ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

『うつくしく、やさしく、おろかなり ……              私の惚れた「江戸」杉浦日向子』

2015/10/07 の当方他ブログより転載

『うつくしく、やさしく、おろかなり ……私の惚れた「江戸」杉浦日向子ちくま文庫

杉浦日向子

***********************

江戸の色(47〜49頁より抜粋)

江戸で『色』というと、色彩以外を指すことが多い。
洒落本、滑稽本などの、大衆小説では、情人を『色』と呼ぶ。
好色、色欲、色事、色気、色町、すべて、男女の関係に通じる。
色、恋、愛。
この中で、愛が最も尊い気がするのは、明治以降、神仏の慈悲心を
「愛」と訳してから。江戸のころは、愛とは、「物」に対する執着を云い、
「壷を愛する」「人形を愛する」など、所有者側の物への、一方的な
束縛を示していた。単なる、強引強欲だ。
 恋には、純真なイメージがあるが、これも青春の流行歌が全国的に普及してから。
江戸では、「恋の闇」と云い、盲目的に想いを遂げたくて突進すること。
八百屋お七が恋の見本だ。恋は、思春期の麻疹のようなもので、
動物のサカリと同様の、生殖衝動だ。
残る、色。今では、恋愛よりも格下の、遊びに近い分野に入れられて、
昼の話題ではないとされている。
が、江戸では、前二者よりも上級だった。愛や恋は力ずくや勢いで獲得できるが、
色には駆け引きが必要だ。巧妙な心理戦であり、一筋縄ではいかない。
 ランク付すれば、愛は、他人に横取りされるぐらいなら、壊してしまうタイプで、
男女間に置き換えれば、最低。恋は、発展途上。生殖が完了すると
急速に冷めてしまうので要注意。
色は、人情の機微を知ってこそ楽しめる、卒業のない生涯学習といえる。
「色はその日の出来心」。色にはマニュアルは存在しない。

臨機応変、不特定多数、互いに充実した時を過ごすためには、

目の前の相手を敬い、赦す、心のゆとりがなくてはならない。
色には、愛の束縛願望も、恋の生殖達成もない。

愛や恋は、会えない時にも相手を常に想っているが、
色は会えない時は電源をオフにして、とりあえず自分の時間を優先する。
二十四時間、相手とケータイで繋がっていなくては不安なうちは、

とうてい無理な課題。
「色っぽい」は、江戸では最高の誉め言葉だ。「オイロケ」だと

フェロモンむんむんの軽薄な感じだが、本来の「色気」には、

容貌だけではない、言動などの内面的な魅力が不可欠だからだ。
色気のない人生は、モノクロの世界だ。出会いと別れを重ねるにつれ、

若いころ、接写だった視野が、だんだん広角になり、

画素も増えて鮮明になり、隅々まで色や輪郭がはっきりしてくる。
いろいろ、難しいけれど、どうせなら色っぽく生きよう。
(「プリズム」2003年10月号・記事)

 

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ここから当方の感想と屁理屈を。^^

笑いを分析すると興ざめするのと同じく、
「色」の概念とかの、知ったかぶりを述べたら、
色気などまるでないのは承知の上…。(苦笑)

 

現代社会で「愛」という言葉を否定する者は、
ちょっとオツムがどうかしている、と思われるだろう。
が、頑固者の私は譲らない。

以前にも『逝きし世の面影』「第八章 性と裸体」で書いたのだが、
「愛」という言葉の概念が、長い間どうも私は気に入らなかった。
第八章の感想には「愛」より、日本人は「情」ではないか、と綴ったのだが、
つまりは「情け」と表現していた慈悲心が「愛」という言葉にすり替わった
現代人の蒙昧。

明治以降は日本人の宗教観を刷新させるべく、キリスト教思想の台頭を目指し、
「色」の概念は不貞の象徴のように、降格、抹消された。
代わりに、「愛」を文学、芸術、宗教、教育で高尚なものへとイメージを
作り替え、日々の精神活動を表現する言葉が、がらりと変えられたことを
杉浦氏の説明で納得する。

慈悲心としての意味でこの約150年間、「愛」がごく当たり前のように
キリスト教の宗教観から、一般の道徳観に至るまで、流布し続けている。
現代の「愛」に投影されるのは、「情」のようなお互い様ではなく、
一神教的な、絶対的な、崇高過ぎる、
ありもしない偶像・虚像が想定されている印象を受ける。
ヒロイズム、自己顕示欲の臭いが、私はする。

余談(好きな言葉であるが、日本には「詠み人知らず」という言葉がある。
それに引きかえ、欧州米の彼らは、偉人、著名、有名への執念を感じる。
あるいは大衆に、畏怖や敬意を「強要」しているようにも受け取れる…のは

私だけだろうか…。

ヒロイズム、英雄視が大好きなのは、日本人の私からすると、
どうも出しゃばり感、偽ユダの自意識過剰を感じてしまう。)

一方で「愛」という言葉は、
日本人の流行歌のみならず世界中の歌謡で、
恋愛の昇華されたものも、「愛」として表現されるが、
どう聞いても執着心、利己心をごまかし、
きれい事にしたのが歌詞や文学芸術その他諸々でないか、と。
その食い違いが、未だ私は気に入らないのだ。

日本人にもともとある「情」「慈悲」と
「愛」の違いを物心着いた頃から漠然とは感じていた。
「愛」という言葉がいつまでたってもどこかバタ臭く、
クッサイ感じ、違和感があったのは、
もろもろの理由が潜んでいたから、と思うのである。
日本人としてその違いをはっきりと認識し言語化している人もいるだろうか。

現代日本人が解釈している「愛」という言葉は、
一貫性に乏しい言葉だったのか、と。

歌詞を筆頭に芸術全般が、キリスト教的借り物の
「本来は情と言われていた慈悲心を訳した、輸入の言葉=愛(LOVE)」のせいで、
もともとあった日本の「情」、「色」、「愛」「恋」(所有欲、執着心、サカリ)が、
ごちゃごちゃになってしまい、曖昧さのせいで、
人間心理の言語化が誤りを起こし、
社会問題の根になっていると言えないだろうか。

日本人にとって「愛や恋」の稚拙な精神活動が、
やがて磨かれたその先にあるものが「色」だったのか、と。
人生経験の厚み、達観した心境を表現し、成熟した精神活動と言える。
江戸時代の「色」の概念を知ると、
主に文化芸術の「愛=LOVE」をテーマにしたものは、
明治以降、陳腐になったのかもしれない。

正直なところ、昨今のドラマ、欧米映画や小説、
現代日本も同様であるが、「愛=LOVE」を主題にしたものが
軽薄でストーリー性が弱く、イメージの世界は記号化され、
想像力を見いだせない。
一神教的な絶対感から導かれるヒロイズムに、
違和感や胡散臭さを感じる。説明的で感情の描写もワンパターンで安っぽく…。
まぁ分かりやすいと言えば分かりやすいが……、飽きる。
加えて、ほとんどのドラマ、映画や小説等(偽文化・プロパガンダ目的)、
もう10年位遮断していると、いっそう汚染脳用であることが判る。

