ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

人類はグロ…

 

 

 

人間とはグロテスクなものだ。
ひいて言えば、生物はすべてグロテスクだろう。

 

江戸時代を私が肯定したいと思うことのひとつは、
人間の生活という現実の中でのグロテスクさ・えぐさ(刳さ)と、
美や、清らかさ、潔さが、
時間の流れの中で有機的に万人に、

「調和し共存していただろう」と感じるからだ。

そして、鎖国政策で無駄な戦が省かれ

(長年の平和社会・偶発的なリーダーの出現)たお陰で。

生物として、人として、生活者として、社会全体が

賢かったと思うのだ。

 

 

猫を見ればだいたいの人間は可愛い、と思うだろう。
が、自分より小さな生き物をかぶりついて食を得たり、

いたぶって遊戯をする。
決して実態は、可愛いだけではない。
肉食動物は草食動物に比べて、

“見た目が可愛い”(思うに、自然界の実相)けれども、
生命を維持するために他者の流血をもってその命をつなぐ。

 

 


植物も毒を蓄え自らの生命を守る。
植物の種類によっては寄生したりする。

植物とて地表の縄張り攻防は同じだ。

攻防との言葉で相応しいかも解らない。


双方の生命のせめぎ合い、植物も動物も、

すべての生物に、他の事象・他者・他生物・

第三者が関与しての調和が在り、維持され保たれる。

だから食べ尽くしたり、全滅にはしない。

 

それを私は「自然循環」と感じている。

 

 

人類人種の発祥について、家人とずっとずっと論争があり、

わたしは辟易している。

 

人種の違いの発祥をK氏説(五色人)から聞き知って、
改めて、人間は「グロ」い側面、事実・歴史を

持つ生き物であることを思い知った。

 

その発祥の動機は悪意ではなかったことも、

ひとつの不思議さであるのだが…。


発祥からその結果が、現代の闇を作っていることを

どう捉えたら良いか…。

何の立場も無い私が考えたところでどうにもならないが、

常に、それが頭から離れない。

 

 

K氏説から知ったのは、 「五色人」と言われる存在は、

人類祖先の所業で遺伝子組替だ、という。

その動機は地球の気候変動であり、農耕を担うがための始まりだった、と。

 


現代に、遺伝子組替植物がツクられた。

後世の地球に、その所業(植物が生物の始祖ゆえ)が

どれほどの爪痕を残すのかを思うと

暗澹たる気持ちになる。

 

利益や人口削減という人工的な策謀。

自然の流れではない…。

 


そして、現代日本人が嬉々として食す

遺伝子組替大豆やら遺伝子組替トウモロコシや

遺伝子組替ジャガイモやら、
綿、菜の花、花壇の植物…」あらゆる大量に消費する遺伝子組替植物は、

いずれ地球を破壊する生命になるのではないかと。

気持ちが悪くて仕方がない。

(現代の遺伝子組替・植物は “利己の策謀・悪意“

 

 

 

彼ら自身人工種それを承知しているのではないか、と想像する。

だからこそ優生種思想であり日本人削減や排除の戦略だろう、と。

欧州支配層・黒い貴族=利己主義・国際主義グローバル化

巨利益収奪・国際金融家の思惑。

隠蔽排除抹殺思考の欧州亜細亜金満家ら。

長年貴族家系には生活感情がない。

何の詩も無い。心に非ず。虚の世界

 

 

汚染脳された99%一般人の鏡像であろうか…???

 

 

 

 

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人種の違い、彼らの優生種思想、

その差別感・排斥感をどう捉えたら良いのだろうか、と。

 

単なる道徳倫理観や既存の周知されている

生物史(ダーウィン理論は偽言説と知らなかった頃)を

自分の知っている範囲の些細な知識で、

なぜだか、昔から私はその差別感”を考えあぐねていたのだが…。

 

その末に、
その説『人類の祖(倭人種とスファラディ種)による遺伝子組替が五色人

十数年前、氏の講演会で知り会った人から

口伝えで知った。

 

考えに考えた末に知った説。

それについて、少々のショックは受けたものの、
特別なことでもなく、

そんなこともあるかもしれないなぁ、という感覚であった。

 

 

人間・生物は、すべからく無意識に

エグい(刳い)ことをするもんだ、と。

 

 

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…で、家人とのその論争だ。


家人は博愛主義的思考(キリスト教的思考)だなぁと思う。

それがひとつの障壁ではないか、と。

「わざわざ、そんな説を持ち出して考える必要はない」という。

ふつう”に考えれば人類の発祥は遺伝子で説明できる」と。

 

 

だが、「わざわざ」と考える事自体が、
明治以降の日本人専用の汚染脳、

欧州人が押し付けてきた「キリスト教的”博愛」「偽の平等感」、

その欺瞞だと私は感じる。

そこを看破する必要性を思うし、

肉体という物質にこだわる唯物論な訳で、

それを超えなくては生物としての精神の平等、

あるいは、摂理の中にすでに公平さがあることに

気付けないのではないか、とも思う。

 

 

そして「ふつう」という罠にはまる社会。

誰が、「ふつう」を作っているのか、である。

 

(日本ではキリスト教という宗教の布教はある意味成功はしていないという。

つまり、キリスト教思想ではなく

日本人向けにカスタマイズされた“キリスト教「的」“思想だ。

簡単に言えば、闇と光を極端に分けて闇を無視・排除してしまう思考、倫理観。

幻想・概念でしかない愛や理想を求める人工的な発想。

自己顕示欲による物理的な完璧主義。それゆえの唯物観。

 

 

そこを自覚できない・させない、無意識・無自覚なのが

狂乱的とも言うべき現代日本人の西洋礼賛と金銭物質崇拝。

己の民族性を否定し自虐史を受入れてきたのも、原因のひとつ。

…学校やマスゴミが、常に間接的に整備し啓蒙ているのだ。

 

例えば明治期にはキリスト教系学校敷設、

日本神話に一切触れない戦後狂育。

(大昔に神話を捏造されちゃってたからかえってよかったみたいだケドね!笑)

世界史教科書には文明の筆頭に西洋が記され時代毎、他地域に比べやけに詳細だ。

それを不自然だとも感じないようにされている。

 

マスゴミ偽文化による偽善や人工概念の愛、偽言説、捏造事件事故、等々の流布。

民族思想へのバッシング。優生種思想の巧妙な汚染脳…。キリがない。)

 

 

 

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人類はグロテスク。

生命の維持・保存、それ自体がグロテスク。


三次元の事象は決してイメージの綺麗事ではないのを
日々の生命活動・生理的活動で万人は解っているはずだ。

うんこはクサイし、汚く感じてしまうし、セックスはえぐい。

 

が、それをグロい、汚いと感じる事も博愛の罠に
嵌まっているのだけれども。

 


生命とは、悲しみや苦しみ、脆さ醜くさ、

その切なさが融合して、美や歓喜へ昇華される詩。

 


そのような仕組みで成り立っていることを
私たちは、イヤと言うほど毎日のごはんで、排泄で、

生物の諸々の生活で…、

わかっているはずなのに…。

 


トイレ掃除、赤ちゃんや老人のオムツを替える、
排水口を掃除する。

醜から目を背けたって社会の誰かが

請け負ってくれている、

下水処理場の整備、ゴミ収集、動物屠殺…。

 

自然災害、老い、病、死。

植物・動物・生物の命を奪って、己の命を維持する食事…。

 


こまごまとした汚物、忌まわしい事柄、残酷な作業。

美と醜は同居している、それが「今」であり、生活だ。

 

 

人間の意識を
「綺麗と汚染・快楽と恐怖・博愛と残虐」に乖離させ、

別物のようにし、目を逸らし続けている

現代の政治・経済・宗教や狂育…マスゴミのイメージ喧伝。

 

潔癖性に拍車をかける衛生観念の喧伝。

食物連鎖を無視し人間の食性を隠蔽する「食の汚染脳」。

経済最優先&肉食礼賛で、人口削減を実施中。

将来の生活不安や自然災害を騒ぎ「今」を忘却させる金銭物質崇拝。

強引な医療救命。医療イメージアップパフォーマンスの臓器移植、

病気増殖の献血やワクチンの闇、その偽善と脳死肯定の矛盾。

実態は人口削減目的の偽医療と偽生命観。

 

短絡的な狂育価値観で、優秀、強者、善人、

人工概念でしかない愛を求める、完璧主義の蔓延。

 

 

偽狂育(インチキ学説啓蒙)、偽宗狂、

噂流布屋マスゴミの偽世界観のプロパガンダ。

 


現代社会は、生物の本質を忘却させんとしている。

万人が心に嘘をつかなければならない偽善世界。

 


三次元の実態・実状・事実を無視している。

目を背けることの無責任さ、能天気さが

闇・病み” を極端に深くしている。

 

 

 

シニョレッジ その2

 

 

先述した元官僚の自責談に対し、結論を
“「シニョレッジや回転ドア」のせいで”としたが
それはなぜか。

当方のたわいない、毎度のグチだ。

およそ想像できることだろうけれども…。

 


回転ドアについて。
政治家は概して企業経営・役員をしている。
また、党員の企業・政党支援企業・官僚天下り先企業への優遇も、
選挙や政策のためには欠かせない。
それら企業に収益となる事業を行なう図式・それらの事業に
都合の良い政策を施行することが挙げられる。
昔から一般に周知されている事。

(最近の日本では毎回落札できないよう条例や監視で

中小工事は是正されたと思うが、持回りではないか、と。

大工事は入札出来レースだろう。)

 

そして公共事業の支払いは、払う国・自治体側は

個人としては痛くも痒くもない税金が故、

事業者側のカネ回収は容易で

安全・確実だ。しかもカネたっぷり事業だから、

双方にとって(政治家・官僚と企業)、輝かしい名誉実績にまでなる。

 

