」という、人が人である所以の

必須項目を排除させ、カネで調達・消費を促し、

便利の偽解決、快適の偽満足。

人間の精神が物化に向かっている気がする。

手仕事があった時代の、温かい日本の人柄、人の良さは、

どこかへ行ってしまった。

 

 ****** 

 

多国籍企業の運営する森林破壊後の巨大農場や地下採掘で、

過酷労働者によって産出された原料は、

工場のハイテク機器の動作を駆使し、

機械が数多の物品を大量に作ってくれ、

商社・流通を経て、いち個人は、

人工社会労働の奇々怪々”の苦悩の対価で得た

カネ”を払えば、何でもかんでも、手に入る。

みんなと同じ物が。

 

 

生活で身体・知恵をできるだけ使わず、

便利・快適を追う自然を排除する社会で、

本質の美的感覚・美意識…延いては良心は、育たない…。

選択の自由と称する、単なる組合わせに過ぎない。

コーディネートレベルで、作っているという錯覚。

ごく 一部の企業人間だけ頭脳労働を振り絞る。

 

ルーツやアイディンティの無い、根拠の無い、味も情緒もない、

軽薄で冷たいデザイン、造形。

花だ熊だ兎…、模様を配したデザイン、

絵本やアニメ、キャラクター、商品に自然物が登場し夢はくれても、

野生の熊や兎、野の花、造形が、表現者らに実感は無かろう。

直線前提の造作は、人工・工業的ご都合でしかない。

 

想像力を駆使しても、何か』…が、足りない。

(偽文明の消費経済で破壊している

自然をモチーフにする矛盾。目逸らしの汚染脳)

 

 

商品を手にした消費者が、

オシャレ、カワイイ、タノシイ、キレイ、カッコイイ、ウマイと

言っている対象もその反応も、

記号だ。

(実体のない虚のシンボル・作為の共有認識)

 

消費者の脳に「快感」(←洗脳研究のツボ)を

伴って記憶されたメディアからの偽原型イメージ(ネズミィー的戦略)が、

広告戦略でしつこく流布され、流行とさせる。

企業デザイナー・クリエーターらも、消費者も、

仮想記憶の反芻だ。(コピペ状態)

幻影のキャッチボール

 

 

虚栄ファッション、陳腐建築インテリア、捏造ドラマ、

粗雑日用品、偽工業食品…。

あっという間に、飽きて忘却、ゴミと化す。

 

  

経営戦略でブランド”化した、他者が本物と銘打った

(苦労話や美談がほんの少しだけある)物を

ブランド”と仰々しく演出し看板を掲げたがる。

鬱屈した優越感を味わうことを美と倒錯する、汚染脳。

生産者も消費者も、“ブランド”ごっこ・選民意識に、余念がなく。

そこに群がる、卑しき醜態。

 

 

 

企業人間が労働に心血注いでも利益追求の上は、

社会荒廃のベクトル。

コンピュータ波及も加勢し、カネありきの

偽現代文明社会に、本質の美は無かろう。

 

「自然との対話・身体の実感・生活の精神性」、

「心」「命」が宿っていない偽現代文明の“物”。

 

  

のイメージ操作や虚飾幻想レッテルの価値観。

特にブランド信奉者の西洋・欧州礼賛たるや、甚だしい。

明治から今日、自尊心を失った、いや失わされた現代日本人。

 

嘆かわしきは、陳腐な偽美的感覚(記号汚染脳)を

満足させるための生産物に

漏れなく、〜自然破壊〜付いてくる。

 

 

 

マスゴミや企業より、ネット影響だろう

個人の動向の変化が速くなり、

少し良い兆しも、ある気がしなくもない…。

 

ともあれ、 ヘアーインディアン彼らのように

カネの存在しなかった、対価の概念を必要としない、

美意識へ向かう社会を想像する。

 

 

 

 

普遍の知恵と一過の知識。

 

 

比較しないこと、と思うのだけれど。

己を知る、内省に用いることも少しはあるか、と言い訳しつつ。 

 

 

 

ヘアーインディアンのヘアーとはウサギのことなのだそうだ。

余談。

 

 

さて、 先述の一節を一年程前に、家人に読んでもらった時。

地球に人が暮らし続ける深い知恵に、心を揺さぶられた。

 

人間が生活するために、地球を利用・搾取することではなく、

地球の一部に人も存在している「大いなる仲間」を自覚している、

ヘアーインディアンたちの偉大さを改めて思う。

 

