ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

美的感覚を満足させるのには・・・

 

ヘアーインディアンのことについて

先述の抜粋から…。

 

(温かい文章を引用しても、ワタシの言葉は

 刺ばかりの多弁で恐縮…汗)

 

 

 

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「子どもの文化人類学」原ひろ子著(晶文社) より

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 31頁より

機械といったものがほとんどなく、道具も最小限の品で生産し、消費し、

楽しみ、美的感覚を満足させている彼らは、文字どおり、“からだ”そのものを

使って生活しているのですから、からだとつきあうすべてを心得ているのも

無理からぬことでしょう。

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生活の道具を作ることが、すなわち美的感覚を満足させていると、

思えば、ごく当たり前の本質だけれども。

(偽)現代文明社会のワレワレはもう、忘れかけている。

 

草木生物その命を絶って、地上の自然から幾ばくか

頂戴する素材で、自身の知恵や技術を使い

無から有を生み出す。絶つ痛みを感じつつ、作る歓び。

美的感覚の発露は、元来、自然の普遍な造形への畏敬と、

自然の一部である身体感覚が生活で育まれる中での、

精神活動の結実…なのだろう。

 

 ******

 

(偽)現代文明社会を見ると、生活で体を使って

「痛みを内包した…作る」という仕事が、

他人任せとなり減っていく程に、

人間が堕落しているように思う。

知恵を失い阿呆になるのだなぁ、と。

 

人生から「創造」という、人が人である所以の

必須項目を排除させ、カネで調達・消費を促し、

便利の偽解決、快適の偽満足。

人間の精神が物化に向かっている気がする。

手仕事があった時代の、温かい日本の人柄、人の良さは、

どこかへ行ってしまった。

 

 ****** 

 

多国籍企業の運営する森林破壊後の巨大農場や地下採掘で、

過酷労働者によって産出された原料は、

工場のハイテク機器の動作を駆使し、

機械が数多の物品を大量に作ってくれ、

商社・流通を経て、いち個人は、

人工社会労働の奇々怪々”の苦悩の対価で得た

カネ”を払えば、何でもかんでも、手に入る。

みんなと同じ物が。

 

 

生活で身体・知恵をできるだけ使わず、

便利・快適を追う自然を排除する社会で、

本質の美的感覚・美意識…延いては良心は、育たない…。

選択の自由と称する、単なる組合わせに過ぎない。

コーディネートレベルで、作っているという錯覚。

ごく 一部の企業人間だけ頭脳労働を振り絞る。

 

ルーツやアイディンティの無い、根拠の無い、味も情緒もない、

軽薄で冷たいデザイン、造形。

花だ熊だ兎…、模様を配したデザイン、

絵本やアニメ、キャラクター、商品に自然物が登場し夢はくれても、

野生の熊や兎、野の花、造形が、表現者らに実感は無かろう。

直線前提の造作は、人工・工業的、営利のご都合でしかない。

 

想像力を駆使しても、何か』…が、足りない。

(偽文明の消費経済で破壊している

自然をモチーフにする矛盾。目逸らしの汚染脳)

 

 

商品を手にした消費者が、

オシャレ、カワイイ、タノシイ、キレイ、カッコイイ、ウマイと

言っている対象もその反応も、

記号だ。

(実体のない虚のシンボル・作為の共有認識)

 

消費者の脳に「快感」(←洗脳研究のツボ)を

伴って記憶されたメディアからの偽原型イメージ(ネズミィー的戦略)が、

広告戦略でしつこく流布され、流行とさせる。

企業デザイナー・クリエーターらも、消費者も、

仮想記憶の反芻だ。(コピペ状態)

幻影のキャッチボール

 

 

虚栄ファッション、陳腐建築インテリア、捏造ドラマ、

粗雑日用品、偽工業食品…。

あっという間に、飽きて忘却、ゴミと化す。

 

  

経営戦略でブランド”化した、他者が本物と銘打った

(苦労話や美談がほんの少しだけある)物を

ブランド”と仰々しく演出し看板を掲げたがる。

鬱屈した優越感を味わうことを美と倒錯する、汚染脳。

生産者も消費者も、“ブランド”ごっこ・選民意識に、余念がなく。

そこに群がる、卑しき醜態。

 

 

 

企業人間が労働に心血注いでも利益追求の上は、

社会荒廃のベクトル。

コンピュータ波及も加勢し、カネありきの

偽現代文明社会に、本質の美は無かろう。

 

「自然との対話・身体の実感・生活の精神性」、

「心」「命」が宿っていない偽現代文明の“物”。

 

  

のイメージ操作や虚飾幻想レッテルの価値観。

特にブランド信奉者の西洋・欧州礼賛たるや、甚だしい。

明治から今日、自尊心を失った、いや失わされた現代日本人。

 

嘆かわしきは、陳腐な偽美的感覚(記号汚染脳)を

満足させるための生産物に

漏れなく、〜自然破壊〜付いてくる。

 

 

 

マスゴミや企業より、ネット影響だろう

個人の動向の変化が速くなり、

少し良い兆しも、ある気がしなくもない…。

 

ともあれ、 ヘアーインディアン彼らのように

カネの存在しなかった、対価の概念を必要としない、

美意識へ向かう社会を想像する。

 

 

 

 

普遍の知恵と一過の知識。

 

 

比較しないこと、と思うのだけれど。

己を知る、内省に用いることも少しはあるか、と言い訳しつつ。 

 

 

 

ヘアーインディアンのヘアーとはウサギのことなのだそうだ。

余談。

 

 

さて、 先述の一節を一年程前に、家人に読んでもらった時。

地球に人が暮らし続ける深い知恵に、心を揺さぶられた。

 

人間が生活するために、地球を利用・搾取することではなく、

地球の一部に人も存在している「大いなる仲間」を自覚している、

ヘアーインディアンたちの偉大さを改めて思う。

 

現代人の生活が如何に傲慢で我儘か。

現代人の宗教や倫理観や科学技術や文化文明の…、

軽薄さを感じてしまう

 

 

狩りのために犬の食糧を優先する人たち。

ペットのように従属させるのではない。

家畜のように人間が食べる目的でもない。

他生物同士はお互いの能力を提供し合って「生き抜く」。

自身が命を繋ぐのには、他生物と互いに平等であることを

食をもってして、わきまえている人たち。

地球の掟を体得している。

 