特に、土木建築事業は莫大なカネが動き大きな利益となり、
政治家らとその取り巻きにとっては旨味のある事業。
だからこそ、公共事業の「やり過ぎ」がまかり通り、
自然や古くからの住環境・一般人の生活を脅かしどんどん破壊し、
各産業や巨大集合住宅や自動車、交通網全般が、

最優先の工事が行なわれてしまう。

更に、日本が食糧自給率100%や建材・エネルギーあらゆるものが

国内生産、自前になってもらっては困る多国籍企業経営兼、政治家兼の、

回転ドアスペシャリストの国際金融家にとっては、

働き者ニッポンは鴨ネギだ。

日本国土の農地をガンガン道路・住宅にし、建材用山林は荒廃させ、

すべての物資を輸入依存国でいて欲しいことだろう。

そんな回答が挙げられる。

 


加えるなら、国家あげての大事業、新幹線、高速道路、空港、

ダム、発電所等々は、国際金融家が、国家に借金(世界銀行等)させ

莫大な利子収奪が目的であると同時に、
政治家や官僚、取り巻き企業は長期安定利益のおこぼれを

頂戴する絶好のチャンスだ。
(昨今はその事業を民営化させより一層、事業の競争激化を発生させ、
国際金融家が大株主となり利益収奪の工夫を凝らしておられる模様。)

 

工事にカネをかける程に、国際金融家らへご奉公ができる政治家・官僚・企業。
カネで国際金融家との折衝を解決する国防という見方もできるから、
政治官僚企業に勧善懲悪だけを訴えるつもりはないけれども…。


かといって、カネの使い道が乱暴過ぎて、

ほとんど国土破壊と変わらない。
が、それも…、

国際金融家やクダラ系勢力の目的。

ココに ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ ↑ 気付かないと、

そして白日の下に晒されないと根本解決はしない。

(いにしえの 倭国倭人ルーツを抹殺するのが目的)
それほど根深い隠蔽された事実が折り重なっている。(某氏説参考)

 


国際金融家は常に国家が債務に、

追われ脆弱・不安定であり続けることを目論んでもいる。

五輪や万博、Wサッカー等は国家や自治体を借金漬けにするけれども、

赤字でも結局は、税金で事業者は収益となり、債券で当面は補填できる。

公共イベント事業を請け負えば、国や自治体が赤字でも、
イベント事業当事者(国際金融家大株主や回転ドア企業)らは、どこ吹く風。

巨大イベント大義名分で、一般人・住民のごく普通の日常だが、

かけがえのない生活ひとつひとつは、隅に追いやられる。

かけがえのない日常を軽んじ、巨大イベントで一瞬のヒーローを
目指す事、自己顕示欲を満たすヒロイズムが、夢だとのたまうマスゴミ・狂育。

巨大イベントを幻想とも言える大義名分で説き伏せる。

デモや反対運動も巨大イベントと結局、

同じレベルの建前で、弊害になりかねない。

 

どちらにしろ、あらゆる公共事業全般が、

国際金融家政治家関連傘下とりまき企業に
確実に利益が流れるだろうことは想像に難くない。


国家自治体公共事業は彼らにとっては笑いが止まらない。
社会が不況時には尚のこと公共事業を増やし、それに群がる傘下事業者。


一般人、子どもや老人、弱い立場の者・零細事業者は

涙を飲み、身を削り、思考停止にならざるを得ない。

公共が民間へ税金の還流・バラマキを「善行」としての言い訳はあるが、
一般人・弱き立場の者にとって、その善行の痕跡は、

コンクリートアスファルト石油ジャングルが、ただただ増えるばかり。

生活環境は更に殺伐としていく。


コンクリートアスファルト石油ジャングル都市の熱さ寒さが
極端になり冷暖房も消費され、これまた電力会社は商売繁盛…。
石油輸入も・納税も増えて…。
支配層の笑いが止まらなければ、負の連鎖も止まらない。


一般人の当方が失笑してしまうのは、

狭い歩道に高価そうで不可解な彫刻が設置されていたり、
公共施設の壁や階段が大理石だったり、高速道路のどうでもいい看板に
贅沢な装飾が施されていたり、

たまにしか使わない高速道路トイレがどんどん立派になっていく…。

他にも挙げたらキリがない。


民家は以前にも増して、見かけだけはステキでも、

よく見れば空虚で冷淡なデザインの輸入材石油製品の安っぽい小屋に、

変貌劣化しているというのに…。一昔前の住宅は耐久30〜50年と言われたが、

現代の住宅は耐久20年じゃないかと…。

 

税金の恩恵を辛うじて一般人が受けるのは、
国際金融家が捏造する戦争商売からの回避と、
整備されたばかりの歩道では躓かくなる、くらいではないかな…。(苦笑)

 


(それにしても、ひたすらコンクリートで河川沿岸の護岸工事は、
日本近海の海洋資源、魚介類海藻…様々な資源を枯渇させる最最最悪の工事。
護岸工事で旨味をすする皆さん、漁業に目を向けてみて欲しい。
立場の弱い業種の首を絞めて自分だけは生き残れる、と思ったら大間違い…。
お宅の夕飯の魚が輸入遺伝子組替サーモンになって行くんだゾ〜〜〜っ!!)
日本の美味しいワカメや海苔も食べられなくなってしまうんだよ〜〜〜〜〜っ!!)
子ども達に、まともな食べ物や美しい風景を与えられなくなるんだよっ!!バカ~~~)

 

 

税金が不透明この上ない使われ方をしているが、そのカネの流れを解る範囲で
図式として、一般人の日常生活で意識するのが肝要だと思われる。
日々の暮らしの中で自身の収入と消費が

「汚染脳された情報の中での生活感の収入と消費」ではなく、
己の声に耳を傾け家族の心身を思いやり、納得できる、筋の通った、良心のある…

「生物・生命体として全うな判断による収入と消費」、

そうした生活感にしていくことではないだろうか、と。
社会を根底から変容させるのに、唯一残された方法、と思われる。

 

 


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シニョレッジについて。

古くは金銀銅鉛錫などを使い、国王やら朝廷が発行していた。

単純な言い方だが、それら金属の実質価値と名目価値の落差が

シニョレッジとなり国の利益として、

支配層の経費となっていた訳であるが。

 

昨今のオカネは一片の紙に印刷である。
(1万円札は原価20円 日本銀行株式会社発行)
(1円玉は原価約1.5〜1.2円…原価割れ。金属貨幣だけは政府発行)
そして今や、電子上の数字で管理する貨幣価値は、
記号化でその価値は、更なる複雑怪奇の時代。


現代、中央銀行は株式会社で日本の場合は政府株55%、個人所有株45%。
株所有者を公表しないという、上手いこと作られた隠れ蓑ルールで
一般人私たちは疑問も持たず、気付きもしない。が、
実質は国際金融家大株主の私有会社に違いない。

私有銀行会社である意義は、国家権力を監視するためと言われている。
が、口実としか思えない。
話は飛ぶが稀有な例として、JFケネディ氏が
政府紙幣(グリーンドル)を発行した。
その頃USAは好景気で、アメリカンドリームと呼ばれた時代。
それは彼のひとつの実績だった、と当方は理解している。
貨幣を政府発行へ移行しようと、それに着手した直後に、
暗殺されたのが真相だとも言われている。

資本主義社会での政府発行貨幣の場合、
私有株式会社の中央銀行の監視が不要であろうことを
短期だがケネディ氏はわずかにでも証し、意義深い足跡を残したと思われる。

 

その他、USAはFRB設立の経緯にも更なるビックリ狡猾隠蔽ドラマ
タイタニック号にその真相アリ_ネット上に散見する話)が
あったそうで。まあ、それはさておき。


金本位体制から1973年変動相場制になりその価値は各国の
輸出入の手腕で左右されるようになった訳だが、
(国際金融家所有の多国籍企業に好都合な貿易が前提)

紙切れ・電子マネーに価値を持たせ維持するために、
経済発展国と途上国の貿易格差拡大、低賃金過剰労働、大量生産・過剰消費、
地球資源確保の乱開発や過剰な新技術、生産性の虚構化。
(ケイタイ・ネット・ゲーム・ギャンブル等
仮想ゆえ、物理的生産と消費との均衡が崩壊)、
経済活動が激化。単一品粗製乱造・悪質化劣化と言えるだろう。

言うまでもなくゴミ増加。

 

その活動は、18世紀後半(明治以降)を端緒に、20世紀後半には
人間の奴隷家畜化・自然環境破壊が急加速した。
しかもそれはマスゴミや狂育の喧伝で無自覚・無抵抗。
いや倒錯され家畜奴隷化・自然破壊は礼賛とさえなってしまった。

地球からの無償の自然・資源に犠牲を払わせ、環境破壊。
不満ストレスを抱えようとも、人生・生活を
捨てる訳にはいかない99%の一般人。

 

 

ひとつの結論として単純な話、物々交換社会になればいい。
シニョレッジのない、等価交換による経済活動は、

人工物の余剰・過剰が発生しない。
自然の犠牲や人間の精神的苦痛もなく、あくどい商魂も起きないだろう。

 

数年前、ロシアと中東で天然ガスと食糧の物々交換が行われていると知った。

 

物々交換の不便さから、便利さを追求して、
貨幣が発生したという言説は国際金融家支配層の詭弁だ。
古くは暴力や脅迫・戦乱による国家発生の有史以降(狂育的言説の歴史)、
支配層の生活・人生が、シニョレッジ無しでは成り立たない、

彼らのご事情は、普遍で負担だ。(大衆の依存心理が依存者を創出)

 

カネの存在しなかった太古や中世の小国、
カネの流通がごく少なかった社会(米が年貢の江戸期まで)、

その世界観の安寧・平等・自由・幸福感は、
カネの便利さには、替え難いものだったと思われる。

 

だからこそ支配層にとって、物々交換社会の実現に向けた、
良心的な創意工夫、カネ社会を終焉させ、
生物としての心身の感覚や自然重視の未来社会の構想など論外であろう。