現代人の生活が如何に傲慢で我儘か。

現代人の宗教や倫理観や科学技術や文化文明の…、

軽薄さを感じてしまう

 

 

狩りのために犬の食糧を優先する人たち。

ペットのように従属させるのではない。

家畜のように人間が食べる目的でもない。

他生物同士はお互いの能力を提供し合って「生き抜く」。

自身が命を繋ぐのには、他生物と互いに平等であることを

食をもってして、わきまえている人たち。

地球の掟を体得している。

 

野生動物を狩猟して、その命を頂く食の神聖。

腹が減ること、飢えることを恐れる、文明を標榜する現代人。

その落差。

 

(偽)文明しか知らない私たち現代人はカネで食糧を得ることに

疑問は無く、当たり前”だ、と思っているからこそ、

飢餓が恐しいのだ、と。

一応生物であるワレワレは、他人任せの食糧調達が危ういことを

無意識には感じるからでもあろう。

かつ、教育体制の中の歴史で、メディアビジュアルで、

貧困のステレオタイプ的イメージが頭から離れない汚染脳。 

 

ヘアーインディアンの生き様から想う。

飢える、ことと飢餓は、違うのだ、と。

 

飢餓への恐れは奪い合う、

醜さ、餓鬼を想像させる。

有史に書き込まれている戦いは、

餓鬼同士の争奪戦でもあったから。

文明人と標榜する我々自身の中の醜さから目を逸らすが、故に。

 

 

ヘアーインディアンの人たちは、飢えることは恐怖ではない。

暮らしの中で行事のように受け入れ、

互いが平等に分かち合う。

飢える行事の中で更に、肉体と精神を知る、

崇高な精神を自身の中で深めていく。

きっと、飢えるとは植えるへ繋がる、人の知恵なのだ。

 

(偽)現代文明側の人間には、その気高く繊細な精神性が、

分かることはないだろう。偽食を飽食することが幸福・幸運なのだから。

加えて偽食世界で本物を志向する

極みの卑しさを「セレブ」ごっこに視る。

 

エスキモーの人たちと、時に争奪もあるというが、

(偽)現代文明側の醜悪な独占とは異なろう。

 

すべての大陸で繰り返されているキリスト教徒らによる

宗教の強要が、無念でならない。

 

大地と暮らしている人々を迫害した後、キリスト教者が救済した

だのの美談ばかりが、(偽)現代文明側で、

一人歩きしていることに呆然としてしまう。

 

正に、大地を生きる人々の精神性や生きる知恵を

地球から失ってしまうことは、

この星の哀しみのように想う。

 

現代人は全て外側の世界に翻弄され他人任せ。

果ては、健康の美容の不老の為に、

断食と称し自己の健康維持に活用しご満悦。ワタシもデス(汗)。

死ぬまで自身のことを分からぬまま。

卑近で凡庸な(偽)現代文明の我々。 

 

 

 

笑いというものは逆境の時の心の支え合いの発露でもあり、

優しさ思いやりであることを

昔の日本人たちの慎ましやかな暮らしの中にも

ほのぼのとした笑いがあったことを彷彿とさせる。が、

 

ヘアーインディアンの人々は身体の状況に合わせて、

笑いのトーンをも、自ずと変わる。

品性とは、こういうことなんだ…、と気付かされる。

 

昨今の(偽)現代文明はどこもかしこも、嘲笑であり、

ひん違いの「貧」であることに、気が付きもしなくなっている。

 

 

 

中世の人体解剖図を欧州人の功績として

日本人も周知しているけれども。

日々の中で、動物の命を頂く時に、内臓を知り、

自身と変わらない他生物の肉体の内的宇宙を知ることのセンス。

どちらが、まともな好奇心なのだろうか、と。

 

 

 

自然の中で河や湖の刻々と変化する水、氷の様子を

見て直感的に感じて、命に関わるからこそ、

真剣に想像し嗅ぎ分けている人々。

 

工業製品の精密機器で計測して分析して、記録し…。

何年もかかってやっと自然のひとコマの現象を証明し、

どこだかの賞賛を浴びんとする…(偽)現代文明側の人間。

悠久の自然の中で結局、何になるのであろうか…。

 

一瞬一瞬違う、すべてが流転する

自然を確率として理解し、しばらくは知識になっても

年月を経れば、やがて、どうでもいいデータになろう。

知恵にはなり得ない。

 

大地と暮らす「普遍の知恵」と 偽文明「一過の知識」を…

思い知る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プチ断食 追記2

 

 

 

家人から勧められ

心が揺さぶられた…本の一節。

少し長いが転載を。

 