野生動物を狩猟して、その命を頂く食の神聖。

腹が減ること、飢えることを恐れる、文明を標榜する現代人。

その落差。

 

(偽)文明しか知らない私たち現代人はカネで食糧を得ることに

疑問は無く、当たり前”だ、と思っているからこそ、

飢餓が恐しいのだ、と。

一応生物であるワレワレは、他人任せの食糧調達が危ういことを

無意識には感じるからでもあろう。

かつ、教育体制の中の歴史で、メディアビジュアルで、

貧困のステレオタイプ的イメージが頭から離れない汚染脳。 

 

ヘアーインディアンの生き様から想う。

飢える、ことと飢餓は、違うのだ、と。

 

飢餓への恐れは奪い合う、

醜さ、餓鬼を想像させる。

有史に書き込まれている戦いは、

餓鬼同士の争奪戦でもあったから。

文明人と標榜する我々自身の中の醜さから目を逸らすが、故に。

 

 

ヘアーインディアンの人たちは、飢えることは恐怖ではない。

暮らしの中で行事のように受け入れ、

互いが平等に分かち合う。

飢える行事の中で更に、肉体と精神を知る、

崇高な精神を自身の中で深めていく。

きっと、飢えるとは植えるへ繋がる、人の知恵なのだ。

 

(偽)現代文明側の人間には、その気高く繊細な精神性が、

分かることはないだろう。偽食を飽食することが幸福・幸運なのだから。

加えて偽食世界で本物を志向する

極みの卑しさを「セレブ」ごっこに視る。

 

エスキモーの人たちと、時に争奪もあるというが、

(偽)現代文明側の醜悪な独占とは異なろう。

 

すべての大陸で繰り返されているキリスト教徒らによる

宗教の強要が、無念でならない。

 

大地と暮らしている人々を迫害した後、キリスト教者が救済した

だのの美談ばかりが、(偽)現代文明側で、

一人歩きしていることに呆然としてしまう。

 

正に、大地を生きる人々の精神性や生きる知恵を

地球から失ってしまうことは、

この星の哀しみのように想う。

 

現代人は全て外側の世界に翻弄され他人任せ。

果ては、健康の美容の不老の為に、

断食と称し自己の健康維持に活用しご満悦。ワタシもデス(汗)。

死ぬまで自身のことを分からぬまま。

卑近で凡庸な(偽)現代文明の我々。 

 

 

 

笑いというものは逆境の時の心の支え合いの発露でもあり、

優しさ思いやりであることを

昔の日本人たちの慎ましやかな暮らしの中にも

ほのぼのとした笑いがあったことを彷彿とさせる。が、

 

ヘアーインディアンの人々は身体の状況に合わせて、

笑いのトーンをも、自ずと変わる。

品性とは、こういうことなんだ…、と気付かされる。

 

昨今の(偽)現代文明はどこもかしこも、嘲笑であり、

ひん違いの「貧」であることに、気が付きもしなくなっている。

 

 

 

中世の人体解剖図を欧州人の功績として

日本人も周知しているけれども。

日々の中で、動物の命を頂く時に、内臓を知り、

自身と変わらない他生物の肉体の内的宇宙を知ることのセンス。

どちらが、まともな好奇心なのだろうか、と。

 

 

 

自然の中で河や湖の刻々と変化する水、氷の様子を

見て直感的に感じて、命に関わるからこそ、

真剣に想像し嗅ぎ分けている人々。

 

工業製品の精密機器で計測して分析して、記録し…。

何年もかかってやっと自然のひとコマの現象を証明し、

どこだかの賞賛を浴びんとする…(偽)現代文明側の人間。

悠久の自然の中で結局、何になるのであろうか…。

 

一瞬一瞬違う、すべてが流転する

自然を確率として理解し、しばらくは知識になっても

年月を経れば、やがて、どうでもいいデータになろう。

知恵にはなり得ない。

 

大地と暮らす「普遍の知恵」と 偽文明「一過の知識」を…

思い知る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プチ断食 追記2

 

 

 

家人から勧められ

心が揺さぶられた…本の一節。

少し長いが転載を。

 

 

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「子どもの文化人類学」原ひろ子著(晶文社

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26〜31頁より)

 

もうひとつ、“飢え”によっても、肉体と心を統合した

“自分”を知ることができるのだと、ヘアーインディアンはいいます。

 

 十月になって、河や湖が凍りはじめるという氷結期に入ると、

水中に張ってあった魚網をひきあげ、河や湖を舟で渡ることをさしひかえます。

いったん薄氷ができても、暖かい日が訪れるととけてしまうので、氷結は

一進一退をくりかえしながら、だんだん厚さを増してゆきます。そして氷の

厚さが一メートルぐらいになると、その上を荷物をのせた犬ぞりに、

人が数人ついて歩いても安心だという状態になります。

このような結氷期、一ヶ月前後を要します。ヘアーインディアンの住地は、

多くの湖と、無数の河川におおわれています。河川は、夏は舟、冬は犬ぞり

通路となり、湖はいわば巨大なロータリーとなるのです。

 しかし、湖や河川が多いので、凍らないときには陸づたいに移動できる範囲が

非常に限られてしまいます。ひとつのキャンプ地でまかなえる食糧源がすぐ

枯渇するので、ヘアーインディアンは、キャンプを常に移動して生活するのですが、

氷期にはその自由がなくなります。同様に、五月前後の解氷期にも舟が出せず、

犬ぞりも使えず、魚網も張れない状態が一ヶ月ぐらい続きます。

犬ぞりをひく犬の食糧をけずりすぎると「いざ、移動だ」、「いざカリブ狩だ」

といったときに犬が動けません。ですから、食物が不足してくると、

人の方が我慢するわけです。

 

