書き忘れたことのひとつに。
…食糧が無くて食べられないこと。
飢餓。
…食糧があっても食べないこと。
断食。 (意志?意図?)。
その違いを思った。
近年の食に関する経緯に思いを馳せると、
第二次世界大戦の前後
(幕府開国後の[国際金融家資金提供]の
戦争漬け社会 ‘それ以前の内戦も含め’
日清・日露・太平洋戦争の前後期)、
日本人は紆余曲折で食糧が不足して
食うに困る時代(農耕混乱期)だった。
〜明治大正昭和初期
「食べる」こと、その根源を自覚せざるを得ない世代。
(生理的欲に翻弄された)
〜昭和後期平成
(GHQによって日本の農耕社会を破壊。
多国籍企業が食を牛耳る下準備期)
「食べる」ことの雑多かつ微小な選択肢に翻弄され、
己のみの美容と健康に執着する、
生理的欲に翻弄された次世代の反動。
(飽食と旨いことに執着する、グルメ病〜世相)
その振り子現象。
「食べる」ことが、
常に可能
(金銭礼賛の威力で海外に大きく依存可能)
(農業食糧のマスゴミ&企業&行政支配の汚染脳)で
ある故に、
飽食から来る混乱が、
現代社会(約70年間)の薄っぺらな、偽食・偽美容健康の情報社会を
形作っている(企業・行政・マスゴミの付け入る隙=“汚染脳”)
ことを思う。
食べ物が今ここに有る無しについての…、
悠久の時間。
それは、【農耕の食‘糧’獲得‘法’】と【狩猟採集の“食獲得”】との違いを
考察するきっかけにもなる。
(どちらが正解でもない、と。)
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更に加えるなら、植物や動物、人間の可視できない生物(微生物)たちと、
土・水・空気・光…の巧みな自然循環と人類との関係性を
今一度、改めて意識することだろうなぁ…と。
(長い年月、北アメリカに暮らして来たインディアンの食についての言葉は
次項に記すつもり…。深淵だった。)
ともあれ、断食モドキを試行する時。
カネが潤沢にある時と、
カネがカツカツの時とで、
食確保の「心情・心象」、その安心と欲望が、
違ってくるように思うのが、
滑稽(可笑しくてどこか哀しく侘しい)で…。
現代人(己のこと)の性って何だかな〜…ってな
ことを思う。(苦笑)
カネによって、食を得る事の
虚無を感じた次第。