「愛=LOVE」という現代人が持つ一貫性のない概念によって、
感情、思考が混乱し、明確化・言語化できず、個の意識の脆弱さの

弱点を突き依存心を利用し、
一神教絶対神の枠の中で、巧みに制御されるよう仕組まれている…、と

言えないだろうか。
(ややこしぃなぁ…笑)


元来、日本にあった、人にとって精神の自由に至る独特な思想
「色のような概念」を一世紀半の間、封印させていると言えないか。
「色」が社会認識として復活すれば、
輸入の「愛=LOVE」が単純で稚拙なことが見えてくるのかもしれない。
精神的な自由さが、社会に発生するとも考えられる。

単純さ軽薄さも時に必要であるが、それだけで精神活動は収まらない。
長い歴史の中で昔の日本人が育んだ微細な感性を
ユダキリ欧州人の影響で明治期に、卑近なものとして、
いとも簡単に切り捨ててしまった。

もし現代日本人全体が、鎖国の延長のようにして平和社会が続き、
成熟し「色」の概念も精鋭され現代に至ったなら、
西洋文明に対して、短絡的な印象、評価を持ったのではないか。

昨今、世界中の西洋礼賛の風潮がいっこうに止まないのは、
つまり、汚染脳、劣化脳が完了してしまった、ということだろう。
残念ながらマスゴミ、狂育、企(鬼)業の所産である。
古典文学にあまり触れられないような教育が為された明治以降だが、
「色」と「愛」の違いが感じ取れないと、
様々な日本の古典作品の本質も捉えられないだろう。私もそのひとり。
現代日本人が昔の作品を読めない、理解できないから、いっそう、
日本の歴史を軽んじてしまう負の連鎖は続いている。


杉浦氏の説明によると、「恋」は生物的な性衝動で、
「愛」は欲望で、慈悲心とは別物と。
「色」は精神活動として上質のものと伝える。
仏教から影響を受け、日本人なりに編み出し成熟していった「色」。

また、「色」というのは、西洋文明、キリスト教が語る
「愛=慈悲」と「愛=男女の恋愛」の
意味の倒錯、あるいは誤謬を整理してくれる要の言葉とも言えるだろう。

倭人からの自然種の流れを残し、自然と調和して暮らす知恵のあった日本人は、
的確に微妙な感情、情趣を表現することもできた民族だったと思うのである。
明治以降、政府の暴走で借り物の西洋文明の怒濤に飲み込まれ、
大切な叙情性を見失ってしまった私たち現代日本人。

彼らユダキリ(偽ユダ・かつユダキリ教洗脳甚だしい輩)が

人工種であろうことを見下したいのではないが、
感情が、実は「若い」のではないか、と思える。
その人工種系の人間にとって、幕末の日本に在った「色」は、
特に、チンプンカンプン、ワケわかんな〜ぃ!?
だったのじゃないか。

優生思想を是が非でも突き進めたい彼らが、
理解できない概念は抹消、あるいは低俗と
処理させ、無視してしまったのだろう。

優生であろうとする感覚が、
既に劣生な精神の発想じゃなかろうか?!と。
彼らの卑近さを露呈しちゃってるょ…。
トホホ。

 

ともかく当時、単純な精神から、複雑な精神活動を理解することは
困難が故、致し方無かったのだろう、と私は解釈している。

キリスト教の慈悲心を解釈した「愛」は、
やはり、日本では「人情」だ。
それで充分だと思う。

実際のところ、現代社会では「愛」の言葉がばらまかれた結果、
杉浦氏の言う「愛」=「強引強欲」が具現化しているではないか。

昨今、ピラミッド型社会の頂点(偽ユダ世界支配)が
更に高くなっていると感じられるのも、汚染脳の「愛」に潜むヒロイズムが、
マスゴミ等の影響で一般人もその加勢をし続けていると言える。


いかんせん、慈悲心=愛=LOVEと訳した時代の過ちが、
現代に絶大な悪影響を与えていると思ってしまう。
皮肉にも、五十音順の「あいうえお」は
「あい」が始まりだから、妙に受け入れやすい語感。
だが、五十音順の成立は漢字を使うようになってから。

詳しく知らないが、漢字が使われる前からの、
この地の言葉は今の日本人にとっても、
言霊の威力があるように私は思う。
言霊、音の力があるのは大和言葉ではないかな、と。

「アイ」とは大和言葉では、「かわいい」という意。
「かわいい」という言葉は対象に、幼さ弱さを見い出した時に使う。
上下関係が発生する言葉。

現代日本人が「愛」という時、今尚、
言霊には「かわいい」が含まれている気がする。

(冗談だが…、LOVEを逆にして
EVOLを読むと、「えばる、いばる」って読めなくもないのはナニ…?!?)


話は飛ぶが、マザーテレサ氏は「愛」(慈悲)の象徴のように
語られ続けている。だが、先日たまたま目にした記事で、
氏は、聖人として生きていたにも関わらず、
心の闇に常日頃、苦しんでいたという。

大したこともできない私に言及する資格はまったくないが…。
敢えて言うと、人間が聖人、善人、選民であろうとする時、
愚人、悪人、賤民を作る、増やす。

上の立場であろうとする程に、下の立場も発生、増大する。
マザーテレサがもし「人情」という感覚に気付いたなら、
少しは、気が晴れたかもしれない。

すべての存在は、善悪や上下ではなく、相対的に存在する…と。
お互い様の心、人情があれば、皆の心が中立で自由自在に生きられる。

「色」…。
愛ではない、より精神の自由に繋がる大切な言葉だった「色」。
概念を取り戻すこと、定位置に戻すことを
夢想する。

 

 

 

 

 

ちょっとした母性の、心の機微から気付いたこと。

 

今日、ふと自分の心の機微で気が付いたことがあったので

忘れないよう書き留めておこう。

 (メモ:飼い猫の母性愛発揮ぶりを見て、当方事情と重ね思ったこと。

居ないなら居ないなりに…楽しむコツ)

 

 

***

 豊かさをとは何か。

 

それは自分にとって負の事柄、受け入れ難い様々なことを

受け容れられるよう、認められるように、

負を生活の中で創意工夫、あるいは心の努力をして、

楽しめるようになることが、

「心の豊かさ」になっていくのだなぁと思った。

 

決して、自分に都合の良いこと、望むもの、好きなもの、気に入る何かを

努力し寄せ集め、手に入れたとしても、心が豊かになることはない。

ただ欲求を満たすだけだ。

それはまたいずれ飽きるだけである。

 

 「負」の事柄について創意工夫の努力をすることで、

「心の豊かさ」、満足感、充足感が生まれ、自身の財産になり、自信になり

壊れることも、奪われることもないのである。

優越感、劣等感、競争心、妬み、嫉妬や焦燥感はなくなる。

 

 

 “こんなふうだったからあんなふうにはなりたくない。”

“あんなふうにはなりたくないからこうしよう。”

