宇宙そのものはエネルギー。
その一部として存在する生物もエネルギー。
宇宙が変化(ヘンゲ)した現象…。
家人は、現代の科学・医療で、産まれなくてよい
生命まで救済し、存在できない虚弱の個体まで産まれてくる
その進歩は間違っている、と言う。
残酷な事実を言うと皆、怖いから耳を傾けない、と嘆く。
科学は進歩していると現代人類は思い込んでいるが、
奇怪な社会へ向っているとワタシは思うし、
奇怪さも宇宙の一部の現象と言えるかどうか分からない。
が、ともあれワタシは倫理観から
それを否定するつもりはないのだが…。
生物を現象として捉える時に、(エネルギ−=振動・運動現象。)
地球に人間が多過ぎるとか、
個体としての虚弱者は夭折する程度の、
原始的な出産育児でいいのだ、という
家人の論理には疑問だ。
人口削減に熱心な闇の勢力(=意識の揺れ戻しの歪み現象、と思う)。
奴さんらは優生学を駆使し、人々をゴイムとして淘汰したがるが、
反動として人口増加による混乱を招いている気もする。
たぶん、エネルギーの摂理や現象と捉えると説明がつくのだろう。
削減しようとすればするほど、増加するのが宇宙の摂理、
生命の理でもあろうか、と。
生命の存在、本質は多いとか少ないの問題ではないように思う。
生物的にまともな、人間で言えば五体満足の存在や
頑強な肉体が宿った存在だけ残れば良いということはない。
身体に問題のあるなしが存在の正否に関係はない。
健康体が虚弱体・障害を持つ子孫を産むこともあれば、
障害を持った者が健康体の子孫を産むこともある。
水のありようと、生命・生物は似ている。
この地球にありとあらゆる世界中に空間に、雨であり、川であり、
海であり、水道水であり、下水・汚水・工業水であり、
雲であり、霧であり、生命の水分であり、
大気に含まれる水分であり…。すべての空間に水は有り様が、
常に変化しながら存在している。
そして繋がったり離れたりする。
雨の一滴とコップの水は同じであり、違うのであるが、
本質は同じであり繋がっている。
だが、経緯が違うが同化すれば経緯は共通となり薄らぐ。
あるいは、塩分を含んだ水もあれば、化学物質で汚染された水もあり、
わき水のように美しい水もあれば、
体内にある周波数が違うという水もある。
様相が違っても同化すれば、
美しい水は汚れ、汚れた水は少しきれいになる。
水は合流し平均化され、随に循環していく。
生物もまた意識の運動性を持った
形態・形象・そうした塊の現象である。
生命は意識であり、存在せしめるのはエネルギーであり、
点の運動性(音・波)の記憶・経緯の塊。
水は生物の鏡として比喩にもなるし、
水は生物そのものを、地球を司っている。
水もエネルギーの一部。
水が汚れているのは=意識の余白が濁っている。
人間の日々のドラマがどのような現象であっても、
結末がどんなシナリオであろうが、
そこに変化という運動性があることが、宇宙の法則。
エネルギーの位相は宇宙の運動だ。
個体として生命を視て、人類を生物を説明しようとするのは、
生命を物体としての一面だけを捉えているように思う。
すべては分身であり、化身であり、存在はあるがまま。
宇宙「意識」全体の質と量は変わらないというか。
現象としての個体となって分身、化身によって
変化という現象を与えている。
優劣、多少…三次元内での価値付けによる存在の肯定否定は、
後天的な環境によって植え付けられた感情に由来する幻相、と。
生命に機能という欲・による意味付け、
都合という方向付けをするほどに、
存在は希薄な様相となり、虚の存在を発生させることになる。
亜空間からエネルギーを導引しているように思う。
生命に意味付け、方向付け、価値付け…、
目的、機能、都合は
個という点の時間と空間の今=全が消失する。
言い方を変えると、
生命が、機能を強いられると負のエネルギーが
負の連鎖を作る。
都合や機能が、感情の問題・負(陰)の感情を作っている。
きっと、ある時期から地球は、言語・数字
(使わざるを得ないパラドクス)という機能によって、
独裁世界へ向い始め、意識を汚濁させていったのだろう。
意識はあるがままで、時間と空間(意識の余白)で
変化に見えている、感じるようになっている。
意識の中の記憶(ある限定世界)が
個々の現実を体験するようにもなっている。