ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

………今の、ひとりごと ・・

 

 

幸不幸、身体の弱い人、貧乏な人様々な不公平はどこから生まれるのが?そんな疑問を抱えて。。。

 

というフレーズをネットサイトで読んで思ったことを。。。

 

 

 ********************

 

 

 

平等とは何か。

公平とは何か。

 

この世には平等、公平はない。

だが、見えない摂理に平等がある。

そこに気付くのに、この世があるのかナ。

 

平等「施」一切。

ビョウドウ、セ、イッサイ

 

この世の物質的な目に見えることだけで

判断すると不平等が前提となる。

だが、しかし

宇宙摂理から見ると「完全平等」が施されている。

 

 

この世で不利なことが、罰(因果応報・二元論)ではない。

 

不利を受け入れる意識を獲得した者は

摂理の体現者であり、

むしろ、物質世界・三次元世界で、

有利なことを渇望し、翻弄される者より、

真実への気づきの扉が用意されている。

扉を開ける力さえ、それは

不利な立場の者にこそ与えられる。

(意識的か無意識的かも加味して。

 時に見える世界・見えない世界ではパラドクス)

 

俗に言う、ピンチはチャンスとか災い転じて福と成す・・・。

雨降って地かたまるとか人間万事塞翁馬・・・。

時間のスパンはそれぞれと思うが・・・

平等が現象に在る。

 

 

 

見える世界、見えない世界(日々の想念とか、あの世)を

全て網羅しての

平等・公平が、あることを気付こう、と思う。

 

 

平等を、自ら求め、唱え、叫び、不平等を是正する、

概念・観念や行動は、人生を歪ませる。

三次元・見える世界で不平等を是正する訴えは、

時として不毛な努力。悪足掻きになる。

裁くという因果をも連鎖的に作ってしまう。

 

 

 

 

見える世界と見えない世界の呼応で

普遍(宇宙の摂理から)に与えられている事柄・事象・今・瞬間

(時間空間・想念意識、その活動)に

あるがままを「気付く・受け入れる・認める」のが、

物理的な人生(人間という意識体)の最大の課題と言えるかもしれない。

と自らに問いかける。

 

見えない意識の世界の宇宙摂理を呼び込む作業が必要なのかな、と。

その気づきの先に、

平等を生み出す神の力が、各々に宿る。

 

 

 

 

 

………今の、ひとりごと

 

 

1ヶ月ほど前に知ったYouTuberの動画で、

先日アップされたものが、今まで認識していたことが整理でき、

知らなかったこともあり、分かりやすかったので紹介したい。

 

https://www.youtube.com/watch?v=BUMEwzTlXZ4

 

 

 

日本の現状は、R家台頭(偽ユダ13?!メンバーの争い事)に

日本の大衆が巻き込まれ翻弄され続けているのが、

納得できる。

 

(山口tabuse地域の謎もかなり納得ダッタ。)

 

 

洋の東西問わず、

支配層の各家系への執念が侘しく映る。

血に、富に、拘る奴らが、単にダサぃなぁ〜、と。

元ユダはそれを利用しているのかなぁ〜?!

(キン星でガンバレ〜ばイイのに。。。逃げたら戻れないんじゃないかなぁ。)

 

 

(隕石落下の天災)535年までの倭国。(ミッシングリンクの時代)

真実の存在。(と、ワタシには思える。)

 

それ以降、天皇&藤原勢の渡来系がこの地を強引強欲に支配してきた。

現代日本人が教わる約1500年日本支配層の歴史に、争いは絶えなかった。

今もそれは続いているご様子で。。。

更に明治以降は、R家の三つ巴だったのダァァァ。

 

 

ともあれ、

支配したい人間の欲望の具現化が、

各個人の精神的な闇と呼応している。

 

意識の本質は繋がっていると思うから。。。

 

 

物質世界と精神世界の中で均衡を保つことが

とっても難しい時間と空間のこの世界。

 

それが三次元の宿命・課題でもあるのだろう。

 

○氏説による

『遺伝子の真相』を知らされることがない大衆は、

いつまでも同じ繰り返しの意識の世界に留まるのか・・・。

(過去と未来にある幽界が分厚くのしかかる意識層)

 

(ややこしいが・・・)

平等という解釈が歪んだモラルの呪縛で、史実の真相を

隠蔽にするために、そのモラルの呪縛・汚染脳があるとも考えられる。

 

 

***********

 

過去・未来にとらわれず、

自然の摂理「今」に目を向ければ、

長い長い暗闇のイリュージョンのトンネルから、

私たちは抜け出られるのではないかなぁ、と

独り言を呟く。

 

 

 

 

 

真実の存在への感謝を伝えたく。

 

 

 

「令和」の時代。

 

