ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

小作農者的立場からの概観。。。二

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先日、自然農を営む田んぼへ

足踏み脱穀機と唐箕を使う脱穀作業のお手伝いに行った。

長年、やってみたいことの一つであったから、

案の定感激し、体験後思わず感想を綴った。

 

 

作業では、その時、その場で判断し

皆と心を合わせ黙々とひとりひとりが分担し仕事をする。

 

ただし、田んぼの主は一日でその作業を終えなければならず、

慣れた手つき?足つき?で足踏み脱穀機を

猛スピードでひたすら一人で漕いでいた。

 

籾と藁が分離し、脱穀機からどんどん籾付きのお米が流れ落ちてくる。

それが箕に入り溜まってきたら、荒目のザルに流し入れその籾を

下部の器に落とし、藁くずをざっと取り除く。

その器に溜まった籾を唐箕(とうみ・手動機)の投入口に

ザザザァと入れ、もう一人が手動のレバーをひたすら回して、

機械の中の扇風機のような木の板羽で、お米の入っていない籾殻や

藁くずを機械前方の遠い位置に飛ばす。唐箕の出口の前と両側面に

お米の入った籾が流れ落ちてくる。それが溜まってきたら、

保存袋に入れていく。それを数時間、ひたすら行う作業であった。

 

溜まっていく分量を気にかけながら、作業の速度に合わせて、

それぞれが無心で、持ち場をこなしていく。

誰かが、不平不満を思っていたなら作業の流れは滞り、

ギクシャクするのだろうなぁ、と雑念を思ったりもした。

皆が献身的であったことも幸いだったかもしれない。

 

農作物、その象徴としての主食のお米は、

八百万神・自然現象、大地からの実り・頂き物と

遺伝子レベルで感じている気がする。

粗末に、雑に扱うことはしないよう暗に心がけての作業でもある。

 

同じ動作が続くから、互いが思いやって、

あるいは代わって欲しいと自ら伝え、時々交代をする。

複雑なことではないから交代もできる。

 

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機械化が驀進し、お金を払えば

簡単に白米を手に入れることができる現代。

 

だが、本物、格別、食べ物の真実の美味しさは高嶺の花となっている。

素朴な社会であったその昔は、現代から見れば本物の美味しさが

溢れていただろう。大地も海川も美しかった頃は。

 

 

昔の人は偉かった、という常套句はあれど、偉いというより

私は羨ましい限りである。

 

物質としての、食品は手に入る。だが

機械化がひたすら複雑な発展を遂げた暁に、

形骸化した物質・量だけの礼賛社会に、疑問は尽きない。

また、時代の経緯にも漠然とだが考えさせられた。

 

 

唐箕という道具が発明される前、

脱穀作業で取りきれなかった藁を

貧しい人たちはそれを譲り受け、残ったお米を

手に入れることができていたそうである。

その道具のせいで、貧しい人たちは手に入らなくなった糧。

 

 

足踏み脱穀機も唐箕も機械の構造は、

「回転」という動作が、迅速化・省力化、つまり効率化の一歩で

ある象徴として、機械化を促進し物質礼賛の世界に傾倒していくことを思った。

 

そして、機械と言っても電気や石油を使わない、手作業に近い

脱穀作業までは、まだ余剰が微かに残ることの重要性も思ったのである。

 

 

余剰、非効率、ある意味の無駄という有り様が、

循環を支えていた。それを喪失して行く「時は金なり」の常識。

「無駄を亡くす」という文明の方向性が

地球生物、生態系の破壊となる。

 

循環が喪失されるものをほんのわずか抑制しているのが、

芸術・宗教・学問・資本・特権の階級という見方もあろうか。

だが、見える世界の机上論者が、優劣・差別を作る立場と化し、

複雑・不透明・肥大と空洞、〝虚構・欺瞞・詭弁〟を作っている。

 

 

西洋思想が牽引してきた果ての現代文明の構造では、

人間も含め、生物の楽園は地球上に、永久にやって来ない、と

改めて思った次第。

そろそろ、西洋礼賛社会の終焉の時代が

始まることも、何となく感じている。