 たとえば、人の食糧としてウサギ一羽分しかないとき、それを鍋に入れて

水煮にします。生後一年以内の赤ん坊がいるときには、その子の必要量を

確保し、次に、これから狩りに出る二人の男たちにウサギの後ろ足を

一本ずつ食べてもらいます。残りの人間は、スープをすすり、肉は一口だけ

食べて、テントの中で寝袋に入ったまま、ゴロゴロしているのです。

 いつもなら、夜を徹してでも昔話や世間話にうち興じ、冗談を連発して

にぎやかに過ごすことの得意な人たちですが、食糧の枯渇しているときには、

口数も少なくなり、静かに、狩に出た男の帰りを待ちます。でも、ただ

だまっていると、気が滅入りすぎるというわけで、ときおりだれかが

軽い冗談をとばします。すると、皆はクスクス笑って気分をかえるのです。

大笑いするとますますお腹がすくので、クスクス笑うのです

 

 子どもたちも、おとなと同じように飢えをしのびます。

お腹がペコペコでなにか食べたいという感じから、胃がひきしまっていく

ような気分にかわり、そのうちに全身の力が次第に抜けていき、腸の動きも

不活発になります。目はくぼみ、肌のつやも消えて、ねむたいような

ねむれないような気分になっていきます。

 でも、ねむってしまって、火の気を絶やしたら、お腹がすいているだけに

凍死しかねません。ですから、テントでゴロゴロしている人たちは、交代で

薪を割り、ストーブにくべていくのです。

 子どもたちも、テントの外に積んである薪をストーブの脇まで運び込んだり、

点火用のつけ木をこまかく割ったり、いろいろな仕事を分担します。そして

用事が終わると、また寝袋にころがり込んで、狩に出た人が何か獲物をもって

帰るのを、二日でも三日でも待つのです。

 

 こういったことは、結氷期と解氷期に限ったことではありません。夏でも、

そしてとくに冬には、二十四時間から四十八時間ぐらいの間、うすいスープしか

口に入らないことがあります。

 しかし、農村地帯の飢饉とちがって、狩猟民のヘアー・インディアンの場合には、

今日か、明日か、一週間後には、なにか食べ物がみつかるという

希望が常にあります。

 また、獲物を解体するときには内臓まで細かく観察している体験から人間の

からだの内部を類推して、飢えの時期には、内臓の機能などをあれこれと

考えながら、自分のからだに生じる変化をよみとります。

 そのほかに、長く歩くと、どこの筋肉がどういうふうに疲れるかとか、

重い荷物を背負うコツとか、水はどんなペースで飲むといいとかとか

自分のからだのいろいろな部分と常に問答をくり返しています。

 

 機械といったものがほとんどなく、道具も最小限の品で生産し、消費し、

楽しみ、美的感覚を満足させている彼らは、文字どおり、“からだ”そのものを

使って生活しているのですから、からだとつきあうすべてを心得ているのも

無理からぬことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

プチ断食 追記1

 

 

書き忘れたことのひとつに。

 

…食糧が無くて食べられないこと。

飢餓。

 

…食糧があっても食べないこと。

断食。  (意志?意図?)。

 

その違いを思った。

 

 

 

 

 

近年の食に関する経緯に思いを馳せると、

第二次世界大戦の前後

(幕府開国後の国際金融家資金提供]の

戦争漬け社会 ‘それ以前の内戦も含め’ 

日清・日露・太平洋戦争の前後期)、

日本人は紆余曲折で食糧が不足して

食うに困る時代(農耕混乱期)だった。

 

 

〜明治大正昭和初期

「食べる」こと、その根源を自覚せざるを得ない世代。

(生理的欲に翻弄された)

 

 

〜昭和後期平成

GHQによって日本の農耕社会を破壊。

多国籍企業が食を牛耳る下準備期)

 

「食べる」ことの雑多かつ微小な選択肢に翻弄され、

己のみの美容と健康に執着する、

生理的欲に翻弄された次世代の反動。

(飽食と旨いことに執着する、グルメ病〜世相)

 

その振り子現象。

 

 

 

 

「食べる」ことが、

常に可能

(金銭礼賛の威力で海外に大きく依存可能)

農業食糧のマスゴミ&企業&行政支配の汚染脳

ある故に、

飽食から来る混乱が、

現代社会(約70年間)の薄っぺらな、偽食・偽美容健康の情報社会を

形作っている(企業・行政・マスゴミの付け入る隙=“汚染脳”)

ことを思う。

 

 

食べ物が今ここに有る無しについての…、

悠久の時間。

 

それは、農耕の食‘糧’獲得‘法’】と【狩猟採集の食獲得”との違いを

考察するきっかけにもなる。

(どちらが正解でもない、と。)

 

 

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更に加えるなら、植物や動物、人間の可視できない生物(微生物)たちと、

土・水・空気・光…の巧みな自然循環と人類との関係性を

今一度、改めて意識することだろうなぁ…と。

 

 

 

 

(長い年月、北アメリカに暮らして来たインディアンの食についての言葉は

次項に記すつもり…。深淵だった。)

 

 

ともあれ、断食モドキを試行する時。

カネが潤沢にある時と、

カネがカツカツの時とで、

 

食確保の「心情・心象」、その安心と欲望が、

違ってくるように思うのが、

滑稽(可笑しくてどこか哀しく侘しい)で…。

 

現代人(己のこと)の性って何だかな〜…ってな

ことを思う。(苦笑)

 

 

カネによって、食を得る事の

虚無を感じた次第。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プチ断食

  

 

ちょっと断食もどきをやってみた。

人参ジュースや葉物ジュース(生野菜からの汁)を

食事代わりに飲む。

 

(ちなみに企業製造の野菜や果物のジュースは濃縮還元で水分とほぼ糖分だけ。

飲んでも栄養が無いので、生からのジュースとは別物。

野菜や果物の代替として摂取しても栄養的に全く役に立たないので、

野菜や果物を食べたつもりになってしまう人が多いから…、要注意。)

 

 

 

少しだけ、果物も食べた。

朝昼夜と翌日昼食まで。

 

夕食を食べないことは少しハードルが高かった。

その代わり、匂いに敏感になったり、

毎日当然のように食べられることに、

感謝が湧いてきたり。

今そこにある食材へ神聖な気持ちになったり。

美味しいと感じて食べていたかを

省みることができたような…。

 

今日の夕食は何を作ろうと迷う時は、自分の

お腹が空いていなかったんだな、と

当たり前のことに気付かされたり。

 

日々生活のリズムの中では、

食事は「ハレ」の時間なんだなぁとも思った。

空気のように、食糧も無意識になっていることに

改めて気付かされた。怖いことかも…。

 

