ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

黒豆

 

 

 

 

晦日にはおせちを作る。
恒例の黒豆も煮る。
その前日に多少仕込んで。


ところで、数年前に黒豆も土鍋で煮ると美味しいことが分かった。
調理器具の形や素材は食材に案外影響しているようだ。
当たり前のことかもしれないけれど。。。

今回は黒豆の用意は少量だったので
一人用の土鍋を使うことにした。

黒豆を煮る時、汁をひたひたにしないと、
豆の皮がしわがれて、ぷっくりとした煮豆に仕上がらない。
それを母がよく言っていたことを思い出す。

ゆえに、煮汁をたっぷりにすることと、
乾燥豆が水分を含み膨れ上がることを想定し
吹きこぼれの惨事を思うと、危険な選択であった。
一人用の小さな土鍋を使うかどうか、
煮始める時に逡巡したいが、やはり
鍋を数日置く場所を考えると小さな土鍋が良さそうで。

いつも通りコトコト煮るのにガスストーブをフル活用すれば、
無難に済ませられるだろう、と考えた。


黒豆の煮方は家庭によって様々だと思う。
主婦自慢の黒豆の煮方はネットで検索すると数多だ。

毎年、黒豆煮を試行錯誤していた母と祖母を思い出すと、
大げさだが、小宇宙だなぁと思う。

豆の良し悪し、性質。水分と糖分、微妙な調味。
熱量と時間やタイミング。そこに寄り添う心。
鍋の中のドラマ?!を想像して、ああでもない、こうでもない、と。
実家の台所の引き出しの隅に、仕舞ってあった
錆びた釘も懐かしい。

黒豆の色や艶を演出するのに、錆びた釘を入れる
化学の根拠は、酸化と還元に由来するだろうが、
未だ家庭料理の経験的な慣例に、
知識浅薄なワタシは少々歯がゆい思いもする。

実家の錆びた釘は亡母の黒豆煮が、大好きだった
姪っ子に引き継がれた。ワタシは錆びた釘を新たに用意しようと
思いながらも面倒で、未だ入れないままの邪道の黒豆煮である。


ところで、うちにあるいくつかの小さな土鍋の蓋が割れ、あと一つしかない。
蓋だけ売ってくれたら、と使うたびに思う。
消耗消費礼賛で、小さなことに不親切な資本主義社会が恨めしい。

ともかく、後一つの小さな土鍋のその蓋は、
他の煮物で出払っていた。
黒豆煮の鍋にのせる蓋がない。
そんな苦境にも関わらず‥。
小さな土鍋で煮た黒豆が、今年も案外と、
うまく仕上がった。そんな些細な出来事をダラダラ書いても
仕方ないことは承知だけれども。

 

 

 

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小さな土鍋で煮る豆の煮汁と、
膨らんだ豆に気を配り睨めっこし、加熱で汁が減っていく様子を
時々見ながら、落し蓋をするか、しないか。
キッチンペーパーか、クッキングシートか、アルミホイルか。
(が、どれもゴミ‥に)
ならば、金属製の蛇腹の落し蓋器具か、小さなステンレス鍋のいつもの蓋か。

ドレにしても、長時間の加熱で
微量な化学物質が煮豆に入ることを想像すると、不気味に思ってしまう。
くだらないワタシの神経質さには困ったものダ。
さりとて、鍋で浮き上がる煮豆の上部が空気に晒されぬよう、
落し蓋をし表面張力で何かを与えなくては、シワができるのは自明。

大きめの土鍋ならば汁の調節で凌げるのに‥。
少々後悔する。

落し蓋を何にしたら良いものか。

さらにアレコレ考えた。
白無地の小皿をのせるか。
和紙をのせたらと思いつつも、
この時代、ミツマタやコウゾの純正和紙をすぐ調達もできない。

いくつもの煮物で蓋はフル稼働。丁度良い蓋がない。
そんな状況で、手近にあるヒノキの大きめの木蓋を
思い付きで、ひとまずストーブの小さな土鍋にそれをのせた。

しばらく経って鍋を覗くと、アレ?と。
意外や意外、豆の皮がしっとりしている。

落し蓋と言えば、浮き上がる豆の表面に被せるものだが、
小さな土鍋に2cmほどの空間を与える木蓋が、落し蓋の用を為していた。


嗚呼、なるほど。
加熱による水蒸気で木に含まれていく水分が、
浮き上がる豆の皮に、適度な湿度を与える空間が生まれるんだなぁ、と。
その間、木は水分をたっぷり含み、火力のリズムによって膨張と収縮など
様々な変化が起きている模様。


土鍋の良さを主婦になって実感したが、土鍋の専用の蓋が無くてはと
思っていたけれども。
よく、囲炉裏で鉄鍋や土鍋を炊く風景がある中に、
木の蓋が添ぐうのは、蒸気と湿度が具材に寄り添う調理だからなんだなぁ‥‥と。

昔の人たちが作ってきた料理には、
やはり昔からの器具がふさわしい。
理に適った道具で作る、その良さがあるのを実感した。

 

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今どきの、世間一般が有り難がる“伝統”という言葉には、
権威が含有され、束縛、そして嘘だらけ。
商業的に利用されているに過ぎないのが実態だ。

 

近代から現代西洋文化の約200年の
常套句・喧伝用語とも言うべき“伝統”に
現代日本人はまんまと汚染脳されてきたと思うのだ。

 

江戸社会にあった人間にとって、また生物全般にとっての幸福感を

明治維新という欧州貴族及び国際金融家らが、暗躍・指示したその時代、
マスゴミ(印刷技術の台頭・・・新聞・雑誌・書籍・・或いは学問)で、
まことしやかに未熟な文明社会と烙印を押され、強要され、
日本人のアイデンティティ(自己存在一貫性肯定感)を
封印されるに至った。

 

本質的な民族地域性を伝承が為されていない、実感の伴わない、
イメージだけの“伝統”という常套句で、日本の大衆もまた弄ばれてきた。

 

直線的な上昇思考はもういらない。
古めかしさで体裁を整えんとする、西洋的な権威主義など、
ワタシにとっては、嘘だらけに感じられ、
もう鬱陶しいだけである。

 

偽ユダのプロパガンダは、偽の伝統と偽の進歩発展。

強奪と虚栄の上に成り立ってきた西洋の
貴族的支配主義から金融と資源支配に至った、
狂信的な金銭礼賛の現 代 社 会から抜け出ることでしか、
地球にまともな未来はやって来ない、と。

 

 

 

意識は直線ではない。ましてや上下もない。
(超古代〜万年単位を意識した)温故知新が、合理であろうか。

 

抽象的だが、今という点からぐるりと視線を向ければ、
環状に、古さと新しさが共存している。
今年はそんなことを「つくる」ことから、ぼんやり思った次第。