カネ不要な社会など「想像外ダ!ゼッタイアリ得ナイ事!」を前提とする
マスゴミ・狂育による汚染脳に、支配層は知恵と工夫を惜しまない。
彼らにとっては、それも安泰の今は、ゲーム感覚であるのだから…。

 

支配側には被支配側一般人の物理面や精神面の依存性が重要で、

共依存の関係を保つ事でもある。

利己的で受動的・無自覚で、鈍感。それが優等生(愚民)だ。

貯金・保険・保障・不動産・権威権力・地位・有名名誉、
それらが大好きで執着でき、内省のないこと、感受性が鈍いこと。
対価労働(献身奉仕の精神無しの受動的な労働)以外は無関心。
自己顕示欲が強く上下・勝敗の差別的な短絡思考が得手なこと。
情緒・感情・理性・本能・身体能力の攪乱と排除。
想像力創造性遊び心の喪失、貪食で脳内化学反応で満足できること。
疑問を持って本質は何かを考えよう見ようとしない、
インプットだけ得意な一定期間の記憶力だけを偏重する思考停止。

自然への感受性の鈍化、自然への畏怖畏敬の喪失。

(遺伝子組替・F1種・外来種を見て自然美と感じたり、

口にして旨いと感じてしまう偽感性も含む)

 …マスゴミと狂育がそうした人間を増やし続ける。

 

だが相反して、紙や記号であるカネの価値も、
地球の天然資源と共に、とどのつまり
心身が正常に働き、精鋭できる人間の

物理次元で造作したもののみが、

普遍的な価値を生み出す。

だから人口削減の発想になってしまうのだろう。

やれやれ。

 

 

支配層死守必需のシニョレッジが存在しなければ、
99%の一般人は人生大半を占める金銭による心配・不安・恐怖、
過度な自己顕示欲や自尊心によるピラミッド型競争社会、
あらゆる精神を汚す意識も発生しないであろう。
一般人が能動的な意識になり、
「カネによる支配層が唱える安心安全幸福は要らなかった」と気付けば、
いとも簡単に人間は、意識の汚れが落ちるのではないか、と感じる。


愚民として人生を送るためにこの世に生まれてきたのではない。
深いところの潜在意識はそれを知っているからこそ、
メディア汚染脳と潜在意識の摩擦で、
万人に苦悩が次々と起こるとも言えるだろうか。


企業・組織の偽善・偽言説を看破し、しがらみに見切りを付け、
自らの意志で真実や事実を知り学び実践し、
能動的に発信する人が増えれば、カネカネ教は瓦解し、
自然の犠牲・環境破壊も、ほぼ起きなくなるという話デシタ。

 

 

 

 

 

 

シニョレッジ その1

 

 

すっかりマスゴミを遠ざけるようになったが、
それ以前、十数年くらい前に読んだ地方新聞記事のこと。
うろ覚えであるが、確か元建設省の官僚だった人の話。

**********

その人は社会貢献の志しを持って、地方から東京へ出て、
国家公務員としての職に就いた。長年、様々な公共事業を通じ
社会に役立つことをしていると、その職に自負もあった。

が、期せずして定年前に、ご本人の父親が逝去したので、
実家の仕事である幼稚園の経営を引き継ぐことになり、
要職を退き、地元に帰ることとなった。

さて、幼稚園児達を世話する中で、
地元の近隣の原っぱで遊ばせようと、園児達を連れ出掛けた。だが、
いざ園児を連れ出かけてみると、公務員時代に帰省した時には気付かなかった、
その町の様相が、すっかり変わっている。
散歩の道程は自動車の往来が激しく、園児達の徒歩がままならない。
自身が幼い頃に遊んだ、のどかな風景、美しい原っぱも、無くなっている。

園児達を自然環境の中で遊ばせたいと思っても、
自由に伸び伸びと遊べる場所が、もう無くなっている。
変わり果てた地元の風景を目の当たりにし、
今まで、自分は公務員として国民のために国土を開発し発展に導いている、
働いていると思っていたけれども、地域の生活環境がむしろ壊されていることに、
その時、初めて気付いた。今まで、何をやってきたのだろうか、と。

*************

 

そんな自責談の記事であった。
象徴的な話だったからか、未だ脳裏に残っている。


日本人の大半が仕事だ、勤勉労働、景気回復だ、社会貢献だとし、
無駄な、いや、むしろ人体・生活・自然環境を
悪化させている労働を繰り返し、
「無自覚に・無意識」に破壊し続けているように思われる。

端的に言ってしまえば、おおもとその権化は、
国際金融家(中央銀行と称す私有株式会社)の巨額シニョレッジ収奪のためであるし、
国際金融家のパペット政治家の回転ドアだろう。

(*シニョレッジ…貨幣発行特権・貨幣の実質価値と名目価値の差益)
(*回転ドア…政治家が企業経営陣営でもあり、
身内企業に有利な政策で、政治権力・利権や経済優位・利益収奪を維持し続ける構図)
(*イラクリビア等々は、欧州国際金融家の中央銀行と称する「貨幣発行利権」に
抵抗してきた勇敢な国家・指導者は悉く、
国際マスゴミと偽装テロでバッシングと戦争を仕組まれてきた)。


その構図に気付かせないために、疑問や能動的な思考力を持たせない、
受動的な思考、鵜呑みの記憶力ばかりを優先させる「偽教育(狂育)」。
更には権威偏重の学問体型は、自然を生かすのではなく
自然を搾取する理論しか世に出ないようになっているだろう。
それを覆い隠し強化するための、マスゴミの大量偽情報・利権政治経済。


偽教育(狂育)を詰め込んだ生真面目な中堅エリート層によって、
民主主義社会と称し一見、健全なものに見えるよう
マスゴミ・狂育は喧伝する。

単に自然を搾取・破壊しかできない短絡的な社会構造なのに、
マスゴミ・狂育の喧伝によって、世の中がまるで
進歩発展している、かのように思い込まされている。

中堅エリート層は「貢献している」という自負があるから、
本質に気付くことがない。錯覚が延々と続いている。

先述した官僚だった人のように、
自分の実感できる地域社会に戻った時、
初めて、進歩発展・貢献を目指したことが、
カネでは買えない大切なものを失う愚行だったことに気付く。

が、もう手遅れ…。
巡りめぐって自分で自分の首・子孫の首を絞めてしまう社会。

社会貢献とし立派な職業に就いて、役立つ仕事をしているつもりが、
細部・それぞれの生活をよくよく観ると、
ほとんど世の中を複雑化・悪化・劣化させている。
それが経済活動だと言っても過言ではない。
偽善でしか経済活動が維持できない仕組み。
「シニョレッジ&回転ドア」のせいで。

 

 

 

 

マスゴミ…出来レースの知恵


テレビや新聞、雑誌、映画、喧伝用書籍の、

その舞台の裏側を知ってから利用しなくなって5年以上か。

マスゴミ全般の茶番劇に、ただただ呆れるばかり。


思えば、“喧伝・プロパガンダ”という用語をTVや新聞が使っているのを

聞いた事も見た事もない。記憶にない。
せいぜい、社会問題の真相を語る書籍くらいだ。
そりゃ、そうだ。「そのもの」なのだから。

その概念を大衆に知覚・認識されては都合が悪く、困るものね…。

 

 

とうとう、偽ユダの正体が周知され始めたから焦っているのか。
意味不明なお笑い芸人を装った“厚切りJ損”とかいう、

品性の欠片もない、がなり声のエージェントタレントまで起用し、

幼児向けの汚染脳にやっきのようだ。

無駄にわめいたり大声を出す状態で身体表現するのは、

概ね汚染脳の特訓を受けた人間だろう。お気の毒さまだ。

YouTubeで目にしてしまったが、非常に気味が悪い。

例えネットでも、見たくなかったなぁ…。
全然面白くないし不快だった。
そんなに、日本にWhyと疑問を突きつけるなら、

とっとと帰国すればいいのに。

こっちが「Why  you stay  here?」と問いたい。
まあそんなどうでもいいことはともかく…。


各新聞やニュースで「TPP反対」やら

原発再稼働の是非」「憲法九条を守る」「従軍慰安婦問題」などなどの
見出し・話題が、印刷・報道され、民主主義・資本主義を装って、
まるで“中立の立場”で言論の自由を繰り広げているように見えても、
“反対派の声を応援”をしている、ように見せかけても、
市場経済”が自由競争を生み出しているように思い込んでいても、
“医療や教育や科学技術”の進歩するだろう信頼感を抱こうが、

 

あくまで出来レース

 

記者やアナウンサーや有識者、末端の労働者ら…、現場の人間は、
パペット・操り人形としての自覚がない演者だ。

 

世論調査等で街頭インタビューされたり、

事件被害(やらせ事件)に遭遇した風を装ってインタビューされている人間が、
実はマイナーな役者で、あっちのニュースこっちのニュースと変装して現れる。
その街の人を装った役者のコメントは、

マスゴミの誘導したいプロパガンダに加勢する発言をするために、
登場している。(笑)

受信料回収が捗らないから、経費節減かぃ。

 

 

なぜ、そんな巧妙で狡猾なことをするのか。
できるのか…。

国際金融家彼らにとっては、大衆の意識を操作することなど、
大したことはないだろう。しかし、大衆にとっては大損害。

大衆を支配する悪党の視点が、

善人用教育を施された大衆には、さっぱり分からない。

 

プロパガンダの目的は…。

 

所有しているマスゴミの報道を操れば(喧伝・プロパガンダ)、

何でも手に入る…ように、
マスメディア発足以来、日本ならば明治以降、

そのように社会を完全支配・私物化していくために
構築してきたのだ。しかも、公社にしても企業にしても、

育てるのは、国であり、企業であり、国民の努力である。

育成させて、結実し、実が成ったところを横取りするのが、

国際金融家偽ユダの更なる悪知恵である。

 