嘘だらけの複雑な利害(元ユダK星人&偽ユダ〝混血アシュケ富ノ支配者らの

哀しき欲望願望&フジワラ系の強欲なる地位と富の維持)

やがてはおさらば・・・。

 

 

 

 

身体の機能や能力の活用の知恵、それ以外、

人種の違いは本来どうでもいい、と思う。

 

 

 

ひとりの人間として。

証明されたのだ。

 

時代を背負われた国の代表としての

平成天皇皇后の祈り心にも、感謝の念が湧いてくる。

 

世界大戦が無かったこと。

日本が存在できていること。

ありがたきこと。

偽ユダの暴挙・陰謀に惑わされぬのは

非常に困難な時代だ。

 

 

(人として悲願の決意・真心は、虚・偽を凌駕する)

 

 

 

これからは・・・
全てのひとが

生まれてきてよかったな、と思える
地球にひとりひとり変えていくこと。

 

平成天皇も希求されておられると思う。

現時点の皇族ルーツへの憶測はさておき。

 

 

きっと各時代に即した人が顕れているのだろう。

 


既存の人間界の矛盾だらけの、

薄汚れた価値観・モラルを捨てる新たな時代へ。

 

 

全ての生物が命を謳歌し、
味わい深いよろこびに満ちた、星にしていくことこそ、
人間の人間たる真実の使命と思う。


そこに照準を合わせよう。

 

 

既存の欲望・自己顕示欲なども捨て、
まことの倭・和・その『長』に心をあわせて。


それを知覚できる意識・知識(真実を見抜く意識への研鑽)へと

私たちは成長していくことも肝要、と思う。

生命の星(身体・自然環境を喜びのうちに存分に生かす)へと

進んでいくことこそ

幸福となる。

 

 

昨今の、人間社会の巷の悲壮な雑事・ニセユダモトユダフジワラ由来のプロパガンダ

心を病ませる時代を終わらせよう。

 

 〝欲望・怠惰・打算・虚栄=〝西洋文明〟骨頂の略奪強奪強姦

巨大盗賊社会が、消滅する時代へ意識を転換しよう。

 

 

 


その決意・自覚、認知・認識を

 

日本人から始める。

 

 

誰のものでもない地球。


全ての命が繋がる意識の世界。


全ての生命のものである地球。

 

倭の祖への慶びと感謝へ。

 

 

 

その真髄を

体感する時代の始まりと思う。

 

 

 

 

知らなくていいのか…どうか。                〜故 鬼塚英昭氏著書より〜

 

   鬼塚英昭氏 著書

天皇のロザリオ」下巻より・・・抜粋

 

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 徳富蘇峰の『近代日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵の従軍記者の

見聞録がのっている。(二版では憲兵命令で削られた)。

 

 キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいばかりに女たちを

南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むがゆえに、女たちが

泣き叫び、わめくさま地獄のごとし。

 

 ザヴィエルが「キリスト教伝来」を日本にしてからは、今までの日本とすっかり

様変わりしたのである。歴史家たちは真実を知らしめるのが本来の姿であるのなら、

この本を引用し、真のキリシタン大名、小名、豪族たちの姿を描くがいい。

 ザヴィエルは、日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、

ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、

交換に日本女性を奴隷船に連れ込んで海外で売りさばいたボス中のボスであった。

そのアルメイダは大友宗麟に医薬品を与え、大分に病院を建てたという事実のみが

誇大に伝えられ、彼は大分県では、宗麟と並んで偉人となっている。


「女たちを南蛮船に運び」、そのかわりに「火薬」を獲得したという単純な事実を、

現代の歴史家は無視し続けている。

 キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが

天正少年使節団としてローマ法王のもとに行ったが、その報告書を見ると、

キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

 

 

 行く先々で日本女性がどこまでいってもたくさん目につく。

ヨーロッパ各地で五十万という。

肌白くみめよき日本の娘たちが秘所丸出しにつながれ、

もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されてゆくのを正視できない。

鉄の枷(かさ)をはめられ、

同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、

もともとなれど、白人文明でありながら、

何故同じ人間を奴隷にいたす。

ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と

交換し、インドやアフリカまで売っている。


(山田盟子『ウサギたちが渡った断魂橋』)

 

 この少年たちの父や叔父たちが、日本女性を数十万単位で

ポルトガルの教会の師父たちと共謀して売った悪なのである。

これがキリシタン大名や小名、豪族たちの偽らざる真実の姿なのである。

ポルトガルの教会の師父が世界的売春組織のボスであることを知って、

キリスト教の何たるかを連想されるがよい。

 

