ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

マスゴミ…出来レースの知恵


テレビや新聞、雑誌、映画、喧伝用書籍の、

その舞台の裏側を知ってから利用しなくなって5年以上か。

マスゴミ全般の茶番劇に、ただただ呆れるばかり。


思えば、“喧伝・プロパガンダ”という用語をTVや新聞が使っているのを

聞いた事も見た事もない。記憶にない。
せいぜい、社会問題の真相を語る書籍くらいだ。
そりゃ、そうだ。「そのもの」なのだから。

その概念を大衆に知覚・認識されては都合が悪く、困るものね…。

 

 

とうとう、偽ユダの正体が周知され始めたから焦っているのか。
意味不明なお笑い芸人を装った“厚切りJ損”とかいう、

品性の欠片もない、がなり声のエージェントタレントまで起用し、

幼児向けの汚染脳にやっきのようだ。

無駄にわめいたり大声を出す状態で身体表現するのは、

概ね汚染脳の特訓を受けた人間だろう。お気の毒さまだ。

YouTubeで目にしてしまったが、非常に気味が悪い。

例えネットでも、見たくなかったなぁ…。
全然面白くないし不快だった。
そんなに、日本にWhyと疑問を突きつけるなら、

とっとと帰国すればいいのに。

こっちが「Why  you stay  here?」と問いたい。
まあそんなどうでもいいことはともかく…。


各新聞やニュースで「TPP反対」やら

原発再稼働の是非」「憲法九条を守る」「従軍慰安婦問題」などなどの
見出し・話題が、印刷・報道され、民主主義・資本主義を装って、
まるで“中立の立場”で言論の自由を繰り広げているように見えても、
“反対派の声を応援”をしている、ように見せかけても、
市場経済”が自由競争を生み出しているように思い込んでいても、
“医療や教育や科学技術”の進歩するだろう信頼感を抱こうが、

 

あくまで出来レース

 

記者やアナウンサーや有識者、末端の労働者ら…、現場の人間は、
パペット・操り人形としての自覚がない演者だ。

 

世論調査等で街頭インタビューされたり、

事件被害(やらせ事件)に遭遇した風を装ってインタビューされている人間が、
実はマイナーな役者で、あっちのニュースこっちのニュースと変装して現れる。
その街の人を装った役者のコメントは、

マスゴミの誘導したいプロパガンダに加勢する発言をするために、
登場している。(笑)

受信料回収が捗らないから、経費節減かぃ。

 

 

なぜ、そんな巧妙で狡猾なことをするのか。
できるのか…。

国際金融家彼らにとっては、大衆の意識を操作することなど、
大したことはないだろう。しかし、大衆にとっては大損害。

大衆を支配する悪党の視点が、

善人用教育を施された大衆には、さっぱり分からない。

 

プロパガンダの目的は…。

 

所有しているマスゴミの報道を操れば(喧伝・プロパガンダ)、

何でも手に入る…ように、
マスメディア発足以来、日本ならば明治以降、

そのように社会を完全支配・私物化していくために
構築してきたのだ。しかも、公社にしても企業にしても、

育てるのは、国であり、企業であり、国民の努力である。

育成させて、結実し、実が成ったところを横取りするのが、

国際金融家偽ユダの更なる悪知恵である。

 

公社が民営化し株式上場して、半分以上の株を国際金融家が取得し、

所有企業にして、企業利益を彼らの懐に納めるためだ。

更には、国の労働力や不動産も、
私有化で一気に彼らの所有になる。

 

 

 

公社を民営化するために公社の欠点をあげつらったり、

スキャンダルを騒ぎ、大衆が、さも公社・公務員の不浄さ、怠惰さに、

呆れているように喧伝報道し、民営化を強行する…。

 

日本企業の脱税や不祥事や偽装のマスゴミ報道も、
株価を下落させ、一般投資家が売却した安い株を買い占めるため。


以前なかった新ウィルスによる病気は、ウィルスをバラまく怪しげな行為も、
ワクチンを医療現場で宣伝させ健保の莫大な拠出を前提に販売するのも、
国際金融家所有の企業利益を得るため。

 

国際金融家偽ユダからの指示で、Jパン反ドラーが、
パペット日本政治家や売国奴財界人、似非学者文化人らを
脅しながら餌を与えながら、命令する構図が透けて見える。

何度も書くが、マスゴミも国際金融家偽ユダ所有な訳で、
そんな偽情報を本気で視聴し、真面目に分析しするのは、人生時間の無駄。

 

プロパガンダに溢れた現代社会の情報を分析しても、所詮
すべてが鏡面の世界に放り込まれたような状態だ。

 

鏡に映る虚像を真実と思い追求し、やはり虚像。四方八方が虚像。
疑問が疑問を生んで、偽の解答で腑に落ちないまま。
大衆=ゴイム(家畜・ユダ語)は、真実はない、答えのない、
鏡面の室内で延々と右往左往している。


家人がよく言葉にするのは、“勧善懲悪の物語”を思うと、
「悪人の方が、ずっと知恵を絞っている。
善人は物語では勝てても、悪人の方が頭がいいから、
現実世界では勝てない、騙されてるのが世の常」と。
同感である。

 

ピダハンという少数部族の思想「直接体験の原則」は、

すこぶる真っ当であり、見習うべきだと家人は唱える。

これもまた、同感である。

 

テレビや新聞雑誌の伝えることは間接的。

とどのつまりマスゴミを信じてはいけない。

信じるに値しない、ということである。

が、こうした内容を発信すると、この記事も、

元も子もないのであるが…。(苦笑)

 

大衆側の私たちも頭の体操に、
寡頭勢力のずる賢さを観察する力、
舞台の裏を想像する力を身につけよう…ネ。

 

 

 

 

 

一体、人間はこの地球で、何がしたいのかぁ?

 

 

動物は、人間と比較して、
日がな一日遊んで暮らしている…と
揶揄する言葉を時に聞く。

怠惰を批判する社会。
勤勉努力を奨励する時代。
確かに、怠け者は他者に負担をかける。

機械化が進む前の時代は、
支配者が大衆を野放しにしないために、
怠惰を罰する考え方、
倫理観を広げたという見方もあろうか。

それにしても、よくよく考えれば、
現代人はどんなに労働していても、
怠けるため、楽チンを確保するために、
労働しているだけ、とこの頃の私はそう考えるようになった。


なぜなら、野生動物は肉体を充分使う生涯だ。
暑さ寒さ、風雨を耐える。
危機を意識しながら睡眠する暮らしだ。
五感をフル活動させる。危険かどうか勘を使う。
食べ物が無い時は耐え、仲間と分かち合ったり、
他の生物と生死をかけ争って食を得る。

糞尿屍は、土に還り、そして大地を肥やす。
また、子孫を残すためにも命がけである。
人間よりずっと意志が強く逞しい。

本能こそが賢く映る。

ぼんやりしているように見えるのも怠けているのではなく、
自然の流れに添って耐えていたり、焦ることなく
無心に、気長に時機を待つことができるのだろうな、と。

偉大だ。

 

生命を感じる生き様。

それは、肉体の苦労と歓喜がそろって、やっと生物は、

真の自由と幸福を感じるよう、

そのように意識が具わっている、と思われる。

 

それに比べると、現代の人間は今を生きることを忘れ、
先々まで己の身ばかりを心配し、食を備蓄し、
将来の保障を国や他者に求め、カネをかき集める。
一瞬の恥を掻くのを恐れ怯え、
一時の心理的苦痛回避のために、虚栄心に振り回され続ける。

それを逆なでする、見えない社会風潮・喧伝までもがある。

生存欲を欲望・好奇心(好奇欲)と倒錯し、

乱痴気騒ぎで暮らし続ける。

それを煽動するマスゴミプロパガンダと狂育と政治経済。

 

暑さ寒さを避けるため、衣類から住宅環境、寝具、家電…、
あらゆる場を、楽チンに暮らせるよう、金銭労働が必要なのである。
果ては子孫を残すのに、命がけどころか、
まずは、目に見える名誉やカネの自分の損得勘定が先である。


また、天変地異が起きても、被害が少ないよう、
苦痛が最小限になるように、
他の生物が暮らせない自然環境の破壊をしてまで、
気が狂わんばかりの巨大工事して人工化する。
(ホント気違い沙汰だ×
たかだか、数百年の虚栄財産保守のために、
生かされている環境を破壊し、