公社が民営化し株式上場して、半分以上の株を国際金融家が取得し、

所有企業にして、企業利益を彼らの懐に納めるためだ。

更には、国の労働力や不動産も、
私有化で一気に彼らの所有になる。

 

 

 

公社を民営化するために公社の欠点をあげつらったり、

スキャンダルを騒ぎ、大衆が、さも公社・公務員の不浄さ、怠惰さに、

呆れているように喧伝報道し、民営化を強行する…。

 

日本企業の脱税や不祥事や偽装のマスゴミ報道も、
株価を下落させ、一般投資家が売却した安い株を買い占めるため。


以前なかった新ウィルスによる病気は、ウィルスをバラまく怪しげな行為も、
ワクチンを医療現場で宣伝させ健保の莫大な拠出を前提に販売するのも、
国際金融家所有の企業利益を得るため。

 

国際金融家偽ユダからの指示で、Jパン反ドラーが、
パペット日本政治家や売国奴財界人、似非学者文化人らを
脅しながら餌を与えながら、命令する構図が透けて見える。

何度も書くが、マスゴミも国際金融家偽ユダ所有な訳で、
そんな偽情報を本気で視聴し、真面目に分析しするのは、人生時間の無駄。

 

プロパガンダに溢れた現代社会の情報を分析しても、所詮
すべてが鏡面の世界に放り込まれたような状態だ。

 

鏡に映る虚像を真実と思い追求し、やはり虚像。四方八方が虚像。
疑問が疑問を生んで、偽の解答で腑に落ちないまま。
大衆=ゴイム(家畜・ユダ語)は、真実はない、答えのない、
鏡面の室内で延々と右往左往している。


家人がよく言葉にするのは、“勧善懲悪の物語”を思うと、
「悪人の方が、ずっと知恵を絞っている。
善人は物語では勝てても、悪人の方が頭がいいから、
現実世界では勝てない、騙されてるのが世の常」と。
同感である。

 

ピダハンという少数部族の思想「直接体験の原則」は、

すこぶる真っ当であり、見習うべきだと家人は唱える。

これもまた、同感である。

 

テレビや新聞雑誌の伝えることは間接的。

とどのつまりマスゴミを信じてはいけない。

信じるに値しない、ということである。

が、こうした内容を発信すると、この記事も、

元も子もないのであるが…。(苦笑)

 

大衆側の私たちも頭の体操に、
寡頭勢力のずる賢さを観察する力、
舞台の裏を想像する力を身につけよう…ネ。

 

 

 

 

 

一体、人間はこの地球で、何がしたいのかぁ?

 

 

動物は、人間と比較して、
日がな一日遊んで暮らしている…と
揶揄する言葉を時に聞く。

怠惰を批判する社会。
勤勉努力を奨励する時代。
確かに、怠け者は他者に負担をかける。

機械化が進む前の時代は、
支配者が大衆を野放しにしないために、
怠惰を罰する考え方、
倫理観を広げたという見方もあろうか。

それにしても、よくよく考えれば、
現代人はどんなに労働していても、
怠けるため、楽チンを確保するために、
労働しているだけ、とこの頃の私はそう考えるようになった。


なぜなら、野生動物は肉体を充分使う生涯だ。
暑さ寒さ、風雨を耐える。
危機を意識しながら睡眠する暮らしだ。
五感をフル活動させる。危険かどうか勘を使う。
食べ物が無い時は耐え、仲間と分かち合ったり、
他の生物と生死をかけ争って食を得る。

糞尿屍は、土に還り、そして大地を肥やす。
また、子孫を残すためにも命がけである。
人間よりずっと意志が強く逞しい。

本能こそが賢く映る。

ぼんやりしているように見えるのも怠けているのではなく、
自然の流れに添って耐えていたり、焦ることなく
無心に、気長に時機を待つことができるのだろうな、と。

偉大だ。

 

生命を感じる生き様。

それは、肉体の苦労と歓喜がそろって、やっと生物は、

真の自由と幸福を感じるよう、

そのように意識が具わっている、と思われる。

 

それに比べると、現代の人間は今を生きることを忘れ、
先々まで己の身ばかりを心配し、食を備蓄し、
将来の保障を国や他者に求め、カネをかき集める。
一瞬の恥を掻くのを恐れ怯え、
一時の心理的苦痛回避のために、虚栄心に振り回され続ける。

それを逆なでする、見えない社会風潮・喧伝までもがある。

生存欲を欲望・好奇心(好奇欲)と倒錯し、

乱痴気騒ぎで暮らし続ける。

それを煽動するマスゴミプロパガンダと狂育と政治経済。

 

暑さ寒さを避けるため、衣類から住宅環境、寝具、家電…、
あらゆる場を、楽チンに暮らせるよう、金銭労働が必要なのである。
果ては子孫を残すのに、命がけどころか、
まずは、目に見える名誉やカネの自分の損得勘定が先である。


また、天変地異が起きても、被害が少ないよう、
苦痛が最小限になるように、
他の生物が暮らせない自然環境の破壊をしてまで、
気が狂わんばかりの巨大工事して人工化する。
(ホント気違い沙汰だ×
たかだか、数百年の虚栄財産保守のために、
生かされている環境を破壊し、

子孫存亡の危機を与えるなど、逆立ちにも程がある。)

 

移動も、もはや自力ではない。
自動車、電車から飛行機まで…。
労働でカネを得て、
楽チンにより遠くへ移動しようとする。

移動に肉体を使わなくて済むよう、
やりたくない労働をして。
自然を膨大に破壊し道路や線路を作り続けている。

 

自分で食べる物を他人に作らせ、
やりたくもない労働をしてカネを得て、
我慢を重ね、ストレス解消と称し
偽食・汚染食を食べ、病気にまでなって…。

 

一体、人間はこの地球で、何がしたいのだろうか。


肉体の楽チンや怠惰、欲求不満を満たすために、
やらなくていい我慢や意味不明な努力や自然破壊・生物を殺戮し続けるのである。
長い時代、人間は想像力の使い方を明らかに間違ってきた、と私は思う。
もちろん、自分もその一人でもあるが…。

進歩発展と称されるややこしい科学・無駄に大げさな技術は、

国際金融家・エリート層・偽ユダらが、

支配のために牛耳っているだけである。

一般大衆は、進歩発展と喧伝される道具を

賃金労働の対価として、享楽・怠惰のために、

単に、使用・消耗しているだけであって、

頭と体、そして心も、生物として退化している。

否、退化サセラレている。

それは加速しているようにも映る。


もっと動物の精神に学び、
どうしたら自力で暑さ寒さを凌げるのか、
どうしたら自力で速く移動できるのか、
どうしたら自力で清潔を保てるのか。
どうしたら慢性病にならないのか。
どうしたら他生物の犠牲を最小限にして、食を得られるのか。
どうしたら自然環境を破壊せずに生きられるのか。
どうしたら本音・本能に正直に生きられるのか。

どうしたら支配者の居ない世界にできるのか…。


植物を愛で、植物の心に触れ、心の清らかさとは何かを想像した方が、
どんな勤勉努力よりも、救われると思う。 細胞に…、遺伝子に…、

伝わるのだろう、と思う。

微生物が土の中に水の中に、植物動物、人間の体内に、共存している奇跡や
その心根を想像したら、自ずと人間の理にかなった暮らしや仕事が、
直観的に解っても来るのだろう。
超太古の人々の想像力の豊かさを想像するべきである。

 

もっと人間以外の動物の本能・精神を謙虚に学ぶべきではないのか。
植物や微生物からの伝言を感じ取り、心を知るべきではないのか。

現代人が、どんなに動物植物…自然界を数値で分析しようが、

研究しようが、知識を増やそうが、

利用する目的や自慰のためであっては、

人間の進歩だ発展だと信じてやって来たことなど、

全部無駄だ、と私には思える。


………………

 

と、猫家族と暮らすようになって、大げさに考えてしまうこの頃だ。


愛玩動物として、血統書付きに拘るのもマズいことだと思うし、

嫌いな価値観だ。

親和的かつ、適当な距離感で人間と動物や植物が暮らす、

人工的な物で妨害しない関わりを望み、

いつか、他生物と人が対話できる地球を私は想像する。

 


多くの現代人が精神を病んでいる原因のひとつに、
動物や植物との関わりが極端に薄いからではないのか、と思う。

もしくは、動植物に関わりのある人間は、利用か愛玩物である。
昨今、多くの人間が言葉にする、“動物や植物からの癒し”とかいう
安易な言葉では納まらない、
現代人と他生物との歪な関係を考えずにはいられない。


元来は生態系の一員として存在しているはずの人間。
あるいは生態系の維持と助力のために存在するようになったであろう人間が、

中世からのユダキリ教(ユダヤキリスト二人羽織教)台頭によって
人間中心主義を謳い出してから、アミニズム、精霊信仰…自然崇拝は、
欧州人による奴隷支配を契機に、ことごとく隅に追いやられていった。

かつ、欧州勢やその配下の百済勢、彼らは
この先、倭人のルーツ(自然種)を持つ日本人を
完全排他排除したいのだろう。(その推測の理由をいつか書きたいが…)、

しかしそれにしても、白人系優生種思想を
しわじわと波及させ推進しようとも、
水面下の動向から見てとれるそれは、
近未来に、優生種思想がいつの間にか偽倫理観のプロパガンダ
さりげなくこっそり本質の視点に是正され、

生態系を重視し命の思想として欧州勢彼らが
立派に唱えようとも…、

自然の中にある心、調和、揺らぎ、曖昧さを感じ取る感性が、

彼らには、どうしようもなく哀しいくらい…欠けているように思われる。

 


生物全体の、命の詩を感じる事ができない、と言えばいいのだろうか。
それこそが“西洋礼賛”を私が最も危険視する理由だ。
差別と言う倫理観ではなく、肌で感じてしまうことなのだ。

