ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

簡素さとゆたかさ______「逝きし世の面影」第三章より

この本を紹介するにあたり
アフェリエイトはしていない。
もちろん出版や著者とも全く無関係である。

現代日本人が持っている江戸時代のイメージと
真実の江戸が逆さまであり、
現代日本人が明治以前の先祖のことや自国の古い文明文化を
知ることは現代社会の疲弊を見る時、
急務ではないか、との思いでお伝えする次第。
現代日本人は洗脳による
西洋文化礼賛病罹患者であり記憶喪失なのだ。もちろん私もだ。
「逝きし世の面影」は現代日本人の西洋礼賛病治癒、記憶回復のための
必読書だと思っている。


逝きし世の面影  渡辺京二著(平凡ライブラリー)

第三章 簡素とゆたかさ (一部抜粋)

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(100~106頁)

日本が地上の楽園などであるはずがなく、
にもかかわらず人々に幸福と満足の感情があらわれていたとすれば、
その根拠はどこに求められるのだろうか。

当時の欧米人の著述のうちで最も驚かさせるのは、
民衆の生活のゆたかさについての証言である。
そのゆたかさとはまさに最も基本的な衣食住に関するゆたかさであって、
幕藩体制下の民衆生活について、悲惨きわまりないイメージを長年叩きこまれて来た

私たちは、両者間に存するあまりの落差にしばし茫然たらざるを得ない。
1856(安政三)年八月日本に着任したばかりのハリスは、

下田近郊の柿崎を訪れ次のような印象を持った。
「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、

住民の身なりはさっぱりとしていて、態度は丁寧である。
世界のあらゆる国で貧乏にいつも付き物になっている不潔さというものが、

少しも見られない。
彼らの家屋は必要なだけの清潔さを保っている」。
むろんハリスはこの村がゆたかだと言っているのではない。
それは貧しい、にもかかわらず不潔ではないと言っているだけだ。
しかし、彼の観察は日を追うて深まる。

次にあげるのは十月二十三日の日記の一節である。
「五マイルばかり散歩をした。

ここの田園は大変美しい__いくつかの険しい火山堆があるが、
できる限りの場所が全部段畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。
これらの段畑中の或るものをつくるために、

除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある。」
十月二十七日には十マイル歩き、「日本人の忍耐強い勤労」と

その成果に対して新たな讃嘆をおぼえた。
翌二十八日には須崎村を訪ねて次のように記す。
「神社や人家や菜園を上に構えている多数の石段から判断するに、

ひじょうに古い土地柄である。
これらに用いられた労働の総量は実に大きい。しかもそれは全部、
五百か六百の人口しかない村でなされたのである」。
ハリスが認知したのは、幾世代にもわたる営々たる労働の成果を、
現前する風景として沈澱させ集積せしめたひとつの文化の持続である。
むろんその持続をならしめたのは、

この時およそ二百三十年を経ていたいわゆる幕藩体制にほかならない。
彼は下田の地に、有名な『日本誌』の著者ケンペル(1651~1716)が

記述しているような花園が見当たらぬことに気付いていた。
そしてその理由を、「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、
ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕が
ないからだ」と考えていた。ところがこの記述のあとに、
彼は瞠目に値する数行をつけ加えずにはおれなかったのである。
「それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけ食べ、

着物にも困っていはいない。
それに家屋は清潔で、日当たりも良くて気持ちが良い。
世界のいかなる地方においても、労働者の社会で
下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」。
これは1856年十一月の記述であるが、翌57年六月、
下田の南西方面に足を踏み込んだときにも、彼はこう書いている。
「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を一人も見ていない。
子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えているし、

男女ともすこぶる肉づきがよい。

彼らが十分に食べていないと想像することはいささかもできない」。
ハリスはこのような記述を通して何を言おうとしたのか。

下田周辺の住民は、社会階層として富裕な層に属しておらず、

概して貧しいということがまず第一である。
しかしこの貧民は、貧に付き物の悲惨な兆候をいささかも示しておらず、

衣食住の点で世界の同階層と比較すれば、

最も満足すべき状態にある__これがハリスの陳述の第二の、
そして瞠目すべき要点だった。ちなみに、ハリスは貿易商として
インド、東南アジア、中国を6年にわたって経めぐって来た人である。

