ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

鳥のこと__その3

 

 

自宅からすぐ近くの大通りの曲がり角を通りかかった時、
カラスが事故にあって、死んでいるのを目にした。
すでに何度も自動車が踏んづけた後のようで、肉片が飛び出し
ぺちゃんこになっていた。


痛ましい様子を見過ごすのがためらわれ、

家に帰りビニル手袋や袋や水の準備をして、その場所へ行った。

車の往来が激しい道路だから、間が空くのをしばし待ち、
ほどなく途切れたところで、思い切って車道に入りカラスの亡骸を拾い上げた。
その時、すぐ近くの電信柱からカラスの鳴き声が聞こえてきた。
甲高くカラスの声が空に何度も響き渡っている。

 

 

私は、支障のないどこかに埋めるか、可燃ゴミにするか、と

逡巡していたが、その啼いているカラスはきっと仲間に違いない。
咄嗟に、土に還すこと、できれば彼らが暮らしてきた場所、

その地に亡骸があることは、自然なことと思って、
歩道の樹の根元に見えぬよう置いて、南無阿弥陀仏と何度か唱えた。
その間中、ずっと電信柱のところでカラスが啼いていた。
ツガイだったか、家族、仲間だったのか。
切ない響きだった。

猫達と暮らし生き物は、すべて感情があることを日々感じている。
現代の人間の悲しみより、動物たちの悲しみは純粋で鮮烈であることも。

 

けれども、記憶という荷物を背負う人間よりも

動物たちは軽やかに、自然、そして無常を

受入れていることも信じている。

 

****************

 

都会の悲惨は、カネをかけ立派に豪奢になる程に、
人間の気付かないところで、たくさん起きていることを痛感する。
ビルの高さが増す程に陰影が濃くなるが如く、と。


明治以降、白人社会の模倣社会になった時から、
日本人の心は、次第に忘却・封印されてしまったようで。
約150年、乱痴気騒ぎの西洋礼賛に、やるせなさが募る。

 

書籍『逝きし世の面影』にあった描写に、江戸の人は、
遊覧の舟にカラスが乗っていても、追い払うこともしない。
特に忌み嫌うようなこともなかったと書かれていた。

蚤が背中に住んでいることを楽しむという変人愉快な人の話も忘れ難い。

 

植物に動物に…意味付けをしたり、虫を次第に嫌がるようになったのも、

明治以降かもしれない。
キリスト教的な懲罰の思考や物質的な完璧主義が、

日本人の意識を次第に変えていっただろうか。

 

 

“幸福や不幸・幸運不運”を過去や未来に因果を求める思考。
天国という救済。地獄という懲罰。
極端に記憶・記録(二次元のデータ)が偏重の

西洋礼賛社会の人間のそれは、
損得勘定の思考が、潜在的に醸成されるのだろう。
現在の日本に於ける神仏の解釈も、明治から西洋化してやいないか。

 


“今に生きてナンぼ”の、幸福感を誤解している現代日本人ではないのか。
すべては今という瞬間(時間ではない)に在ることを忘れていないか、と。
(ワタシもそうだけれども。。。ーー;)

 

 

奴隷VS貴族ヒエラルキーの構図で、

世界を覇権せんとした欧州勢。彼らが、

江戸社会のあまりの平和さや平等さ、人々の心根の美しさに、
驚嘆し憧憬し、嫉妬さえした、稀有の過去を持つその昔の日本は、

善悪とか、正しいとか間違いとか、損得の捉え方が、
現代日本と、まったく異質であったことを

私たちは改めて気付くこと、
学ぶことが、多々あるのではなかろうか。