ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その2

 

 

大衆に届けられるマスメディアからの音楽に

変遷があることは言うまでもないだろう。

 

技術の進歩?変化で音楽制作の現場でも、今やコンピュータ

無しでは成立しない。Appleは1970年代から音楽をPCで制作できる

道具として、進化してきたのは皆の知るところだ。

 

ところで、技術云々の話ではなく、音楽というものも流行という形で、

時代の空気を作るのに一役買っている。ほぼ半世紀を一応、思い出す

ことができるワタシにとって、音楽や映画、ファッション、美術や文学に

偶然にヒットする、流行したとは言えないことを感じるのである。

 

例えば、ファッションやデザインに流行色や流行のスタイルというものがある。

これは有名な話だが、2〜3年前から流行るように

計画し決めてあるということだ。現場をワタシは知らないが、

例えるなら、流行色がいち会議室で決まっている、と言っても過言ではないのだろう。

そうした話しをファッション業界に身を置いた人から聞いたこともある。

 

発信者、生産者側は、不透明なガラスの向こうの密室・会議室で、

風潮や流行、世相を意図的に作っていると言えるだろう。

マスで流されるそれら流行が、

結局、消費者の行動を促すため、問題や悩みが消費行動に繋がるように。

 

密室は政治だけではない。

カルチャーというものも、意図的に密室で作られている。

大衆の集合無意識が作っている訳ではない。

むしろ必需品の消費よりも、

嗜好、好き嫌い、感情に影響を与えるものの方がドル箱として、

市場規模が無限大であることを国際金融家は熟知しての、

密室からの流行・世相操作が必須であろう、と。

 

カネを巡らす経済が根底にあるものは、

すべからく神の見えざる手と称して、

その実態は、国際金融家らの手によって、集合無意識さえも手の上で

転がされているのが、産業革命以降、マスゴミが発生して以来、

約200〜150年間ではないだろうか。

 

 

 

 

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その1

 

 

音楽や映像は、ダイレクトに深層心理に届くように感じている。

いや、届いてしまう・・・と私は、ひとまず警鐘を鳴らしたくなる。

 

 

いきなりだが、

故・藤圭子さんという天才歌手のことを

引き合いに出したい。

藤圭子さんを知っている人は、それほど広い世代ではないだろう。

〝八時だよ!全員集合〟という土曜日、昭和のTBS大人気番組

歌謡ステージコーナーによく出演していた演歌歌手である。

 

昭和40年代に、若い女性の歌手でありながらも、

情念の強烈な歌謡を大衆に届けた。

ワタシ自身の年齢を経た今、動画でたまたま視聴し、当時を思い出し、

昭和四十〜五十年代のTV人気番組を通じてだが、

まさに天才歌手をON TIMEで接していたのだ、と改めて思う。

 

 

宇多田ヒカルさんの母親であることは、

現代日本人なら知っているだろうか。

 

子供の頃、かの番組で藤圭子さんの歌い上げる演歌が、

あまりにも重たくて暗くて、幼い私にとっては苦手だった。

けれども、とても印象が強かった。

 

才能とは、受け手にとって

嫌いとか、好きを超えて、幼心をも「揺さぶられるエネルギー」が

印象という形で残る。それを彼女の才能が証していた気もする。

 

 

 

 

 

ところで、ご本人の藤圭子さんは、レコード会社作詞作曲家が与える

彼女に歌わせる曲とは裏腹に、十代の彼女は素朴で音楽の感性は、

情念を歌い上げることだけの才能が、

ご自身の本質的なメッセージではなく、

音楽そのもの「楽」(がく・・楽しさ等)を表現したい、

才能に溢れていた、と死後の逸話から、私は感じ取った。

ファンキーさ(破壊力)や未来感・・・。

過去ではなく未来のエネルギーの才能を

秘めていた人と感じた。

(遠い存在なのに、おこがましい発言かもしれないが。)

 

 

音楽とは元来、生命を謳う楽しきものであり、

演歌という歌謡ジャンルの縛りの中で、

後悔や哀愁という負の世界の中の癒しを大衆に与えることだけでは、

彼女の音楽への情熱は、満たされなかったのだろう、と

想像したりもする。

 

だがしかし、藤圭子さんの母親の暮らしを豊かにしてあげたい、

その一心で、人生の目的は、

 彼女の才能が、昭和40年代当時の日本芸能界の

ドル箱のひとつと化していた。。。

 