地球で人間の生命が最も尊い、人間は偉いという
西洋的な幻想の価値観が、中世から暴走し始めた現代まで。
こんなに地球を壊している現代人(病的な生物)なぞ、偉くも何ともない。


臓器移植などの医療行為の行き過ぎや、健康への極端で無責任な拘り。
外見美醜への異常なまでの執着、遺伝子を操作してまでの食糧の確保等々。
人類全体が病んでいる証拠だろう。それは留まることを知らない。


動物や植物の生命や心に無関心の現代日本人のライフスタイル。

最も生物として愚かしい行為だと思うのが、

糞尿・屍・残渣を単なるゴミとして処理していること。
雨水が降り注ぐその大地に沁み込まない環境であること。

膨大な護岸工事・沿岸工事をし続け、
水と共に暮らす生物の呼吸や食、住処を奪うことだ。

心底、許せず、そしてたまらなく悲しい。


食物連鎖・生態系・人間の・生物の無意識=本能を
破壊している最最最悪徳システムだ、と私は思っている。

 

意識が大地から隔離された暮らしが、
人間の食や物資を得るために他生物への残酷を許し、
人間の精神を自閉的にしてもいるのだろう。自業自得だ。

せめて、身近な動物、植物に目を向けて、
その心を感じて暮らすように、と。
誰にでも、どこにいてもできることだと思う。


以前、東南アジアから来た人が「日本には動物の姿が街にない」という
印象を話していたということが、記憶に残っている。

汚染脳によって他の生物にひどく鈍感に、

そして残忍になってしまった現代日本人。

命を頂き命を養うはずの食が、

動物や植物を喰らう遊戯へとなった現代日本人は、

もう悪魔の徒弟と化している。おぞましい限りである。


幕末までの日本人の生物への温かく優しい眼差しを
「逝きし世の面影」第十一章・十二章に書かれている。
すべての日本人が読むべき一冊だ。

気付こうとしない、疑問を持たない、

マスゴミで汚染脳され切った日本人中高年層は、
もうどうにもならない。
せめて若い人たちにはできる限り、マスゴミを無視し、

教育制度を疑い、携帯電話から目を離し、できれば止めて欲しいものだ。

動物や植物の心・魂を感じる
想像力を養ってもらいたい、と願うばかりだ。

 

毎朝、スズメに、草や樹におはようと、
心の中だけでも言ってみようょ…。

一緒に暮らす猫家族は
「オアヨウ」って言ってくれる。
気がする。

(食肉レンダリングや遺伝子組替の大問題を
如何に回避するかは、頭の痛いことだが…。)

 

 

かなり変な、コドモもどきおばさんのワタシは、
スズメや草にマジで
挨拶してしまう…。

お米をあげて寄ってくるスズメの面白さに魅せられて。
が、なかなかギブアンドテイクから足を洗えないか…。(苦笑)

 

********************

 
つまり、ワタシなりの問題解決のヒントは、
自然循環を豊かに繊細にする

自然と対話・相談しての助力、

他生物へ食を施す環境にする工夫の

“喜び”は、地球生物の心を

円くしていく…ってな話である。

 

 

 

 

所詮…遊び道具

暇人の独り言…。


放送事故というタイトルのYouTube動画を見ていたら、
匿名の書込みの是非について討論の末、
言葉の揚げ足取りレベルの口論となっていった。

確かに声を荒げた会話は…、放送事故っぽい。
失礼ながら、ちょっと笑ってしまった。

誹謗中傷の書込みは度が過ぎる場合は取り締まるべきで、

実名でネットでは活動するべきという意見。
片や、そこまでする必要はないと。

 

当方はハンドルネーム。批判めいたことを書くことも
あるから、ズルいのは承知の上で実名は出さない。

 

ところで、またYouTube動画の話題になるが、
蛭子能収氏の話。子どもの友達が蛭子家に遊びに来た時、
冷蔵庫にあった蛭子氏の楽しみにしているプリンを
食べてしまった。そこで、蛭子氏は後日、連載中の
漫画の中で、その子どもの友達を懲らしめる四コマ漫画
描いた。もう二十年以上前の出来事。

それをネタに、今頃になって口の悪いタレントたちから

吊し者にされていた。

蛭子氏の言い分は「嫌なことがあったら漫画にすることは
時々あるけど、まさか本当に殺したりはしないですよ」と、
当たり前のことを言っていた。アホらしい話の番組(動画)である。

が、蛭子氏は案外、古き日本人の特徴をいくつか残している

人物ではないか、とも思っている。

 

考えてみれば、江戸時代も平和な社会であるにも関わらず、

残忍な絵や卑猥な絵、辛辣な風刺画、破天荒な小説が
たくさんあったようだ。

サービス精神が遊び心で、時に他人を驚かせ楽しむため、

表現者は現実の鬱憤を晴らす昇華のためだったり、

退屈凌ぎに精神の陰影を表現するのは昔からのこと。

人間の毒々しい感情や想像力の所業も、

平面の場ではある意味で普遍的なことだろう。

 

 

インターネットは仮想空間と言われるように2次元である。

直接、誰かに会って話したり、面と向かって争ったりする訳ではない。
江戸時代の浮世絵や風刺画を電子化した世界という見方もできる。

現代社会はキリスト教的モラルが流布され蔓延してしまったから、

単なる仮想の自浄作用にまで、目くじらを立てる程、

余白・遊びの無さが問題の根を増やした、と常々思う。

 

ただし、絵ではなく文字の場合は難しい側面がある。

また、電子技術は伝達のタイムラグが少ない分、

現実世界とリンクしてしまいやすい。


絵であれば、それは過去であり記憶である。

鑑賞側に、時間の流れの中で想像の自由を与え、

解釈はそれぞれに委ねられ曖昧さが成立する。
かつ、絵は「遊び」を前提とした道具だ、と

誰しも認識しているから損得とは、関係ないところで

鑑賞するものである。


だが、文字・文章は概念や常識を共有しながら
伝達する道具で、事務的かつ実利や記録の側面を持つから、
常識から逸脱したり誤解や間違いで、人を傷つけたり迷惑をかけ、

損得が発生したり、国の利害にまで及びかねず、

大きな争いの元となる。

偽ユダはそれさえも利用している訳だが、それはさておき。

 

ともかく、言葉で心が傷つくことがあるのは、

誰しも分かっていること。


二次元の世界を実利的に活用したい人間と、
単なる遊び道具として活用する人間が、
同じメディアで、時として衝突している。

摩擦が起きる。

 

話は少々逸れるが、

株式や為替のような数字だけを扱い、

現実で使う実利を得ることは、不自然だ。

資本投資や企業利益とカネの整合性は有って無いように見受けられる。

根本を問えば、国際金融家が作り上げた金融システムは虚構で、

ほとんど虚の利益なのだから二次元で完結すべき、と思う。

 

もっと本質的なことを考えると、お金というものが
量の尺度しか無いことが狂っている。

 

ギャンブルで儲けてそのカネでジャブジャブ消費するのと、
現実社会で肉体と時間を使い、働いて得たお金と等価であることが

そもそも異常なことだ。が、有史以来それが変わらない。


こんなに世の中が発達したと言いながら、

未だに、お金の価値の中に質を与えることを

しないのか、できないのか…。

その代償のように、人間の意識が金銭礼賛となって荒み、

物資は偽物や粗悪品が増大した。

 

 

二次元である世界(‘TV新聞雑誌映画…携帯等々のメディア全般)は
どんなに大規模に精巧になったところで、

所詮…遊び道具・オモチャだ。

仮想世界を遊びとしてではなく、現実にその損得を持込みたくなる人間や

自分の欲求不満を解消するのに、

仮想世界と現実を倒錯し、実行してしまう幼稚さ。

結局は、物理的世界、肉体を、自身も含め

老若男女、社会全体が疎かにしているからだなぁ、

という印象を持つ。

 

お金も、ある意味で紙幣という二次元の遊び道具である。

現代のお金に込める価値や意味、懲罰などが

現実のカネの質より重過ぎやしないか。

 

支配者層は肉体を使わない代わりに、

権威権力と言う架空の価値を作り上げ、カネに幻想の重みを増やし続ける。

が、しかし結局のところ、そのお金の価値を成立させ支えているのは、

物理空間での肉体的活動なのである。


肉体を疎かにしている人工礼賛の人間たち支配者層の世界観に、

自分のことはできる限りは自分で、というごく自然な、

生物的な世界観だった大衆である私たちの方が、振り回され続けている。

あるいは、中世に国土の奴隷支配を強いられた人々が、未だ犠牲になっている。

 

遊び道具に、三次元の現実生活と同等の常識を持込みたくなる人間の方が、
現実の世界から乖離して生きている人間ではないのかな……、と。

 

 

 

少々、伝わりにくいが
屁理屈を考えてみたのだが。

YouTube動画も仮想世界だから、

まぁどうでもいいか…。

 

 

(俳句や短歌は絵や音楽と同じく偉大だなぁ。。。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロパガンダに気付いて…互いが自由に。

西洋文化の困ったところのひとつが
自由のはき違えだと私は思う。

いわゆる欧州系の人間が唱えるFreedom
「自由」は、物理的なことを意味していると、
常々、思っている。

誰かが物理的な自由を追い求めれば、
他者、対象が不自由や犠牲、迷惑を強いられるのが、
三次元の法則だ、と思う。


*******************************



些細なことであるが、
半年前のこと。うちの周辺道路は自動車の往来が激しく、
道路も狭い。その日私が自宅付近に近づき、車を駐車場に止めようと
減速し始めた頃、車の前や横をウロウロする
スケードボードに乗った青年がいた。
かなり迷惑だな…と、様子を見たら白人青年だった。