当時日本には、三十万人の改宗者がいたといわれている。現在の人口比に

すれば、二百万人近くであろう。キリシタン大名たちが「火薬」欲しさに

五十万人(ヨーロッパだけで)をはるかに超える「肌白くみめよき日本の娘」を

奴隷商人に売り払った。

 

 

 

「現代」の人間生活が地球の未来を左右しているという異常さ  

 

 

 

「人間社会の平等」と「宇宙摂理の平等」は、小我と大我と呼応している。

人間社会に限定された「真善美」ではなく、

自然界を前提とした「真善美」を想像すれば、

気づけば、現代人の「真善美」の行為が

地球の病巣であることが見えてくるように思う。

 

****************

 

 

 

 

人間の暮らし方が地球のあらゆる自然を

疲弊させているのを日々感じる。

 

人間だけがこの地球の生物ではない。

他の生物の命をあがないながら生きるというシステムの中で、

人間は他の生物を存分に、

傲慢に利用しているのが事実であるだろう。

 命は平等であるはずが…

 

 

人間はこの地球の、生物として、個体として

数を数えると、0.01という指標もあるようだが、

おそらくはもっと無限に近い少数という気がする。

命(宇宙摂理からの動的存在)という観点から見れば、

もっと低いと私は思う。0.0000・・・・・

 

(命…人間の思考活動では生み出せない動性)

 

それなのに、

そのわずかな人間という存在の命が、

地球摂理を混乱させていると

思わざるを得ない状況・その直近の歴史で多過ぎる。

産業革命・石油文明など)

と、それについて思えば、

苦悩は、当たり前の個々の生物感覚ではないか。

自分のどうしようもない生きる世界での違和感こそは、

当たり前、かつ、重要な感覚であり、軌道修正のため、という

至極、単純なものと思うのである。

 

結局は、

透明かつ単純な世界。

 

それが未来。

 

とすれば、

金銭は感情・想念という幽的意識(幻想)で複雑を生み出す装置。

未来にそれ(カネ)がいらなくなるのは自明。

 

 

 

祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす

おごれる人もひさしからず

ただ春の夜の夢のごとし

たけき者もついには滅びぬ

ひとえに風の前の塵に同じ

 

 

偽ユダ支配に

気づけば…

 

 

『美しき緑の星」への疑問

 

 

 

美しき緑の星 ・コリーヌ・セローの偽ユダ系映画や言論。

貨幣経済ではなかった全ての大陸諸島を略奪強姦で民族を破壊。

その数百年後、貨幣がない社会を理想とした映像言論。異常だ!

地球摂理に則った民族社会を破壊した愚民子孫が貨幣経済社会を批判は、

どう考えてもおかしい。自己欺瞞!極めレリ。

 

 

 

ビワの木によせて

 

 

都市の外れであっても、

最近はめっきり生活空間に野生動物が少なくなったから、
ついつい、スズメやカラスやハトやカモやセキレイなどに目をやってしまう。
時々、サギもいる。あっちのSAGIじゃない。(苦笑)

 

それでも、1キロくらい離れたところに、大きな市民公園があるからだろうか。
都市では珍しいヒタキも、時々やってくる。
聞こえてくる啼き声がいつもと違う時、電線や屋根にふと目をやると
スズメと違う姿を双眼鏡で改めて見て、ワクワクする。
その比較は、ちょいと申し訳ないが、、。

 

うちの猫の額庭に植えてあるビワの木にも蕾から開花が
始まらんとしているこの時期。

毎日のようにメジロが蜜を吸いに、集っているのが嬉しい。

はたまたスズメさんやカラスさんには失礼かもしれないが。W

 

やはり、稀少な生物になる程に、有難がってしまうのは、
人間社会でも同じで、一般人と有名人のオーラの違いかぃ?!W

(なんか違う気もするが。)


それはともかくビワの木は、敷地に植えると病人が出る
なんて言う、有難くない風評もある果樹だが。

(それも奴らの20世紀前半医療の陰謀か?!)

 

 

母が癌の告知を受けた当時、ビワの葉の効能を
書籍で知り得て、実践して自然退縮した経験があった。

その素晴らしさを感じたが、実家は商売だったため

敷地一杯の建屋だったから、木を植えることができず、

毎月ネットでビワの葉を購入するのに、

ずいぶんと苦心した。

 

よって自宅にビワの木を植えることは私にとっては、
薬箱を置くのと同じで、ごく自然なことであった。
家人はあまり喜んでいないから、私の勝手な思いは承知だが。


ビワの木はほとんど剪定をせず、赴くままに育ててきた。
植物、その命について様々に思うと、

人間の都合で「切る」行為に疑問があったから。

 

 