“こんな自分はいやだからあんな人間になりたい。”

というムダな葛藤は消えていくのである。

 

つまり感情の振り子現象、(感情運動の同じ繰返し)は

無くなるから、心が自在になっていく。

 

それは、心が安定し穏やかになり、中庸の心、

揺るぎない理性、客観性、公平の視点が生まれる「種」になるのである。

 

それが「豊かさ」の始まり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信号待ちにて。

 

 

交差点でのこと。
おじいちゃん、おばあちゃん、娘さん、孫さん
揃って信号待ちをしていた。

猛暑の中、お孫さんは汗だくのようで、おばあちゃんが
孫の顔をぐりぐりという感じで何度も顔から首、Tシャツの襟もとの
汗を拭っていた。その拭ったタオルは
ご自分のものらしく自身の顔の汗もついでに拭いていた。

おじいちゃんと娘さん(孫のお母さん)は
各々の団扇で自分を仰いでいる。

おばあちゃんは孫の汗を拭き取り、自分も汗を拭いた後、
次は団扇でお孫さんを仰いでいる。

孫は有難うを言うでもなく悠然としている。


この光景を後ろから見ていた私は、不覚にも
泣きそうになってしまった。
ああ、「日本のおばあちゃんだ」と。
そこかしこ人の目構わず、孫のことを一番に気にかけ、
懸命に世話をする。自分のことはさて置き、
子供が少しでも居心地が良いように、面倒を見る。
それはごく自然な感じで、
本当の母性の姿を久しぶりに見た気がした。


昨今、「おしゃれ」とか、「見栄え」とか、「かっこ良さ」を
気にして、自分も子供も見栄えが最重要項のお母さんには
あの、無心のたっぷりとした愛情、慈しむ仕草はできまい。

それは平和ゆえの余裕なのだろうか…。
マスコミや学校教育の悪影響もあってのことだろう。如何せん、
現代の親たちは育てるのに最も肝心なことを喪失している気がする。


幕末までの日本の大人たちは、子供を深く慈しんでいたという。
その名残がある明治大正昭和初期までの「日本の母」のような
そのおばあちゃんの何気ない仕草に、胸を打たれた。


明治大正昭和初期。

明治以降、軍国政治の乱世で日本人皆が食うや食わず、
見てくれなどそっちのけで、「生きる」ことに
一生懸命だった時代。
土を鍬で耕し、モッコを担ぎ、リヤカーを引き、風呂敷を背負い、

大きな背負子で商い、若い母たちは子供をおぶっていた光景。


私の生きてきた時代にはもうセピア色になりかけた情景だけれども、

時に目にしたり、その時代の写真や映像、

あるいは祖父母たちの話には、命がけの生活があった。
日本人が命ある限り、真剣に生き延びようとした、

人々の熱い魂を感じる。

そこに「美」があり感動があった、と私は思う。


だが決して、軍国、戦争の乱世だから人間が真剣に生きたという意味ではない。
あくまでも、幕末までの日本人の「真心」や

「人の良さ・情深さ」「品性・気高さ」が、残されていたから、

「美」「熱き魂」が受け継がれたのだ。

 

残念ながらマスゴミで劣化した現代日本人にはもう、

この先の乱世に、真心、気高さ、美や熱き魂が湧き上がる事はないだろう。

見てくれ、見栄え、かっこ良さ、表層を気にして生きることの虚しさ。
損得勘定、虚栄心の種を日本人はいつから己の心に蒔き出したのだろうか。



偏見と言われることを承知で書くが、
西洋社会、白人社会の虚栄心、自己顕示欲(ヒロイズム)の根深さが、
現代社会の大きな問題の根本原因の一つであることを
指摘しておきたい。
そう感じている人が多少でも居れば偏見では無くなるだろうか。


国際金融家所有のマスコミ全般。
TV、TVのCM、新聞、雑誌…そこで伝えんとすることをよく観察するがいい。
常に、「見られること、見せること、好かれること、

得をすること、勝つこと、もてること、ちやほやされること」…

つまりは優越感を触発させ、卑しき心に傾くプロパガンダに溢れている。

日本人が、西洋礼賛によって命を「生きる」本質から乖離し、
「見せる」ため、虚栄と虚言の人生になっている人間が

増え続けていることに危機感を覚える。


いつか年老いて死ぬとき、己の生きるエネルギーは本音以外ない時になって、
初めて「自分は何てバカで軽薄だったんだ…」と思うなら、まだましか…。
いや、人生はよくできたもので見栄を張り続けるといづれ、
虚栄心を捨てなくてはならない出来事に遭遇するものか…。


有難うを子供がわざわざ言う必要のない、
太陽のように当たり前の愛情を注ぐことで、
子供が自然と育っていくのだろう、と思う。

信号待ちで、孫の顔を一生懸命拭く「温ったかいおばあちゃん」は
夏を涼やかにもしてくれる。
それが、日本の良さ美しさ「情深さ」ということは
忘れたくない…と思った次第。



 

 

 

 

 

 

 

当たり前過ぎることで。

 

ふと、時々思うこと。


家があって屋根があって、雨露暑さ凌げる有難さ。
一日無事に暮らしお布団で寝られる幸せ。
温かいお風呂に入って清潔に暮らせること。
美味しいとか不味いとか言いながらも、
食べられる食べ物の有ることと、
食べられる条件、健康とか経済とか

畑から材料調達から作り手まで…、

揃っていて咀嚼、消化できること。

肉体を養えること。


空が美しいなあ、今日はどんな天気かな、とか
眼があって、感じられる喜び。

排泄を思う時に思うようにできること。

洗濯機に任せればあっという間に

綺麗?! になった気分になって、

お洗濯ものをお日様の光で干せる喜び。
手足が使えるから、お掃除できる。
地球に草や樹が繁っているから呼吸もできる。

 

随分前に、霊能者がどんなふうに霊能が
強くなっていったか…、という話を聞いた時、
病床に臥している頃、一杯のお水の美味しさに有難さが
込み上げ、思わずコップのお水に手を合わせ拝んだ、という話。

お水が飲める有難さか、と。
極限状態で、お水を美味しいと思える感動がある。
飲める有難さを感じる。

肉体あってこそ、この世界があってこそ、
存在してこその喜び。

日々、当たり前過ぎる、ひとつひとつを時々
思い出して…。

 

冬なら給湯器があって、お湯を遣わせて頂ける有難さ。
夏なら冷たい氷を簡単に手に入れられる有難さ。

 

身近な人がいることで自分を観ることができる有難さ、
対象があること、他者がいることで、関わりあえる有難さを。

 

時々、思い出す。
なかなか、無私にはなれない。

時に、些細なことで不満もてんこ盛り。
当たり前過ぎる有難さを忘れることもある。

当たり前の有難さに加えて、有難過ぎることを

この世界で挙げたらキリがない。

有難過ぎることも思い出して、この時代に生まれたことは有難きこと。

折角だから「至福の時」を体感しよう…と思う。

 