子孫存亡の危機を与えるなど、逆立ちにも程がある。)

 

移動も、もはや自力ではない。
自動車、電車から飛行機まで…。
労働でカネを得て、
楽チンにより遠くへ移動しようとする。

移動に肉体を使わなくて済むよう、
やりたくない労働をして。
自然を膨大に破壊し道路や線路を作り続けている。

 

自分で食べる物を他人に作らせ、
やりたくもない労働をしてカネを得て、
我慢を重ね、ストレス解消と称し
偽食・汚染食を食べ、病気にまでなって…。

 

一体、人間はこの地球で、何がしたいのだろうか。


肉体の楽チンや怠惰、欲求不満を満たすために、
やらなくていい我慢や意味不明な努力や自然破壊・生物を殺戮し続けるのである。
長い時代、人間は想像力の使い方を明らかに間違ってきた、と私は思う。
もちろん、自分もその一人でもあるが…。

進歩発展と称されるややこしい科学・無駄に大げさな技術は、

国際金融家・エリート層・偽ユダらが、

支配のために牛耳っているだけである。

一般大衆は、進歩発展と喧伝される道具を

賃金労働の対価として、享楽・怠惰のために、

単に、使用・消耗しているだけであって、

頭と体、そして心も、生物として退化している。

否、退化サセラレている。

それは加速しているようにも映る。


もっと動物の精神に学び、
どうしたら自力で暑さ寒さを凌げるのか、
どうしたら自力で速く移動できるのか、
どうしたら自力で清潔を保てるのか。
どうしたら慢性病にならないのか。
どうしたら他生物の犠牲を最小限にして、食を得られるのか。
どうしたら自然環境を破壊せずに生きられるのか。
どうしたら本音・本能に正直に生きられるのか。

どうしたら支配者の居ない世界にできるのか…。


植物を愛で、植物の心に触れ、心の清らかさとは何かを想像した方が、
どんな勤勉努力よりも、救われると思う。 細胞に…、遺伝子に…、

伝わるのだろう、と思う。

微生物が土の中に水の中に、植物動物、人間の体内に、共存している奇跡や
その心根を想像したら、自ずと人間の理にかなった暮らしや仕事が、
直観的に解っても来るのだろう。
超太古の人々の想像力の豊かさを想像するべきである。

 

もっと人間以外の動物の本能・精神を謙虚に学ぶべきではないのか。
植物や微生物からの伝言を感じ取り、心を知るべきではないのか。

現代人が、どんなに動物植物…自然界を数値で分析しようが、

研究しようが、知識を増やそうが、

利用する目的や自慰のためであっては、

人間の進歩だ発展だと信じてやって来たことなど、

全部無駄だ、と私には思える。


………………

 

と、猫家族と暮らすようになって、大げさに考えてしまうこの頃だ。


愛玩動物として、血統書付きに拘るのもマズいことだと思うし、

嫌いな価値観だ。

親和的かつ、適当な距離感で人間と動物や植物が暮らす、

人工的な物で妨害しない関わりを望み、

いつか、他生物と人が対話できる地球を私は想像する。

 


多くの現代人が精神を病んでいる原因のひとつに、
動物や植物との関わりが極端に薄いからではないのか、と思う。

もしくは、動植物に関わりのある人間は、利用か愛玩物である。
昨今、多くの人間が言葉にする、“動物や植物からの癒し”とかいう
安易な言葉では納まらない、
現代人と他生物との歪な関係を考えずにはいられない。


元来は生態系の一員として存在しているはずの人間。
あるいは生態系の維持と助力のために存在するようになったであろう人間が、

中世からのユダキリ教(ユダヤキリスト二人羽織教)台頭によって
人間中心主義を謳い出してから、アミニズム、精霊信仰…自然崇拝は、
欧州人による奴隷支配を契機に、ことごとく隅に追いやられていった。

かつ、欧州勢やその配下の百済勢、彼らは
この先、倭人のルーツ(自然種)を持つ日本人を
完全排他排除したいのだろう。(その推測の理由をいつか書きたいが…)、

しかしそれにしても、白人系優生種思想を
しわじわと波及させ推進しようとも、
水面下の動向から見てとれるそれは、
近未来に、優生種思想がいつの間にか偽倫理観のプロパガンダ
さりげなくこっそり本質の視点に是正され、

生態系を重視し命の思想として欧州勢彼らが
立派に唱えようとも…、

自然の中にある心、調和、揺らぎ、曖昧さを感じ取る感性が、

彼らには、どうしようもなく哀しいくらい…欠けているように思われる。

 


生物全体の、命の詩を感じる事ができない、と言えばいいのだろうか。
それこそが“西洋礼賛”を私が最も危険視する理由だ。
差別と言う倫理観ではなく、肌で感じてしまうことなのだ。

地球で人間の生命が最も尊い、人間は偉いという
西洋的な幻想の価値観が、中世から暴走し始めた現代まで。
こんなに地球を壊している現代人(病的な生物)なぞ、偉くも何ともない。


臓器移植などの医療行為の行き過ぎや、健康への極端で無責任な拘り。
外見美醜への異常なまでの執着、遺伝子を操作してまでの食糧の確保等々。
人類全体が病んでいる証拠だろう。それは留まることを知らない。


動物や植物の生命や心に無関心の現代日本人のライフスタイル。

最も生物として愚かしい行為だと思うのが、

糞尿・屍・残渣を単なるゴミとして処理していること。
雨水が降り注ぐその大地に沁み込まない環境であること。

膨大な護岸工事・沿岸工事をし続け、
水と共に暮らす生物の呼吸や食、住処を奪うことだ。

心底、許せず、そしてたまらなく悲しい。


食物連鎖・生態系・人間の・生物の無意識=本能を
破壊している最最最悪徳システムだ、と私は思っている。

 

意識が大地から隔離された暮らしが、
人間の食や物資を得るために他生物への残酷を許し、
人間の精神を自閉的にしてもいるのだろう。自業自得だ。

せめて、身近な動物、植物に目を向けて、
その心を感じて暮らすように、と。
誰にでも、どこにいてもできることだと思う。


以前、東南アジアから来た人が「日本には動物の姿が街にない」という
印象を話していたということが、記憶に残っている。

汚染脳によって他の生物にひどく鈍感に、

そして残忍になってしまった現代日本人。

命を頂き命を養うはずの食が、

動物や植物を喰らう遊戯へとなった現代日本人は、

もう悪魔の徒弟と化している。おぞましい限りである。


幕末までの日本人の生物への温かく優しい眼差しを
「逝きし世の面影」第十一章・十二章に書かれている。
すべての日本人が読むべき一冊だ。

気付こうとしない、疑問を持たない、

マスゴミで汚染脳され切った日本人中高年層は、
もうどうにもならない。
せめて若い人たちにはできる限り、マスゴミを無視し、

教育制度を疑い、携帯電話から目を離し、できれば止めて欲しいものだ。

動物や植物の心・魂を感じる
想像力を養ってもらいたい、と願うばかりだ。

 

毎朝、スズメに、草や樹におはようと、
心の中だけでも言ってみようょ…。

一緒に暮らす猫家族は
「オアヨウ」って言ってくれる。
気がする。

(食肉レンダリングや遺伝子組替の大問題を
如何に回避するかは、頭の痛いことだが…。)

 

 

かなり変な、コドモもどきおばさんのワタシは、
スズメや草にマジで
挨拶してしまう…。

お米をあげて寄ってくるスズメの面白さに魅せられて。
が、なかなかギブアンドテイクから足を洗えないか…。(苦笑)

 

********************

 
つまり、ワタシなりの問題解決のヒントは、
自然循環を豊かに繊細にする

自然と対話・相談しての助力、

他生物へ食を施す環境にする工夫の

“喜び”は、地球生物の心を

円くしていく…ってな話である。

 

 

 

 

所詮…遊び道具

暇人の独り言…。


放送事故というタイトルのYouTube動画を見ていたら、
匿名の書込みの是非について討論の末、
言葉の揚げ足取りレベルの口論となっていった。

確かに声を荒げた会話は…、放送事故っぽい。
失礼ながら、ちょっと笑ってしまった。

誹謗中傷の書込みは度が過ぎる場合は取り締まるべきで、

実名でネットでは活動するべきという意見。
片や、そこまでする必要はないと。

 