そんなゲンジツのことを画面の向こうで、

偽りの芸能業界と個人の能力がある故の、駆け引きがあったからだろうか・・。

藤圭子さんの(歌わなければいけない)歌謡が、

あまりにも暗く重たく感じ、繰り返すが当時のワタシは好きではなかった。

苦手だった。

 

が、宇多田ヒカルさんの作品が大ヒットした以降、

宇多田さんの曲調・センス(六感)がワタシは好きで、

藤圭子さんと親子関係であることを流れで知って、

逸話をYouTubeなどで知り、思いがけず素朴で明るさを持った人物

だったのかと知った。死に至った理由・事情は、明るさとは裏腹だったことを

単なる視聴者側は知る由もないが。

 

大衆側からのメジャーな人物に対しての

プライバシーの詮索は、虚無ではあろうが、

失礼ながら参考までに想像の域で書かせて頂いたので、ご容赦を。

 

 

幼少の頃、好きではなかった、嫌いだった感情が、

何だったのか。。。

思えば、つまりは、

芸能業界の闇を幼いなりにいち視聴者が、

感じ取ったことだったのか、とも思った。

 

 

 

 

 

 

「旅」について思うこと  ____4

 

 

話は逸れるが、何かの大きな美術展覧会が催され、
足を運んだことがある人も大勢いるだろう。
その展覧会に行くきっかけは、街角のポスターだったり、TVの紹介番組だったり、
店頭のチラシだったり、代表的な絵画の印刷物や画像を目にして、
好奇心がそそられ、行った人も多いのではないか。
もし、その代表的な絵画の画像を事前に目にしなければ、行くのかどうか。
単に、(原始的?)人から聞いて行くより、

その展覧会に能動的に行く気になるのかもしれない。
(最近では、そうしたマスゴミ情報の拡散も、
スマホ等台頭で印刷物やTVの喧伝威力が衰退しているから
少し前の世の中の動向であろうか。)


●●展では、印刷された絵画と、展示の実物を比較しながら、
「やっぱり実物はすごいねぇ」と
呟く、見学者。あるいは、心の中で、印刷物より印象が薄くて落胆するなど。
ワタシも印刷物や画像に影響されるそのひとりであった気もするが、
つまり画像を駆使した前情報が多い程に、能動的に、
自主的に選択した気がする。(←ここが現代の汚染脳である所以と思う)

 

かつ、教育や経済活動由来の、
比較で物を見る思考も、いつの間にか刷り込まれている。
前情報が全く無く、その実物の絵画と対面した時、きっと違う印象や感想・感動が
起きるのではないか。前情報が当たり前過ぎて、
間接的かつ前情報の印刷物や画像映像は、
固有の、オリジナルの、感想感動や想像を阻んでいるかもしれない、と思うのだ。


(原始的な手法の)人から聞くことは、
曖昧のようだが、自分なりに思考・問答する所作が起き、
丁度良い知らせ、情報としての価値を足らしめる、ように思う・・・。

実物を見る行為が、前情報(ほぼ喧伝情報)、
過去の情報と実際の体験の実現性の中に、
快感を見出す行動が、単に確認作業になっているようにも思う。

いわゆる目的の達成感のようなものにすり替わる。
現代人はそれを好奇心が満たされたとして
納得する習慣・思考回路になっているのではなかろうか。

 

それは旅行でも同じことが言えると思う。
最近ではインスタ映えという言葉で
沸き立つ、巷の風潮が顕著だろうか。
インスタグラムのベストショット画像を多数の人が共感し、
そこへ旅行したくなる。特別な何かを食べたくなる。
どこぞの誰かの旅行先の幸福そうな佇まいに憧憬を抱く。

少し前の世の中の風潮であれば、
TV番組のタレントやレポーターらが海外を
取材したものを見ると好奇心を刺激され
視聴者側は同じような経験をしたくなる。
雑誌のグラビア写真、旅行パンフレットなどで、
判で押したような欧州の古城や庭園の画像を見て、
セレブな旅行に憧れる。
一般的な旅行者がいない秘境や現地・他民族の独特な習俗を映像で見れば、
個性的な旅もどきのイメージが膨らんで冒険心も駆り立ててくれた。