私は車の窓を開けて、その青年に「ちょっと危ないよ!いい大人が
狭い道路でそんなもの乗らないで!」と、
ヒステリーおばさんと化した。(この頃、ワタシ変なオバサン?!)
青年は、おののきスケートボード
乗って慌てて通り過ぎたが、動揺して転びそうになって、
やっと乗るのを止めていた。

また、ある日のこと。区画整理していない地域の主要道路にも関わらず、
車が一台しか通れない道でのこと。
そこで飼い犬の紐を外し、はしゃいで散歩してる親子がいた。
その様子に気付いて、もちろんこちらは超低速である。
私の車が通ることを殊更に騒いで、犬の心配をしているのであるが、
紐を外して遊ぶのなら、公園でお願いしますと、厳しく言った。
やはり、その親子は白人だった。

余談だが、十数年前迄よくTVに出ていたアメリカ人タレントは、
殺人歴を持つことを最近知って驚いた。そんな経歴を持つ人間も
売れっ子タレントになってしまうことには呆れた。
ドンだけ、物理的に自由なんだ?!と。
日本人はもちろんアジア系やアフリカ系の人なら、
出国さえできないだろうし、
タレントなどあり得ない…とも思った。





*******************************


他の民族、人種に比べ、世界中に白人は散らばり、
他国でも好きなように暮らしている彼らに
以前は、欧州系人彼らは勇気があって行動力・冒険心が
旺盛なんだぁ、自由に行動しているなあ、と能天気に思っていたけれども。

国際金融家や偽ユダ、欧州勢に疑問を感じるようになって
身近なことを観察していたら、経済的にも社会的にも優位で
自由度の高さを白人たちが謳歌しているのは、
与えられていたからだったのか…と気付いた。

この狭い日本の国土で、道路事情をお互い気遣いながら暮らしている
私たち日本人。物理的には不自由でも気遣いや工夫で何とか解消しつつ…。

それにひきかえ、他の民族に比べ、
欧州系人の彼らはマスゴミイメージ戦略から
生活習慣・経済・マスゴミ・宗教・教育・言語に至る迄
(白人は善良、優秀な人間というプロパガンダ)、
扱い等々が優遇されてしまっている。
特別扱いの常識の風潮が漂っている。

よって、移住しているその先の
国の常識、良識、価値観、事情、扱い等々に遠慮することや
気遣うことができていないのだろう、ことに改めて気付いた。

よくよくみると、日本に来ている外国人、
旅行者も含めて、欧州系人は図々しいし威張っているなぁ、
と思える事に時々遭遇する。

刷り込みのイメージで日本人のこちら側が「いい人」と思い込んで
いるだけのことが多い。
「白人」を友人に持つ事が優越感になる日本人もいるようだ。
だが、むしろ、
どこか有色人種を蔑視する狂った日本社会であるのに、
中国人や韓国人、フィリピン人、ネパール人、ブラジル人、トルコ人…等々は、
お金の為と言えど、日本社会に馴染もうと、辛い仕事を請け負っていたり、
日本人に添おうとする努力を感じ私は好感を持っているし、健気な印象がある。
はっきり言って、マスゴミ情報で汚染脳され、
実態に気付けない、白人優位の人種差別を助長している
日本人を私は軽蔑している。

*******************************

さて、あまり書きたくないのだが、
日本人は正論を持って厳しく叱る、
また厳しい眼で睨むと彼らは、
恐れることを聞き知っており、
体験的にそう感じた事が幾度かある。
理由もある程度、納得している。
だが、その理由はここには書かない。


ともかくイメージ映像などでアメリカ人らが、街をスケートボード
楽しそうに徘徊するのを目にする事があるが、
あれはUSAの国土が広いからあんなことができるんだよ、と。

日本のように狭い街並みで、目配せや仕草でお互いが気遣い、
事故の無いように暮らしている状況認識が、彼らにはできない。
中世から現代まで大陸をどんどん欧州用に塗り替え、
物理的自由度を高くしていった彼らの感覚には認識不能だろう。

最近一層、様々な刷込みイメージで欧州系人・白人に好感や憧憬を
抱き偏重している日本人が多い事も嘆かわしい。

短絡的に世界は一つだとか、を嬉しがる以前に、
アメリカ、アフリカ、アジア…大陸、諸島あらゆる民族の迫害、
混乱を作って来た歴史を持つ人間が、学習し自覚して欲しいこと、
それは欧州系の彼らにこそ、
平等とは何か、自由とは何かを自問自答して欲しい。

 

平和社会の本質は、簡単な言い方だが、
それぞれが自国(祖国)に民族が戻り、地理的に近い隣国・民族同士が
資源や技術の共有・協力・助力をすることだろう、と思う時、
現代になってマスゴミは年柄年中、近隣諸国同士の悪い情報・イメージを
報道する。つまり、軍事産業でぼろ儲けをする人間にとって、
必要な喧伝な、だけである。
隣国への個人的な印象や感情は、皆がマスゴミによって、
制御・汚染脳され“”軍事拡大”に利用されている…ことに気付いていない。

(USAとの安保理など全く不要で、日本の地理ならば、

韓国北朝鮮中国台湾ロシアと友好的に政治をするのは、当然のこと。

USAならカナダやメキシコと仲良くやってくれ、と。
向こう三軒両隣である。遠くの資源・経済・人力をあてにしないことだ。



私の思う自由とは「精神の自由」である。
物理的に自由度を高くすることは、
単なる傲慢だ。
慎みを忘れ図々しくなることである。
そろそろ、世界中の皆が気付いて
発言する時代ではないだろうか、と。

無論、人種ではなく、個人を見ること、感じることが
相手を尊重することだろう。
人種によって優遇、贔屓、チヤホヤすることも
ひとつの人種差別である。


本来、人格と人種は関係ない。
そして、人間以外の動物は色眼鏡をきっと持っていないだろう。
生物としての人間同士も、分け隔てなく本音であればこそ
心が通じるのだ、と思う。

家庭教育で個性・人格は育まれるが、
国家教育では個性・人格は歪められる。
国家は人種差別を個人に対して裁くが、
人種差別を作っているのは
各国家の政治経済格差とそのプロパガンダである。

欧州系国家が優位な人種の位置づけをし、
平和、平等と言うパッケージに人種差別という毒を入れて、
世界中にバラまいている。

世界中を偽ユダ彼らが私物化できるよう、
何百年も価値観を混乱させるための胡散臭いことをし続けている。

現代日本社会において妙に白人をチヤホヤするようになったのは、
戦後のGHQマスゴミ・狂育の戦略によるところが絶大だろう。

相互が自由になるには、
事実を知る、視点を変える、見る角度を自在にしていくこと、
それこそが人の求めるべき自由であり、「精神の自由」だ。
内観する能力、想像力と言えるだろう。



平等・公平な社会風潮にするには、まず
外部から自分の意識に刷り込まれたプロパガンダや
付けてしまったフィルターに気付く事だと思う。

マスゴミ・映画ドラマ小説…あらゆる映像メディアは
偽ユダ・白人に好都合になるようで作られている。

(例:映画ではヒーローや善人または被害者→白人、悪者→黒人
   理想社会を描いた映画や映像→白人だけ
   明るい未来を宇宙人が語るネット映像等→必ず白人の容姿
   未来予言書著者→白人(偽ユダ)執筆
   太古の秘密もどき発見の書の著者→白人(偽ユダ)執筆
   権威のあると思わせる理論や説→主に偽ユダ執筆
   才能があると思わせる芸術芸能活動→主に偽ユダ
   発見、新しい…などオリジナリティを強調する技術→主に偽ユダ
   アフリカやアジア各諸島などの美しい自然のを破壊しながら、
   豪奢な宿泊建築やリゾート地を作り、有色人種の労力をフルに利用し、
   カネを稼ぐだけが目的なのに、自然保護とか遺産とかで
   マスコミや広告を使い喧伝する→偽ユダ
などなど他にも多数。

欧州系人が優秀というよりマスメディアを支配しているから、
(偽ユダ)が執筆や製作などのやっていることが、
主流になるだけである。これらすべてがプロパガンダだと思っている。
優遇(差別)されていることに
安住や満喫できること自体、彼らが鈍感なのではないか。
各民族の心の痛みを分かったつもりのふりはしていても、
未だ分らないから、優遇される社会で闊歩できてしまう。


中世以降、インディアンをアメリカから迫害・排除しておきながら、ご丁寧に、
インディアンを擁護するさも天使のごとく発言の書籍も白人(偽ユダ)。
間接的には、それ隠蔽だろ?!…と。


昨今の日本に限らず、世界中で外国人の出入りが急増している。
日本人なりに、外国人に対して親切にすること同時に、
日本の事情による社会規範を乱す行動の外国人、
他国から日本に来て、この国の住人を軽視する外国人には、
人種等関係なく、公平に注意をすることも時に、必要あろう。
あるいは、さっさと帰国し自国・祖国を尊び大切になさいませ、と。


自国の常識を他国に持ち込むこと、押し付けることが当たり前の偽ユダ・欧州系白人。
それを自由だとのたまう。
他の民族が同じ事をすれば即、悪者として徹底弾糾するマスゴミプロパガンダ。


他国の常識に合わせる心がけ、努力、気遣いをしている
アジア、アフリカ…諸々地域の人。

どちらが人として
まともだろうか…。

 

 

 

スーパー小袋から……。

 

 

先日、たまたま巨大某ショッピングモールの食品売り場で
少々買い物をし支払いを終え、レジ横の台で鞄に品物を入れている隣に、
ひと回り位年上の女性が来て、買った食品を買物袋に詰め始めるやいなや、
明らかに購入量よりも多いだろう、台の据付ビニル小袋を
トイレットペーパーよろしく、ぐるぐるぐる〜っと引っ張っておられ、
ご自分の買物袋に仕舞われた。
時々、お見かけするそうした行動タイプの方であった。