そういえば、いつもよりやる気が出た気もする。

たった一日位でわかったようなことを

書くのも憚られるけど…。たぶん、

食の確保如何は、生理的欲と精神的欲が繋がっているんだな。

 

だから、日本人が常に食べられる環境があり、

汚染脳も加勢しての食べ過ぎ生活は、

精神的欲 (本心・本音) と、

根源的な生理的欲 (本能) の振幅が少なくなって、

自身の心と欲のことが解らなくなり混乱している

側面があるんだろう、

…ってなことを思った。

 

 

時々、慣行しようかなと思う。

 

 

 

 

 バレンタインでぃ ×△× くだらん。 毎度おなじみ消費社会プロパガンダ

 

 

「日本の真相」 船瀬俊介氏著

“はじめに”の冒頭より

 

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“はじめに”

 

「世の中、めあき千人、めくら千人、残りの8千人は

バカである。市場とは、このバカによって構成される」

これは、某広告代理店の社長が言い放った言葉。

まさに、顧客をバカとして見下し、卑下しきっている。

20歳頃のわたしは、この一文を読み体中の血が逆流する思いがした。

文字通り、怒りで身が震える思いがした。この放言こそが、わたしが

20代で消費者運動に身を投じるきっかけを作ったのだ。

さらに、次のような言葉がある。

 

「もっと使わせろ。

もっと、捨てさせろ…」

 

これは大手広告代理店・電通が、かつて社員を鼓舞するために掲げた“社訓”である。

それは戦略十訓として、電通マンにたたき込まれていた。

「十訓」は次のように続く。

 

「無駄遣いさせろ。

季節を忘れさせろ。

贈り物をさせろ。

組み合わせで買わせろ。

きっかけを投じろ。

流行遅れにさせろ。

気安く買わせろ。

混乱をつくり出せ。」 

 

なるほど。消費者をバカにしきっている。これでは顧客というより、

家畜なみの扱いだ。

 

(以下省略)

 

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上記の言葉を一言でも記憶して、

買い物に行くと、納得するハズ。

さすが広告業界の名言だなぁ、

すごいなぁ、と。(笑)

 

 

 

 

 電通社員の超過労働をマスゴミで大騒ぎしたのは

つい最近のこと。

ニュースについて詳細知らず関心もないから、

書くのはマズいかもしれないが…。

 

会社がイヤなら辞めればいいのに、それをしないのは、

社員として社会的地位、高給待遇を維持したい

本人のエゴなんでないかぃ?!、と

トピック記事の見出しを一瞥した。

 

あのニュースも毎度おなじみプロバガンダだろう。

ネットのあちこちで真相がささやかれ盛り上がりつつあり、

天下の大広告会社がかつてないほどバッシングされているから、

お涙頂戴トピック作戦をうって出たのかいな?!と。

当事者の心情へは不謹慎なことかもしれないが、そう受け取った。

 

天下無敵の大広告会社が派手に繰り広げ続ける広告で、

その大広告会社員サマの労働で、延べ何十何百何千億人もの

人間が翻弄され、もちろん 地球環境破壊 煽動企業な訳で。

 

あらゆる餌食、犠牲を思えば、自主退職で超過労働を

回避できる社員の立場に対して、あそこまで擁護する

マスゴミ報道や政治関与は、どう考えても、やらせだろう。

 

過酷で地位も望まず

低賃金労働を強いられても耐えている、

そして本当の社会貢献している善良な人たちが

どれほどたくさんいるか…、を思う。

 

(ホント、テレビ&広告は増すゴミだ。)

 

 

上記に転載した戦略がベースにあるような

狂気業で労働できる感覚が、既に病んでいる。

良識が崩壊し感受性が麻痺の、

社会的優遇に群がり続けるカネカネ人種

 

意識が刷新され始めている昨今。

流行遅れなのは、広告企業労働者マスゴミ労働者だろう。

数十年間、人間の意識を十把一絡げで社会を

コントロールできる快感を味わい、

地球を破壊することも何のその。

古典意識集団。

 

メディアを支配しているから、集合無意識を制御でき、

自作自演の流行には遅れようがないだろう。

 

が、

本質・真実・真相(マネーは権力支配者の必需品)

気付く人が増えてくると、

マスゴミ広告関連が時代遅れの薄汚れた印象に見えて来る時が、

やがてくるだろう。

 

 

 

電通戦略十訓は、アメリカ1950年代社会学者パッカードちゃん

提唱が雛形のようだ。(社会学者も人間を自然を破壊する職業だな…)

 

この十訓は2000年代の今、狙い通り現代の消費社会に

残念ながら、浸透してしまった模様。

 

使い捨てされる安っぽい衣料品、日用品、100均商品。

断捨離後に、更なる無印っぽいミニマム生活の、

消費していない気がする消費。

広告で効果を強調しても効き目のない、

むしろ身体に環境に害になる商品。

限定だ、風味だ、どこ産だ、過剰パッケージ。

容器デザインやら匂いの違いで、中身は、ほぼ同等商品。

あらゆる公共の場を席巻する慢性毒いっぱいコンビニ。

更にネットショッピングは 現金の授受がないから消費感覚が薄れ、

一層大量消費を促している。(アマ損は日本に納税していないし。)

 

クリスマスやバレンタインデー、ハロウィンやら。

お歳暮お中元、誕生日、母の日父の日こどもの日敬老の日

毎月懲りもせず、贈り物で頭が一杯の消費者。

欲しいモノだらけの消費者。

 

特に、贈り物の習慣は、気兼ねが尽きない。

偽善が偽善を生み出し増殖させる仕組み。

 心から相手への思いやりで、贈りたい商品など、

市場経済の既製品には皆無だろう。

 

 

常識、風潮、通例、そしてマスゴミ広告の汚染脳に

がんじがらめの現代人。

その購買欲は競争意識、虚栄心をくすぐるよう、

混乱させる・するよう・広告は作られている。

  

 

 

 

バレンタインデーとかで、
カカオ生産、砂糖生産し続けている
プランテーション農業支えている
人たちのことを忘れ、
民主主義や平等を訴える偽先進国民。

 

恥ずかしい。。。

 