すぐ横の車の通らない狭い道で盛大な工事があったり、(陰謀カヨ×)
近所の人に通行の邪魔だと文句を言われる時だけ、
やむなく、ちょっぴり剪定。ほとんど剪定のフリ・・・
くらいに留めてきた。(どんだけ頑固なワタシ。W)

 

そして施肥もしないし摘果もしない。

 

が、毎年6月中旬にはビワの実がよく成り、
近所の人にお裾分けし、リピーターも現れ・・。

うちの脚立を勝手に使って収穫を楽しむおばさんや、
剪定していないビワの木のせいか空き家と勘違いされ無断で、
もぎ取ろうとするお爺さんと仲良くなったり。

 

皆様のその図々しさに、笑い話のネタが増え、かえって有難かった。アハハ〜
近隣の人との対話をくれる楽しい果樹でいてくれて嬉しいのである。
そして何にもしていないから、気楽でもいられる。


ホント、公共の場(公園や街路樹)で果樹など、

農作物を育てさせない土地の法規制は、

国際金融家について知るほどに

農協、大手スーパー、___輸入果実のため、

そして「カネ支配」のためとつくづく思う。

 

(ちなみに、農家は本当に薄利で

 過酷な仕事なので責める訳にいかない。

 日本農業の衰退、年々の食料自給率の低下も、

 多くの日本社会の問題と同様、

 GHQが経済支配の意図、日本に対し悪意をもって

 施行させた法整備が、そもそもの根本原因だ。)

 

 

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ところで、ほとんど剪定しないことで気付いたことのひとつは、
やはり鳥のことだ。

それは、まだ想像の域を超えないが、もしかすると
鳥たちは、食になる目ぼしい樹木などを目印にしたりして、
行動を形作っているのではないかな?と。
人間が美味しいお店を記憶することに、
ワクワクするのと似ているのかもっ。

 

そんな風に、想像するとメルヘン(ぷッぷ)は

すぐそこにありますな。。。笑

 


空から見て、変わらない状態の場所に安心感を持ち、
食べたい物がそこにある、という記憶は
人間の食に対する関心と、ほとんど同じかもしれない。

 

木は成長するから大きさは変わるけれども。
毎年、馴染みの木があるその場所、様子、風景を
行動の基準にしているのではないだろうか。むしろ
人間より、もっと切実なランドマークではなかろうか、と。

 


剪定をし過ぎて様子が変わってしまう樹木には
あまり集うことをしないのではないかな・・・。

 

動物たちは、人間が鈍くなっている本能を
変わりなく持ち続けている。
人間たちが気付かない視点で、この地球を感じて生きている。

 

人工物が刻々と増え続けるカネ礼賛社会において、
鈍くなり忘れ去ってしまっている人間の生物としての感受性を
都市においても、野生動物たちは普遍的に持ち続けているのではないかな。

(マヨネーズが好きなカラスはどうなのか?はさておき・・・)

 


私たちが狂い続け失い続けている五感を取り戻すのに、
改めて、身近な動物や昆虫、原産・固有種などの植物、

(ビワは日本原産ではないようだけれど)

日本の風土にあった植物などのことに、
関心を持ちませんか?観察しませんか?想像しませんか?


そんな思いが込み上げる、今日この頃である。

 

 

 

 

大晦日のカラスたち

 

また、大晦日のこと。

 

12月31日、近所の食品スーパーへおせちなどに

必要な調味料等を少し買い足すのに出掛けた。

店内は年末最終日の買物客で大賑わいだ。

ショーケースには溢れんばかりの食材。

盛り沢山の野菜や果物が入り口付近に。奥の鮮魚売り場には、

カニやエビ、鮭や鰤、数の子、刺身、お寿司・・・

珍味、練製品、お餅、おせち食品、年越し蕎麦、惣菜、

牛肉、豚肉、鶏肉・・・

あらゆる食べ物が賑々しく並んでいる。

 

人混みと、普段より豪華な品揃えに、ワタシは気圧されそうだった。

必要な品を購入し、そそくさと店を出た。

その他、用があり次の場所へ自転車で向かっていた。

 

年末年始の休暇とあって、自動車も人通りもまばらだ。

お陰で、空気はいつもより澄み騒音も少なく、

よく晴れており寒過ぎず、外は心地良かった。

 

 

帰り道、集合住宅の前を通りかかった。

仮住まいの建物で帰省の人が多いのか。

ゴミ集積所には、どっさりゴミが積まれ、そこに

6羽くらいだったか、カラスたちがゴミ袋を漁っていた。

散乱する紙くずや器が、明日の新年には相応しくなかった。

が、ワタシの家は少々離れた場所で掃除道具を

持参する気力もなく、やり過ごし、ともかく

その町内の住民に任せることだろう、と。

 