 プロシャ商人リュードルフはハリスより一年早く下田へ来航したのであるが、
近郊の田園について次のように述べている。
「郊外の豊穣さはあらゆる描写を超越している。
山の上まで見事な稲田があり、海の際までことごとく耕作されている。
恐らく日本は天恵受けた国、地上のパラダイスであろう。
人間がほしいというものが何でも、この幸せな国に集まっている」。
彼は下田に半年しか滞在しなかったのだから、
見事な稲田の耕作者たちが領主階級の収奪を受けていないかどうかという点にまで、
観察を行き届かせたわけではない。
だが彼の記述はハリスのそれの信憑性に対する有力な傍証であるだろう。
もし住民が悲惨な状態を呈しているのなら、
地上のパラダイスなどという形容が口をついて出るはずがない。
 おなじ安政年間の長崎ついては、カッティンディーケの証言がある。
彼の長崎滞在は安政四年から六年に渡っており、その間、
鹿児島、対馬、平戸、下関、福岡の各地を訪ねている。

彼はいう。「この国が幸福であることは、一般に見受けられる繁栄が
何よりの証拠である。百姓も日傭い労働者も、皆十分な衣服を纏い、
下層民の食物とても、少なくとも長崎では申し分のないものを
摂っている」。この観察もハリスの陳述をほぼ裏書きするものといってよかろう。
すなわちここでも、日本の民衆は衣と食の二点で
十分みたされているものと見なされているのだ。
しかしこの言明の中で「百姓も」と言われているのは実は問題のあるところだ。
なぜなら別な箇所で彼はこう書いているからである。

「農民は重税を忍ばされている。だから彼らの生活はまことに惨めである。
もしそうでないとすれば、日本の農民のごとく勤勉で節倹な百姓が、
しかも豊穣な恵まれた国土で働きながら、なぜ貧乏しているのか、
その理由が発見できないであろう」。この記述の揺れには、
あるいはオールコックにおいてみるように、天領と大名領の違いが
関わっているのかも知れない。だがともかく一般論としては、
彼が「民衆はこの制度の下で大いに栄え、
すこぶる幸福に暮らしているようだ」と推定しているのは確実である。

 オールコックは1859(安政6)年日本に着任したが、
神奈川近郊の農村で「破損している小屋や農家」をほとんど見受けなかった。
これは前任地、すなわち「あらゆる物が朽ちつつある中国」

とくらべて、快い対照であるように感じられた。
男女は秋ともなれば「十分かつ心地よげに」衣類を着ていた。
「住民のあいだには、ぜいたくにふけるとか富を誇示するような
余裕はほとんどないにしても、飢餓や窮乏の兆候は見うけられない」というのが、
彼の当座の判定だった。これはほとんどハリスとおなじ性質の観察といってよい。

 しかし1860(万延元)年九月、富士登山の折に
日本の農村地帯をくわしく実見するに及んで、オールコックの観察は
ほとんど感嘆に変った。

小田原から箱根に至る道路は「他に比類のないほど美し」く、
両側の田畑は稔りで輝いていた。
「いかなる国にとっても繁栄の物質的な要素の面での望ましい目録に

記入されている」ような、「肥沃な土壌とよい気候と勤勉な国民」がここに在った。登山の帰路は伊豆地方を通った。
肥沃な土地、多種多様な農作物、松林に覆われた山々、

小さない居心地の良さそうな村落。
韮山の代官江川太郎左衛門の邸宅を通り過ぎたとき、
彼は「自分自身の所在地や借家人とともに生活を営むのが好きな、
イングランドの富裕な地主と同じような生活がここにあると思った」。
波立つ稲田、煙草や綿の畑、カレーで味つけするととてもうまいナスビ、
ハスのような葉の水分が多いサトイモ、そしてサツマイモ。
「立派な赤い実をつけた柿の木や金色の実をつけた柑橘類の木が
村々の周囲に群をなしてはえている」。

百フィート(約30m)以上の立派な杉林に囲まれた小さな村。
一本の杉の周囲を計ると十六フィート三インチ(約5m)あった。
山峡をつらぬく堤防は桃色のアジサイで輝き、