高級ホテルの映像を見るとそこに佇む自分を想像する。
美しいリゾートホテルのビーチの写真は
ゆったりとした休暇を演出してくれそうだ、と。

画像映像で好奇心を促される。

それは人生に不可欠な旅への憧れではなく、
先述した前情報による衝動、欲求欲望は、
所詮、大衆=ゴイム脳が反応しての、
消費としての〝旅行〟に過ぎないだろう、と思う。

 

 

 

 

 

「旅」について思うこと  ____3

 

 

 

時間の消耗量と移動の距離量の違いと、様々な出会い触れ合いの増減が、

「旅」と「旅行」は、似て非なるもの、と感じることを述べた。

 


現代人にとって旅行は、長距離・短距離への目的地を問わず、
ほとんど乗り物を使うから短時間の移動が可能だ。
移動の道程は、速いことと快適なことが不可欠と思う。

目的地は非日常を楽しむ場であり、好奇心を刺激される状況、非日常環境を
体験するべく、向かう。その中で、食べ物、建物や施設、風景、人や生物などの
喜ばしき出会いがあることを期待して出発する。
最近では、サプライズと称する刺激も期待のうちに加わっているかもしれない。

期待通りの出会いや、速くて快適なことが可能なのは、
お金がそれらを限りなく保障してくれるから、旅行というものが成立するとも言える。

換言すれば、カネ支配下の人工世界で安全安心が前提の、
刺激や感動、好奇心向学心で、時間を過ごせば、非日常と解釈し
リフレッシュや癒し、見聞として、旅行というものに満足する(できる)。

 

地球資源をあらゆる物質・機械・エネルギーに変化、駆使した科学技術社会は、
お金を得るための犠牲・我慢の労働が根底にあるから、
お金が役に立つ社会になったとも言える。
旅行に於いては何の役に立っているのか。つまり人工が保障を前提とする
「快適さ・速さ・便利さ・見聞や人為的な感動や刺激」を得るためである。

 

喜ばしき出会いを期待して出発し、
現代の旅行は、期待通りか、それ以上の予期せぬ感動が得られるそれは、
どれくらい実現しているのだろうか。
そして人生に好影響の時間となっているだろうか。

 

旅行した者が幸福な時間・経験を得たにも関わらず
時に、自慢の種に受け取られたり、
優越感や劣等感の温床になっている場合もある。
経済格差を感じさせる。
人生を豊かにする経験ではなく、
現代人の旅行が、金銭に支配されたゴイムの消費行動でしかない側面も

あるのではなかろうか、と。

 

 

 

 

 

「旅」について思うこと  ____2

 

 

 

 

旅行と旅という言葉、熟語と単語について

子供の頃、考えていた記憶がある。

 

 

観光という熟語を習った時、「カンコウ」という音から、

観〝行〟という漢字と、勘違いしそうだが、

明治初期の使節団が成したとされる、文明開化としての

「光」を観るという意味合いの旅であるような

「カンコウ」の説明が、子供心に印象深かった。

(今の私は〜【文迷】と捉えているが、当時はそんなことは知る由もない。

しかもilluminate/光を照らすカラダッタノカ?!)

 

多分それは、小学高学年の時の、先生の補足の余談であったと思う。

その余談を聞き私の中では「観光」という熟語が、明治以降という

印象であり、同時に旅行という熟語も明治以降だろうと考えた。


訓読みの「旅」という言葉は江戸時代までの、

機械化・燃料動力化(燃料を使って移動する手段・自動車や電車)

されていない社会の、足を使う、人と触れ合う、

そして旅情を感じることのできるものが旅だと受け止めた。


時間の消耗量と移動の距離量の違いと、様々な出会い触れ合いの増減が、

「旅」と「旅行」は、似て非なるもの、と

今も、そんな風に感じている。


現在は、「旅」ではなく〝旅行〟という感覚が一般的だと思う。

 

 

 

 

「旅」について思うこと  ____1

 

 

現代人の大半は、いわゆる陰謀論を見聞きすると、

ネガティブな話題として避ける。

 

 

もちろん、私も陰謀論の類が非常に重たい情報であることは、

自覚している(つもりダ)。

それを肉迫し思索を続けていると気が滅入ることも多い。

また、一歩間違えれば、自分の行動範囲、器を超えた

マクロ世界を頭の中で取り扱うものだから、

〝ワタシは何でも知ってるぞ〟感が高じ、

ともすると、ヒロイズム(英雄・勇者感)の快感、

自己顕示欲を得るための情報提供に変貌することにも、

なりかねない。

自覚しておきたいことの一つだ。

 