それより、カラスたちのその様子が

殊更に哀しく映った。

カラスたちが一生懸命漁るゴミ袋に、

彼らのお腹を満たす食べ物は見つかっただろうか。

さっき行ったスーパーには溢れんばかりの食材と、

嬉々として食材を選ぶ人々。

カラスたちの暮らしぶりを重ねた。

ゴミを漁るカラスたちの姿は、よく見る光景だけれども。

 

 

改めて考えると、同じ生物であるにも関わらず、

あまりの落差に、胸が締め付けられる思いがする。

何という残酷だろうか。

 

自宅に戻ってから、果物か、カラスが好きだと聞いたマヨネーズを

動物性の食べ物に付けて、その場所に置きに行こうか、とも

思ったが、さすがに人目を憚ってまですることではないか、と

諦めたのだが。。。

 

**************

 

偽ユダに牛耳られてしまった、

現 代 日本の行政や狂育、マスゴミ諸々、現況の有様では、

他生物と人間の生活が心地よく調和する環境、

人間や他生物が本来あるべき生活など、

到底、望めない。

 

 

人間は地球の果てまで食材を求めかき集め、カネという道具さえ

あれば、何でもかんでも手に入り食べられる。それに引き換え、

カラスたちは人間の食べ残し捨てられた、わずかな食べ物を

必死で探している。

 

カラスもカネを持てば、美味しい食べ物がたらふく

食べられるかの如くの、金銭礼賛・飽食肉食礼賛の社会。

カネを操る知恵がない人間以外の生物は、

地球で益々生き難くなるということか‥。

ちゃんちゃら可笑しい。

 

カラスは、元来、自然界のお掃除を担っている

有難い鳥だとワタシは思っている。動物などの

亡骸をついばみ、大地でタンパク質が過剰に腐敗するのを

防ぐ役ではないかな‥。更には現代人には気付けない

もっと深い役割があるかもしれない。

ワタシたち先祖、江戸社会の人々の持っていた、

他生物への温かい眼差しや、豊かな自然からの叙情と、

その暮らし方に思いを馳せる。

 

 

眉唾言説も多い気がするベ ンジャミン フルフォ一ド氏だが、

〜闇の権力は“魚にさえも水代を支払え”という社会にしようとしている〜

というような的を得た言葉が、著書に綴られていたことも思い出す。

 

 

人間同士では「まず、与えることだ」とか、

新 約 聖 書だったか。与えよ、さらば与えられん。

と、精神論や宗教観を熱心に実行しようとするのに。

 

なぜ、ありふれた何処にでもいる人間以外の生物には、

食べ物を与えるな、汚くなるから!

産ませるな、街が汚れるから!と、

冷酷にがなりたてるのか。

なぜ、そこまで厳しくしてしまうのか。

 

明らかに、食 物 連 鎖を破壊して来たのは人間のせいだ。

野生の生物たちが、日々の食に

ひどく難渋しているにも関わらず。

 

*********:

 

肉食は生物の命のみならず、地球の膨大なエネルギーを

費やすことも忘れてはならない。

元来の食生活を逸脱している、

現 代日本人の肉食礼賛は病的だ。

偽ユダらに、そう仕向けられている。

もちろん、それは汚染脳に他ならない。

それが、カラスたちのゴミ袋漁りの食事に、

最も加担していることが、解らない。

気付かない知ろうとしない、

結局は、私たち現 代 日本人の責任である。

 

マスゴミや狂育現場の情報の影響が大きく巧妙で、

現代日本人はすっかり動物性食物に偏ってしまった。

カラスたちの好物の匂いが、ゴミから漂ってくるのだから、

漁ってしまうのは当然の成り行き。

 

本当に、汚れて、汚ないのは

カラスがゴミを漁った後の“町内”ではなく、

肉食・工業加工食品が、

大好きになってしまいそれらを飽食している、

現 代日本人ワレワレ「腸内」(苦笑)

 

人間たちはたらふく食べられる食材があるこの日本で、

野鳥や、様々な生物たちは日々の食も住処もままらない。

植物もF1や遺伝子組換や、外来種の樹木が増え続け、

昆虫の生態も年々滅茶苦茶になって来ているだろう。

昨春はチョウチョが、昨秋はトンボが、

随分と減ってしまったことも気になっている。

自然破壊がこのまま続くと、カラスも含め

ありふれた身近な生物のほとんどが、姿を消してしまうように思う。

 現 代 日本人が汚染脳で潔癖症になっているから、かえって

快適だと思う人もいるかもしれない。が、それは巡り巡って

自分の子孫の存在を絶つことに繋がっているだろう。

 

 

1ヶ月程前のこと。別の場所のことであるが、

知人が「この辺りは、ごみ収集の日に、

そこの壁に黒い塊になって怖い程のカラスが集まってくるの。

嫌でしょう。」とこぼしていたことも、思い出す。

 