当方はハンドルネーム。批判めいたことを書くことも
あるから、ズルいのは承知の上で実名は出さない。

 

ところで、またYouTube動画の話題になるが、
蛭子能収氏の話。子どもの友達が蛭子家に遊びに来た時、
冷蔵庫にあった蛭子氏の楽しみにしているプリンを
食べてしまった。そこで、蛭子氏は後日、連載中の
漫画の中で、その子どもの友達を懲らしめる四コマ漫画
描いた。もう二十年以上前の出来事。

それをネタに、今頃になって口の悪いタレントたちから

吊し者にされていた。

蛭子氏の言い分は「嫌なことがあったら漫画にすることは
時々あるけど、まさか本当に殺したりはしないですよ」と、
当たり前のことを言っていた。アホらしい話の番組(動画)である。

が、蛭子氏は案外、古き日本人の特徴をいくつか残している

人物ではないか、とも思っている。

 

考えてみれば、江戸時代も平和な社会であるにも関わらず、

残忍な絵や卑猥な絵、辛辣な風刺画、破天荒な小説が
たくさんあったようだ。

サービス精神が遊び心で、時に他人を驚かせ楽しむため、

表現者は現実の鬱憤を晴らす昇華のためだったり、

退屈凌ぎに精神の陰影を表現するのは昔からのこと。

人間の毒々しい感情や想像力の所業も、

平面の場ではある意味で普遍的なことだろう。

 

 

インターネットは仮想空間と言われるように2次元である。

直接、誰かに会って話したり、面と向かって争ったりする訳ではない。
江戸時代の浮世絵や風刺画を電子化した世界という見方もできる。

現代社会はキリスト教的モラルが流布され蔓延してしまったから、

単なる仮想の自浄作用にまで、目くじらを立てる程、

余白・遊びの無さが問題の根を増やした、と常々思う。

 

ただし、絵ではなく文字の場合は難しい側面がある。

また、電子技術は伝達のタイムラグが少ない分、

現実世界とリンクしてしまいやすい。


絵であれば、それは過去であり記憶である。

鑑賞側に、時間の流れの中で想像の自由を与え、

解釈はそれぞれに委ねられ曖昧さが成立する。
かつ、絵は「遊び」を前提とした道具だ、と

誰しも認識しているから損得とは、関係ないところで

鑑賞するものである。


だが、文字・文章は概念や常識を共有しながら
伝達する道具で、事務的かつ実利や記録の側面を持つから、
常識から逸脱したり誤解や間違いで、人を傷つけたり迷惑をかけ、

損得が発生したり、国の利害にまで及びかねず、

大きな争いの元となる。

偽ユダはそれさえも利用している訳だが、それはさておき。

 

ともかく、言葉で心が傷つくことがあるのは、

誰しも分かっていること。


二次元の世界を実利的に活用したい人間と、
単なる遊び道具として活用する人間が、
同じメディアで、時として衝突している。

摩擦が起きる。

 

話は少々逸れるが、

株式や為替のような数字だけを扱い、

現実で使う実利を得ることは、不自然だ。

資本投資や企業利益とカネの整合性は有って無いように見受けられる。

根本を問えば、国際金融家が作り上げた金融システムは虚構で、

ほとんど虚の利益なのだから二次元で完結すべき、と思う。

 

もっと本質的なことを考えると、お金というものが
量の尺度しか無いことが狂っている。

 

ギャンブルで儲けてそのカネでジャブジャブ消費するのと、
現実社会で肉体と時間を使い、働いて得たお金と等価であることが

そもそも異常なことだ。が、有史以来それが変わらない。


こんなに世の中が発達したと言いながら、

未だに、お金の価値の中に質を与えることを

しないのか、できないのか…。

その代償のように、人間の意識が金銭礼賛となって荒み、

物資は偽物や粗悪品が増大した。

 

 

二次元である世界(‘TV新聞雑誌映画…携帯等々のメディア全般)は
どんなに大規模に精巧になったところで、

所詮…遊び道具・オモチャだ。

仮想世界を遊びとしてではなく、現実にその損得を持込みたくなる人間や

自分の欲求不満を解消するのに、

仮想世界と現実を倒錯し、実行してしまう幼稚さ。

結局は、物理的世界、肉体を、自身も含め

老若男女、社会全体が疎かにしているからだなぁ、

という印象を持つ。

 

お金も、ある意味で紙幣という二次元の遊び道具である。

現代のお金に込める価値や意味、懲罰などが

現実のカネの質より重過ぎやしないか。

 

支配者層は肉体を使わない代わりに、

権威権力と言う架空の価値を作り上げ、カネに幻想の重みを増やし続ける。

が、しかし結局のところ、そのお金の価値を成立させ支えているのは、

物理空間での肉体的活動なのである。


肉体を疎かにしている人工礼賛の人間たち支配者層の世界観に、

自分のことはできる限りは自分で、というごく自然な、

生物的な世界観だった大衆である私たちの方が、振り回され続けている。

あるいは、中世に国土の奴隷支配を強いられた人々が、未だ犠牲になっている。

 

遊び道具に、三次元の現実生活と同等の常識を持込みたくなる人間の方が、
現実の世界から乖離して生きている人間ではないのかな……、と。

 

 

 

少々、伝わりにくいが
屁理屈を考えてみたのだが。

YouTube動画も仮想世界だから、

まぁどうでもいいか…。

 

 

(俳句や短歌は絵や音楽と同じく偉大だなぁ。。。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロパガンダに気付いて…互いが自由に。

西洋文化の困ったところのひとつが
自由のはき違えだと私は思う。

いわゆる欧州系の人間が唱えるFreedom
「自由」は、物理的なことを意味していると、
常々、思っている。

誰かが物理的な自由を追い求めれば、
他者、対象が不自由や犠牲、迷惑を強いられるのが、
三次元の法則だ、と思う。


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些細なことであるが、
半年前のこと。うちの周辺道路は自動車の往来が激しく、
道路も狭い。その日私が自宅付近に近づき、車を駐車場に止めようと
減速し始めた頃、車の前や横をウロウロする
スケードボードに乗った青年がいた。
かなり迷惑だな…と、様子を見たら白人青年だった。

私は車の窓を開けて、その青年に「ちょっと危ないよ!いい大人が
狭い道路でそんなもの乗らないで!」と、
ヒステリーおばさんと化した。(この頃、ワタシ変なオバサン?!)
青年は、おののきスケートボード
乗って慌てて通り過ぎたが、動揺して転びそうになって、
やっと乗るのを止めていた。

また、ある日のこと。区画整理していない地域の主要道路にも関わらず、
車が一台しか通れない道でのこと。
そこで飼い犬の紐を外し、はしゃいで散歩してる親子がいた。
その様子に気付いて、もちろんこちらは超低速である。
私の車が通ることを殊更に騒いで、犬の心配をしているのであるが、
紐を外して遊ぶのなら、公園でお願いしますと、厳しく言った。
やはり、その親子は白人だった。

余談だが、十数年前迄よくTVに出ていたアメリカ人タレントは、
殺人歴を持つことを最近知って驚いた。そんな経歴を持つ人間も
売れっ子タレントになってしまうことには呆れた。
ドンだけ、物理的に自由なんだ?!と。
日本人はもちろんアジア系やアフリカ系の人なら、
出国さえできないだろうし、
タレントなどあり得ない…とも思った。





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他の民族、人種に比べ、世界中に白人は散らばり、
他国でも好きなように暮らしている彼らに
以前は、欧州系人彼らは勇気があって行動力・冒険心が
旺盛なんだぁ、自由に行動しているなあ、と能天気に思っていたけれども。

国際金融家や偽ユダ、欧州勢に疑問を感じるようになって
身近なことを観察していたら、経済的にも社会的にも優位で
自由度の高さを白人たちが謳歌しているのは、
与えられていたからだったのか…と気付いた。