高度が増すにつれて優雅なイトシャジンの花畑がひろがる。

山岳地帯のただ中で「突如として百件ばかの閑静な美しい村」に出会う。
オールコックは書く。「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が
苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。
だが、これらのよく耕作された谷間を横切って、
非常にゆたかさのなかで所帯を営んでいる幸福で

満ち足りた暮し向きのよさそうな住民を見ていると、
これが圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとは
信じがたい。むしろ反対に。ヨーロッパにはこんなに幸福で

暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土は

どこにもないという印象を抱かざるをえなかった」。

熱海に彼はしらばく滞在した。「これほど原始的で容易に満足する住民」は

初めて見たと彼は思った。
農漁業を営む四百の住民中、一生のうちによその土地へいったことのある者は

二十人といないのではないか。
彼はかつてスペインのブルゴスの街から二十マイル(約32Km)ほど離れた村で、

頭に雪のような白髪をかぶった老人が、まだ一度もブルゴスへは行ったことが

ないと言うのを聞いたことがあるのを思い出した。
鉄道が出現する以前の英国でも、同じようなことがあったにちがいない。
「村民たちは自分たち自身の風習にしたがって、
どこから見ても十分な幸福な生活を営んでいる」のだと彼は思った。
たとえそれがモグラやカキの幸福であるとしても。
オールコック省察に沈む。だとすると封建制度とは何であろうか。
たしかに「そこにおいては封建領主がすべてであって、

下層の労働者階級はとるに足らぬものである」。
しかし現実に彼の眼に映るのは「平和とゆたかさと外見上の満足」であり、
さらには「イギリスの田園にけっして負けないほど、

非常に完全かつ慎重に耕されている田園と、
いたるところにいっそうの風致をそなえている森林」である。
ケンペルは二世紀も前に、「彼らの国は専制君主に統治され、
諸外国とのすべての通商と交通を禁止させているが、
現在のように幸福だったことは一度もなかった」と述べているが、
結局彼は正しかったのではないか。
この国は

「成文化されない法律と無責任な支配者によって奇妙に統治されている」にも
かかわらず、「その国民の満足そうな性格と簡素な習慣の面で非常に幸福」なのだ。
次の一節はこの問題に関する彼の省察の結語といっていい。
「ともかく、公開の弁論も控訴も情状酌量すら認めないで、

盗みに対しても殺人に対するのとおなじように確実に人の首を

はねてしまうような、荒っぽくてきびしい司法行政を
有するこれらの領域の専制的政治組織の原因と結果との関連性が

どうであろうとも、他方では、この火山の多い国土がエデンの園をつくり出し、
他の世界との交わりを一切断ち切ったまま、独力で国内産業によって、

三千万と推定される住民が着々と物質的繁栄を増進させてきている。

とすれば、このような結果が可能であるところの住民を、

あるいは彼らが従っている制度を、全面的に非難するようなことは

およそ不可能である」。


(112頁)
カッティンディーケは言う。
「日本の農業は完璧に近い。その高い段階に達した状態を考慮に置くならば、
この国の面積は非常に莫大な人口を収容することができる」。
またオールコックによれば「自分の農地を整然と保つことに
かけては、世界中で日本の農民にかなうものはない」。
江戸近郊の農村で彼は「いたるところに熟練した農業労働と富を示す
明らかなるしるしを見かけ」た。ハリスも日本人の農業に対して
讃嘆の念をおぼえた一人である。彼らをことに
瞠目させたのは水田の見事さである。ハリスは言う。
「私は今まで、このような立派な稲、またはこの土地のような良質の米を
見たことがない」。1827(文政十)年から三十年まで長崎商船館長を
勤めたメイラン(1785~1831)は言う。「日本人の農業技術は
きわめて有効で、おそらく最高の程度にある」。



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著者の伝えんとする内容と異なるかと思うが…。

江戸時代までの日本国土の美しさは、欧州欧米人には驚嘆と
ある種の嫉妬、焦燥感、脅威さえ与えたのではなかっただろうか。
庶民の日々の暮らしの豊かさと隅々まで心行き届いた農地や
自然を愛でる風情。世界でもまれな美しさを有する
江戸幕府の手腕に対して、欧州欧米人が視察で感じた思いは複雑だったであろう。
彼ら個人的感想と、職業としてピラミッド支配体制下で