 

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「子どもの文化人類学」原ひろ子著(晶文社

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26〜31頁より)

 

もうひとつ、“飢え”によっても、肉体と心を統合した

“自分”を知ることができるのだと、ヘアーインディアンはいいます。

 

 十月になって、河や湖が凍りはじめるという氷結期に入ると、

水中に張ってあった魚網をひきあげ、河や湖を舟で渡ることをさしひかえます。

いったん薄氷ができても、暖かい日が訪れるととけてしまうので、氷結は

一進一退をくりかえしながら、だんだん厚さを増してゆきます。そして氷の

厚さが一メートルぐらいになると、その上を荷物をのせた犬ぞりに、

人が数人ついて歩いても安心だという状態になります。

このような結氷期、一ヶ月前後を要します。ヘアーインディアンの住地は、

多くの湖と、無数の河川におおわれています。河川は、夏は舟、冬は犬ぞり

通路となり、湖はいわば巨大なロータリーとなるのです。

 しかし、湖や河川が多いので、凍らないときには陸づたいに移動できる範囲が

非常に限られてしまいます。ひとつのキャンプ地でまかなえる食糧源がすぐ

枯渇するので、ヘアーインディアンは、キャンプを常に移動して生活するのですが、

氷期にはその自由がなくなります。同様に、五月前後の解氷期にも舟が出せず、

犬ぞりも使えず、魚網も張れない状態が一ヶ月ぐらい続きます。

犬ぞりをひく犬の食糧をけずりすぎると「いざ、移動だ」、「いざカリブ狩だ」

といったときに犬が動けません。ですから、食物が不足してくると、

人の方が我慢するわけです。

 

 たとえば、人の食糧としてウサギ一羽分しかないとき、それを鍋に入れて

水煮にします。生後一年以内の赤ん坊がいるときには、その子の必要量を

確保し、次に、これから狩りに出る二人の男たちにウサギの後ろ足を

一本ずつ食べてもらいます。残りの人間は、スープをすすり、肉は一口だけ

食べて、テントの中で寝袋に入ったまま、ゴロゴロしているのです。

 いつもなら、夜を徹してでも昔話や世間話にうち興じ、冗談を連発して

にぎやかに過ごすことの得意な人たちですが、食糧の枯渇しているときには、

口数も少なくなり、静かに、狩に出た男の帰りを待ちます。でも、ただ

だまっていると、気が滅入りすぎるというわけで、ときおりだれかが

軽い冗談をとばします。すると、皆はクスクス笑って気分をかえるのです。

大笑いするとますますお腹がすくので、クスクス笑うのです

 

 子どもたちも、おとなと同じように飢えをしのびます。

お腹がペコペコでなにか食べたいという感じから、胃がひきしまっていく

ような気分にかわり、そのうちに全身の力が次第に抜けていき、腸の動きも

不活発になります。目はくぼみ、肌のつやも消えて、ねむたいような

ねむれないような気分になっていきます。

 でも、ねむってしまって、火の気を絶やしたら、お腹がすいているだけに

凍死しかねません。ですから、テントでゴロゴロしている人たちは、交代で

薪を割り、ストーブにくべていくのです。

 子どもたちも、テントの外に積んである薪をストーブの脇まで運び込んだり、

点火用のつけ木をこまかく割ったり、いろいろな仕事を分担します。そして

用事が終わると、また寝袋にころがり込んで、狩に出た人が何か獲物をもって

帰るのを、二日でも三日でも待つのです。

 

 こういったことは、結氷期と解氷期に限ったことではありません。夏でも、

そしてとくに冬には、二十四時間から四十八時間ぐらいの間、うすいスープしか

口に入らないことがあります。

 しかし、農村地帯の飢饉とちがって、狩猟民のヘアー・インディアンの場合には、

今日か、明日か、一週間後には、なにか食べ物がみつかるという

希望が常にあります。

 また、獲物を解体するときには内臓まで細かく観察している体験から人間の

からだの内部を類推して、飢えの時期には、内臓の機能などをあれこれと

考えながら、自分のからだに生じる変化をよみとります。

 そのほかに、長く歩くと、どこの筋肉がどういうふうに疲れるかとか、

重い荷物を背負うコツとか、水はどんなペースで飲むといいとかとか

自分のからだのいろいろな部分と常に問答をくり返しています。

 

 機械といったものがほとんどなく、道具も最小限の品で生産し、消費し、

楽しみ、美的感覚を満足させている彼らは、文字どおり、“からだ”そのものを

使って生活しているのですから、からだとつきあうすべてを心得ているのも

無理からぬことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

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プチ断食 追記1

 