この狭い日本の国土で、道路事情をお互い気遣いながら暮らしている
私たち日本人。物理的には不自由でも気遣いや工夫で何とか解消しつつ…。

それにひきかえ、他の民族に比べ、
欧州系人の彼らはマスゴミイメージ戦略から
生活習慣・経済・マスゴミ・宗教・教育・言語に至る迄
(白人は善良、優秀な人間というプロパガンダ)、
扱い等々が優遇されてしまっている。
特別扱いの常識の風潮が漂っている。

よって、移住しているその先の
国の常識、良識、価値観、事情、扱い等々に遠慮することや
気遣うことができていないのだろう、ことに改めて気付いた。

よくよくみると、日本に来ている外国人、
旅行者も含めて、欧州系人は図々しいし威張っているなぁ、
と思える事に時々遭遇する。

刷り込みのイメージで日本人のこちら側が「いい人」と思い込んで
いるだけのことが多い。
「白人」を友人に持つ事が優越感になる日本人もいるようだ。
だが、むしろ、
どこか有色人種を蔑視する狂った日本社会であるのに、
中国人や韓国人、フィリピン人、ネパール人、ブラジル人、トルコ人…等々は、
お金の為と言えど、日本社会に馴染もうと、辛い仕事を請け負っていたり、
日本人に添おうとする努力を感じ私は好感を持っているし、健気な印象がある。
はっきり言って、マスゴミ情報で汚染脳され、
実態に気付けない、白人優位の人種差別を助長している
日本人を私は軽蔑している。

*******************************

さて、あまり書きたくないのだが、
日本人は正論を持って厳しく叱る、
また厳しい眼で睨むと彼らは、
恐れることを聞き知っており、
体験的にそう感じた事が幾度かある。
理由もある程度、納得している。
だが、その理由はここには書かない。


ともかくイメージ映像などでアメリカ人らが、街をスケートボード
楽しそうに徘徊するのを目にする事があるが、
あれはUSAの国土が広いからあんなことができるんだよ、と。

日本のように狭い街並みで、目配せや仕草でお互いが気遣い、
事故の無いように暮らしている状況認識が、彼らにはできない。
中世から現代まで大陸をどんどん欧州用に塗り替え、
物理的自由度を高くしていった彼らの感覚には認識不能だろう。

最近一層、様々な刷込みイメージで欧州系人・白人に好感や憧憬を
抱き偏重している日本人が多い事も嘆かわしい。

短絡的に世界は一つだとか、を嬉しがる以前に、
アメリカ、アフリカ、アジア…大陸、諸島あらゆる民族の迫害、
混乱を作って来た歴史を持つ人間が、学習し自覚して欲しいこと、
それは欧州系の彼らにこそ、
平等とは何か、自由とは何かを自問自答して欲しい。

 

平和社会の本質は、簡単な言い方だが、
それぞれが自国(祖国)に民族が戻り、地理的に近い隣国・民族同士が
資源や技術の共有・協力・助力をすることだろう、と思う時、
現代になってマスゴミは年柄年中、近隣諸国同士の悪い情報・イメージを
報道する。つまり、軍事産業でぼろ儲けをする人間にとって、
必要な喧伝な、だけである。
隣国への個人的な印象や感情は、皆がマスゴミによって、
制御・汚染脳され“”軍事拡大”に利用されている…ことに気付いていない。

(USAとの安保理など全く不要で、日本の地理ならば、

韓国北朝鮮中国台湾ロシアと友好的に政治をするのは、当然のこと。

USAならカナダやメキシコと仲良くやってくれ、と。
向こう三軒両隣である。遠くの資源・経済・人力をあてにしないことだ。



私の思う自由とは「精神の自由」である。
物理的に自由度を高くすることは、
単なる傲慢だ。
慎みを忘れ図々しくなることである。
そろそろ、世界中の皆が気付いて
発言する時代ではないだろうか、と。

無論、人種ではなく、個人を見ること、感じることが
相手を尊重することだろう。
人種によって優遇、贔屓、チヤホヤすることも
ひとつの人種差別である。


本来、人格と人種は関係ない。
そして、人間以外の動物は色眼鏡をきっと持っていないだろう。
生物としての人間同士も、分け隔てなく本音であればこそ
心が通じるのだ、と思う。

家庭教育で個性・人格は育まれるが、
国家教育では個性・人格は歪められる。
国家は人種差別を個人に対して裁くが、
人種差別を作っているのは
各国家の政治経済格差とそのプロパガンダである。

欧州系国家が優位な人種の位置づけをし、
平和、平等と言うパッケージに人種差別という毒を入れて、
世界中にバラまいている。

世界中を偽ユダ彼らが私物化できるよう、
何百年も価値観を混乱させるための胡散臭いことをし続けている。

現代日本社会において妙に白人をチヤホヤするようになったのは、
戦後のGHQマスゴミ・狂育の戦略によるところが絶大だろう。

相互が自由になるには、
事実を知る、視点を変える、見る角度を自在にしていくこと、
それこそが人の求めるべき自由であり、「精神の自由」だ。
内観する能力、想像力と言えるだろう。



平等・公平な社会風潮にするには、まず
外部から自分の意識に刷り込まれたプロパガンダや
付けてしまったフィルターに気付く事だと思う。

マスゴミ・映画ドラマ小説…あらゆる映像メディアは
偽ユダ・白人に好都合になるようで作られている。

(例:映画ではヒーローや善人または被害者→白人、悪者→黒人
   理想社会を描いた映画や映像→白人だけ
   明るい未来を宇宙人が語るネット映像等→必ず白人の容姿
   未来予言書著者→白人(偽ユダ)執筆
   太古の秘密もどき発見の書の著者→白人(偽ユダ)執筆
   権威のあると思わせる理論や説→主に偽ユダ執筆
   才能があると思わせる芸術芸能活動→主に偽ユダ
   発見、新しい…などオリジナリティを強調する技術→主に偽ユダ
   アフリカやアジア各諸島などの美しい自然のを破壊しながら、
   豪奢な宿泊建築やリゾート地を作り、有色人種の労力をフルに利用し、
   カネを稼ぐだけが目的なのに、自然保護とか遺産とかで
   マスコミや広告を使い喧伝する→偽ユダ
などなど他にも多数。

欧州系人が優秀というよりマスメディアを支配しているから、
(偽ユダ)が執筆や製作などのやっていることが、
主流になるだけである。これらすべてがプロパガンダだと思っている。
優遇(差別)されていることに
安住や満喫できること自体、彼らが鈍感なのではないか。
各民族の心の痛みを分かったつもりのふりはしていても、
未だ分らないから、優遇される社会で闊歩できてしまう。


中世以降、インディアンをアメリカから迫害・排除しておきながら、ご丁寧に、
インディアンを擁護するさも天使のごとく発言の書籍も白人(偽ユダ)。
間接的には、それ隠蔽だろ?!…と。


昨今の日本に限らず、世界中で外国人の出入りが急増している。
日本人なりに、外国人に対して親切にすること同時に、
日本の事情による社会規範を乱す行動の外国人、
他国から日本に来て、この国の住人を軽視する外国人には、
人種等関係なく、公平に注意をすることも時に、必要あろう。
あるいは、さっさと帰国し自国・祖国を尊び大切になさいませ、と。


自国の常識を他国に持ち込むこと、押し付けることが当たり前の偽ユダ・欧州系白人。
それを自由だとのたまう。
他の民族が同じ事をすれば即、悪者として徹底弾糾するマスゴミプロパガンダ。


他国の常識に合わせる心がけ、努力、気遣いをしている
アジア、アフリカ…諸々地域の人。

どちらが人として
まともだろうか…。

 

 

 

スーパー小袋から……。

 

 

先日、たまたま巨大某ショッピングモールの食品売り場で
少々買い物をし支払いを終え、レジ横の台で鞄に品物を入れている隣に、
ひと回り位年上の女性が来て、買った食品を買物袋に詰め始めるやいなや、
明らかに購入量よりも多いだろう、台の据付ビニル小袋を
トイレットペーパーよろしく、ぐるぐるぐる〜っと引っ張っておられ、
ご自分の買物袋に仕舞われた。
時々、お見かけするそうした行動タイプの方であった。

お節介承知でひとこと苦言を呈すべきか、
いや、年上の方に失礼だ。
そう、生活もお互いに大変な時代だ。
こういった行動に至る何かご事情が、あるやも知れぬ。
せめて、その小袋が役立つ使い方になることを心で願うか、と。