それを聞き、ワタシは心の中で

『自然環境が破壊され、生態系、食物連鎖も壊れてしまっていること。

肉食・加工食品に偏っている、現代日本人の責任であること。

ゴミ収集と焼却という短絡的な行政しかせず、

残渣(糞尿屍も)を土に返す生活にさせない都市整備・社会システムであること。

カラスは、人間にそれらを警告してくれている、と受け止めるべき。』と、

伝えたかったが、知り合ったばかりだったので、

なま返事でやり過ごした。言えばよかった、と

晦日のゴミを漁るカラスたちを見て、後悔したことだった。

 

 *****************

 

自然環境が本来の姿を取り戻さなければ、

自分の健康や美容、容姿に執着し必死で努力しても、

所詮無駄なように思う。

 

 

そろそろ・・・ 

地球で「生かされる」ことだけに

目を向ける、感謝するだけでなく。

「与える」という精神論を

人間同士だけで完結させるのではなく。

 

「他生物を生かすこと」

「他生物に与えること」、

その工夫と、さらにそれについて感謝する人間へと、

意識を変化させる時期ではないか、と思ったりする。

与える側の存在になるというか。

それこそ驕った考えかもしれないが‥。

(生贄ということではなく。。。

 生活の目線で、植物や動物の生態・性質を観察し感受し生かす。

 生態系が崩壊している現代は、遅過ぎるとは思うけれど。)

 

地球から、たくさんの食べ物を頂いて来た

現 代 日本人も、これからは地球や他生物に、

恩返しする時代になるといいなぁ、と未来図を想う。

 

 

 

 

自然を尊ぶ暮らしの中に、生物進化がある‥。

 

 

 

現代は“便利”という言葉があまりにも便利に使われ
思考停止が蔓延している、というのがワタシの実感だ。
便利さというものは、
知恵や肉体を使わないことと、同義になっているようにも思う。

 

自然を人工的に作り変え、
便利な場所に暮らし便利な道具を使って効率化とする。

 

大都市を志向し居住を果たし、
経済活動や能力(感情に由来する振り子現象)によって
物質や情報で優越感に浸る“幻想の人生劇場”。
完璧主義、潔癖なイメージ(汚染脳)が先行した、
汚い、臭い、気持ち悪い。
敗者、惨め、とかの排他的な意識。
夢という言葉の解釈を狂わせたUSA的な薄っぺらな
御都合主義の上昇志向。
物質的価値の優越を得る一過的な快感。

 

 

 

 

 

自然物や自然現象を排除し、人工的な想定内での安全を確保し、
楽に、思い通りに、人生時間を使う、消耗することが、
正義だと信じ込んでいる。

 

結果としての事実は、生物的には個々の肉体や意識、知恵は劣化している。

 

 

それでも、気分が良くなるなら、“便利は有難い”もの。
脳に刷り込まれたイメージと感情の均衡だけが、
現代人の拠り所である。

 


マスメディア、あるいは教育文化芸術・政治・経済という
間接的な情報源の
映像、画像、音響、活字、数字の
ゴイム脳の視覚聴覚のコント口一ルはチョロいものだろう。

 


経済最優先の現代人の生活様式は、
面倒なことを避け、時間を短縮し、
余剰の時間は、享楽、怠惰、権威や虚栄・綺麗で
欲望を満たすことに、人生時間を充てる。
それを幸福だ幸運だ、感動、感激と思っている。


マスゴミが伝聞する進歩発展という決まり文句が、
自己肯定感を大衆に与えてくれる。
だが、我々ゴイムの幸福感は偽であり
幻想に過ぎない。

 


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「ひかたま」さまのブログを 

時々、読ませて頂くことがある。
自然療法を取り入れた獣医師の方が発信されている。
が、ワタシはこちらのブログ記事の多くは読むのが辛い。
地球生物の危機を伝えておられる内容は、
あまりにも厳しい現実で悲惨過ぎるからだ。

 

その多数の記事の中で気弱なワタシにも読むことができた、
現代人にとって内省を促されるであろう、
「進歩発展とは何か、便利とは何か」を考えされられる記事を
何度か発信されており、共感しているので、リンク先を
紹介したい。

 


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http://shindenforest.blog.jp/archives/77230792.html

アーミッシュの人たちに起きている遺伝子変異

 


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一年近く前に、こちらの記事を読ませて頂き、
やっぱりか・・・。と、思わずと膝を叩く。

 

自然を尊んだ暮らしの中で、遺伝子は

ゆっくりと進化していくものだ、と改めて感じた。

 