「有難い」と、殊更に思わなくてもよい、ってなことを

ずっと前に浄土真宗の小冊子に書かれてあったことも思い出す。

これまた、意味深い。

 人間以外の生物は有難がって生きているだろうか、と。

 


有難過ぎる「現代の生活」。

しかし、美しい水が飲める川は無くなった。

 

「文明の存在」その是非を問う時、
当たり前はどこまでなのだろうか…。

 

 

 

 

 

「 いなせ 」 から…思うこと

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)を読み、江戸時代のことがもっと
知りたくなり杉浦日向子さん(故)の本を読み始め、
「いなせ」という言葉の由来が書かれてあった。
「粋でいなせな…」という言葉を時代劇などで
決まり文句として聞いたことはあるが、
昨今その言葉に当てはまる風情を感じることはない。

さて、どんな由来かと言えば…。
“いなせの「いな」は鯔(ぼら)の幼魚のことなんです。
鯔の幼魚が大川(隅田川下流)を上っていくときに、背びれを水面すれすれに出して
いくんですが、その姿がスマートでカッコいい。「いなせ」な衆とは、その鯔の
背びれのようにすっきりした丁髷を結っているところから来ているんです。
あと立ち姿がよい、というのも「いなせ」の条件。”
(『杉浦日向子の江戸塾』PHP文庫より)

簡単に言ってしまうと、江戸のかっこいい男性たち(火消し衆など)を

形容する言葉だ。
カッコ良さについて今更、薀蓄を書こうとは思わない。^^
マスゴミの十八番、食傷気味の話題だから。
かつ、丁髷を結っていないから、使うところもないが。


それよりこれを読んでふと想像してみると、
当時の川がいかに透明で美しかったかを思った。

現代日本の都市に流れる川にたとえ「いな」が泳いでいても、

何かを比喩したくなる輝くような「自然美」はない。

川の汚れのみならず、あらゆる自然が汚染され、

護岸や道路、公園、ダム、鉄塔など過剰なインフラ整備がなされ

生態系が津々浦々コンクリートや巨大建築物で破壊され尽くした。

企業が製造する物質のゴミゴミゴミだらけ…。

他の生物に冷酷で無機質。

目をそむけたくなる、悲しい現況だ。


幕末訪日欧州人によると、

江戸の町は巨大な美しい田園都市だったという。

地上の楽園、野鳥の楽園とも欧州人から呼ばれ憧れられてもいた。

自然は豊かで、美しい川辺を散策する人々は暮らしに
余裕もあったことが窺がえる。
どこの家でも植物を愛で育てていたというし、

家々の庭先にフクロウが棲んでいたり、

ニワトリの毛の手入れをしたり、

カササギが人の子守りをしてくれたという。

日本は、鳥に人が近づいても逃げない国だった、と。

 


植物や動物、すべての生物は生き生きしていたことだろう。
町のみならず、日本全体の雰囲気がとても良かった、と感じられる。

鯔の幼魚を「いな」と呼ぶのを初めて知ったのだが、
幼魚が水面すれすれで気持ちよさそうに群れをなして泳いでいる様に
丁髷を「いなの背中」に喩えた、ちょいと洒落た言い回し。
川の水の美しさ、魚たちの生命力から情緒は言葉へ映り(移り)、
情景に対しての比喩は江戸らしく、
また派生する言葉に奥行きを与えてもいる。

「いなせ」という言葉を誰が言い出したのか調べていない。
江戸の庶民も武家も差別感など全くなく友人関係は成立し、
サークルような様々な会(講)を楽しんでいたという。

あくまでも私の想像であるが例えば、
俳句や川柳などの会(講)で楽しい使い方がウケたかもしれない。
遊び心からだろう「いなせ」という言葉は、

世間に広がり、現代人さえも知っている言葉になっている。

 

 

ちなみに、「士農工商」という言葉は明治政府

皆が幸福だった良き時代の江戸社会を否定させ、

明治政府を肯定させるための教育プロパガンダとして

悪用したのである。「競争」という言葉も明治政府が作ったもの。

 

 

江戸と現代の精神の教養レベルが違い過ぎやしないか。

江戸社会の日本の識字率は約85%だったという。

当時、世界一だったそうだ。

しかし明治政府(ユダ資本提供による戦争三昧)の時代には、貧困が増え、

貧しい家庭の子どもたちは学問に触れる機会を奪われ、

識字率が下がった時代だった。

 

そして、戦後から現代人は識字率こそ高いものの、

その言葉の質は年々劣化の一途を辿っていると言える。

GHQによるあらゆる情報統制によるマスゴミ狂育プロパガンダによって、

言葉の浅さ、情緒の無さ、粗雑さ、合理化や効率化、損得勘定。

経済のために複雑さや分析力は研ぎ澄まされ情報は

大量になったが、偽情報ばかり。

 

自然の豊かさ、遊び心から生まれる精神活動は明らかに鈍化、

画一化、短絡化している。


昨今、若者の言葉で気になるのは微妙なひねたイントネーションや
短縮する言葉がTVなどでやらた取り上げもてはやし、流行させる。

老若男女、どこの地域でも、その語調を持った言葉を使うように
波及させている言葉が多々ある。
マスゴミが流した風潮に対してそれが「いまっぽい」…とか、
流行の波に乗っている、というマスゴミの絶大な影響力と、

マスゴミへの絶大なる大衆の肯定感によって、
その流行の雰囲気から外れていると、…何故だか疎外感が漂う。


英語が日本語に同化した単語はその傾向が強いだろうか。
「ギター」というと、語尾の音が上がるとエレキギター
語尾が下がるとクラシックギター、という違いを表したり、
前出と同じように「クラブ」という言葉を使う時、
踊るための店は語尾音が上がり、趣味や部活動の集団をクラブという時は
語尾音が下がる。そんな言葉の扱い方が気になる。

語調を調整して流行を漂わせ差別的になる慣習。
それは西洋礼賛的で、階級(差別)社会が当たり前の、

英語圏や英語教育の悪影響の一つと言えないだろうか。

(日本人はもともと野次馬根性やミーハーに象徴される

好奇心旺盛な特性がある。生物として自然種ゆえ。

もしかしたら江戸にもそんな語調を遊ぶ風潮はあったかもしれないので、

断定はできないが…差別感は漂ってはいなかったと想像する…。)



江戸時代のように、何かを比喩して言葉を楽しむのではなく、
語調で共有するノリが重視され、情趣はない。そして、
独特なその時代の「ノリ」をのせた言葉遣いではないと、
排他的差別的な空気さえ発生してしまう。



女子や男子という言葉も学校教育で使ってきたものを
昨今は成人の若者に「子」を付けてマスゴミ雑誌あたりから

言い出したのは、未成熟さや意図的な若者文化礼賛で年齢差を強調したいとか、

未婚者が増えているから…とか。色々あろうが、全般には肉体的苦労がない

現代人の精神幼児化現象を象徴しているのかもしれない。
また、TVや学校教育の普及で、
方言も弱まってきていることは以前から言われていた。
自然環境破壊によって心を伝える言葉が劣化し、
政治、狂育、体制側からの影響や風潮が優先される現代日本人の言葉。