ともかく、どうでも良いような些細なことである。


レジ横のその場をつつがなく立ち去ろうとした時、
おばさん気質の例に漏れないワタシは、
お姿をつい見してしまって、その女性が
Vトンのバックをお持ちでいらっしゃったのが、
印象的であった。

 

街では、欧州系車や国産高級車にお乗りになっている
運転手の方は概ね、運転が乱暴な気がする。あるいは、
明らかに道路事情を混乱させるような場所に、まま
お車をお止めになる。

更に疑問なのは、お巡りさんが、

高級なお車らに対して駐車禁止やスピード違反だ、として

対応しているのを見た事がない。

変だよなぁ…、と。

 

前回記したことで、他者、対象を咎めては己の心が不自由に
なってしまう…。同じ穴の狢に…、と分かってはいるものの…。

色眼鏡で、恐縮ではあるが…、
なぜか、符合するのは、高価な物品をご使用の方の多くは、
公共の場や、他者の物や空間と、私物の垣根が低いのか、と。


あ、税金を一杯お支払いになっているからか…なぁ。

 

率直に言えば、公私混同か、わりと道徳感に疎い方が多い印象を受ける。
もう少し踏み込んで言えば、虚栄心や自己顕示欲を

くすぐる高級な物や事柄などを嗜好される方は、他者や対象への思いやり、

配慮はさておきの、タイプなのではないかな、と。

 

お上品に、上等に、格好よく、綺麗に、お洒落に、

見せようとする行為、あるいは努力と、

品性は逆だなぁ、と常々思う。

 


子どもの頃から変わらず、ワタシはそう感じている。

いや、おばさんになったワタシの嫉妬かぃ?!とも考えた。

が、前述した事例と照合すると…、さもありなん。

 

 

話は飛ぶが、欧州文化では「競馬場」が、かなりのお洒落をして
繰り出す貴族の社交場であるのだとか。

 

日本を思えば、競馬場を始め、パチンコ、競輪競艇…、
あらゆる賭博場に於いて、決して清々しくはない、
どちらかと言えば荒んだ感じをあるいは、

胡散臭さや虚飾の雰囲気を感じる人も少なからずいるだろう。

 


色眼鏡で恐縮ではあるが…、
これを民度の違いと思うのは、当方だけだろうか?!

 

はっきり言ってしまおう。


日本人はその昔、素朴でまともだったから、
賭博場などカネが多く動く場、欲得がうごめく場所が、
荒んだ空気になるのは、当然のことで、自然の成り行き、と思うのである。

 

清貧とは逆の、西洋文化の影響と思える、

金銭物質礼賛(物質崇拝で、心がお留守気味)である事を
現代日本に於いて、それを証してしまっているのではないか…と。


つまり競馬場が社交場っていうのは、かなり欲得勝負に免疫がある人間というか、
損得勘定金銭欲が満たされることを存分に楽しめるのは…、
その〝スジの集団〟に類似しているな、と。

 

毎度、しつこく書く内容だけれども。
明治以降、どんなに欧州からの刺激や影響を受け、
技術が精鋭、発達しようが、目的が利己利益の勝負、競争、
虚栄・虚勢、虚飾の「欧州発」のマフィアヤクザの文化文明に、
当方は明るい未来を感じない、もう限界だと思ってしまう。

 

(他民族の生活を全て破壊し強奪強姦し、奴隷の力で生活を維持してきたことを

 我が富とする盗賊団の末裔が、

 欧州貴族・金融家シェルバーンサボイタクシスモルガンメロンロスチャイルドロックフェラ-盗賊団)

 現代日本人を始めほとんどの人間が、その輩に憧憬を抱く、キチガイゴイム(汚染脳家畜)。

 富=金&物質という価値観を刷り込まれているがゆえに。。。

 

 

 

約260年、国家破壊や奴隷商売のイエズス会を封じるため、

鎖国政策を続けた江戸期。

 

幕末迄の日本人は、身分に関係なく
季節ごとに美しい自然の風景を楽しむ行楽や句会を、
人生の中で大いに楽しんでいたという。
ほどほどに働いて、趣味や遊ぶ時間を充分持っていたそうだ。
個性的なお洒落、美意識があった。植物動物をいとおしんで暮らしていた。
鎖国ゆえに質素でも、知恵を使った暮らしぶりは、
豊かで美しかったことが窺える。
金銭物質礼賛が育たない環境だったという言い方もできるだろうか。

江戸時代半ばから幕末にかけて、藩政によって差はあったものの、
お米の生産は充分でむしろ余剰しており、食糧に困ってもいない、
皆、幸福感に満ちた表情で、丸々とした姿だったという。

一揆が一番多かったのも実は、西洋礼賛・軍事国家へと
変貌した明治以降だと聞いた。
その頃はもう暴動と呼ぶのだろうか…。

江戸時代を貧しかった、とほとんどの人間が思い込んでいるのは、
明治期の実態と江戸時代の事実を映画やドラマ等の映像や文章でイメージを
マスごみや偽教育が、意図的にすり替えてきたからだろう。

そして、かつての日本は人が近づいても野鳥も逃げない、
鳥たちの楽園だった、と「逝きし世の面影」(渡辺京二氏著)に
綴られていたのは、特に心に残っている。

幕末までの日本人は、知恵深く優しく、
賢かったことを改めて思う。

俯瞰して大雑把に言えば、西洋からの支配の影響を受けるまでは、
東洋をはじめ南北アメリカ大陸、オセアニア、アフリカ等々…欧州以外の

地域の人々は、自然に、生物に、地球に、…畏れを持ち敬い、

慎ましやかだったのだ。そして「中庸」思想があった。

それは生物として自然な感性としてだと思う。

 

余談だが、20年程前に、レイチェルカーソン著書を読んだ時、

当たり前のことが書いてあるだけで、

なぜそんなに有り難がって、名著だ、ベストセラーだ、と騒ぐのか?

日本人の私にとっては不可解だった。


昨今、西洋の進歩発展の価値観、優秀・勝者を果てしなく目指す、
高く、速く、多く、強く、大きく…という完璧主義が、

東洋にそして日本に、重苦しく充満してしまった。

中世以降、欧州勢はそれ以外のすべての大陸、多数の諸島、
アジア、もちろん日本も、奴隷と略奪の被害で悲惨な社会にしていった、
そのスジの集団より、もっと強烈な歴史を持つ欧州勢力の爪痕を
マスゴミ・偽教育で西洋礼賛汚染脳によって、
何食わぬ顔でかき消そうとしている。
むしろ、尊敬や憧憬を強要されている気さえする。私は身震いがする。


特に戦後から現代社会にかけて、過去歴史の事実・実態を
こっそり忘却させんばかりの必死のマスゴミ活動が見て取れる。
このようなことを書くこと自体がヒンシュクという風潮をも
巧みに作っている。
おぞまし過ぎる歴史を彼らは、さっさと封印したいのだろう。
なぜか、幼い頃から私は西洋文化や現代文明に
疑問や違和感が尽きなかった。
30代になって、欧州勢やイエズス会、国際金融家集団の正体を知り、
中世には何十万人もの日本人も、奴隷として世界中に売られていったことを知り得て、
江戸時代が鎖国に至ったのは、重大な経緯があったからか、と合点し、
多くの疑問や違和感が氷解した。

隠れ切支丹や宗教についての解釈も180度変わった。

今、西洋への憧憬や欧州の有名人を世界中で丁重に敬うような
盛んなプロパガンダの理由は、むしろ判りやすく滑稽に映る。

 

それにしても、最近のケイタイ電話のCM広告やその他広告、

昔の日本を描いたつもりの映像、画像は、
下品で暴力的でひど過ぎる。日本人を貶めたい悪意さえ感じる。
食や医に関して昔の日本が西洋からよき影響を受けたような
人気女優を起用した汚染脳用ドラマには呆れてしまう。

 

幕末迄の菜食が主で慎ましく美しく暮らした日本人から変わり果て、
まったく逆の肉食偽食加工食砂糖菓子浸けになった大多数の現代日本人は、
真偽を見極める眼力や感性は、すっかり劣化してしまった模様…。

 