だが、遺伝子の進化を知るには科学という器が
無くては、客観的に知ることができない皮肉。

いつの頃からだろうか。

人間は懐疑的な思考を客観と定義し科学を認識し、

携えたのかを想像したくなったりもする。

(有史以来やらルネサンスという枠では無く、超古代からの人間の思考に於いて)

 

 

 

 

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ところで、もう一つ。
キ リスト教信者のア一ミッシュという一派の
生き方である。

 

相変わらず、西洋礼賛やユダキリ教としてそれを否定するワタシの
うがった見方は承知である。

 

が、ア一ミッシュと呼ばれる人々の暮らしを尊重するとしつつも、
実際は、偽ユダ勢力の実験や研究対象であり
政治的に温存して来ただろうことが推測できる。
上記記事に出てくる事件さえも、
それは実験であった可能性もあろうか、と。

 

 

元来ならば欧州地域でそうした生き方を
国家や宗教が容認するのが妥当とも思う。
元々、原住民から収奪したア メ リ カの大地で、欧州人らが強引に暮らし始め、
宗教観の違いから暮らし方が、現代の人工的社会と乖離した、
社会集団を形成した上での、遺伝子の異変、或いは進化。

(遺伝子研究が進んでいるからだろう日本も参画しているようだが‥‥‥)

それを観察し続けている偽ユダ(アシュケナジ)勢力の、

究極のあざとさ。

 

 

異変のそれは、確かに正論であり摂理と思う。
だが、どうせなら欧州地域で
それを「実験」すればいいのじゃないか?と。

 


更に、ブログ筆者が最後に指摘されていることに、ワタシも強く同意してしまう。
ア一ミッシュの遺伝子を更に、長寿を目指すための実用研究(薬品開発)が
されている、、、だと。

 

 

呆れ果ててものが言えない。

開いた口が塞がらない・・・とは
このことぞ。

 

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ひとことおおい【追記】

中世から近代にかけ、
全ての大陸、諸島で素朴に自然と調和し
生きて来た人々の暮らし、社会を

欧州勢偽ユダが破壊した後。

 

北アメリカ大陸で、保守的で敬虔な

キリスト教者アーミッシュ(移住した)の遺伝子が
進化した、と現代の技術で学術的に報告されても、
なんだか、バカバカしく思う。


長寿とかの遺伝子変異、この結果は、

宗教への信念が凄いことを言いたいのだろうか!?

 

自然と調和し暮らして来た欧州系以外の
アメリカ大陸、オセアニア、アジア、諸島・・・原住の人々、
その民族が幸福に暮らしを続けていたなら、
もっと、遺伝子は進化していたかもしれないネっ。(涙)

 

黒豆

 

 

 

 

晦日にはおせちを作る。
恒例の黒豆も煮る。
その前日に多少仕込んで。


ところで、数年前に黒豆も土鍋で煮ると美味しいことが分かった。
調理器具の形や素材は食材に案外影響しているようだ。
当たり前のことかもしれないけれど。。。

今回は黒豆の用意は少量だったので
一人用の土鍋を使うことにした。

黒豆を煮る時、汁をひたひたにしないと、
豆の皮がしわがれて、ぷっくりとした煮豆に仕上がらない。
それを母がよく言っていたことを思い出す。

ゆえに、煮汁をたっぷりにすることと、
乾燥豆が水分を含み膨れ上がることを想定し
吹きこぼれの惨事を思うと、危険な選択であった。
一人用の小さな土鍋を使うかどうか、
煮始める時に逡巡したいが、やはり
鍋を数日置く場所を考えると小さな土鍋が良さそうで。

いつも通りコトコト煮るのにガスストーブをフル活用すれば、
無難に済ませられるだろう、と考えた。


黒豆の煮方は家庭によって様々だと思う。
主婦自慢の黒豆の煮方はネットで検索すると数多だ。

毎年、黒豆煮を試行錯誤していた母と祖母を思い出すと、
大げさだが、小宇宙だなぁと思う。

豆の良し悪し、性質。水分と糖分、微妙な調味。
熱量と時間やタイミング。そこに寄り添う心。
鍋の中のドラマ?!を想像して、ああでもない、こうでもない、と。
実家の台所の引き出しの隅に、仕舞ってあった
錆びた釘も懐かしい。

黒豆の色や艶を演出するのに、錆びた釘を入れる
化学の根拠は、酸化と還元に由来するだろうが、
未だ家庭料理の経験的な慣例に、
知識浅薄なワタシは少々歯がゆい思いもする。

実家の錆びた釘は亡母の黒豆煮が、大好きだった
姪っ子に引き継がれた。ワタシは錆びた釘を新たに用意しようと
思いながらも面倒で、未だ入れないままの邪道の黒豆煮である。


