ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

田舎と都会_3

 

 

 

亡祖父の伝えによると昔からうちは街中に暮らしてきたようで、母方の先祖も同様だ。

家族で地方へ旅行することはあったが、田舎には、近しい親戚縁者はおらず

自然豊かな環境での生活は、身近に知り得ることはなかった。

二十歳代半ばだったか。祖父母、両親と私は、祖母方祖祖父親戚の暮らす

田舎へ一度だけ行ったことがある。旅行先の帰途の最寄りだったので急遽のこと。

先方には迷惑だったと思うが、親切に迎えてくださった。

 

昔から農家を営む田舎の親戚と言えば、唯一その遠い親戚くらいしか

いなかった。遠縁にも関わらず、戦争中、戦後直後、祖父母らが

お世話になった流れで細々とだが、歳暮や中元のやりとりがあった。

義理堅く人の良い遠い親戚は、こちらがお世話になったにも関わらず、

先んじて、夏になると採れたてのとうもろこしを

冬は蜜いっぱいのりんごや良質な山芋をたくさん贈ってくださった。

街暮らししか知らない幼い私にも、欠かされることのない

季節毎の田舎の便りは、家族皆の思い出のひとつとして、

遠い親戚の温かい心遣いとともに、感謝は今も刻まれている。

 

 

子供の頃、夏休み前になると友人らが

「田舎のおばあちゃん家に行く」という言葉を耳にしては羨んだ。

きっとそこは緑豊かで、きれいな川で泳いだり、虫採りをしたり。

井戸水で冷やしたスイカを縁側でほおばったり。

田舎ならではの新鮮な野菜、素朴な食事。

蛙や虫の声だけが響く真っ暗な夜には、たくさんの星も見えるのだろう。

そんな環境に毎年、親戚のうちへ遊びに行ける人たちに

ステレオタイプの田舎を想像し憧れを抱いた。

 

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家族旅行の帰途で遠い親戚宅へ訪問し滞在したのは、数時間。

田舎の親戚での生活の機会は、相変わらず遠かった。

昼過ぎの束の間のひと時ではあったが、美味しい漬物や鮎料理を振舞ってくださり

ご馳走になった記憶だ。お茶うけになる漬物の味を知ったのも、この時であった。

 

遠い親戚のおじさんたちと祖父母との会話を横で聴きながら、

農業を営み自然の中で暮らしてきた人たちと、街で暮らす私たち家族の

違いを感じたりした。観察癖が性分か、すでに社会人になっていた私は、

親戚のおじさんの言葉少なくも語る時の、落ち着いた眼差しや

堅実な佇まいが記憶にある。対して、都会暮らしの人間の軽薄さ・傲慢さを

家族、自分にも感じるゆえ、遠い親戚にはどんなふうに

映るのだろうか、と思ったりした。

 

約七十年前の戦時下に、祖父はひとつのラジオを

食糧(米など)と交換してもらうため、

その遠い親戚を頼り訪ねた時の思い出話になった。

現代なら車で三時間くらいの地域だが、当時は、丸一日かかる鉄道事情だったと思う。

約四年間、国全体に食糧・物資がない状況下で、食糧は配給制

足りない食糧・物資を確保するのに、貨幣より、物々交換が必要な状況下である。

家庭にある金属製の鍋、貴金属さえ、庶民が国に供出した異常な時代。

ニ~三世代前の人たちの知るところだ。

 

さて、その思い出話の途中で、遠い親戚のおじさんは、重大な事実を言った。

なんと祖父が食糧と交換してもらうために持参した

「ラジオは壊れていて使えなかった」と。

戦後五十年の告白だったから、もう時効の笑い話になったけれど。

何という失態を祖父はやらかしたのか?!確信犯なら詐欺である。

ナントモ・・・。

戦争中か、戦後まもなくの告白なら、土下座して謝るべきところ。

長年それを言わずにいてくれた遠い親戚の懐の深さ、優しさ。更には贈り物まで。

何と愚かな、わが家系であろうか。忘れてはなられない恩のひとつ。

恥と苦笑のわが家族史か。もし逆の立場だったら

電報か手紙で苦情を伝えていたかもしれない。ワタシも含め、

そんな性質の家系である。