自然が破壊され尽した社会では、
趣のある言葉や気の利いた言い回しは、もう生まれないだろう。
自然が、時間の流れの中で自ずと生み出す美しさや、
生物全体の心の触れ合いを大切にする社会があってこそ、
「文化」と呼ぶに相応しい言葉や芸、創作、が生み出されるのではないか。

発音に頼って漠然としたノリに支配され
言葉を詰め込んでも心は伝えられない。核心は伝わらない。
中身の浅い、共感の少ない会話。

そんな悪循環が現代の会話で起きている気がする。


自然から感じ取った言葉によって文化が育まれていた時代の
言葉は豊かである。
自然を破壊し続ける現代社会で使われる言葉は、

マスゴミ、企業、狂育が扇動しどんどん貧弱になっていく。

マスゴミと企業がセットになって環境破壊が進んでしまう。

一体、いつまでこんな劣化社会を人間は続けるつもりだろうか。


年々流行歌の歌詞の比喩表現がお粗末になっている。

思えば、江戸社会の残照があった明治大正の頃に生み出された

歌詞は、日本人の精神性がいかに上質だったかを思う。

現代で、欧米社会の歌手の真似事をすれば、一過的には、

歌唱力とか才能をもてはやすものの、言葉に魂や思想が

ないから即、飽きられる。

言葉の話から逸れるが、あのストリートダンスから

進化?いや明らかに劣化した、関節炎を起こしそうなアドレナリン処理用、

集団「奴隷ダンス」を学校教育に教科を取り入れると聞くが、

荒々し過ぎて私は非常に不愉快で正視できない。下品の極みだ。

 

日々、マスゴミと狂育が、

人間の精神生活の「時間」と「感性」を奪い、

本物の文化を破壊し続け、偽文化でガス抜きをさせているのだ。


幕末まで。

かつての日本では…
澄んだ空気や水、風にそよぐ木々の葉音、野鳥のさえずり、

川のせせらぎ…自然から伝えられる言葉にならない心が、

人間の直感や霊感を磨いてたことだろう。

 

まずはマスゴミを生活から追い出して、

改めて自然、生物、から学ぼうと思うこの頃である。



 

ゴミの分別はゴミを増やしているという実態

www.youtube.com

 https://www.youtube.com/watch?v=qq4jKQGzwUg

YouTube のURL

プラスチック製のゴミは、実はほとんど焼却されて
いることをずいぶん前に知ったが、
ペットボトルもここまで
ひどい状況だとは思わなかった。
再生紙の製造にも無駄なエネルギーを使うことで
実は、環境に負担が大きいことを聞いている。

リサイクル(一度きりの再生)は、全く環境に貢献していないのだ。


むしろ、再生するために余分なエネルギーや資源、労力を
費やし、税金の無駄遣いしている
実態(既得権益者のみが得をする)を知らなくてはならない。

何より、ゴミを減らすことが
大前提だ。

とどのつまり企業製品をできる限り、
不買することである。

消費社会では毎日呆れる程、
ゴミが出る。
ゴミを客観的に見ると、ほとんどは企業製品の過剰包装だ。
子供の頃記憶では、肉や野菜をそれぞれの商店で買って
簡素な包み紙で済ませていたと思う。

多少のものなら家の敷地で焼却することもできた。

ゴミ回収車は生ゴミをトラックの荷台に入れる程度の
簡素なものだった。

どうもダイオキシンの害も喧伝に利用された感がある。
(YouTubeの武田氏の話でダイオキシンの件は
調べてみなくてはと思った)

 

マンション居住を奨励する風潮も、課税やインフラで

人間の暮らしが「カネ」必須、「税金」徴収を延々と続けさせたい

国家や国際金融家の思惑としての喧伝もあるだろう。


今では、燃やしてはいけないし、分別のための袋まで自治体に
カネが流れ、袋としてのゴミも増やさせられている始末。
そのゴミ袋製造会社の利益と自治体の癒着も想像に難くない。


どこまでもどこまでも、執拗に、納税をますます強いる
社会システムである。「偽装情報&喧伝社会」と言えばいいだろうか…。
もうウンザリだ!!

カネが大きく流れる程に、流れの途中にある利権、既得権益者が
儲かるからこそ、ややこしい社会システムにしたい。
環境問題さえも喧伝用にする。それが裏政治のご事情である。

 ともかく、ペットボトル飲料や缶飲料を買わないで
自分の水筒で暮らす習慣を身に付けたり、
工場で出来た食品をできるだけ買わない。

スーパーでインスタント食品や惣菜を買わない。
コンビニ弁当を買わない。
(ホントは買っちゃいけない。働いちゃいけないのだょ…。)

(どの工場製造食品も石油をたっぷり使った立派な器に
入った、健康によろしくない食べ物ばかりである。)

 経済がどんなに潤っても、一般人の暮らしはまともに
ならないようにできている。消費し、ゴミ処理負担で税金を
更に払わさせられる社会。まして、工場で出来た食品は
病気を作ってくれるから、医療費負担も増加。
製薬と医療施設がぼろ儲けの社会なのだ。そこにも
特許利益や既得権益が渦巻いている。

自分の頭で裏社会を想像しよう。

カネを稼ぎカネを払う消費社会は、自らの首を絞めるのである。

カネを稼いで暮らしを豊かにする時代を
近い将来終わらせることが、人間のみならず、生物全体、
自然環境回復に必要だろう。

都市で会社員をしていても環境破壊して生物としては
~「不徳」~を積んでいる。

 これから生き抜くためには、人生設計を変更して、
自給自足を模索しながら個人の得意な技術を生かして
カネの不要な生活に変えていくことが、
子どもたちのための明るい近未来になろうか。

 

今日からできることは、
自分で作る、できるだけ自家製、素材中心の生活を。

 



 

 

ゴミ屋敷

失礼ながら怖いもの見たさで、YouTubeに掲載されているTV番組の

ゴミ屋敷レポートを視聴してみた。ゴミが道路までせり出している屋敷の

住人に向かって、取材レポーターが取り留めもない質問を繰り返し、

レポーターいわく「モノを貯めてしまうというかぁ…、、、

              モノが捨てられないタイプ…??」

住人「うぅ~ん、どっちかと言えばね…。断捨離なんて…

                                                             とんでもないよっ。」…。

って、ちょっとアンタら、だから取材が成立してるんでしょっ?!(笑)

と、元も子もない質問に思わず突っ込みを入れたくなった。

しかも、住人「どっちかと言えば…」って、自明じゃないですカッ。

どんだけ、マスコミトークに吊られてんだっ…??

