ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

散歩の時に思ったこと。

 

いつもと違う散歩道を歩いていたら、

ススキが群勢する空き地に遭遇した。

十月半ばはススキの穂が実る寸前だろうか。

秋風に枝穂がしなやかに揺れ、日光を浴びるそれは、

絹のような光を放っていた。しばし足を止め、見とれていた。

そして歩道側の穂に思わず触りたくなってしまい、

絹布を愛でるが如く、ススキの穂を触った瞬間。

 

私の脳裏によぎった。

「この艶やかなススキの穂は

何かに使えないだろうか?」と。

そんな発想が頭に浮かんできた。

 

昔からきっと多くの人が浮かんできたであろう、

ススキを使う方法を。

今更、私の浮かんだ考えは

なんの足しにもならぬだろうが。

 

触った瞬間から、創ることへの何かがあるものか、と。

薫った瞬間から、感情へ。

味覚も瞬時に、脳より先に全身へ、と。

 

五感について先日記した聴覚と視覚。

それ以外の触覚、嗅覚、味覚。

 

五感の中の間接情報で賄える視覚聴覚と、

その他の直接体験による感覚器官からの反応情報との違いには、

様々に考えさせられる。

 

 

触った瞬間に、使えないか、どうか、という発想は、

洗脳なのだろうか。むしろ人間の本能なのか。

 

本能の発動を抑える逸らすかもれない、聴覚と視覚の間接情報。

現代メディア技術には、それさえ扱えれば、

支配可能というシステムが溢れんばかりだ。