そろそろ、露骨な汚染脳に目を醒そう。

企業・マスゴミ・狂育・行政 のプロパガンダに

気が付こう。。。


ワレワレニホンジン。

 

(ちなみにニッポン”との呼称・命名元凶組織…)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

好奇心へのぎもん…の、おまけ

 

 

 

www.youtube.com

 

 

VS

 

www.youtube.com

 

digitalcast.jp

 

 

 

 

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このふたつの動画を並べるのは、かなり間違っている、、、

かも…しんない。

 

かたや才気あふれる方からの最先端科学技術の演説会。

知性を触発してくれる有難げな動画だ。

で、もう一方はユーチューバーのおふざけ動画。

 日本人の知性は地に落ちたな…感が否めない、という印象である。

 

 

が、おふざけ動画の批判、日本人の知性が地に落ちた感”を

伝えたくて並べた訳ではなく。。。

 

 

TED動画で数々の新たな知的好奇心を盛り上げる

演者の動画を見たことがある人もいると思う。たまに私も視聴する。

 

だが、このTEDという動向が新世界秩序NWOを目論む

集団の喧伝活動の一端であろうと予測でき、私は常々不気味に思っている。

 

確かにTEDには、なるほど…と思う演説も数多あるけれど。

人間が進歩発展するという目的が、

どこか一直線で短絡的で、TEDの演出そのものが欧州勢力の

自己顕示欲、自己愛の…自慰行為の強要にさえ映ってしまう。

 

まだ、この先、直線的に進むことを当たり前だと思っている、

思い込ませようとしている…。主催の視点や立ち位置が、

全く変容していない、できないことに、

ただ唖然、というのが正直な感想。

 

どこまでも人間のため、人間中心主義の技術進歩の礼賛だ。

決して、自然の一部としての人、自然界への畏怖や他生物への

思いやりや感謝についての意識の進化がテーマの演者は、

見当たらない。

 

科学の進歩発展の定義はあくまでも人間中心主義で、

その固定観念が、マスゴミの喧伝や狂育によって、

汚染脳が完了した無防備現代人の盲目を利用し、

更なる汚染脳(ロボット化)を企んでいるのだろうなぁ、と

想像してしまう。

 

 

さて、デカキンさんの動画である。半年くらい前に見た。

何と言う、アホな悪戯だろうか。相変わらず凡庸な私は、

腹を抱えて笑ってしまった。まったく、今どきの若いもんは…。

と、ありふれたぼやきが口を突いて出てきそうな…。

ネットが オモチャ化” している典型の内容である。

と、呆れつつも…ふと、

この動画から本質的なことに気付かされたような…

気がしなくもなく…なくぅ、ないぃ?!(気のせい?笑)

 というのは、日本人の独特な慎重さが、

この馬鹿馬鹿しい何気ない?罪の無い?いやアル?

悪ふざけから、垣間見えた気がする。

 

 

デカキンさんの安易な(違うイキモノ?!)女装で、

ツイキャストでコンタクトした18才の少年との会話。

デカキンさんは悪ふざけで、18才の少年に

女装がバレるか、バレないか実験したい。自分の姿を

画面に映し「見る?」と執拗に懇願するも、

先方の少年は、

「いや いい。」「いや いい。」(結構です)

「いやだ。」と問答する。

 

決してカメラの向こうのデカキンさんらの状況を知ろうとしない。

見るのを断る。18才少年の心理は慎重で、不気味さ不快なことを

予測した時、主体的に経験を避けたくなる生物の防衛本能が

そこにある、というように受け取れた。

 不愉快な経験が、時に影を落とす記憶になること、

他愛なく、虚しい行動(出会いサイトでの危険性)から

負の記憶や経験を作ってしまうだろう想像と、

罪悪感があっただろうか。

 馬鹿らしい動画では深く分析しても意味がないかもしれない。

しかし、時代が変わり教育も大きく変わってきている

若い世代の日本人にも慎重さが根源に

具わっていることを感じた次第。少々大げさか…。

 

仮に、欧米系男性ならあんなふうに拒むだろうか…と思ったり。

彼らの好奇心は日本人よりずっと旺盛で、恐いもの知らずで、

好奇心や冒険心で、恐怖心を突破する者を勇者として、

賞賛する。

女性の顔がどんなふうなのか、どんな記憶になろうが、

危険を冒しても好奇心を満たすことを善とする感覚。

ヒロイズムが付着して、好奇心が暴走し名誉欲にすり替わる。

 

YouTubeを視聴するこちら側は客観の立場である。

デカキンさんの好奇心と18才少年の恐怖心がせめぎ合って、

もし少年が画面の向こうにいる29才の違う生き物?!みたいな

女装の彼を見ることにした時、事の顛末が少年に証されたとしても、

それはそれで笑えただろうし。

恐怖心と好奇心を客観的に見た時、そこにドラマがあるんだなぁ、と。

 

 

好奇心を優先する時の「動機」が、

自己顕示欲なのか、命の源からなのか。

 

恐怖心が勝る時の「動機」が、

罪悪感からなのか、知恵なのか。

 

 

 

話は飛躍するが、環境破壊の根っこは自己顕示欲からの

好奇心の行き過ぎだろうな、と思ったりする。

 

好奇心を制御するはずの恐怖心を突破した時、

自己顕示欲が暴走し、自然を人間の都合に作り変える

ための、研究や生産を繰り返し、めぐりめぐって

世界中の自然破壊の発端という気がする。

 

禁忌や恐怖心を超えてしまう好奇心。

人工的な欧州人勢の自己顕示欲を重ね、

見えてしまうのである。(目には見えないが…)

 

 

上記にあるTEDの動画は、マクロやミクロ世界、

極一瞬や長時間の可視化を技術で実現した。

まつげやカタツムリの寄生虫の接写には驚いた。

梟の羽ばたく力強さ、トンボの羽の絶妙な動きが超スローで、

自然界の神業が可視できた気がする。

この先、分子原子の動きを映像化でき、

医療に応用できる、と確信を深めていた。

 分子原子レベルの微小機械で、遺伝子を修復する

未来の技術への展望か…。

 

意識がこの世界、三次元を生み出しているという。

脳が編み出した道具を使って肉体を変化させるのではなく、

人の意識を変えることの方がずっと合理的ではないか、と。

半ばあきれ顔で、このTED動画を視聴した。

 