断捨離って言葉を知ってるくらいなら、
ちょっと、考え方変えらんないのかねぇ?!と、
お節介なことを思いながら、ぼんやり見ていた。


それはともかく、「マスコミ」は「ゴミ屋敷」取材が大好きだよなぁ~と思う。

たぶん、ゴミ屋敷を取り上げると視聴率が上がるんだろう。
(つい好奇心に駆られて…ワタシも見たし。)

社会の中で、少々悲壮な暮らし方をしている人々を

連日のように紹介するTV。
法律が…、行政が…、と建前を盾に取りながら、好奇心や怖いもの見たさ、
自分は社会の一員としてまともに暮らしているという
視聴者側の自負心や優越感をくすぐるようにして、
大衆心理を操作しやすいネタだから、度々取り上げるのだろう。

かつ、視聴率もさることながら、放送目的のひとつに
「日本社会はこんなにひどく病んでます!」と
自虐観を刷り込むことも目的であるだろう。
番組で決して、根本解決につながる分析はしない。

マスゴミの伝える内容は、相も変わらず無責任だ。
取材で丁重にゴミ屋敷住人に接しながらも(慇懃無礼な感じ)、
痛々しい暮らし方をしてしまう人を実は侮蔑し、

視聴者に差別感を促し蔓延させる。
延いては、衛生観念や潔癖症に磨きがかかるよう喧伝も熱心だ。
(番組スポンサーは花OUやピー&ヂーやS林製薬あたりかいな?!笑)

抜かりナシ。

 

******************

ゴミ屋敷になる人の心理を思うに、環境(ごみ)問題が気掛かりな

「凄く優しい・律儀」な性格と、
「金銭・物質への極端な執着心、その奥には

  強い孤独感、寂しさ・感情の満たされなさ」という特徴が、

心の底にあるように思う。

そして自分自身も環境(ごみ)問題への疑問や、人や物に対する律儀さ、

あるいは金銭物欲という面に於いて、
ぼんやり見ながらも、多少なりとも深層心理では
重なるところがあるから、見てしまうのだろう。

頭では理性的に「非常識」を批判しつつも、
好奇心がそそられるのは、誰しも
感情的にはどこかで共通点があるからだ、と思う。

凄く優しい面というのは、捨てられない心理に繋がる。
昔の日本人の物を大切にする心とか、情深さが強く残っていて、
粗製乱造・大量生産時代のこの社会に対して
どこか割り切れない、やるせない思いがあるのだろう。


江戸社会、特に江戸の都市生活では掃除して出た「髪の毛」さえも
再生利用していたという。ゴミは出ない、ほぼ完全循環社会だったようだ。
糞尿は農家が買取りに来るシステムがあった。
面白いのは、相撲部屋から出る糞尿は高値で買取ったという。
ちなみに、昔の日本人は、排泄をすることを羞恥と
捉える感覚もあまりなかったようだ。
犬や猫、あるいは赤ん坊が排泄を気持ち良さそうにしている姿は、
こちらも安心感があるではないか。
特に赤ん坊の排泄が母親にとって逐一大切なのは、本能的なことだ。
いつの時代から、排泄が恥ずかしいことになったのか…。
よくよく考えれば、動物的な生理現象として日常の風景に溶け込んでいる方が、
本来は自然なことのはずなのに…。

更に言えば江戸時代は、ほぼ菜食だったゆえ、腸内、体内は
肉食する現代より、衛生的だったであろう。

人間は体内に腐敗菌・悪玉菌が多いと、無意識に
自分の体から出た物を汚いと感じるところがあるように思う。

現代人がやたら唾やら各種クソ(^^)などを汚がるのは、
肉食や化学調味の加工食品、油脂の多い食品、奇々怪々な物を食し、
石油化学製品の日用品洗剤シャンプーリンス芳香剤、等々をふんだんに使い、

肝臓に負担を掛け、内臓全体を汚しているから、かもしれない。

更には、ゴミや排水へ化学物質を垂れ流し、自然環境を毎日一人一人が

破壊していることへの罪悪感が、自分の中から、他人から出てくる

モノへの不衛生感と、無意識では繋がっていることだろう。



******************

大半の現代日本人が、この粗製乱造・大量生産時代に

実は、違和感や罪悪感を感じながらも、
何がどうなっているのだか?

訳が解らなくて、それでも細かいことに囚われ過ぎると

生きていけないから、切り捨て、諦め、目を背けながら
日常を送っているのではないだろうか。


日々のゴミ、資源ゴミ、大掃除やら引っ越しの時の粗大ゴミ、

自己啓発的な断捨離のゴミ…とか言って、

さっきまで目の前に有ったが、自分の都合や気分や流行で

いらなくなった物を税金のオカゲで、

行政がトラックに積んで運んで行ってくれて、

やれやれ…。


と、思いつつも、本当はただ、目の前からどっかへ移動しただけ。

別の場所に運ばれ、一か所に集められ、
可燃ゴミは、ある程度炭素にもなるだろうが、多くの物質から

ダイオキシンや毒ガス発生の要らないおまけつき。

雨や風でどこかをまた汚す。
不燃ゴミなら、延々と自分が使ったガラクタはこの世から、

抹消されることはない…。
ややこしい化学物質、重金属が土に浸み込めば、

いつかどこかに凝縮した毒が…大地へ、川へ、海へ、

そしてまた魚や小動物が摂取し、食物連鎖の果てに、

自分の、子や孫の、口に入る…かも。
ちょっと考えれば、誰でも想像できる。
頭の片隅では、夢の島がゴミの島であることは十分承知している。

ゴミ屋敷住人は、それらを直感的に感受し虫の眼のように、

「え~っとこの金属は何?ステンレスはどうなる?傘の骨は??

 鍋の取っ手と本体は??調味料の蓋に付いた紙は???

 紅茶のホチキスは????…アルミ箔は?????

紙袋の紐やハトメは??????

洋服のボタンは?ファスナーハ?ハッハ???????

…エ~っと…エ~~と。。。oz …zzz、、」

エンドレス。

 

細かくひとつひとつ見て、考え、思うのだけれど、
執着心も足かせになって、何をどう行動したらいいのか…。

できない…。
そんなふうに見て取れる。

罪悪感を忘れることができる人と、できない人の違いだけ、じゃないのか。
ゴミ屋敷住人は、現代ゴミ問題の本当の代弁者だと思う。


マスゴミCMで売りさばく、大量の飲料水やら食品やらあらゆる

ゴミ生産の加勢をする“増す”ゴミ。

TV新聞雑誌ネットあらゆる場で物欲を刺激し混乱を促している。

そんな奴らが、知らぬ存ぜぬで、涼しい顔して他人事で取材して、
どんだけ自作自演なんだよ✖
と、毒づきたくなる。

偽ユダ大株主を筆頭とする
企業全般とマスゴミの営利活動、マネー流通巨大化の所産が「ゴミ」だ。


先祖が培った「日本人の良心」の向けどころを

失くしてしまった、

この哀しさ。
「物を大切にする心、資源を尊ぶ心」を

失わさせられた、

この怒り。

 

偽ユダん国際金融集団が演出する
金銭物質礼賛社会が、個人の極端な執着心を生み出し、
心優しく繊細な人々がゴミ屋敷にしてしまう。
それを正直に顕わしてくれているのだ。
少々意志と行動力が足りないようだが…。