陰謀の情報が、内省・気付きや成長、自律のためではなく、

主にマスゴミだが、大衆の恐怖心を煽る、

巷の直接的な体験のない情報ならば、

話半分で聞き流す方が良い。

 

闇の世界について、自分の知ったことを人様に伝える時、

恐怖心を与えないよう心がけたいものだが、どうだろう・・。

 

疑問が解ける、納得できる、視界がスッキリする、

理に適った単純さ、明快さがある、そして行動・習慣を改変できる、

そうした方向の情報ならば、

真実に近いかもしれないと思う。が、巷にほとんどない。

 

また、闇の世界に焦点を合わせば、それに引きずられ、

いつの間にか、己の人生に陰を落としかねないことを

潜在意識では大半の人間が、感覚的に分かるから

聞きたくないのかもしれない。

 

もしくは、もう悪徳イリュージョン世界・出口のない666の世界

(ゲームや暴力的な映画ドラマ小説や音楽美術や3S等や

マスメディア外部情報=〝富・成功・発展・恋愛・優秀・美貌〟からの、

ナルシズム(自己愛)を自己成長と、倒錯、勘違いしている状態)に

埋没している意識の人間は、

その泥沼や偽夢から抜け出ることができない

悪魔の徒弟・ヒロイズム&自己愛中毒で、

地球の、生物の、悲鳴が聞こえないのかもしれない。

 

 

汚染脳の社会にあっては、

〝己の【脳】の快感の温存・持続や、

生命保存ゆえの恐怖心からの逃避〟=エゴの核は、

思考思想観念が膨張し、直接的な五感の感覚に蓋をし騙し、

外的世界の人工的な刺激からの異常さ、

不安定さ、不快を、取捨【選択】で凌ぐことさえもできる。

私は、それを選択の自由やら民主主義と言っている気がする。

 

自己欺瞞が集合無意識に堆積して、

外的世界・物質世界が脳化(イメージ・イリュージョン化)していく。

 (脳化とはつまり記号化であり、単純化ではなく短絡化=欠損化)

 

内的世界の闇と、外的世界の闇は呼応している。

深く内省するほどに、外的世界の闇の様相が

徐々に、見えてくるようにも思う。

 

 

現在の三次元の地球に在る人間の意識状態は、

外部から刷り込まれたイデオロギーで、大衆の私たちゴイムは思考停止。

教育政治マスゴミの喧伝による進歩発展の装いとは裏腹に、

延々と内的宇宙・真実の成長は停滞し続ける、幻影世界(666の呪詛)。

集合無意識を暗雲が覆い尽くしている〝不毛不調のスパイラル運動〟と

言っても過言ではない。

文明ではなく、「文迷」を彷徨っていることに気づかない世界。

 

 **************

 

陰謀論にも諸説あり、それを「整理し真実を解明すること」は、

ゴイム・家畜というカテゴリーに生きる私たちにとって

確証を得ることは極めて困難だ。

 

が、ひとまず、私の場合は若い頃に知った、

「お金のいらない社会・人間の役割は生態系の維持」を唱えている

K氏言説に真実を感じ、指針にして、想像を膨らませ、

ワタシにも何か伝えられることはないか、

と模索している。

 

消費消耗の社会からの脱却と、

生態系をより深く理解し実践することだ。

 

K氏説以外の論説についても、、

中庸な視点で見聞きすることも心がけている(つもり・・・)。

 

様々な説を観察し、裁かない・排他しない視点を忘れず、

そしてすべての存在、人間に限らずあらゆる生物や物質、

この地球に物質化した存在に調和があることを模索するのが

究極の目標として、想像?!妄想?!推理?!を

生活の中で、漠然とであるが思索している。

 

一つ言えることは、己が生き残るため、

身体に限らず、魂を救済されたいがために焦点を当てた

陰謀説および、それに付随するスピリチュアル論説は、

〝唱える者と聞く者のエゴ〟が引き合っているようにも思う。

 

昨今の肥大化気味の陰謀的想像の言論は、

行動を起こしてナンぼの三次元では、

冷静に見れば無力で無意味にも思える。。。

闇の巨大さ深さに、たじろいでしまいそうになる。

 

