ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

人間関係について__(2)

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「子どもの文化人類学」原ひろ子著  63〜65頁


 キャンプ地で、子どもたちが気が合って生きいきとした毎日を送っているし、その付近には動物も豊富で毛皮もたくさんとれ、魚もおいしく、あと十日ぐらいの食糧は絶対に枯渇しないことがだれの目にも明らかなときに、突然、一方の子どもの親が、「今日の午後、キャンプを移動しよう」と朝のうちに決め、昼間のうちにテントをたたんで、次のキャンプ地に行くことがあります。それは、おとなのキャンプ仲間の人間関係が、何か気まずくなったようなときです。そんなときに、「子どもたちがせっかく楽しそうにしているのだから、おとなどうしの気まずさは、この際しばらくがまんしよう」などとは考えてくれません。
 彼らは子どものときから、けんかをするとおそろしいものにおそわれるといってしつけられます。しかも、いかにして人に「ノー」を表現すればよいかを教えられないのです。また、「私はこれこれのところで妥協しているのですから、あなたも、まあまあのところで折り合ってくださいよ」ということを、言葉とか態度で示す生活の知恵がヘアー文化にはないのです。そのせいかどうか、人間関係についてのがまんが、すぐに限界にきてしまいます。飢えや寒さや不眠について、とほうもなくがまん強いヘアー・インディアンですが、人との関係でちょっといやなことがあると、もうその相手の顔を見るのもいやになり、テントを移動して、相手から離れる以外に解決法がないのです。しかも、キャンプ地を離れるときに捨てセリフをはいて出るなどということをしないばかりか、「あちらのキャンプ地でつれあいの母親が来てくれといっているから」などと、さしさわりのない理由を見つけて、今のキャンプ仲間に別れを告げるのです。こういうふうにして人間関係の摩擦を解消することが、ヘアー・インディアンの個人個人の精神衛生のうえにとても大切なことのようです。「イヤな奴」の顔を見て心の中でウジウジとした気持ちをこめていると、魚をとったり狩りをしたりする上の判断力なども狂ってしまうらしいのです。そうして、そのような心の状態でいると、悪霊にとりつかれやすくなるのだそうです。ですから、子どもの遊び仲間についての配慮などしている暇はありません。

 一方、子どもの方は、突如として、大好きな友だちに消えられてしまい、三、四歳児などはしばらく虚脱状態におちいることがあります。肌のつやが消え、目の力がなくなって、動作が緩慢になり、ピチピチとはねまわる姿が見られなくなってきます。食欲もすっかりおとろえてきます。
 四、五日もこんな状態が続くとおとなたちは、「急に友達が行ってしまったからなあ」といって、小犬とあそばせるようにしむけたりします。いつもはおとなだけで乗るさかなとりの小舟に乗せてみたり、近くの藪の中にたきつけ用の小枝をとりに行くのにつれ出して、気分を転換させるようにします。
 ヘアー・インディアンのおとなたちは、「子どもがこんな状態になったとき、テントのまわりだけであそばせておいてもだめなんだ。散歩させなければ」といいます。
 四、五歳の子どもたちならふだんは自分のねむいときにねむり、何か食べたくなったときに鍋の中から自分で肉や魚をとり出して食べ、テントのまわりで自由にあそぶ生活なのですが、こんな状態になった場合には、おとなが、こまかい配慮をして、キャンプ地のまわりの湖や河や林へと子どもを連れ出すのです。
 生気のなくなった子どもも、二日、三日と散歩しているうちに、元気をとりもどし、食欲が出てきます。湖や河の水を舟の上から手にすくい、魚網にかかった魚を見つめ、林の中のウサギの足あとや鳥の声におどろき、子どもの心は、発見の喜びに満たされていくようにさえ思えます。
 仲よしが急にいなくなる寂しさを、自然とつき合うことによっていやしながら、ついでに、狩猟採集民にとって不可欠の自然についての知識を学習するというわけです。もちろん、孤独にも強くなっていきます。子どものときからあそび仲間といかにして長期の群れを組むかという知恵を、身につける機会がほとんどないヘアー・インディアンは、おとなになってからも、集団で何かするということが極端に下手です。狩りのチームも長くて十日ぐらいしか持続しません。獲物がとれたらチームは解散です。