ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

米作りこそ本物の〜シゴト〜               (小作農者的立場からの概観。。。一)

 

 

 

今日は都市から数キロ離れた、

近郊の田んぼへ、自然農を営むご夫婦のお手伝いに行った。

 

そうした出来事の一連は思いがけない、

出会いがきっかけであるが、それはさておき。

 

 

十五年ほど前に、別の知人が自然農で米作りを営む所へ

お手伝いに行った折、田植え、収穫の経緯は、

ほんの少しだけ体験したのであった。

が、田植え、稲刈り、

そして私たちの主食である「米」になるまでの、

脱穀」その工程をその時は携わらず、

ほとんど知らなかったのである。

 

単に、トラクター、田植え機、コンバインという道具が

お米を調達するのに、活躍しているんだ、

ぐらいの消費者目線でしか

お米という食べ物を

今までは捉えてはいなかった。

 

 

だが、機械が行う作業が当然になる前の、

人が行う仕事、その偉大さは、忘れられんとしている昨今。

 

とても、有意義な時間を得たことと同時に、

あらゆる、切なさを今日は感じたことだった。

 

日本人が、今まではなんとか、

成長?研磨?され人間を人間たらしめてきたものは、

何んだったのかを問えば。

言わずもがな。。。

地球上での人間の仕事・・・、

主食である米作りコソ、

基本中の基本なのだろうなぁ、と感じたことだった。

 

 

今日、体験させて頂いたお米の脱穀作業とは逆に、

様々な現代人の傲慢の根を

パラドックスとして感じたことだった。

 

 

無知というものは、罪とか危険であるという言葉が

闊歩する現代社会にあって。

無知の基準がひたすら、

マスゴミや狂育の異常世界での、机上の知識に於ける

〝エセ無知〟を罰する〜エセ情報世界〜、その世間の風潮に、

改めて疑問が湧いた。

 

それとは、別次元、一線を画した、人生の中での身体を使い、

知恵を使う体験、食と、自然と関わる中でもたらされる、

人間の社会性、その他諸々、様々な気付き、学びがあった。(・・・つもり)

ちょっと大袈裟に聞こえるかもしれないが。。。

 

今日は

「農」という仕事と食の奥行きを感ざるを得ない、

体験をさせてもらった気がしてる。

 

 

要点をあれこれ、書いても何にもならない。

ただ、自分がそれを体験した時に、

気付くこと。

思うこと。

感じること。

 

 

それをまずは「仕事の原点であった」ことを知ることが

できるのが、昔ながらの米作であることを

しみじみ思った次第である。

 

その方法ができることが、

ギリギリ残っているのは幸運であった、と思う。

 

 

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あるいは、「逝きし世の面影」という書籍に出会い読後であるが故に、

改めて、欧州貴族勢のシステムである、

各国の中央銀行由来のお金・貨幣の悪徳性を痛感させられた。

 

 

未来の地球に、人間が存続させてもらえる方向に、

現代社会の人間は、その用・能を為していないのではないか、と

疑問は尽きない。

 

 

 

本当に、本当に、何が最も大切なのかを

各々が考えなくてはいけない、と思った一日であった。

 

たった一日でそれを語ることはできるはずもないが、

反省を込めて。