ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

田舎と都会___2

 

 

田舎をイナカと読む。

これ如何に。

この語源をワタシは知らない。

文字を見れば、田んぼと舎・家屋がある場所という解釈ができるものの、

イナカという音はどこから来たのだろうか。

取り敢えず田舎 - Wikipediaを調べてみる。

 

Wikipediaでは、現代日本ではほとんど使われない漢字「鄙(ひな)びた」の音が

元となっている、と解説されている。

「田舎」という表記は日本書紀万葉集からとのこと。

その他、検索で読ませて頂いたブログで

許可は頂いていないが、勝手ながら参考にリンクさせて頂いた。

https://ameblo.jp/chandan-neko/entry-12386761897.html

ヤフー知恵袋の回答の「稲家」(いなか)という説。

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q146332679

 

鄙びた〟説。

〝夷・暖〟説。

〝稲家〟説。

他にもあるだろうか。

 

 

都市、都会、都と対義語となる概念が、田舎である。

「田舎」は放送禁止用語とまではいかないが注意の語彙だとか。

 

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古代から続く“都”という場、そこには支配(権力)が中心にある。

その勃興を単純に想像してみると…。

少数で形成された民族集団が、他集団に対して、

食物、土地、水、あるいは、女性や子供をめぐって、収奪合戦が起きる。

暴力、武力で勝敗が決まった時、勝者が支配者となり、敗者集団を取込み

拡大し、やがて都という支配者が君臨する場が形作られていく。

そうした繰り返しの末に、王様と家来、貴族と奴隷の構図によって

支配者の生活圏が“都”となる。

現代の歴史教育、それにまつわる小説や映画から概観できるパターンだと思う。

 

翻って、最近の文化人類学なるテーマから、

稲作を中心とした日本の縄文時代の生活を紐解くと、

人間の集落で「平等、平和」を維持できるのは、

約200人という単位の集落という説を聞き、納得する。

 

 

平等、平和という倫理観によって、感情を左右されるのは、

本能なのか刷り込みなのか。

そうした個人の心理に巻き起こる心のザワザワ感は、

あらゆる進歩発展を謳っている現代に至っても、ワタシは答えを

見つけることができない。

 

ともかくアレコレ思うも、いきなりだが単に、

支配(権力)者によるピラミッド型社会がもたらす、

“情報・物流・貨幣・労働・消費(非生産)”それら価値の

一極集中というパターン現象が、有史以来続く、

戦争、競争、略奪、消耗、排他、差別、…あらゆる問題の

温床になっている、つまり支配者も含め、万人にとって

過度な摩擦を作る不完全な社会構造、と指摘しても異論はないだろう、と。

 

解釈は飛躍するが、

民主社会と称される現代も、この国のみならず諸外国にも、

巨大都市があるという事実から、未だ支配者層がいるという

根拠の一つということになる。

18世紀末から20世紀にかけて、王制を革命と称し破壊し、

民主を獲得したという歴史の記述も、

奥の院(王族を凌駕する貴族やユダ金融資本家)の完全支配権力の

獲得の画策であり、支配下のマスコミを使ったパフォーマンスであったことに、

そろそろ大衆は気付く時ではないのか?と。

 

支配者と取り巻きが生活する拠点が

“都・都会・都市”を形成してしまう、という言い方にもなろうか。

物理次元の宿命なのか。

 

 王族貴族の生活は、都という場の形成が権力維持に欠かせない。

都という場を維持するのは、即ち権力迎合と同義である。

権力を忌み嫌い批判し、都に棲む「被支配者・大衆(奴隷・家畜)」の矛盾。

これ如何に。

支配権力というエゴ・利己のカオスエネルギーによるハーレムが、

都、都会、都市であろう、と。

 

 

早々に雑な結論であるが、支配者利己支配の写鏡として、

「カネ・物質礼賛」=「名誉心・虚栄心」

「自己顕示欲・自己肯定への執着心」に集うエネルギー体が、

群衆・大衆、と思う。

 

 

簡単で便利な益の力である、貨幣経済というものが、

どこでも通用する場 “都” にて作られ維持することで、

支配者層の支配的、傲慢享楽生活を支えるに至る。

支配者と被支配者(大衆)が都の局所的な血流を生み出す。

 

それを文化文明としてきたであろう、プロパガンダ

教育上の歴史・人類史に疑問が湧いてしまう、

 

 

地球の事象、人間以外の生物、全体の生命活動にとっては、

歪な構造で、循環が停滞してしまう、と感じざるを得ない。