ところで、うちにあるいくつかの小さな土鍋の蓋が割れ、あと一つしかない。
蓋だけ売ってくれたら、と使うたびに思う。
消耗消費礼賛で、小さなことに不親切な資本主義社会が恨めしい。

ともかく、後一つの小さな土鍋のその蓋は、
他の煮物で出払っていた。
黒豆煮の鍋にのせる蓋がない。
そんな苦境にも関わらず‥。
小さな土鍋で煮た黒豆が、今年も案外と、
うまく仕上がった。そんな些細な出来事をダラダラ書いても
仕方ないことは承知だけれども。

 

 

 

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小さな土鍋で煮る豆の煮汁と、
膨らんだ豆に気を配り睨めっこし、加熱で汁が減っていく様子を
時々見ながら、落し蓋をするか、しないか。
キッチンペーパーか、クッキングシートか、アルミホイルか。
(が、どれもゴミ‥に)
ならば、金属製の蛇腹の落し蓋器具か、小さなステンレス鍋のいつもの蓋か。

ドレにしても、長時間の加熱で
微量な化学物質が煮豆に入ることを想像すると、不気味に思ってしまう。
くだらないワタシの神経質さには困ったものダ。
さりとて、鍋で浮き上がる煮豆の上部が空気に晒されぬよう、
落し蓋をし表面張力で何かを与えなくては、シワができるのは自明。

大きめの土鍋ならば汁の調節で凌げるのに‥。
少々後悔する。

落し蓋を何にしたら良いものか。

さらにアレコレ考えた。
白無地の小皿をのせるか。
和紙をのせたらと思いつつも、
この時代、ミツマタやコウゾの純正和紙をすぐ調達もできない。

いくつもの煮物で蓋はフル稼働。丁度良い蓋がない。
そんな状況で、手近にあるヒノキの大きめの木蓋を
思い付きで、ひとまずストーブの小さな土鍋にそれをのせた。

しばらく経って鍋を覗くと、アレ?と。
意外や意外、豆の皮がしっとりしている。

落し蓋と言えば、浮き上がる豆の表面に被せるものだが、
小さな土鍋に2cmほどの空間を与える木蓋が、落し蓋の用を為していた。


嗚呼、なるほど。
加熱による水蒸気で木に含まれていく水分が、
浮き上がる豆の皮に、適度な湿度を与える空間が生まれるんだなぁ、と。
その間、木は水分をたっぷり含み、火力のリズムによって膨張と収縮など
様々な変化が起きている模様。


土鍋の良さを主婦になって実感したが、土鍋の専用の蓋が無くてはと
思っていたけれども。
よく、囲炉裏で鉄鍋や土鍋を炊く風景がある中に、
木の蓋が添ぐうのは、蒸気と湿度が具材に寄り添う調理だからなんだなぁ‥‥と。

昔の人たちが作ってきた料理には、
やはり昔からの器具がふさわしい。
理に適った道具で作る、その良さがあるのを実感した。

 

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今どきの、世間一般が有り難がる“伝統”という言葉には、
権威が含有され、束縛、そして嘘だらけ。
商業的に利用されているに過ぎないのが実態だ。

 

近代から現代西洋文化の約200年の
常套句・喧伝用語とも言うべき“伝統”に
現代日本人はまんまと汚染脳されてきたと思うのだ。

 

江戸社会にあった人間にとって、また生物全般にとっての幸福感を

明治維新という欧州貴族及び国際金融家らが、暗躍・指示したその時代、
マスゴミ(印刷技術の台頭・・・新聞・雑誌・書籍・・或いは学問)で、
まことしやかに未熟な文明社会と烙印を押され、強要され、
日本人のアイデンティティ(自己存在一貫性肯定感)を
封印されるに至った。

 

本質的な民族地域性を伝承が為されていない、実感の伴わない、
イメージだけの“伝統”という常套句で、日本の大衆もまた弄ばれてきた。

 

直線的な上昇思考はもういらない。
古めかしさで体裁を整えんとする、西洋的な権威主義など、
ワタシにとっては、嘘だらけに感じられ、
もう鬱陶しいだけである。

 

偽ユダのプロパガンダは、偽の伝統と偽の進歩発展。

強奪と虚栄の上に成り立ってきた西洋の
貴族的支配主義から金融と資源支配に至った、
狂信的な金銭礼賛の現 代 社 会から抜け出ることでしか、
地球にまともな未来はやって来ない、と。

 

 

 

意識は直線ではない。ましてや上下もない。
(超古代〜万年単位を意識した)温故知新が、合理であろうか。

 

抽象的だが、今という点からぐるりと視線を向ければ、
環状に、古さと新しさが共存している。
今年はそんなことを「つくる」ことから、ぼんやり思った次第。