動く諜報員や軍事家、政治家にとって
支配とは何か?の自問自答もあったことだろう。

江戸社会に関わって来た出島の外国人や
彼らとつながる日本の隠れキリシタンらが、
幕府の現状を欧州に文書で長年に渡り伝聞し続けてきたと思う。
そのような諜報の視点であれば、不愉快な出来事も多く、
当然ながら思うようにならない不自由な社会として映り、
欧州人や隠れキリシタンは鬱憤を募らせていたことだろう。
その文書は、欧州側には不満を伝える報告だったろうし、
日本を否定する内容であったと思う。
それを予備知識として持ち幕末に訪日した欧州欧米人の
印象の落差は衝撃だったと思われる。
江戸幕府はあくまでも一般の日本人を守るために、

全うな努力をしてきたのだから。
この著書の後半には「政治が親のような役割」と思う

微笑ましい事例がいくつも出てくる。

複雑化を「進歩発展、近代化、文明開化」という詭弁によって軍事化、
工業化は強引に進められていった。戦後以降、自然環境は

もう取り返しのつかない状態である。
昨今、美しいと言って眺める花壇、花畑や田畑はほぼF1種、

あるいは遺伝子組換植物だ。
偽自然なのだ。公園の草木も田畑の作物もあらゆる農業園芸業は
延々と除草剤、農薬、ホルモン剤が必要となる苗や種をセットで買わせていく。
農協、大手種苗会社からモンサント、製薬会社まで

独占巨額営利のためのF1種や遺伝子組換植物。
雑木林に入れば立ち枯れを起こしている樹がやたら目につく。
造成であらゆる植物は排除され続ける。護岸工事で生物は暮せない。
街の川の水はシャンプーとヘドロの匂い。

植林の山は荒れ続け山の生物は常に飢餓状態だ。
大気も海も放射能、重金属汚染。自然、生態系は滅茶苦茶だ。
人間は太陽と地球の自然、植物によって生かされているのに。
そして特に日本人は携帯とマスコミと偽教育、拝金のロボット化洗脳である。

初めのブログにも記載したが肉食乳製品加工食も国の破壊に大きく加担している。
食肉乳牛を育てるために莫大な穀物供給が不可欠で、
ホルモン剤抗生物質まみれの処理しきれない糞尿や
工場からの廃棄物は化学肥料となり田畑にばらまかれ、農作物を育て食し、
工場生産の添加物薬漬けの食によって、水を土を汚す。
海が汚染され…その魚介を食べ…。内外すべて病病病…の循環である。
1300年来、それ以前から日本人庶民は肉食の習慣がほとんどなかったのだ。
明治維新以降はこの惨状である。

あらゆる職業が金銭獲得=生活という詭弁の拝金洗脳だ。
賃金労働が重視されてしまうのはマネー支配体制を巨大化させ
企業の名のもとに彼らが君臨するために作られた社会構造であろう。
自給自足で庶民は自由になり彼らは不要となる。
そうさせないための自然破壊でもあろうか。

現代の教科書やマスコミのドラマ映画では奴隷として多くの日本人が
売り飛ばされたことは触れないようにしている。
幕末までに先祖が築いた知恵深く平和な社会は、

西洋礼賛洗脳によって葬られた。
バテレン追放令に始まり…江戸開府から鎖国や参勤交代、関所、
…諸々の幕府の知恵を尽くした行政を事情は説明せず、
単なる奇妙な政治、むしろ揶揄するようなドラマ映画小説にしてきた。

現代の政治屋など足元にも及ばない本物の政治家だった、
秀吉や家康に感謝こそすれ、血なまぐさい武将伝説ばかり
取り上げるマスコミや歴史小説、教育は偉大な先祖に対して

無礼としか言いようがない。
正に、それが現代の日本政府がイルミナティの配下で

ある証拠となるものでもある。
この書のお陰で洗脳日本人の愚かしい歴史認識がわかる。
現代日本の人間の異常事態や自然破壊は、病んだ思想を持つイルミナティ
幕末に野心で目が眩んだ軽薄な人間らが結びついてしまった末路だ。

ちなみに、「武士は食わねど高楊枝」の言葉が残るように
基本的に副業を禁止されていた武士は江戸社会では困窮していたという。
よって明治時代に入り、やっと自由な仕事に就けるという訳で
時代が変わり喜んだのは武士だったそうである。