野生植物は農薬や化学肥料を与えなくても、豊かに育つ。

人工環境であるほど、植物、生物は手を加えなくてはならない。

 

人為的に治療や修復すれば、更に問題が増えることは、

もうイヤというほど経験したはずなのに。

まだ、未だ同じ発想か、と。

 

つまり、見えることを追求し続けても堂々巡りで、

肉眼で素粒子が見えるよう、意識を変容させるのが、

生物としての人間の歩むべき進化、という気がする。

 

外的世界の科学技術の進歩を目指せば目指す程、

自然に犠牲を払わせて、問題を作り続けるのだろう。

 

この動画では人類の生き方、生命、宇宙の神秘への感動が、

ひとつのメッセージ、体のいい常套句だ。

 

人に具わっているはずの感じる力、

五感や第六感のような体感、内なる感動や創造力ではなく、

ごく一部の人間だけが磨き続ける技術進歩に、感心しただけであった。

彼らの、見る、見せるための物質的技術努力には敬服するが、

なぜだか虚しく感じてしまう。そこまでしたいのか…と。

 

 

ちなみに、温暖化の喧伝用に南極北極の氷が

崩れるシーンを繰り返す映像のように、

自然界の現象の映像をステレオタイプ的に、

多くの人間にイメージを刷込む不気味さもある。

 

 

見えない世界は必要な範囲に留め、心の眼で見えるまで、

見なくていいような気もする。

中世の欧州の人体解剖が発端か…。

 

保守的なことを言っているかもしれないが、

慎みというか、自制と自在のような…意識が

生物には不可欠と思うのだ

 

多様な感じる能力が肉体に具わってこそ、

いや、取り戻すことだとも思う。

 

 

世界的な権威の業界に、ちっぽけな意見を持っても仕方が無いけれども。

欧州人勢力、彼らの目指す進歩の方向性の意味がわからん。。。(苦笑)

 

 

科学技術進歩、カメラの超精度化によって、

寄生虫にまた寄生する微生物を微生物に寄生する微々生物…という

入れ子状態のミクロ世界を

映像として見ようとする、果てしない好奇心。

 

人工的彼らは、自身の好奇心がカメラで可視できるまで、

それを続けるつもりなのだろう。 ……か?

 

と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

digitalcast.jp

好奇心へのぎもん

 

 

好奇心も恐怖心も出所は同じだ、とこの頃の私はそう思う。

 

恐怖心のメリットは、自制心慎ましさ知恵を育てる。
好奇心のメリットは、解放感逞しさ知性を養う。


育てる、養う、ことができる心理的成長、あるいは理性的な自在性は
自己の意識の枠を緩め広げ、より大きな

“ウチュウ的な融合へのファクターで、

あろうか。
(あはっ。。。ナニかっこつけてんの?!^^;)

 


現代社会の認識では、好奇心は◯。恐怖心は×。
…のような判断は案外…、否ひどく、短絡的なもので。


動物を植物を観察するとおそらく解るのは、
自制と自在を巧みに使い分けている。

 

 

人間界の意識についての認識は、未だ発展途上か、むしろ退化への道程で…。


好奇心(光の部分・宇宙空間では、ほんのわずかな現象・物理次元の比喩)

だけが、礼賛されている気がする。

それこそがイルミ的な西洋礼賛病理”と、思う。

 

見る・見える”という能力、

更には“見せる・見られるという我執の感情が、

果たして宇宙(意識)で、

どれほどの意味を持つのか???という問い、、、でもある。)

 

 


植物動物など…人間以外の、、、

命を観察し、心眼で見極めると、

重ねて言うが、きっと自制と自在が複雑に
絡み合って、この限り在る三次元での生を全うしているのだ、と…。
思われる。

 

もっと、自然をゆっくりじっくり丁寧に感じながら生きることが、

即ち、この地上で与えられた時間と空間…の生き様、

人の有り様だ…、と思われる。

 

 

 

 

 

おすすめ ザワークラウト

 

 

ずぅっと欧州勢を批判している。が、

それは中世以降のユダキリ教選民思想勢力を指していて、

一般の普通に生きている欧州の人たちは、

むしろ被害者&白人種優生の差別意識を植え付けられているだけな訳で。

まだ、魔女狩り以前の欧州に精霊信仰があった、

そして欧州の森林が豊かだった時代

(〜中世キリスト教会を建立するために森林破壊)は、

素朴な民族だったのだろうなぁ、と思っている。

 

 

そうは言っても、常に戦乱が絶えない地域で、

何より、奴隷VS貴族という、

古代から差別が露骨な階級社会だったから、

一般人の生活は、疲弊していただろうことを想像してしまう。

遺憾なことダ…。

 

と、前置きは長くなったが、キャベツはかなり現代日本の台所でも

有難い野菜だと思う。酵素たっぷり整胃腸作用があり、

肉食や油分の多い食生活に救いとなる有難い野菜のひとつだ。

アブラナ科キャベツのルーツは他情報参照を…)

 

 

「自己観察」が必要だと前々回の記事に書いたのだが、

試してみるのもいいかもしれないのは、キャベツなどの

生野菜を一切食べずに、揚げ物をたっぷり食べてみる自虐的な実験だ。

翌日から数日間、おそらく胃腸や排便の不快感不都合、

更に咳などに見舞われるだろうか。

体調がよろしくない状態になる、と思われる。

 

そして体調を狂わせたところで、まずは食事の始めに

キャベツをしっかり食べてから、揚げ物や肉類を食べてみる…。

胃腸のもたれる感じが緩和されることに

気付くのではないだろうか。

キャベツパワ〜その威力を知るのではないか…と。

(って、私はそこまで極端なことはしてません。

無責任発言デスが、あしからず。m(_ _)m)

 

 

何を食べるかを意識して、体調の様子を記憶し重ねていくことは、

自身を知ること、という気がする。だが、厄介なのは

工場で作られた食品

(インスタン・簡易調味料・トレトルト・冷凍・菓子等)だ。

昔から素材を加工する食物とは別)

 

 

 

添加物、薬品や油脂等から受ける影響は、

数〜数十年経て慢性として表面化してくる。

 