暗いことばかりに目を向けていては気が滅入る。
浅ましく卑しいことを目にする事もあれば、
時には清々しいこともあるものだ。

2年程前のこと。町内の廃品回収に参加している時、
八十歳後半の女性が衣類の古布を丁寧に紐状にして
古紙をきちんと束ね、微笑みながら「お願いします」と
美しい状態で出された姿が忘れられない。
その方の使い終わった物への感謝の念を
感じずにはいられなかった。贅沢な住まいの方ではなかった。
品性はこうした方から漂い、敬う気持ちが
こちらも自然と湧いて、記憶に残っている。

 

 

それでも、「自分の欲望に正直なこと」も悪い事ではない、としよう。

できるだけ菜食をと気を付けているはずの自分が、半年程前に、
家人に誘われ入ったラーメン店で、ニンニクご自由にどうぞ、
というトッピングを二人で調子に乗ってたっぷり投入し、
ご機嫌で食べ終わり店を出る際、
店主はワレワレに「ありがとうございました。」と
言わなかった…、、、だののあまりにショボイこと(当たり前か…。)まで、
覚えている。(苦笑)
人間誰しも、浅ましく卑しく図々しい行動をして、
他人様の気分を損ねたり軽蔑されることはあるもんだ。あはは^^;。
ビニル小袋より、むしろ質がワルいわな…、と反省しつつ。


現代社会はそういう狂乱時代のサバイバルが
課題なのかいな…ぁ???
納得できなくとも。

 

 

広告まみれ喧伝だらけの現代日本
まあ、できるだけ虚飾、虚栄に吊られ汚染脳された「偽の欲望」に流されず、
少しでも昔の事実を知って、真実を学び、凡人なりに
本当の「欲」とは何かを問い続けることにしよう。
それもきっと中庸だ。

日常の些細な出来事から、大層なことを思った次第。

 

 

 

不安を選ぶ、という話のつづき

つづきというか、補足。

 

ついでに理屈を書くと、方向性を持って生きると目的意識や念が強くなるから、
今、流行言葉のいわゆる、引き寄せの法則というものが起きるだろう。
更に言えば、意識の世界で単位が変更されるというか(mmからcmそしてm…)、
例えば、些細なこともひとつひとつ感謝することを心がけるエネルギーが、
やがて塊になって、もっと大きな感謝や感動になる塊に出会うという感覚だろうか。
景色が段々、ダイナミックに変わっていくというか。

 

こんなふうに意識が変化するときは、塊になって大きな感謝や感動に…と

綴ったけれども、意識そのものは微細になって、

気付きは逆に、細やかになっていくように思う。

波動が高いという言葉を耳にするが、その状態は

意識が繊細になり密度が高くなる、

質が上がる感じ、と言えばいいだろうか…。

 

 

大きな循環の始まりも、小さな今できることから、気付いたことから、
ひとつずつ、身近なことから、お互い様の気持ち…から、と思うのだ。

・・・・・・・・

別段、大目標でなくていいのである。

 

と、書いたものの究極的な大々目標も少し頭の片隅にあると、

バランスが取れるのだろうな、と思う。

生物は利己には違いない。現代人はもちろん私も、

そんな大々目標に対し逆走しているのだが…。それでも、

少々クサイし宗教チックであるが、

「地球・自然への感謝や恩返し」「皆が喜ぶこと・生物が喜ぶこと」

「世のため人のため」「真実の平和」とか、漠然とでいい、

誰の中にも眠っている大きな意識、宇宙意識みたいなもの…、

無私の願いをちょこっとだけ(ほんの少しで充分)意識化して、

持ち続けると、心の軌道修正をしやすいように思う。

例えば、 己の中にある陰の部分、卑しさ浅ましさを

無私の願いに照らし合わせるようになるから、

客観的に観る事ができるようになる。

それは内的な循環の始まり。

 

昨今、スピリチュアルなどで流行の「(自分の)願望を叶える・成功者になる」

とかの風潮において、心の努力が偽善的になっている状態、

その執着からも解き放たれ、気楽にもなろう。

汚染脳用の成功論に翻弄されることも無くなるだろう、と思う。

 

究極的大目標を心に置くと正邪の見極める眼力、

己の中に真実が観えてくるのではないだろうか、と。

それが私の伝えたい「脱汚染脳」。

 

そして他者に悲喜こもごもの心模様を見い出した時、

客観的に己の陰の部分をも見ているから、

責めたり咎めたりする心が治まっていく気もする。

邪の現象を理性的に通り抜けられる。

 

(咎め心は自分の潜在意識に制限が増えてしまうから

精神が不自由になる・が、当方やってしまっているなぁ…。

大仰なことを綴っているが、自分のこととなると、反省。)

 

 

 「日常の小さな心がけや姿勢と究極的な大目標」と言いつつ、結局は

意識の「あそび」がこの世の顕われであることなのだ…と。

(生物はみな気まぐれ、気ままさが調和を生み出しているのが

自然の本質だ、と当方は考えている。)

 それはともかく。。。

 

 

年配者が「誰か、何かのお役に立ちたい」とか、

「孫が可愛くて」という言葉を聞くと、

苦労を乗り越え、我執に気付き、それを自身で許し、

楽しくあろう、と生きてこられたから、

こうした思いが湧き上がるのだろう。

この気持ちこそ、心のご褒美だなぁ、と感じる。

 

体験あってこそ。

便利で快適、肉体的苦労を伴わない現代社会。

 命、心、知恵、気力、肉体をしっかり使わないと

実感、本物の感動や感謝、人情や献身も始まらない。

それ以前の、茫洋とした意識、虚の世界で

多くの人間がさまよい、もがき、苦しんでいる昨今。

 

TVや映画、ケイタイやら…、メディアの中の感動は

生(なま)の感動・体験ではないことを自覚した方がよさそうだ。

 

不安を選ぶというのは、実体を体験することでもある。

 

 

 

 

 

 

 

不安を選ぶ、という話

 
 
先日、家人より興味深いことを教えてもらった。
テレフォン人生相談のパーソナリティである
加藤諦三氏が「不安を選択する人と、不満を選択する人がいるが、
多くの人は不満を選んでいる」と度々語ると。
つまり、挑戦や創造には正のエネルギーが必要である。
それに伴って「不安」も付きまとう。
後者は現状維持を選択することで安定安住する。すると、
負のエネルギー「不満」が増える、という意味だろう。

バケツの水は腐ると言ったところか。

不満を選ぶ人を「ピーチクパーチク組」と、私は命名することにした。
ついでに不安を選ぶ人を「サクサク組」(仮称)とでも呼んでおこう。
大半の人間はピーチクパーチク組である。
この対の言葉で、自分の生き方に反省を込めて、
ずっとその境目を行ったり来たりして、混乱していたのだ、と合点した。
確かに、目標を持って生きている時期は、ピーチクパーチク組の
人間が離れて行く。サクサク組に入り始めると、
それの合図のようにシンクロニシティがよく起きるようになる。

怠惰さが生活に忍び込んでくると、感動や思わす感謝したくなる出来事は減り、
自分の不満が募るからか、人間関係や煩雑な悩みに振り回される気がする。
また、不意の難題も増えるのである。
あるいは、サクサク組から外れてくると、ピーチクパーチク組の問題より、
難題になっている場合があるようにも思う。

「不安」と「不満」の象徴的な言葉のお陰で、
「生き方に方向付けする、自己実現、目標を持って生きる」を
することで、関わるご縁、見える景色が違っていたことに、
今更ながらこの歳で気付き、少し考えの整理がついた。

ついでに理屈を書くと、方向性を持って生きると目的意識や念が強くなるから、
今、流行言葉のいわゆる、引き寄せの法則というものが起きるだろう。
更に言えば、意識の世界で単位が変更されるというか(mmからcmそしてm…みたいな)、
例えば、些細なこともひとつひとつ感謝することを心がけるエネルギーが、
やがて塊になって、もっと大きな感謝や感動になる塊に出会うという感覚だろうか。
景色が段々、ダイナミックに変わっていくというか。

「ピーチクパーチク組」にいると、些細なことに感謝と不満が、
混ぜこぜの暮らしになるから、なかなか塊ができないのである。
だから、出来事や感謝の単位はいつまでたっても小粒である。
すべて感謝の心境なら、サクサク組とかピーチクパーチク組とか
関係なくなるのだろうけれど。
そこまでに至る生き方はこの世ではなかなか難しい。
宗教的に言えば、悟りを拓くと言われるものだろうか。