が、日常で気付いたことを

ほんの些細な事、僅かな事でも、全ての存在にとって良き未来が

実現できるよう行動する、意識する・想像する・祈り心を持つこと

そして本物と偽物を嗅ぎ分ける技術を身につけたあかつきの、

真実に出会えるよう、現在、生きている限り、

コツコツと根気よく、続けよう、と思う。

 

 

ともかく、

テレビや映画は見ないほうが良さそうと思うょ。 ^^/

 

*****************

 

「旅」とは、全く関係がないような話の枕が長くなった。(笑)

 

つづく

 

 

 

 

備忘録(当方SNS追記)

 

 私の子供の頃の大人たちは、何かを飲む時、器に口をあてて飲むのがごく普通の

所作で、ストローは幼児の道具と捉えていた記憶。

つまり、母乳を吸う行為に似ているからだ。

それくらい私の親世代までくらいの昔の日本人には、

生理的な判断力や美意識が一般人にもあった。

 

 

ストローという道具が、環境問題の云々ではなく、人間の幼稚化幼児性に由来する、西洋礼賛の果てにあるゴイム文化であることにまずは着目する方が、まともな視点では無いか。

 

母乳を飲む行為と似ているストロー。それが波及したのは戦後であり、プラ製品が安価になった頃の1970年代からだ。それと並行して、日本人の母性の歪み、子育て軽視、と、マスゴミメディによる女性社会進出の奨励とリンクしているという見方もできる。(巧妙すぎる汚染脳・・・教育マスゴミ政治文化がステルスな牽引・・

例えば、給食の牛乳が紙パックになりストローを使う、他にも

ローマの休日〟のワンシーンが想起される。)

 

1970年代から日本で経済活動(日本企業がロイヤリティを払う業態で)を始めた、

Mドナルドの提供するストローは、母乳を吸う時の乳児にとって、生物の生理的快感を物理的に計算されたストローの(直径・吸引力)サイズにしたそうで、乳児が吸引する時の生理的に適った設計の戦略もを現代日本人は、有難いものみたいに

捉えている思考停止が、つくづく悲しい。

 

(ショボい道具でも、それによって癒された気がする・・・という、

物資礼賛や、F田さん?!とかの成功〝者〟礼賛、経済礼賛、

および〝衛生観念〟

(洗剤やら殺菌殺虫剤のCM映像駆使のマスゴミのお家芸)・・という

偽安全の啓蒙にあって、

生物的な自然な行動の経緯の中に、

その「異常さ」を気付けない===思考停止状態の

 

現代日本人の病的さ。。。

 

 

 

 

現代日本人はいつまで、欧州系の浅薄な思想・思考回路に引きずられ

物質文明を礼賛するつもりなのか。

欧州勢、GHQ~CIAは、元々、古代から江戸期までの日本を脅威として、

徐々に日本人が12才程度の知能に成り下がるように、

明治及び戦後マスゴミを軸として教育、

政治介入の日米合同委員会やらで、(様々な圧力で)

マスゴミメディアが乗っ取られていることに気付かない・・・

偽ユダの影響で、元来の母性が歪んでしまった・・・現代日本

 

 

 

 

 

 

西洋社会は貴族と奴隷の縮図の歴史。階級が刷新されることがない。有史以来、血脈に執着し人間を差別する社会。貴族らは乳母が子育て労働で実母は放蕩虚栄の世界。実労実働がない社会の貴族集団。愛情を受けていない支配層が冷酷残忍な奴隷制社会をしていた。が、今も装いを変えて続いていると言える。有色人種を単純労働・ロボット化で利用する社会システムにしようとしている。実質経済・貨幣価値を保つための道具とみなされている。欧州の貴族と奴隷の関係が、現代では、知らず知らずのうちに世界規模に巨大化しただけと思える。

 

戦後から日本を12才程度の国民意識に誘導しようとしているのがわからないのか?