即、体調を崩す急性にばかり視点を向けさせ、異常な衛生管理が、

かえって複雑な慢性病を生み出している。それを思えば、

特に大企業が煽動する食品(中小企業も原料は大企業が仕入れ先な訳で)の

大半、「工場で製造された食品」は、食べないのが賢明だろう。

 

 

そんな日々の「自己(自身)観察」は、暴飲暴食が

できなくなってくる中年以降に役立つ知恵だと思う。

 

 

で、ザワークラウトである。

その由来は中世の大航海時代に肉食に偏った船乗りたちが、

壊血症で多数の犠牲者が出て、後の航海にキャベツの塩漬け持参し

食べるようになってから、壊血症が無くなった…とかいう話がある。

(航海は後悔っておやじギャグじゃん。汗ーー;)

 

ヨーロッパ黒貴族らによる奴隷支配勃興期に、

発生した知恵というのだから、

複雑な気分になるけれども…。

 

が、人類の知恵は共有するものとして、

現代では良しとしようか。

 

日本史教育では江戸社会の隠れキリシタン断罪ばかりをすり込み、

江戸社会以前の鎖国政策に至った理由、真相を曖昧にしている。

 

中世1549年ザビエルが日本に来た時以降、

イ工ズス会が日本各地の寺社を破壊し日本人の暮らしを脅かしていた。

獣の如き扱いで若き日本人を労働奴隷、性奴隷、傭兵として、

欧州人が世界中に二束三文で売買し続けた約50年を日本史で全く教えない。

私たち先祖の史実。その出来事に思いをはせると、泣けてくる。

また、伝えない偽日本史教育に憤懣やるかたない思いである。

 

つまり、世界中で強奪強姦破壊の暴挙の上に成立った

史実の欧州社会や、隠れ蓑となったキ リスト教思想を有難がる

近代現代の日本人は、無知で節操がないという内省が必要だ。

史実を知れば憧憬や尊敬に値しない。

欧州の歴史や文化を妄信的に有難がるのは、

人として、地球人として無知で軽薄なことではなかろうか。

 

近代以降、物質的進歩発展という考え方を教育やマスコミで

礼賛したことも過ちの一つかも知れない。

 

近代西洋文化の確立(貴族以外の大衆も文化に触れる社会)に

強く影響を与えた、ジャポニズムと呼ばれる動向がある。

が、それは日本の美術品群が訪日欧州人により、

二束三文で流失したからでもある。

 

西洋礼賛は、知識の浅薄さと思慮の軽薄さを

自ら明かしていることにもなる。

 

 

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さて、

最近やっと、人さまにお知らせできる程度に作る回数を重ねた、

「生キャベツ塩揉み発酵漬け」…の、ザワークラウト

 

作り方は…。キャベツ1個でも半分でも1/4でもよく。

(私は葉を一枚づつはがして作るのだが)

千切り(ざく切りでも千切っても良さそう。やったことは無い)にして、

1個なら小さじ1〜2杯、半分なら小さじ1、と

キャベツの重さの1〜2%の塩(自然塩が良いと思う)を

まぶし、3〜5分揉む。

(10分位でもいい。揉む程、柔らかくなると思う…。大変だけど。)

 

 

キャベツの汁が出て来てしんなりすれば、できあがり。

キャラウェイシード(キャラウェイ:セリ科:和名ヒメウイキョウ)を

入れるのが一般的で、私もそれに準じて来たが、

最近、入れない方が飽きが来ないというブログ記事も読んだ。

だから、キャラウェーシードのみならず他のハーブ類でも、

入れても入れなくても、風味はお好みでどうぞ、

という感じだろうか。

(ミネラル摂取や防腐力を考慮すると入れるのもいいかな?!)

 

 

 

しんなりしたキャベツと揉んだ汁を

清潔に洗った(乾燥不要だと思う)蓋付きの瓶に

(ガラスや陶器が良い。無ければいっそマグカップにお皿で蓋でもいいかも。)

入れて、汁がキャベツを覆わなければ、お水を加えキャベツが

汁に浸るようにし、蓋を閉じる。

発酵が始まるとキャベツと水がせり上がってくるので、

容器の8割くらいまでの量を入れた方がいい気がする。

パンパンに詰めると汁がこぼれてくる。

 

2〜3日で発酵が始まる。時々、蓋を開けガスを抜く。

放っておくと、蓋が吹っ飛んでいる。

簡単に作れる発酵漬だ。が、単に簡単便利なことを

おススメしているのではなく、

塩で揉めば水が出てくるのは細胞の浸透圧。

徐々に発酵していくのも、生の野菜だからこその酵素がある。

そして植物は元来、殺菌力も具わっていることも

台所で経験的に解ってくると、容器の殺菌処理やら、

どんな容器が妥当かを自分で判断できるようになる。

 

レシピを鵜呑みにしたところで、本質や基本を掴まないと

自分の知恵として、使いこなせない気がする。

で、シンプルな漬物の試行錯誤は役立つと思われる。

 

話は戻し…。

5日〜1週間位から、酸っぱいキャベツ漬けが食べられる。

3週間位は常温で私は保存している。

 

生キャベツを加熱すると、当然だが酵素が壊れるので、

酢漬けの加熱キャベツ”と、ザワークラウトは別物。

生キャベツ塩揉みは、キャベツの酵素で発酵するものなので…。

 

かつ、栄養的にも生キャベツ塩揉み発酵”の状態が、

特に身体「腸」に良いのだろう。

 

 

夏、その前後の季節は、食品全般が傷みやすいから冷蔵庫で保存し、

それ以外の季節は常温で構わないと思う。

それも自身の経験で判断だ。

 

 

 

肉食、揚げ物の食事が多い人は特に常食するといい、と思う。

肉食揚げ物の食事にキャベツの千切りを加える時間を惜しむ人も、

一気に作って常備食に作り置きしておくと助かる一品だと思う。

作ることと、同時に、管理も単純で、乳酸菌が摂取できるから、

腸に嬉しい。

 

酸っぱくなるので、体内酵素がまだ豊富な子供の味覚には、

合うか解らないけれども。

体内酵素が減少していく大人の味覚には、しっくり来る気がする。

たぶん、腸が欲している味、酵素なのだろうな、と思う。

 

 

