ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

人間関係について__(3)

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「子どもの文化人類学」原ひろ子著  66〜72頁


 ヘアー・インディアンは、「はたらく」ことと「あそぶ」ことと「やすむ」ことを、それぞれ区別しています。「はたらく」というのは、ムースやカリブやウサギを狩猟したり、魚をとったり、たきぎを伐り出したり、毛皮をなめしたりすることです。「あそぶ」というのは、同じキャンプ地にテントを張っている人たちが、ひとつのテントに集まっておしゃべりをしたり、「ウッジ」というヘアー式賭けごとをしたり、ポーカーをしたりすることです。そして「はたらいている」合間や「あそんでいる」合間に、彼らは「やすむ」のです。
 狩猟に出かける道すがら、前を歩いている人が、急に立ち止まることがあります。この地方の道は藪の中の一本道なので、何人かの人がいつも一列縦隊になって歩いているのですが、前の人が止まれば、こちらは前に進めません。でも「おい、どうした」とか、「止まらないでよ」などと後ろの人がいうことはありません。五秒間であれ、前の人が再び進みはじめるまで、じっと待っていてあげます。
 なぜなら、こうして一瞬立ち止まっている人は、「やすんでいる」からなのです。「やすんでいる」人は、彼自身の守護霊と交信しているのです。そして、守護霊の声、つまり彼自身の「内なる声」のようなものに耳をすましているのです。これは神聖な瞬間なのですから、その人の心の静寂に他の人がわりこんだりすることはできないのです。
 長時間眠って夢を見ているときも「やすんでいる」ときです。また目をあけて白昼夢を見ているときも「やすんでいる」ときです。それから、五秒とか三十秒くらいのほんの短い間、我を忘れてボーッとしているような人も、「やすんでいる」のです。しかも、いっしょに「はたらい」たり、「あそん」だりしている人たちが、「やすみ」の時間をいっせいにとることはありません。一人ひとりが、マイペースで「やすみ」をとるのです。
 ポーカーのつきが上向きになっている人が、急にテントのすみに行って、だまってゴロリと横になることがあります。それでも負けている相手は文句をいいません。そして、まわりで勝負を眺めながら冗談をいっていた数人の見物衆の中の一人が、勝負に入って行きます。テントのすみで「やすんで」いた人は、自分の守護霊との交信が終わると、見物衆の中に入ってヤジをとばしはじめるのです。そしてヘアー・インディアンの生活では「はたらく」こと、「あそぶ」こと、「やすむ」ことのうち、「やすむ」ことが、もっとも大切なこととされているのです。
 さて、「育児」という活動を、ヘアーの人びとは「はたらく」「あそぶ」「やすむ」の、どのカテゴリーに入れていると思われるでしょうか。なんと「あそぶ」ことの中に入っているのです。彼らは、「はたらく」ことと「あそぶ」ことを、生きていくうえで同等に重要不可欠な活動であると考えていますから、ヘアー語には、そしてヘアー・インディアンの心には、「あそび半分で何かをする」といったことは成り立ちません。ともあれヘアー族にとっても、「あそぶ」方が「はたらく」よりも楽しいことなのです。
 日本人は「子どもを育てるのは苦労だけれど楽しさもある」といってみたり、「あんなに苦労して育てたわが子なのに私から離れていって情けない」といってみたりします。そして「育児は大切な仕事だ」と考えているようです。近年では「育児は大変な負担だ」と感じている日本人も増えてきているとさえいわれています。日本人の中には、育児を「あそび」と考えるヘアー・インディアンのことを「ひとでなし」と考える人があるかもしれません。しかし、ヘアー・インディアンは、老若男女とわず、ほんとうに楽しんで子どもを育てています。
 これまでに書いてきましたように、ヘアー・インディアンは、子どもを気軽に養子に出したり、養子をもらったりします。そして自分の子どもたちの手がかからなくなると、人の赤ん坊をもらって育てるのが楽しみとなる人が多いのです。そして、自分が産んだ子であれ、もらった子であれ、大きな差別をしません。しつけをする責任を養育者がもっていないということが、育児を「楽しみ」とのみ受け取りうる背景となっているのかもしれないと私は思います。「ひとがひとに忠告したり、命令したりすることはできない」と考えているヘアー・インディアンは、赤ん坊に対してさえも、「一個の独立した人格」として接しています。しかもその子どもの運命や将来は、その子自身できりひらくものであって、育て方によってその子の将来が決まるのだといった考え方をしないのですから、気楽なものです。
 しかし、ヘアー・インディアンは、実に、一人ひとりの子どもをよく観察し、それぞれの子どものことをよく知っています。女だけが育児を担当しているのではありませんから、男たちも、そして、五、六歳の子どもたちも、赤ん坊や、自分より小さい者についてよく知っているのです。ですからあそばせ方もじょうずですし、危険を未然に防ぐことも心得ています。そのうえ、「あそんでやる」とか「子どもを危険から守ってやる」というふうにはあまり考えないのです。それよりも、「自分が子どもに楽しませてもらっている」という気持ちが強いようです。
 一人ひとりの子どもをよく観察し、それぞれの子どもを知ることによって、その子のすることや、成長するありさまを眺める楽しさが深まっているのかもしれません。大きい者たちは、小さい者たちのすることを眺めては、いろいろな冗談を生み出すタネにしています。十五歳ぐらいで一人前になるのですが、それまでは何かと、おとなから見てオカシクテタマラナイことを、子どもはしでかすからです。
 表現をかえるならば、ヘアー・インディアンは子どもたちの生態を観察することによって、人間について学んでいるのだともいえそうです。日本人の親の中には、「自分の子は、こうあってほしい」という願いが強いあまりに、かえって自分の子どものありのままの姿が見えなくなっている人があるといわれています。そういう意味では、子どもたちをあるがままに見ることの達人、ヘアー・インディアンに学ぶべきかもしれません。