お節介承知でひとこと苦言を呈すべきか、
いや、年上の方に失礼だ。
そう、生活もお互いに大変な時代だ。
こういった行動に至る何かご事情が、あるやも知れぬ。
せめて、その小袋が役立つ使い方になることを心で願うか、と。

ともかく、どうでも良いような些細なことである。


レジ横のその場をつつがなく立ち去ろうとした時、
おばさん気質の例に漏れないワタシは、
お姿をつい見してしまって、その女性が
Vトンのバックをお持ちでいらっしゃったのが、
印象的であった。

 

街では、欧州系車や国産高級車にお乗りになっている
運転手の方は概ね、運転が乱暴な気がする。あるいは、
明らかに道路事情を混乱させるような場所に、まま
お車をお止めになる。

更に疑問なのは、お巡りさんが、

高級なお車らに対して駐車禁止やスピード違反だ、として

対応しているのを見た事がない。

変だよなぁ…、と。

 

前回記したことで、他者、対象を咎めては己の心が不自由に
なってしまう…。同じ穴の狢に…、と分かってはいるものの…。

色眼鏡で、恐縮ではあるが…、
なぜか、符合するのは、高価な物品をご使用の方の多くは、
公共の場や、他者の物や空間と、私物の垣根が低いのか、と。


あ、税金を一杯お支払いになっているからか…なぁ。

 

率直に言えば、公私混同か、わりと道徳感に疎い方が多い印象を受ける。
もう少し踏み込んで言えば、虚栄心や自己顕示欲を

くすぐる高級な物や事柄などを嗜好される方は、他者や対象への思いやり、

配慮はさておきの、タイプなのではないかな、と。

 

お上品に、上等に、格好よく、綺麗に、お洒落に、

見せようとする行為、あるいは努力と、

品性は逆だなぁ、と常々思う。

 


子どもの頃から変わらず、ワタシはそう感じている。

いや、おばさんになったワタシの嫉妬かぃ?!とも考えた。

が、前述した事例と照合すると…、さもありなん。

 

 

話は飛ぶが、欧州文化では「競馬場」が、かなりのお洒落をして
繰り出す貴族の社交場であるのだとか。

 

日本を思えば、競馬場を始め、パチンコ、競輪競艇…、
あらゆる賭博場に於いて、決して清々しくはない、
どちらかと言えば荒んだ感じをあるいは、

胡散臭さや虚飾の雰囲気を感じる人も少なからずいるだろう。

 


色眼鏡で恐縮ではあるが…、
これを民度の違いと思うのは、当方だけだろうか?!

 

はっきり言ってしまおう。


日本人はその昔、素朴でまともだったから、
賭博場などカネが多く動く場、欲得がうごめく場所が、
荒んだ空気になるのは、当然のことで、自然の成り行き、と思うのである。

 

清貧とは逆の、西洋文化の影響と思える、

金銭物質礼賛(物質崇拝で、心がお留守気味)である事を
現代日本に於いて、それを証してしまっているのではないか…と。


つまり競馬場が社交場っていうのは、かなり欲得勝負に免疫がある人間というか、
損得勘定金銭欲が満たされることを存分に楽しめるのは…、
その〝スジの集団〟に類似しているな、と。

 

毎度、しつこく書く内容だけれども。
明治以降、どんなに欧州からの刺激や影響を受け、
技術が精鋭、発達しようが、目的が利己利益の勝負、競争、
虚栄・虚勢、虚飾の「欧州発」のマフィアヤクザの文化文明に、
当方は明るい未来を感じない、もう限界だと思ってしまう。

 

(他民族の生活を全て破壊し強奪強姦し、奴隷の力で生活を維持してきたことを

 我が富とする盗賊団の末裔が、

 欧州貴族・金融家シェルバーンサボイタクシスモルガンメロンロスチャイルドロックフェラ-盗賊団)

 現代日本人を始めほとんどの人間が、その輩に憧憬を抱く、キチガイゴイム(汚染脳家畜)。

 富=金&物質という価値観を刷り込まれているがゆえに。。。

 

 

 

約260年、国家破壊や奴隷商売のイエズス会を封じるため、

鎖国政策を続けた江戸期。

 

幕末迄の日本人は、身分に関係なく
季節ごとに美しい自然の風景を楽しむ行楽や句会を、
人生の中で大いに楽しんでいたという。
ほどほどに働いて、趣味や遊ぶ時間を充分持っていたそうだ。
個性的なお洒落、美意識があった。植物動物をいとおしんで暮らしていた。
鎖国ゆえに質素でも、知恵を使った暮らしぶりは、
豊かで美しかったことが窺える。
金銭物質礼賛が育たない環境だったという言い方もできるだろうか。

江戸時代半ばから幕末にかけて、藩政によって差はあったものの、
お米の生産は充分でむしろ余剰しており、食糧に困ってもいない、
皆、幸福感に満ちた表情で、丸々とした姿だったという。

一揆が一番多かったのも実は、西洋礼賛・軍事国家へと
変貌した明治以降だと聞いた。
その頃はもう暴動と呼ぶのだろうか…。

江戸時代を貧しかった、とほとんどの人間が思い込んでいるのは、
明治期の実態と江戸時代の事実を映画やドラマ等の映像や文章でイメージを
マスごみや偽教育が、意図的にすり替えてきたからだろう。

そして、かつての日本は人が近づいても野鳥も逃げない、
鳥たちの楽園だった、と「逝きし世の面影」(渡辺京二氏著)に
綴られていたのは、特に心に残っている。

幕末までの日本人は、知恵深く優しく、
賢かったことを改めて思う。

俯瞰して大雑把に言えば、西洋からの支配の影響を受けるまでは、
東洋をはじめ南北アメリカ大陸、オセアニア、アフリカ等々…欧州以外の

地域の人々は、自然に、生物に、地球に、…畏れを持ち敬い、

慎ましやかだったのだ。そして「中庸」思想があった。

それは生物として自然な感性としてだと思う。

 

余談だが、20年程前に、レイチェルカーソン著書を読んだ時、

当たり前のことが書いてあるだけで、

なぜそんなに有り難がって、名著だ、ベストセラーだ、と騒ぐのか?

日本人の私にとっては不可解だった。


昨今、西洋の進歩発展の価値観、優秀・勝者を果てしなく目指す、
高く、速く、多く、強く、大きく…という完璧主義が、

東洋にそして日本に、重苦しく充満してしまった。

中世以降、欧州勢はそれ以外のすべての大陸、多数の諸島、
アジア、もちろん日本も、奴隷と略奪の被害で悲惨な社会にしていった、
そのスジの集団より、もっと強烈な歴史を持つ欧州勢力の爪痕を
マスゴミ・偽教育で西洋礼賛汚染脳によって、
何食わぬ顔でかき消そうとしている。
むしろ、尊敬や憧憬を強要されている気さえする。私は身震いがする。


特に戦後から現代社会にかけて、過去歴史の事実・実態を
こっそり忘却させんばかりの必死のマスゴミ活動が見て取れる。
このようなことを書くこと自体がヒンシュクという風潮をも
巧みに作っている。
おぞまし過ぎる歴史を彼らは、さっさと封印したいのだろう。
なぜか、幼い頃から私は西洋文化や現代文明に
疑問や違和感が尽きなかった。
30代になって、欧州勢やイエズス会、国際金融家集団の正体を知り、
中世には何十万人もの日本人も、奴隷として世界中に売られていったことを知り得て、
江戸時代が鎖国に至ったのは、重大な経緯があったからか、と合点し、
多くの疑問や違和感が氷解した。

隠れ切支丹や宗教についての解釈も180度変わった。

今、西洋への憧憬や欧州の有名人を世界中で丁重に敬うような
盛んなプロパガンダの理由は、むしろ判りやすく滑稽に映る。

 

それにしても、最近のケイタイ電話のCM広告やその他広告、

昔の日本を描いたつもりの映像、画像は、
下品で暴力的でひど過ぎる。日本人を貶めたい悪意さえ感じる。
食や医に関して昔の日本が西洋からよき影響を受けたような
人気女優を起用した汚染脳用ドラマには呆れてしまう。

 

幕末迄の菜食が主で慎ましく美しく暮らした日本人から変わり果て、
まったく逆の肉食偽食加工食砂糖菓子浸けになった大多数の現代日本人は、
真偽を見極める眼力や感性は、すっかり劣化してしまった模様…。

 


暗いことばかりに目を向けていては気が滅入る。
浅ましく卑しいことを目にする事もあれば、
時には清々しいこともあるものだ。

2年程前のこと。町内の廃品回収に参加している時、
八十歳後半の女性が衣類の古布を丁寧に紐状にして
古紙をきちんと束ね、微笑みながら「お願いします」と
美しい状態で出された姿が忘れられない。
その方の使い終わった物への感謝の念を
感じずにはいられなかった。贅沢な住まいの方ではなかった。
品性はこうした方から漂い、敬う気持ちが
こちらも自然と湧いて、記憶に残っている。

 

 

それでも、「自分の欲望に正直なこと」も悪い事ではない、としよう。

できるだけ菜食をと気を付けているはずの自分が、半年程前に、
家人に誘われ入ったラーメン店で、ニンニクご自由にどうぞ、
というトッピングを二人で調子に乗ってたっぷり投入し、
ご機嫌で食べ終わり店を出る際、
店主はワレワレに「ありがとうございました。」と
言わなかった…、、、だののあまりにショボイこと(当たり前か…。)まで、
覚えている。(苦笑)
人間誰しも、浅ましく卑しく図々しい行動をして、
他人様の気分を損ねたり軽蔑されることはあるもんだ。あはは^^;。
ビニル小袋より、むしろ質がワルいわな…、と反省しつつ。


現代社会はそういう狂乱時代のサバイバルが
課題なのかいな…ぁ???
納得できなくとも。

 

 