だれにでも気軽に発酵した野菜を食べられる一品。

アレンジ(人参やタマネギ、ドレッシング等…)もできるので、

それぞれに楽しめそう。

ってなわけで。

 

ぬか漬け修行中の私にとって、

簡易で重宝なザワークラウト

おすすめデス。

 

おばちゃんの記事デシタ^^;。

 

 

 

 

 

 

 

「愛する」って。(@*@;)

 

 

自己愛について書いたので、

その流れで書き留めようと思う。

 

ただいまという当方別ブログに以前書いたが、

「愛」という言葉が日本で闊歩し始めたのは、

明治以降なのだそうで。

 

 

それまでの日本人にとって「愛」「愛する」とは、

人形を愛する、骨董を愛する”など、

主に、物への執着心を表わす言葉だったという。


(造形として  という字を見ると

偏った心を顕わしている気がしなくもない。)

 

夫を愛する、子供を愛する、恋人を愛する、という言葉は、

家族や親身に“なってしまう人”への執着心で、

生物としてある程度必要だから、

耳障りはない気もする。

 

だが、嫌いな人を愛するとか、

キリスト教聖書の言葉で、隣人を愛せよってな言葉から、

想像してしまうのは、ええ?隣のおっちゃんを愛するのか?

しかも強制かぃ、ってな違和感があるのは、私だけだろうか。

 

(まあ文字通り取り過ぎですが。

それでも「愛」を目指して人間性の完成を促すのが

キリスト教的教義だよな…?!

だから、現実的には困難なんだよね、キリスト教的教義は・・・。)

 

 

仮に、「嫌いな人を愛する」ことが可能になると、

今度はおそらくヒロイズムが発生するから、

更に面倒な状態になる。私のような凡人には到底無理だろうぅぅ。

 

また、「ペットを愛する」ことは違和感のない響きだが、

日々、皆が食す肉を提供してくれる牛豚鶏卵魚野菜…諸々、

命を与えくれて、食べている生物に

「牛を愛する」やら「玉ねぎを愛する」感覚を

ペット同様に持てるなら、食べられないのじゃないかな?

 

「牛“肉を愛する、鶏肉を愛する」ならば、そうなんだぁ〜、と思う。

でもそれって、かなり肉食が好きな人なわけで。

味覚に頓着する自己愛の極みという気もする。

 

 

「愛する」という言葉を検証すると、

まだまだ矛盾が出て来る気がする。

真理を説く宗教教義に矛盾があるのは、

宗教教義が虚偽ということになる。

 

 

 

 

 

子供の頃から、「愛する」という言葉に、

数多の疑問があって、それは今も変わらない。

だから、そんな胡散臭い言葉を使いたくないなぁ…。

 

凡庸に生きる一般庶民の私にとって「愛」なんて

いう言葉で、マスゴミやら何やらかんやら宗教的道徳倫理で、

やたら鼓舞されても、

仰々しいなあ…というのが本音。

 

 

 

思うに、たぶん幕末の切支丹大名の残党が、

倒幕を機に明治からの教育文学芸術論壇で、

国民洗脳(混乱)支配に「愛」という言葉をご多用なさった気がする。

現代ではマスゴミなどで日々、

便利に乱用している、と私は理解している。

 

 

したがって、キリスト教的崇高で有難げな、、、

ヒロイズム、英雄願望を満たすような、、、、

物々しいピラミット型社会を発生させてしまうような、、、

循環(めぐり)を破壊するような、、、、、、

「愛」という言葉を多用する正論者を私は信用しづらい。

そんなに、“力”まないと出てこない、仰々しい

崇高な精神活動は、私にはできそうもない。

 

 

どうも、お互い様という感覚くらいまでしか、

湧き上がってこないのだナ。

声高に唱えるものではない

「お互い様」という感覚。それが、

「循環」じゃぁなかろうか、と。

この三次元の摂理。

気楽でいいような気がする。

所詮、動物だもの。。。

 

 

英雄願望・正義感を満々に持っているなぁと感じる人って、

現実生活では、鬱陶しくなるのは生理的に、

当然のことだと思うんだけど…。

 

ねずミぃー映画、ハリ鬱ッド映画、

マスゴミが流布して来た日本の勧善懲悪のインチキ時代劇や

昨今の韓国映画とか、

その最たる思考汚染脳だなぁ、と思う。

 

ピラミット型価値観で

生き抜いて来た選民意識の油田白人種貴族さんたち。

その思想は

エキサイティングな自己愛ドラマ”を作りたがりぃ、

なんだなぁ、きっと。

 

 

この三次元では、

あなたもわたしも同じように大変よね、って感覚で

充分じゃないか、と。

 

その昔、高圧的な上から目線の暇な欧州貴族の作り上げた、

奴隷を利用支配する社会の価値観”の愛という幻想の、押し売りは、

日本人、いやいや世界中のふつうの人々には、

気付けないようにされているだけで、

本音、本心、

実際のところ、奇妙な印象に映っているはず、では

ないのかなぁ…と。

 

(いきなり飛躍するが、“何とかのために”みたいな洗脳で、

自己愛が作り上げる英雄願望の果てに

例えば…システム販売とか保険とか営業売上げ一位とかで、

大会で賞賛されているのって自己愛な訳で、不気味じゃないかな。

例えば…芸能メディアで年がら年中、自分の姿を写真新聞印刷されて、

ゴミになって踏んづけられる状態に、

本人が心を痛めないのも、自己愛の病理で狂っている気がする。

自尊心がカネに翻弄されている象徴で病だ、と思う。

例えば…有名大学出身者がたくさん輩出されていても、

世の中悪くなるばかり。

頭のいい人間は何のために頭がいいのか???自己愛でしょ。

例えば…貧しい国の子供を写真に収めて、慈善を訴える広告を

見ると、カメラマン自身の家族だったら、

哀し過ぎて決してそんなことしないでしょ。

貧しい生活者を単なるイメージとして処理している。

それは、他者の自尊心を蔑ろにした人権無視でしょ。

広告伝達の意味を明らかに真逆で、勘違いしている。

欧州支配層がカネを収奪する為の、

偽善事業の一環だと、なぜ気付かないのかなぁ、と思う。)

 

 

 

 

自己”と愛”がくっついて、

「自己愛」という言葉に違和感が無いのは

なるほど、と…。