西洋憧憬礼賛の現代日本人は、バ力丸出しである。

 

 

母からの愛情、母乳を無心で吸った乳児の頃の無意識の幸福感。人生の基礎。が、現代は一層、希薄になっている。女性が社会へ金銭労働へと向かうほどに、生物としての幸福感が喪失されて、現代人の情緒不安定が加速化するのは当たり前ではないか。ストローも、愛情渇望の穴埋めの道具。しかも経済活動に一役買っている。

 

 

ストローなどあまりにも些細な日常の物品だが、人間の生理に関わること、例えばトイレの和式洋式、その習慣が変わったことさえも、表面的な衛生のことで騙されている。生物として当たり前の毎日、踏ん張る動作をしなくなり、その自然さを損ない、

現代日本人は体力も知力も精神力も少しずつ劣っているのである。

 

 

************************

 

 

物質礼賛社会にますます傾倒していると感じる昨今。元を辿れば、

西洋貴族社会の価値観が、暴走しているとしか、私には思えない。

かといって、現代の、現存する、末裔らの、、、

欧州貴族集団はそこから脱却して、血脈(イカガワシイ)や富を

保持するために、昔の農夫のようなオーガニックな生活志向をして、

破壊されつつある地球自然の〝安全な部分〟を確保して、

存続を図っている動向・・・。の、

その先に地球の歴史の真相(遺伝子起源の関係性)と

リンクしてくるもの、と私は思う。

 

 

 

が、主に混血欧州選民(遺伝子組替人種と原種系)の物質に

極端にこだわる志向・無駄なるイリュージョンの

暴走に付き合わされている・・・。

 

多くのフツウの人々が、

その構図・構造・意識無意識の状態や宇宙の何たるか。

己の泉に気付けば、

大したことではない世界へと向かう気がする。

 

 

(おそらく、元ユダの支配できるエネルギーで、コントロールされている、

できてしまう、、、混血人種(ある生物系統の〝人工交配が起源〟のことを常々思う。

現代の地球全体の脆さダ。)

 

 

 

 

 

………今の、ひとりごと ・・

 

 

幸不幸、身体の弱い人、貧乏な人様々な不公平はどこから生まれるのが?そんな疑問を抱えて。。。

 

というフレーズをネットサイトで読んで思ったことを。。。

 

 

 ********************

 

 

 

平等とは何か。

公平とは何か。

 

この世には平等、公平はない。

だが、見えない摂理に平等がある。

そこに気付くのに、この世があるのかナ。

 

平等「施」一切。

ビョウドウ、セ、イッサイ

 

この世の物質的な目に見えることだけで

判断すると不平等が前提となる。

だが、しかし

宇宙摂理から見ると「完全平等」が施されている。

 

 

この世で不利なことが、罰(因果応報・二元論)ではない。

 

不利を受け入れる意識を獲得した者は

摂理の体現者であり、

むしろ、物質世界・三次元世界で、

有利なことを渇望し、翻弄される者より、

真実への気づきの扉が用意されている。

扉を開ける力さえ、それは

不利な立場の者にこそ与えられる。

(意識的か無意識的かも加味して。

 時に見える世界・見えない世界ではパラドクス)

 

俗に言う、ピンチはチャンスとか災い転じて福と成す・・・。

雨降って地かたまるとか人間万事塞翁馬・・・。

時間のスパンはそれぞれと思うが・・・

平等が現象に在る。

 

 

 

見える世界、見えない世界(日々の想念とか、あの世)を

全て網羅しての

平等・公平が、あることを気付こう、と思う。

 

 

平等を、自ら求め、唱え、叫び、不平等を是正する、

概念・観念や行動は、人生を歪ませる。

三次元・見える世界で不平等を是正する訴えは、

時として不毛な努力。悪足掻きになる。

裁くという因果をも連鎖的に作ってしまう。

 

 

 

 

見える世界と見えない世界の呼応で

普遍(宇宙の摂理から)に与えられている事柄・事象・今・瞬間

(時間空間・想念意識、その活動)に

あるがままを「気付く・受け入れる・認める」のが、

物理的な人生(人間という意識体)の最大の課題と言えるかもしれない。

と自らに問いかける。

 

見えない意識の世界の宇宙摂理を呼び込む作業が必要なのかな、と。

その気づきの先に、

平等を生み出す神の力が、各々に宿る。

 

 

 

 

 

………今の、ひとりごと

 

 

1ヶ月ほど前に知ったYouTuberの動画で、

先日アップされたものが、今まで認識していたことが整理でき、

知らなかったこともあり、分かりやすかったので紹介したい。

 

https://www.youtube.com/watch?v=BUMEwzTlXZ4

 

 

 

日本の現状は、R家台頭(偽ユダ13?!メンバーの争い事)に

日本の大衆が巻き込まれ翻弄され続けているのが、

納得できる。

 

(山口tabuse地域の謎もかなり納得ダッタ。)

 

 

洋の東西問わず、

支配層の各家系への執念が侘しく映る。

血に、富に、拘る奴らが、単にダサぃなぁ〜、と。

元ユダはそれを利用しているのかなぁ〜?!

