ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

人間関係について__(1)


人間関係についての正解や結論を当方に書けるはずもなく。w

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グローバリズムが台頭し、席巻してしまったこの21世紀とは異なり、
急速にナショナリズムが排他されていく時代の、
20世紀中頃まで。

現代物質文明に、当時まだ侵されてはいなかった、
自然界で先祖代々生きて来た、わずかに残っていた狩猟採集民。
その暮らしを1960年代に取材し執筆された書籍には、
現代物質社会の人間関係について、別の角度で考えさせられることが
記されているように思った。

人類の生き方、暮らし方が自然界と関わるのに多岐多様であることは、
地球の自然摂理にとって、大切なこと、と私は感じている。


近代以降のマスメディアが画像映像言論で、
地球の様相を伝えるのは、物質文明の正当化や弁解のようだ。


未開、未発達、原始的だとかのイメージ付けで、
物質礼賛社会の人間が、偽の自己肯定感のために、
本来の地球の摂理に暮らして来た人々を蔑む対象にしてきたと言える。

自然界の中にいる人類の姿は、21世紀になって、とことんかき消されている。
いやさらに、哀しき経済効率に組み込まれてしまってもいるだろう。

各地域の世界遺産という、奴らのための史実改竄や抹消のための認定基準。
その旗印のもと、民族的な地域、人々、文化は、リニューアルよろしく、
観光資源に利用され、形骸化。土産用、見世物と化している。

人工社会が極まっている今。
自然界で生きてきた人類の生き様は、人工社会で過ごす人間に、
本質的な気付きをもたらすかもしれない人々。


偽ユダ悪意を見抜けず、観光資源に群がる大衆の旅行は、
皮肉な言い方だが、物質礼賛社会の自慰行為ではないのだろうか。

ついボヤキになってしまう。
前置きはこれくらいにして。
人間関係について、別の角度で考えるのに、
少しは役立つかもしれない気がしたので、
下記に書籍の一部を抜粋転載した。

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「子どもの文化人類学」原ひろ子著  59〜65頁

 ヘアー・インディアンは、おとなの男と女の対と、その子どもたち二、三人で一つのテントにキャンプしています。そのテントのまわりのけものや魚やたきぎをだいたいとりつくしてしまうと、ちがうキャンプ地へと移動して、新しくキャンプをはります。
 
 一つのキャンプ地には二つのテントがあることもあり、四つから六つのテントがあることもあります。しかし、いくつかのテントがグループをつくってずっと一緒に移動しているわけではありません。たとえば八月十日現在に、甲の地点でA、B、Cの三つのテントがあるとすると、八月十五日にはBがよそへ出て行き、翌々日にはDのテントが入ってくる。八月二十日にはAのテントは乙の地点へ移動し、丙の地点からやって来たEのテントと並んでキャンプするといったぐあいです。ヘアー・インディアンの部族全体の人口が三百五十人。たったこれだけの人間が本州の半分くらいの面積の土地を、あちらこちらへと移動し暮らしているわけです。このような生活をしているので、子どもたちの立場からすると、隣のテントにいるあそび友だちがしょっちゅう変わってくる、ということになります。
 ヘアー族全体の中にゼロ歳以上十歳未満の子どもが、1962年で、男五十人、女五十四人いました。この約百人の子どもたちが、三十か所とか、ときにはそれ以上の数にのぼるキャンプ地に分散しているのです。さきほども書きましたように、ヘアー・インディアンは、一つのテントに子どもを二、三人まで置きますが、それ以上に生まれるとよその人に養子や里子のような形であずけます。また、子どもが成長してしまった人や、子どもの生まれない人たちは、養子として子どもを迎え入れたがります。ですから、ヘアー全体でテントの数が六十ぐらいあるとすると、その中の四十テントには子どもがいることになります。
 ところで、約百人の子どもたちの年齢はゼロ歳から十歳までという幅の広さです。一つのキャンプ地に四、五人の子どもがいるような場合でも、その年齢はさまざま。四、五人で群れをなしてあそぶ姿はめったに見られません。年齢の違う子どもたちが、ときおり、いっしょに何かしていることもありますが、十五分もすると、大きい方はつまらなくなって、一人あそびをはじめてしまいます。すると小さい方も、何やら一人であそびはじめます。ですから、キャンプ地に、子どもが数人いても、それぞれが一人あそびをしている時間がかなり長くなります。
 ヘアー・インディアンの子どもたちとて、やはり年齢が近く、体力や精神的な発達度が似かよった子どもが同じキャンプにいて、しかもそれが何か気が合う相手だったりすると、子どもたちは、食欲も増し、きげんもよくなり、瞳はいきいきと輝き、肌もつやつやとしてきます。
その姿をまわりで見ているおとなたちも、「ちょうど良いんだなあ」と、1日のうちに何回も話題にしています。「子どもにとって気の合うあそび友だちといっしょにあそべるというのはすばらしいことなんだ」ということを、おとなたちは、よく知っているのです。

 でも、だからといって、子どものあそび仲間がいるキャンプ地へ、移動するようにしようなどと考えてやることはありません。キャンプの移動に際しては、男のおとなにとって気が合う狩猟仲間がいるかどうかということが大事なことなのです。それから、女のおとなにとっては、男が狩りに出て女たちだけでキャンプを守るときに、気が合う女のキャンプ仲間がいるかどうかということが大事なことなのです。この二つの条件が一度に満たされれば彼らはこの上ないしあわせと感じるくらいで、たいていは、どちらか一方が思う通りにいかずにがまんしているのです。それに加えて、子どもどうしが気が合う遊び仲間かどうか、などという条件を加えている余裕はないというのがヘアー・インディアンのいい分かもしれません。



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