ひとつ肝心なことは、目的意識の質である。
有名になりたい、偉人なりたい、金持ちになりたい、資格を取りたい、
何賞を穫りたい、何とか大学に入りたい、何とか会社に入りたい、
という表面的、形骸的な目標は、
単に振り子現象、プラスとマイナスの行ったり来たりの、
2次元に陥るだけである。しかも競争があるから、
どこまでも肩に力を入れて生きなくてはならない。
努力も大変なものになるだろう。己の一方通行の願望だから。

そして、利己的大目標達成の果ては、マイナスである環境破壊や社会問題に、
繋がっている職業、大企業陣、政治家…、汚染脳教育・研究者…な訳である。
ご褒美を目指す「努力と達成」の構図は、先述した振り子現象で
つまりギブアンドテイク(2次元)意識で、
外部からの刺激(主にマスゴミ&教育プロパガンダ)で、
競争(明治政府による造語)の摩擦エネルギーにより、
三角形が形成され、ヒエラルキー・ピラミッド型社会に帰結する。
支配側の思惑で頂点は幾らでも高くできる。
そして社会や自然環境が疲弊、破壊へとひた走る。
現代社会はもうその終着点が目に見えている。

ちなみに、冷淡な言い方をすれば、
ピーチクパーチク組はピラミッド型社会の
底辺を不本意に?!支えているのである。


充実した目標とは、存外に素朴なもので他者対象を喜ばせて、
自分もそれを楽しみたい。面白そうだから…。
そんな温かい想い、好奇心の始まりがたぶん、正解だ。
様々な「循環」が始まるから。

大きな循環の始まりも、小さな今できることから、気付いたことから、
ひとつずつ、身近なことから、お互い様の気持ち…から、と思うのだ。

「不安を選ぶ」という主題から逸れたようだが、
日常によく見れば、不安だが、ちょっと目的意識、勇気を持って
行動すれば、何かが動き出す。観察、洞察も忘れず。

そこでもうひとつだけ書いておこう。
誰しも感動や感謝が可能な世界観は、
私たちほとんどの人間に知識の範疇にない、
むしろ蔑視されている、不可能と思っている…、
「狩猟採集」の暮らしであることを家人は熱心に語る。

それについて私もある程度、共感している。
まだ知らないことが多いから、すべてを肯定できる術はないし、
私は臨機応変、折衷案がいいと思うから、良いとこ取りがいいんじゃないか、と。


ともかく、簡単に言ってしまえば、目標を持って生きる必要性は、
誰しも子どもの頃から大人の言葉の刷り込みで、分かっていることである。
別段、大目標でなくていいのである。



さて、自身のこと。
呑気にしている近頃は、
ピーチク〜組は、面倒臭いと改めて分かった。
かと言って、サクサク組の凌ぎを削る競争も疲れるから、
日常のちょっと不安でも、よし!と
思えることから手をつけようかな、と。
その実、ピーチク〜組が真実の循環を作る要だ、と思うから、
やはり日々の暮らしの心がけ、姿勢は大切だ。

『うつくしく、やさしく、おろかなり ……              私の惚れた「江戸」杉浦日向子』

2015/10/07 の当方他ブログより転載

『うつくしく、やさしく、おろかなり ……私の惚れた「江戸」杉浦日向子ちくま文庫

杉浦日向子

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江戸の色(47〜49頁より抜粋)

江戸で『色』というと、色彩以外を指すことが多い。
洒落本、滑稽本などの、大衆小説では、情人を『色』と呼ぶ。
好色、色欲、色事、色気、色町、すべて、男女の関係に通じる。
色、恋、愛。
この中で、愛が最も尊い気がするのは、明治以降、神仏の慈悲心を
「愛」と訳してから。江戸のころは、愛とは、「物」に対する執着を云い、
「壷を愛する」「人形を愛する」など、所有者側の物への、一方的な
束縛を示していた。単なる、強引強欲だ。
 恋には、純真なイメージがあるが、これも青春の流行歌が全国的に普及してから。
江戸では、「恋の闇」と云い、盲目的に想いを遂げたくて突進すること。
八百屋お七が恋の見本だ。恋は、思春期の麻疹のようなもので、
動物のサカリと同様の、生殖衝動だ。
残る、色。今では、恋愛よりも格下の、遊びに近い分野に入れられて、
昼の話題ではないとされている。
が、江戸では、前二者よりも上級だった。愛や恋は力ずくや勢いで獲得できるが、
色には駆け引きが必要だ。巧妙な心理戦であり、一筋縄ではいかない。
 ランク付すれば、愛は、他人に横取りされるぐらいなら、壊してしまうタイプで、
男女間に置き換えれば、最低。恋は、発展途上。生殖が完了すると
急速に冷めてしまうので要注意。
色は、人情の機微を知ってこそ楽しめる、卒業のない生涯学習といえる。
「色はその日の出来心」。色にはマニュアルは存在しない。

臨機応変、不特定多数、互いに充実した時を過ごすためには、

目の前の相手を敬い、赦す、心のゆとりがなくてはならない。
色には、愛の束縛願望も、恋の生殖達成もない。

愛や恋は、会えない時にも相手を常に想っているが、
色は会えない時は電源をオフにして、とりあえず自分の時間を優先する。
二十四時間、相手とケータイで繋がっていなくては不安なうちは、

とうてい無理な課題。
「色っぽい」は、江戸では最高の誉め言葉だ。「オイロケ」だと

フェロモンむんむんの軽薄な感じだが、本来の「色気」には、

容貌だけではない、言動などの内面的な魅力が不可欠だからだ。
色気のない人生は、モノクロの世界だ。出会いと別れを重ねるにつれ、

若いころ、接写だった視野が、だんだん広角になり、

画素も増えて鮮明になり、隅々まで色や輪郭がはっきりしてくる。
いろいろ、難しいけれど、どうせなら色っぽく生きよう。
(「プリズム」2003年10月号・記事)

 

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ここから当方の感想と屁理屈を。^^

笑いを分析すると興ざめするのと同じく、
「色」の概念とかの、知ったかぶりを述べたら、
色気などまるでないのは承知の上…。(苦笑)

 

現代社会で「愛」という言葉を否定する者は、
ちょっとオツムがどうかしている、と思われるだろう。
が、頑固者の私は譲らない。

以前にも『逝きし世の面影』「第八章 性と裸体」で書いたのだが、
「愛」という言葉の概念が、長い間どうも私は気に入らなかった。
第八章の感想には「愛」より、日本人は「情」ではないか、と綴ったのだが、
つまりは「情け」と表現していた慈悲心が「愛」という言葉にすり替わった
現代人の蒙昧。

明治以降は日本人の宗教観を刷新させるべく、キリスト教思想の台頭を目指し、
「色」の概念は不貞の象徴のように、降格、抹消された。
代わりに、「愛」を文学、芸術、宗教、教育で高尚なものへとイメージを
作り替え、日々の精神活動を表現する言葉が、がらりと変えられたことを
杉浦氏の説明で納得する。

慈悲心としての意味でこの約150年間、「愛」がごく当たり前のように
キリスト教の宗教観から、一般の道徳観に至るまで、流布し続けている。
現代の「愛」に投影されるのは、「情」のようなお互い様ではなく、
一神教的な、絶対的な、崇高過ぎる、
ありもしない偶像・虚像が想定されている印象を受ける。
ヒロイズム、自己顕示欲の臭いが、私はする。

余談(好きな言葉であるが、日本には「詠み人知らず」という言葉がある。
それに引きかえ、欧州米の彼らは、偉人、著名、有名への執念を感じる。
あるいは大衆に、畏怖や敬意を「強要」しているようにも受け取れる…のは

私だけだろうか…。

ヒロイズム、英雄視が大好きなのは、日本人の私からすると、
どうも出しゃばり感、偽ユダの自意識過剰を感じてしまう。)

一方で「愛」という言葉は、
日本人の流行歌のみならず世界中の歌謡で、
恋愛の昇華されたものも、「愛」として表現されるが、
どう聞いても執着心、利己心をごまかし、
きれい事にしたのが歌詞や文学芸術その他諸々でないか、と。
その食い違いが、未だ私は気に入らないのだ。