地球のゴミ汚染は、他人事ではない。
己の事である。

この世のあらゆる存在、物質は循環によって成立つ。
変な罪悪感から皆が解放され、幸福感の持てる社会にするには、

体内と潜在意識を大掃除することが、
ゴミ社会からの脱却だと思うのである。

で、とにかくできるだけ「買うな」・変な物を「食べるな・飲むな」と。

とどのつまりは、競争意識や虚栄心を刺激して偽情報をばら撒く、
マスゴミと企業とマネーを徐々に捨てること。






「日本人の意識構造」  会田雄次著 …某サイトの当方読後評の転載

…某サイトの当方の読後評の転載

 

「日本人の意識構造」 会田雄次著 (講談社新書)

本書と共に、「逝きし世の面影」渡辺京二著(平凡ライブラリー)を読むと
(順序は、本書を先に読んだ方が良いと思います)、
日本人の本質が見えてくる気がします。


あるいは、欧州勢力によるプロパガンダである日本自虐史観から、
脱却できるかもしれません。学生の頃(ん十年前)、たまたま本屋さんで出会い、
この書を読みましたが、今でも、内容が心に刻まれています。
本質的な観点で日本人を捉えているからこそ、記憶に残っているのでしょう。
欧州は階級社会が顕著で、階級が変化することはないが、
日本は一般的な例えだが、戦国時代の豊臣秀吉を挙げ、家系も含め社会の上位へも
刷新される可能性がある柔軟な社会構造、社会認識であることが記されていました。
日本は平等感のある国だ、とこの書で客観的で尊い日本観に気付かされました。
ただし、本書は明治からの西洋礼賛を肯定した上で、論理展開がなされています。

最近になって様々なことを知り得て
明治維新から「文明退化」だと私は考えるようになりました。よって、
現在は本書のすべてを賛意できる訳ではありませんが、充分参考にはなります。

本書に書かれている内容ではありませんが、
例えば、明治政府は意図的に士農工商という言葉を波及させたということ。
江戸時代にはほとんど使っていない言葉でした。
あるいは「競争」という熟語も明治政府の造語です。
明治期に、江戸社会の素晴らしさを否定する喧伝のために
差別社会だったような教育がなされ、
軍事国家に進むため「競争」も喧伝したのです。
江戸社会は武士も町人も一緒に趣味の会を嗜むような
生活環境だったことも最近になって知りました。
江戸社会は識字率が世界一でした。明治になって識字率が下落したのです。
あるいは、江戸には市民フォーラムのような「講」というシステムがあって、
様々な問題解決や市民のアイデアを反映できる
社会活動が自由にできていたのですが、
明治になって大久保利通はその有意義な機能を廃止させました。

******************
(鎖国になったのは中世の日本人奴隷被害の実態、仏教破壊、
欧州勢による植民地化の謀略を阻止する為というのが真相。
アフリカやアメリカ大陸の被害は伝えるのに、
日本人奴隷被害は学校教育やドラマ映画小説では決して伝えません。
それはなぜでしょうか?考えてみてください。)
******************

江戸時代末。
戦争がない約250年。鎖国が生み出したものは…。

すべての日本人は幸福感がみなぎっていました。
子どもを滅多に叱らず溺愛するようにして
愛情をたっぷり注ぎ子育てをした江戸時代までの日本人。
愛情深く子育てをする日本人は、自ずと優しく礼節を身に付けていました。
いつも親切で微笑みがあり優しさに溢れていた日本人。
家には鍵などありませんでした。犯罪などほとんど起こらない社会だったから。
庭先に梟が住みつき、人間の子守を鵲(カササギ)がしてくれていたお伽噺のような、
でも本当にこの日本にあった美しい世界。
日本ほど自然や人々の心が美しい国を見たことはない…と絶賛する
幕末訪日欧州人の伝聞集「逝きし世の面影」は、かつての本物の日本を伝えています。

欧州権力から明治政府首脳陣は軍事にまつわる資金提供がなされ、
戦争社会になって以降、日本は金融・貨幣を軸とした軍事国家に姿を変え、
明治~昭和初期の日本人は勤勉労働と貧困、暴力的教育で心が傷めつけられました。

(それまでは米・繊維というある程度まともな税制=年貢)


巨大戦争が繰り返され国民の生活は不安定に、

あるいは、階級社会になりました。

それらの向けどころのない焦燥感、憎しみや悲しみ苦しみにもがき、
子育ても厳格になり、体罰を肯定する教育へと堕落し
犯罪も増え疑心暗鬼な社会へと変わっていったのです。


戦後は安保が免罪符となってアメリカとその背後の言いなりとなり続け、

更に日本人の心が荒廃してしまいました。

つまりは、国際金融家に脅され続けているのが現代日本の有り様、と言えます。


効率化や合理性という貨幣経済に偏った理論も、つまり欧州支配層にとって
利益になるご都合論(偽ユダ支配の横着怠惰)であることを
日本人は認識する必要があります。その暈が西洋礼賛であり、

優性思想・白人優先社会なのです。先進国と銘打っているのは偽湯田の

コントロールに他なりません。

(その隠れ蓑のようにして極東情勢…日本にとっての情勢不安を

マスゴミが煽るために中国朝鮮半島と日本で混乱する情報を

流している…という巧妙さ。ですが、同じパターンです。

世界中でそれは同じ構図があります。隣国不安をマスゴミが作り出すのです)

 



現代日本人はアメリカ&(欧州権力)が制御するマスコミや学校教育で
日々洗脳され、疲弊してしまった状況です。
昔の本物の日本人の姿と、今の荒廃してしまった"偽"日本とのギャップを知る上で、
会田雄次氏著「日本人の意識構造」も良きガイドだと私は思っています。

 

 

 

 

 

 

 

玄米菜食をして8年ほど。
それ以前、私は煙草を吸っていた。
家族の病をきっかけに止めたのだが。
不覚にも、半年前にまた吸い出してしまった。
健康に気使っているはずが、何にもならない。

更に放射能汚染の危険も囁かれる今の煙草。
節制食生活の玄米菜食のストレスか?!