 

書き忘れたことのひとつに。

 

…食糧が無くて食べられないこと。

飢餓。

 

…食糧があっても食べないこと。

断食。  (意志?意図?)。

 

その違いを思った。

 

 

 

 

 

近年の食に関する経緯に思いを馳せると、

第二次世界大戦の前後

(幕府開国後の国際金融家資金提供]の

戦争漬け社会 ‘それ以前の内戦も含め’ 

日清・日露・太平洋戦争の前後期)、

日本人は紆余曲折で食糧が不足して

食うに困る時代(農耕混乱期)だった。

 

 

〜明治大正昭和初期

「食べる」こと、その根源を自覚せざるを得ない世代。

(生理的欲に翻弄された)

 

 

〜昭和後期平成

GHQによって日本の農耕社会を破壊。

多国籍企業が食を牛耳る下準備期)

 

「食べる」ことの雑多かつ微小な選択肢に翻弄され、

己のみの美容と健康に執着する、

生理的欲に翻弄された次世代の反動。

(飽食と旨いことに執着する、グルメ病〜世相)

 

その振り子現象。

 

 

 

 

「食べる」ことが、

常に可能

(金銭礼賛の威力で海外に大きく依存可能)

農業食糧のマスゴミ&企業&行政支配の汚染脳

ある故に、

飽食から来る混乱が、

現代社会(約70年間)の薄っぺらな、偽食・偽美容健康の情報社会を

形作っている(企業・行政・マスゴミの付け入る隙=“汚染脳”)

ことを思う。

 

 

食べ物が今ここに有る無しについての…、

悠久の時間。

 

それは、農耕の食‘糧’獲得‘法’】と【狩猟採集の食獲得”との違いを

考察するきっかけにもなる。

(どちらが正解でもない、と。)

 

 

************

 

 

更に加えるなら、植物や動物、人間の可視できない生物(微生物)たちと、

土・水・空気・光…の巧みな自然循環と人類との関係性を

今一度、改めて意識することだろうなぁ…と。

 

 

 

 

(長い年月、北アメリカに暮らして来たインディアンの食についての言葉は

次項に記すつもり…。深淵だった。)

 

 

ともあれ、断食モドキを試行する時。

カネが潤沢にある時と、

カネがカツカツの時とで、

 

食確保の「心情・心象」、その安心と欲望が、

違ってくるように思うのが、

滑稽(可笑しくてどこか哀しく侘しい)で…。

 

現代人(己のこと)の性って何だかな〜…ってな

ことを思う。(苦笑)

 

 

カネによって、食を得る事の

虚無を感じた次第。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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プチ断食

  

 

ちょっと断食もどきをやってみた。

人参ジュースや葉物ジュース(生野菜からの汁)を

食事代わりに飲む。

 

(ちなみに企業製造の野菜や果物のジュースは濃縮還元で水分とほぼ糖分だけ。

飲んでも栄養が無いので、生からのジュースとは別物。

野菜や果物の代替として摂取しても栄養的に全く役に立たないので、

野菜や果物を食べたつもりになってしまう人が多いから…、要注意。)

 

 

 

少しだけ、果物も食べた。

朝昼夜と翌日昼食まで。

 

夕食を食べないことは少しハードルが高かった。

その代わり、匂いに敏感になったり、

毎日当然のように食べられることに、

感謝が湧いてきたり。

今そこにある食材へ神聖な気持ちになったり。

美味しいと感じて食べていたかを

省みることができたような…。

 

今日の夕食は何を作ろうと迷う時は、自分の

お腹が空いていなかったんだな、と

当たり前のことに気付かされたり。

 

日々生活のリズムの中では、

食事は「ハレ」の時間なんだなぁとも思った。

空気のように、食糧も無意識になっていることに

改めて気付かされた。怖いことかも…。

 

そういえば、いつもよりやる気が出た気もする。

たった一日位でわかったようなことを

書くのも憚られるけど…。たぶん、

食の確保如何は、生理的欲と精神的欲が繋がっているんだな。

 

だから、日本人が常に食べられる環境があり、

汚染脳も加勢しての食べ過ぎ生活は、

精神的欲 (本心・本音) と、

根源的な生理的欲 (本能) の振幅が少なくなって、

自身の心と欲のことが解らなくなり混乱している

側面があるんだろう、

…ってなことを思った。

 

 

時々、慣行しようかなと思う。

 

 

 

 

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