ヘアーインディアンのことについて
先述の抜粋から…。
(温かい文章を引用しても、ワタシの言葉は
刺ばかりの多弁で恐縮…汗)
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31頁より
機械といったものがほとんどなく、道具も最小限の品で生産し、消費し、
楽しみ、美的感覚を満足させている彼らは、文字どおり、“からだ”そのものを
使って生活しているのですから、からだとつきあうすべてを心得ているのも
無理からぬことでしょう。
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生活の道具を作ることが、すなわち美的感覚を満足させていると、
思えば、ごく当たり前の本質だけれども。
(偽)現代文明社会のワレワレはもう、忘れかけている。
草木生物その命を絶って、地上の自然から幾ばくか
頂戴する素材で、自身の知恵や技術を使い
無から有を生み出す。絶つ痛みを感じつつ、作る歓び。
美的感覚の発露は、元来、自然の普遍な造形への畏敬と、
自然の一部である身体感覚が生活で育まれる中での、
精神活動の結実…なのだろう。
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(偽)現代文明社会を見ると、生活で体を使って
「痛みを内包した…作る」という仕事が、
他人任せとなり減っていく程に、
人間が堕落しているように思う。
知恵を失い阿呆になるのだなぁ、と。
人生から「創造」という、人が人である所以の
必須項目を排除させ、カネで調達・消費を促し、
便利の偽解決、快適の偽満足。
人間の精神が物化に向かっている気がする。
手仕事があった時代の、温かい日本の人柄、人の良さは、
どこかへ行ってしまった。
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多国籍企業の運営する森林破壊後の巨大農場や地下採掘で、
過酷労働者によって産出された原料は、
工場のハイテク機器の動作を駆使し、
機械が数多の物品を大量に作ってくれ、
商社・流通を経て、いち個人は、
人工社会労働の“奇々怪々”の苦悩の対価で得た
“カネ”を払えば、何でもかんでも、手に入る。
みんなと同じ物が。
生活で身体・知恵をできるだけ使わず、
便利・快適を追う自然を排除する社会で、
本質の美的感覚・美意識…延いては良心は、育たない…。
選択の自由と称する、単なる組合わせに過ぎない。
コーディネートレベルで、作っているという錯覚。
ごく 一部の企業人間だけ頭脳労働を振り絞る。
ルーツやアイディンティの無い、根拠の無い、味も情緒もない、
軽薄で冷たいデザイン、造形。
花だ熊だ兎…、模様を配したデザイン、
絵本やアニメ、キャラクター、商品に自然物が登場し夢はくれても、
野生の熊や兎、野の花、造形が、表現者らに実感は無かろう。
直線前提の造作は、人工・工業的、営利のご都合でしかない。
想像力を駆使しても、『何か』…が、足りない。
(偽文明の消費経済で破壊している
自然をモチーフにする矛盾。目逸らしの汚染脳)
商品を手にした消費者が、
オシャレ、カワイイ、タノシイ、キレイ、カッコイイ、ウマイと
言っている対象もその反応も、
記号だ。
(実体のない虚のシンボル・作為の共有認識)
消費者の脳に「快感」(←洗脳研究のツボ)を
伴って記憶されたメディアからの偽原型イメージ(ネズミィー的戦略)が、
広告戦略でしつこく流布され、流行とさせる。
企業デザイナー・クリエーターらも、消費者も、
仮想記憶の反芻だ。(コピペ状態)
幻影のキャッチボール。
虚栄ファッション、陳腐建築インテリア、捏造ドラマ、
粗雑日用品、偽工業食品…。
あっという間に、飽きて忘却、ゴミと化す。
経営戦略で“ブランド”化した、他者が本物と銘打った
(苦労話や美談がほんの少しだけある)物を
“ブランド”と仰々しく演出し看板を掲げたがる。
鬱屈した優越感を味わうことを美と倒錯する、汚染脳。
生産者も消費者も、“ブランド”ごっこ・選民意識に、余念がなく。
そこに群がる、卑しき醜態。
企業人間が労働に心血注いでも利益追求の上は、
社会荒廃のベクトル。
コンピュータ波及も加勢し、カネありきの
偽現代文明社会に、本質の美は無かろう。
「自然との対話・身体の実感・生活の精神性」、
「心」「命」が宿っていない偽現代文明の“物”。
“快”のイメージ操作や虚飾幻想レッテルの価値観。
特にブランド信奉者の西洋・欧州礼賛たるや、甚だしい。
明治から今日、自尊心を失った、いや失わされた現代日本人。
嘆かわしきは、陳腐な偽美的感覚(記号汚染脳)を
満足させるための生産物に
漏れなく、〜自然破壊〜が付いてくる。
マスゴミや企業より、ネット影響だろう
個人の動向の変化が速くなり、
少し良い兆しも、ある気がしなくもない…。
ともあれ、 ヘアーインディアン彼らのように
カネの存在しなかった、対価の概念を必要としない、
美意識へ向かう社会を想像する。