まったくもって本末転倒である。

ストイックさもほどほどにしないと心のバランスを崩すだろうか。

いや、他に理由があるのは判っているが

それは心に納めておこう。(苦笑)
家族に責められながらこの半年。ちょっといじけている。
ああ、止めるよ、頑張る。と言いながら、また
吸ってしまう自分の弱さ。まずは、自責を止めることから…か。

という訳で喫煙するようになってしまった愚か者。
しかし、横道?裏道だって「どんなことでも発見はある」が信条の
私としては転んでもタダでは起きたくないので、
気付いたことを書いておこう。随分言い訳がましい前置きだ。


ところで先日、知人と家人私で久しぶりに居酒屋へ行った。
普段は朝は果物、昼夜は玄米か分搗き米かそば。
味噌汁、煮物、和え物やサラダなど中心の食事で、
揚げ物は食べないことにしている。

が、その時はうっかり、安価さも手伝って
唐揚げやらポテトフライ、ゲソ揚げ…と
揚げ物ばかり注文してしまった。

以前は日常的に揚げ物もしていたが、
ここ5年めったに揚げ物を作らなくなった。
世間一般の主婦が聞いたら、私は怠け者主婦となるところだが、
食について色々考えるようになって、揚げ物は明らかに「毒」の類で
あることが解ってきて、ごくたまにサツマイモやかぼちゃのてんぷらか、
大学芋などをわずかな油で揚げ、あるいは揚げ焼きにしている。
少量で揚げるから残らず、保存は不要だ。


おそらくは・・・果菜食がルーツの霊長類にとって、
基本的には抽出された油の摂取は不自然だ。
まして「加熱油」は体に与えるダメージは大きい。
揚げ物が好物の人は生活習慣病の可能性が高いようにも思われる。
よって避けるに越したことはない。
しかし、何十年食べていたものを一切食べないという
厳格さも、私にはないので外食の時だけ
気が向いたら選ぶ、という訳で先日思いがけず、
多めに食べちゃったのであるが…。


翌朝、明け方寝床で急に咳が出てきた。
ああ、やっぱり煙草のせいだ。半年せっせと吸ってきた当然の報いだ…。
天井を見ながら罪悪感に苛まれ、また咳き込む。
アホである。

と、その時去年出会った年配者がひどく咳き込んでいることが
頭に浮かんできた。その人は揚げ物をよく料理する食生活の話をしていた記憶。
他にも揚げ物が多そうな食生活の人で、激しく咳き込んで
いたことを思い出した。喫煙者ではない。

そういえばこの十数年くらいか、
街で咳をしている人が多くなっているのが気になっていた。

思い出すと半年間、煙草を吸って咳き込むことは少なかったが、
今朝に限ってひどく咳が出たのは、もしかしたら
揚げ物を多く食べたから…かもしれない、と思い至った。

最近、大量に売っている食用油は、菜種油、大豆油、コーン油…
すべて遺伝子組換だ。居酒屋などでそれを使っていないはずはない。
家庭でも消費する油が安価に越したことはないから、
危険性に関心がない人はそれらを手にするだろう。

コンビニ入口辺りには盛大な唐揚げの広告。
レジ横で揚げ物を販売している。
夕方、学生らしき若者や疲れた様子の仕事帰りの人らが
コンビニ前で、揚げ物をほうばっている姿を見かける。

大量生産されるそれら食品は衛生の安全だけで、
決して素材の危険性など考慮されていない。
実験ラットが3か月間は発癌が無いとして、
安全をうたう遺伝子組換食品。しかし、4か月過ぎると癌化して
2年経過し驚くほど大きな腫瘍を持ったラットの写真を
目にした人もあるだろう。

揚げ物炒め物が多い中国では女性に肺がんが多いとも聞いている。
なぜなら、料理しながら揮発する油を吸い込むからだという。
先述の咳き込んでいた人たちも女性だった。
食べるだけでなく、酸化し揮発した揚げ油も吸い込んで、
悪影響を及ぼすことも気を付けた方か良さそうだ。


煙草が原因で、煙、気管支、肺 咳というイメージがあるから、
まさか、遺伝子組換の酸化「油」が原因という発想は、無理があるだろうか。
医学的な知識がない私では、咳と胃腸に運ばれる酸化油との
因果関係を説明することは容易にできないのだが、
経験的に消化の悪い物を食べた後,小腸から大腸への辺りが
咳と関係しているようにも思える。


先日の自分の経緯や知人のことを併せると無関係でない気がする。
大気汚染の影響もあるだろうが、マスクを付けても、禁煙分煙が進んでも、
街で咳き込んでいる人は減る様子もない。
咳イコール空気とは限らないのではないだろうか。


サクサク、パリパリ、コッテリ、ジュワッとジューシーで
モグモグ食べる揚げ物の魅力は、なかなか止められない。
が、今や酸化油の問題に加え遺伝子組換油の危険は、
揚げ物以外にもインスタントラーメンやスナック菓子も同様だ。
ほんの一瞬の食感の快楽に、体を犠牲にするのは哀しい。

オっと、煙草の誘惑に勝てない自分は、もっと哀しいではないか⁈
お節介にも他人の食事に口を挟んでいる場合ではない。
が、デモせめて喫煙のお陰で自前だが人体実験ということで、

ひとつ気付けて良かった事に…しておこう。(苦笑)








遊び

土曜日の朝、野菜市へ向かう途中公園の中を通る。
先日はお父さんと三歳に満たない位の女の子がいた。
木立に隠れて、お父さんに「わぁっつ!」と
驚かす、かくれんぼのような遊びに夢中になっていた。
小さな女の子の遊びながらの笑い声が響き、
ほのぼのとした朝の光景だった。

と、その時思い出したのは、うちにいる一歳になる雌猫である。
時に彼女は「雌」ぶりを発揮し、家人は「雄」と見なされ、

スキンシップの役割である。
一方、私は遊び仲間、兼召使いである。一日数十分遊んでやらないと
機嫌を損ね噛みつかれたりする。どちらかと言えば損な役回りである。

その彼女が気に入っている幾つかある遊びの中に、
「驚かす」ごっこがある。まさに、その女の子と
同じような遊びだ。

私が何か用で別室へ行こうとする時、
先駆けて行き、暗がりの部屋の入口の陰に隠れ、
こちらが部屋に入った瞬間に「わぁっっつ!」
と、やられる。彼女の遊びに付き合って、
「きゃぁ~~!」とネズミのふりをして騒ぐことにしている。

あるいは、ちょっとした箱が床に置いてあると、
上から見下ろすこちらの状況からは、丸わかりだが、
その箱に身をひそめ彼女はすっかり隠れたつもりでいる。
こちらが近づくと「わぁっつ!」とやる訳である。
まあ、私はウサギか小鳥のつもりで、驚いてみる…のである。(苦笑)

猫は日々、遊びながら訓練している。それは、獲物を捕まえるため
想像力を使い、俊敏さを鍛え、しなやかさを保つ。
じっと待つ時間もまたひとつの訓練かもしれない。
生きる・食べるがために身に着けるその鍛錬こそが、
わくわくする「遊び」なのである。

人間が幼い頃、遊びが仕事というのも納得である。
生きる知恵、精神力、身体力、直感、様々な能力を育てるのは
子どもの頃の「夢中で遊ぶ」遊びより他はない、と

猫と暮らし改めて感じられた。

人間は動物である。幼い頃は特に本能が現れやすいものだろう。
先述した「三歳くらいの女の子」のように誰にでもある
「かくれんぼ」や「驚かそう」という感覚。
家人が常々(五月蠅い位)言う、人間は狩猟採集だ、と提唱する話は
日常にその様相が実は、溢れていることを感じるのである。

 

4/24追記

教育で周知させる農耕民族と狩猟民族というカテゴリーはたかだか数万年前。
人類起源は約600万年前。その太古から今に続く時間を
自分なりに想像し思いを馳せることは、案外、日常に役立つと思う。
汚染脳から身を守るためにも…。