(キン星でガンバレ〜ばイイのに。。。逃げたら戻れないんじゃないかなぁ。)

 

 

(隕石落下の天災)535年までの倭国。(ミッシングリンクの時代)

真実の存在。(と、ワタシには思える。)

 

それ以降、天皇&藤原勢の渡来系がこの地を強引強欲に支配してきた。

現代日本人が教わる約1500年日本支配層の歴史に、争いは絶えなかった。

今もそれは続いているご様子で。。。

更に明治以降は、R家の三つ巴だったのダァァァ。

 

 

ともあれ、

支配したい人間の欲望の具現化が、

各個人の精神的な闇と呼応している。

 

意識の本質は繋がっていると思うから。。。

 

 

物質世界と精神世界の中で均衡を保つことが

とっても難しい時間と空間のこの世界。

 

それが三次元の宿命・課題でもあるのだろう。

 

○氏説による

『遺伝子の真相』を知らされることがない大衆は、

いつまでも同じ繰り返しの意識の世界に留まるのか・・・。

(過去と未来にある幽界が分厚くのしかかる意識層)

 

(ややこしいが・・・)

平等という解釈が歪んだモラルの呪縛で、史実の真相を

隠蔽にするために、そのモラルの呪縛・汚染脳があるとも考えられる。

 

 

***********

 

過去・未来にとらわれず、

自然の摂理「今」に目を向ければ、

長い長い暗闇のイリュージョンのトンネルから、

私たちは抜け出られるのではないかなぁ、と

独り言を呟く。

 

 

 

 

 

真実の存在への感謝を伝えたく。

 

 

 

「令和」の時代。

 

嘘だらけの複雑な利害(元ユダK星人&偽ユダ〝混血アシュケ富ノ支配者らの

哀しき欲望願望&フジワラ系の強欲なる地位と富の維持)

やがてはおさらば・・・。

 

 

 

 

身体の機能や能力の活用の知恵、それ以外、

人種の違いは本来どうでもいい、と思う。

 

 

 

ひとりの人間として。

証明されたのだ。

 

時代を背負われた国の代表としての

平成天皇皇后の祈り心にも、感謝の念が湧いてくる。

 

世界大戦が無かったこと。

日本が存在できていること。

ありがたきこと。

偽ユダの暴挙・陰謀に惑わされぬのは

非常に困難な時代だ。

 

 

(人として悲願の決意・真心は、虚・偽を凌駕する)

 

 

 

これからは・・・
全てのひとが

生まれてきてよかったな、と思える
地球にひとりひとり変えていくこと。

 

平成天皇も希求されておられると思う。

現時点の皇族ルーツへの憶測はさておき。

 

 

きっと各時代に即した人が顕れているのだろう。

 


既存の人間界の矛盾だらけの、

薄汚れた価値観・モラルを捨てる新たな時代へ。

 

 

全ての生物が命を謳歌し、
味わい深いよろこびに満ちた、星にしていくことこそ、
人間の人間たる真実の使命と思う。


そこに照準を合わせよう。

 

 

既存の欲望・自己顕示欲なども捨て、
まことの倭・和・その『長』に心をあわせて。


それを知覚できる意識・知識(真実を見抜く意識への研鑽)へと

私たちは成長していくことも肝要、と思う。

生命の星(身体・自然環境を喜びのうちに存分に生かす)へと

進んでいくことこそ

幸福となる。

 

 

昨今の、人間社会の巷の悲壮な雑事・ニセユダモトユダフジワラ由来のプロパガンダ

心を病ませる時代を終わらせよう。

 

 〝欲望・怠惰・打算・虚栄=〝西洋文明〟骨頂の略奪強奪強姦

巨大盗賊社会が、消滅する時代へ意識を転換しよう。

 

 

 


その決意・自覚、認知・認識を

 

日本人から始める。

 

 

誰のものでもない地球。


全ての命が繋がる意識の世界。


全ての生命のものである地球。

 

倭の祖への慶びと感謝へ。

 

 

 

その真髄を

体感する時代の始まりと思う。