広告まみれ喧伝だらけの現代日本
まあ、できるだけ虚飾、虚栄に吊られ汚染脳された「偽の欲望」に流されず、
少しでも昔の事実を知って、真実を学び、凡人なりに
本当の「欲」とは何かを問い続けることにしよう。
それもきっと中庸だ。

日常の些細な出来事から、大層なことを思った次第。

 

 

 

不安を選ぶ、という話のつづき

つづきというか、補足。

 

ついでに理屈を書くと、方向性を持って生きると目的意識や念が強くなるから、
今、流行言葉のいわゆる、引き寄せの法則というものが起きるだろう。
更に言えば、意識の世界で単位が変更されるというか(mmからcmそしてm…)、
例えば、些細なこともひとつひとつ感謝することを心がけるエネルギーが、
やがて塊になって、もっと大きな感謝や感動になる塊に出会うという感覚だろうか。
景色が段々、ダイナミックに変わっていくというか。

 

こんなふうに意識が変化するときは、塊になって大きな感謝や感動に…と

綴ったけれども、意識そのものは微細になって、

気付きは逆に、細やかになっていくように思う。

波動が高いという言葉を耳にするが、その状態は

意識が繊細になり密度が高くなる、

質が上がる感じ、と言えばいいだろうか…。

 

 

大きな循環の始まりも、小さな今できることから、気付いたことから、
ひとつずつ、身近なことから、お互い様の気持ち…から、と思うのだ。

・・・・・・・・

別段、大目標でなくていいのである。

 

と、書いたものの究極的な大々目標も少し頭の片隅にあると、

バランスが取れるのだろうな、と思う。

生物は利己には違いない。現代人はもちろん私も、

そんな大々目標に対し逆走しているのだが…。それでも、

少々クサイし宗教チックであるが、

「地球・自然への感謝や恩返し」「皆が喜ぶこと・生物が喜ぶこと」

「世のため人のため」「真実の平和」とか、漠然とでいい、

誰の中にも眠っている大きな意識、宇宙意識みたいなもの…、

無私の願いをちょこっとだけ(ほんの少しで充分)意識化して、

持ち続けると、心の軌道修正をしやすいように思う。

例えば、 己の中にある陰の部分、卑しさ浅ましさを

無私の願いに照らし合わせるようになるから、

客観的に観る事ができるようになる。

それは内的な循環の始まり。

 

昨今、スピリチュアルなどで流行の「(自分の)願望を叶える・成功者になる」

とかの風潮において、心の努力が偽善的になっている状態、

その執着からも解き放たれ、気楽にもなろう。

汚染脳用の成功論に翻弄されることも無くなるだろう、と思う。

 

究極的大目標を心に置くと正邪の見極める眼力、

己の中に真実が観えてくるのではないだろうか、と。

それが私の伝えたい「脱汚染脳」。

 

そして他者に悲喜こもごもの心模様を見い出した時、

客観的に己の陰の部分をも見ているから、

責めたり咎めたりする心が治まっていく気もする。

邪の現象を理性的に通り抜けられる。

 

(咎め心は自分の潜在意識に制限が増えてしまうから

精神が不自由になる・が、当方やってしまっているなぁ…。

大仰なことを綴っているが、自分のこととなると、反省。)

 

 

 「日常の小さな心がけや姿勢と究極的な大目標」と言いつつ、結局は

意識の「あそび」がこの世の顕われであることなのだ…と。

(生物はみな気まぐれ、気ままさが調和を生み出しているのが

自然の本質だ、と当方は考えている。)

 それはともかく。。。

 

 

年配者が「誰か、何かのお役に立ちたい」とか、

「孫が可愛くて」という言葉を聞くと、

苦労を乗り越え、我執に気付き、それを自身で許し、

楽しくあろう、と生きてこられたから、

こうした思いが湧き上がるのだろう。

この気持ちこそ、心のご褒美だなぁ、と感じる。

 

体験あってこそ。

便利で快適、肉体的苦労を伴わない現代社会。

 命、心、知恵、気力、肉体をしっかり使わないと

実感、本物の感動や感謝、人情や献身も始まらない。

それ以前の、茫洋とした意識、虚の世界で

多くの人間がさまよい、もがき、苦しんでいる昨今。

 

TVや映画、ケイタイやら…、メディアの中の感動は

生(なま)の感動・体験ではないことを自覚した方がよさそうだ。

 

不安を選ぶというのは、実体を体験することでもある。

 

 

 

 

 

 

 

不安を選ぶ、という話

 
 
先日、家人より興味深いことを教えてもらった。
テレフォン人生相談のパーソナリティである
加藤諦三氏が「不安を選択する人と、不満を選択する人がいるが、
多くの人は不満を選んでいる」と度々語ると。
つまり、挑戦や創造には正のエネルギーが必要である。
それに伴って「不安」も付きまとう。
後者は現状維持を選択することで安定安住する。すると、
負のエネルギー「不満」が増える、という意味だろう。

バケツの水は腐ると言ったところか。

不満を選ぶ人を「ピーチクパーチク組」と、私は命名することにした。
ついでに不安を選ぶ人を「サクサク組」(仮称)とでも呼んでおこう。
大半の人間はピーチクパーチク組である。
この対の言葉で、自分の生き方に反省を込めて、
ずっとその境目を行ったり来たりして、混乱していたのだ、と合点した。
確かに、目標を持って生きている時期は、ピーチクパーチク組の
人間が離れて行く。サクサク組に入り始めると、
それの合図のようにシンクロニシティがよく起きるようになる。

怠惰さが生活に忍び込んでくると、感動や思わす感謝したくなる出来事は減り、
自分の不満が募るからか、人間関係や煩雑な悩みに振り回される気がする。
また、不意の難題も増えるのである。
あるいは、サクサク組から外れてくると、ピーチクパーチク組の問題より、
難題になっている場合があるようにも思う。

「不安」と「不満」の象徴的な言葉のお陰で、
「生き方に方向付けする、自己実現、目標を持って生きる」を
することで、関わるご縁、見える景色が違っていたことに、
今更ながらこの歳で気付き、少し考えの整理がついた。

ついでに理屈を書くと、方向性を持って生きると目的意識や念が強くなるから、
今、流行言葉のいわゆる、引き寄せの法則というものが起きるだろう。
更に言えば、意識の世界で単位が変更されるというか(mmからcmそしてm…みたいな)、
例えば、些細なこともひとつひとつ感謝することを心がけるエネルギーが、
やがて塊になって、もっと大きな感謝や感動になる塊に出会うという感覚だろうか。
景色が段々、ダイナミックに変わっていくというか。

「ピーチクパーチク組」にいると、些細なことに感謝と不満が、
混ぜこぜの暮らしになるから、なかなか塊ができないのである。
だから、出来事や感謝の単位はいつまでたっても小粒である。
すべて感謝の心境なら、サクサク組とかピーチクパーチク組とか
関係なくなるのだろうけれど。
そこまでに至る生き方はこの世ではなかなか難しい。
宗教的に言えば、悟りを拓くと言われるものだろうか。

ひとつ肝心なことは、目的意識の質である。
有名になりたい、偉人なりたい、金持ちになりたい、資格を取りたい、
何賞を穫りたい、何とか大学に入りたい、何とか会社に入りたい、
という表面的、形骸的な目標は、
単に振り子現象、プラスとマイナスの行ったり来たりの、
2次元に陥るだけである。しかも競争があるから、
どこまでも肩に力を入れて生きなくてはならない。
努力も大変なものになるだろう。己の一方通行の願望だから。

そして、利己的大目標達成の果ては、マイナスである環境破壊や社会問題に、
繋がっている職業、大企業陣、政治家…、汚染脳教育・研究者…な訳である。
ご褒美を目指す「努力と達成」の構図は、先述した振り子現象で
つまりギブアンドテイク(2次元)意識で、
外部からの刺激(主にマスゴミ&教育プロパガンダ)で、
競争(明治政府による造語)の摩擦エネルギーにより、
三角形が形成され、ヒエラルキー・ピラミッド型社会に帰結する。
支配側の思惑で頂点は幾らでも高くできる。
そして社会や自然環境が疲弊、破壊へとひた走る。
現代社会はもうその終着点が目に見えている。

ちなみに、冷淡な言い方をすれば、
ピーチクパーチク組はピラミッド型社会の
底辺を不本意に?!支えているのである。


充実した目標とは、存外に素朴なもので他者対象を喜ばせて、
自分もそれを楽しみたい。面白そうだから…。
そんな温かい想い、好奇心の始まりがたぶん、正解だ。
様々な「循環」が始まるから。

大きな循環の始まりも、小さな今できることから、気付いたことから、
ひとつずつ、身近なことから、お互い様の気持ち…から、と思うのだ。

「不安を選ぶ」という主題から逸れたようだが、
日常によく見れば、不安だが、ちょっと目的意識、勇気を持って
行動すれば、何かが動き出す。観察、洞察も忘れず。

そこでもうひとつだけ書いておこう。
誰しも感動や感謝が可能な世界観は、
私たちほとんどの人間に知識の範疇にない、
むしろ蔑視されている、不可能と思っている…、
「狩猟採集」の暮らしであることを家人は熱心に語る。

それについて私もある程度、共感している。
まだ知らないことが多いから、すべてを肯定できる術はないし、
私は臨機応変、折衷案がいいと思うから、良いとこ取りがいいんじゃないか、と。


ともかく、簡単に言ってしまえば、目標を持って生きる必要性は、
誰しも子どもの頃から大人の言葉の刷り込みで、分かっていることである。
別段、大目標でなくていいのである。



さて、自身のこと。
呑気にしている近頃は、
ピーチク〜組は、面倒臭いと改めて分かった。
かと言って、サクサク組の凌ぎを削る競争も疲れるから、
日常のちょっと不安でも、よし!と
思えることから手をつけようかな、と。
その実、ピーチク〜組が真実の循環を作る要だ、と思うから、
やはり日々の暮らしの心がけ、姿勢は大切だ。