日本人にもともとある「情」「慈悲」と
「愛」の違いを物心着いた頃から漠然とは感じていた。
「愛」という言葉がいつまでたってもどこかバタ臭く、
クッサイ感じ、違和感があったのは、
もろもろの理由が潜んでいたから、と思うのである。
日本人としてその違いをはっきりと認識し言語化している人もいるだろうか。

現代日本人が解釈している「愛」という言葉は、
一貫性に乏しい言葉だったのか、と。

歌詞を筆頭に芸術全般が、キリスト教的借り物の
「本来は情と言われていた慈悲心を訳した、輸入の言葉=愛(LOVE)」のせいで、
もともとあった日本の「情」、「色」、「愛」「恋」(所有欲、執着心、サカリ)が、
ごちゃごちゃになってしまい、曖昧さのせいで、
人間心理の言語化が誤りを起こし、
社会問題の根になっていると言えないだろうか。

日本人にとって「愛や恋」の稚拙な精神活動が、
やがて磨かれたその先にあるものが「色」だったのか、と。
人生経験の厚み、達観した心境を表現し、成熟した精神活動と言える。
江戸時代の「色」の概念を知ると、
主に文化芸術の「愛=LOVE」をテーマにしたものは、
明治以降、陳腐になったのかもしれない。

正直なところ、昨今のドラマ、欧米映画や小説、
現代日本も同様であるが、「愛=LOVE」を主題にしたものが
軽薄でストーリー性が弱く、イメージの世界は記号化され、
想像力を見いだせない。
一神教的な絶対感から導かれるヒロイズムに、
違和感や胡散臭さを感じる。説明的で感情の描写もワンパターンで安っぽく…。
まぁ分かりやすいと言えば分かりやすいが……、飽きる。
加えて、ほとんどのドラマ、映画や小説等(偽文化・プロパガンダ目的)、
もう10年位遮断していると、いっそう汚染脳用であることが判る。

「愛=LOVE」という現代人が持つ一貫性のない概念によって、
感情、思考が混乱し、明確化・言語化できず、個の意識の脆弱さの

弱点を突き依存心を利用し、
一神教絶対神の枠の中で、巧みに制御されるよう仕組まれている…、と

言えないだろうか。
(ややこしぃなぁ…笑)


元来、日本にあった、人にとって精神の自由に至る独特な思想
「色のような概念」を一世紀半の間、封印させていると言えないか。
「色」が社会認識として復活すれば、
輸入の「愛=LOVE」が単純で稚拙なことが見えてくるのかもしれない。
精神的な自由さが、社会に発生するとも考えられる。

単純さ軽薄さも時に必要であるが、それだけで精神活動は収まらない。
長い歴史の中で昔の日本人が育んだ微細な感性を
ユダキリ欧州人の影響で明治期に、卑近なものとして、
いとも簡単に切り捨ててしまった。

もし現代日本人全体が、鎖国の延長のようにして平和社会が続き、
成熟し「色」の概念も精鋭され現代に至ったなら、
西洋文明に対して、短絡的な印象、評価を持ったのではないか。

昨今、世界中の西洋礼賛の風潮がいっこうに止まないのは、
つまり、汚染脳、劣化脳が完了してしまった、ということだろう。
残念ながらマスゴミ、狂育、企(鬼)業の所産である。
古典文学にあまり触れられないような教育が為された明治以降だが、
「色」と「愛」の違いが感じ取れないと、
様々な日本の古典作品の本質も捉えられないだろう。私もそのひとり。
現代日本人が昔の作品を読めない、理解できないから、いっそう、
日本の歴史を軽んじてしまう負の連鎖は続いている。


杉浦氏の説明によると、「恋」は生物的な性衝動で、
「愛」は欲望で、慈悲心とは別物と。
「色」は精神活動として上質のものと伝える。
仏教から影響を受け、日本人なりに編み出し成熟していった「色」。

また、「色」というのは、西洋文明、キリスト教が語る
「愛=慈悲」と「愛=男女の恋愛」の
意味の倒錯、あるいは誤謬を整理してくれる要の言葉とも言えるだろう。

倭人からの自然種の流れを残し、自然と調和して暮らす知恵のあった日本人は、
的確に微妙な感情、情趣を表現することもできた民族だったと思うのである。
明治以降、政府の暴走で借り物の西洋文明の怒濤に飲み込まれ、
大切な叙情性を見失ってしまった私たち現代日本人。

彼らユダキリ(偽ユダ・かつユダキリ教洗脳甚だしい輩)が

人工種であろうことを見下したいのではないが、
感情が、実は「若い」のではないか、と思える。
その人工種系の人間にとって、幕末の日本に在った「色」は、
特に、チンプンカンプン、ワケわかんな〜ぃ!?
だったのじゃないか。

優生思想を是が非でも突き進めたい彼らが、
理解できない概念は抹消、あるいは低俗と
処理させ、無視してしまったのだろう。

優生であろうとする感覚が、
既に劣生な精神の発想じゃなかろうか?!と。
彼らの卑近さを露呈しちゃってるょ…。
トホホ。

 

ともかく当時、単純な精神から、複雑な精神活動を理解することは
困難が故、致し方無かったのだろう、と私は解釈している。

キリスト教の慈悲心を解釈した「愛」は、
やはり、日本では「人情」だ。
それで充分だと思う。

実際のところ、現代社会では「愛」の言葉がばらまかれた結果、
杉浦氏の言う「愛」=「強引強欲」が具現化しているではないか。

昨今、ピラミッド型社会の頂点(偽ユダ世界支配)が
更に高くなっていると感じられるのも、汚染脳の「愛」に潜むヒロイズムが、
マスゴミ等の影響で一般人もその加勢をし続けていると言える。


いかんせん、慈悲心=愛=LOVEと訳した時代の過ちが、
現代に絶大な悪影響を与えていると思ってしまう。
皮肉にも、五十音順の「あいうえお」は
「あい」が始まりだから、妙に受け入れやすい語感。
だが、五十音順の成立は漢字を使うようになってから。

詳しく知らないが、漢字が使われる前からの、
この地の言葉は今の日本人にとっても、
言霊の威力があるように私は思う。
言霊、音の力があるのは大和言葉ではないかな、と。

「アイ」とは大和言葉では、「かわいい」という意。
「かわいい」という言葉は対象に、幼さ弱さを見い出した時に使う。
上下関係が発生する言葉。

現代日本人が「愛」という時、今尚、
言霊には「かわいい」が含まれている気がする。

(冗談だが…、LOVEを逆にして
EVOLを読むと、「えばる、いばる」って読めなくもないのはナニ…?!?)


話は飛ぶが、マザーテレサ氏は「愛」(慈悲)の象徴のように
語られ続けている。だが、先日たまたま目にした記事で、
氏は、聖人として生きていたにも関わらず、
心の闇に常日頃、苦しんでいたという。

大したこともできない私に言及する資格はまったくないが…。
敢えて言うと、人間が聖人、善人、選民であろうとする時、
愚人、悪人、賤民を作る、増やす。

上の立場であろうとする程に、下の立場も発生、増大する。
マザーテレサがもし「人情」という感覚に気付いたなら、
少しは、気が晴れたかもしれない。

すべての存在は、善悪や上下ではなく、相対的に存在する…と。
お互い様の心、人情があれば、皆の心が中立で自由自在に生きられる。

「色」…。
愛ではない、より精神の自由に繋がる大切な言葉だった「色」。
概念を取り戻すこと、定位置に戻すことを
夢想する。

 

 

 

 

 

ちょっとした母性の、心の機微から気付いたこと。

 

今日、ふと自分の心の機微で気が付いたことがあったので

忘れないよう書き留めておこう。

 (メモ:飼い猫の母性愛発揮ぶりを見て、当方事情と重ね思ったこと。

居ないなら居ないなりに…楽しむコツ)

 

 

***

 豊かさをとは何か。

 

それは自分にとって負の事柄、受け入れ難い様々なことを

受け容れられるよう、認められるように、

負を生活の中で創意工夫、あるいは心の努力をして、

楽しめるようになることが、

「心の豊かさ」になっていくのだなぁと思った。

 

決して、自分に都合の良いこと、望むもの、好きなもの、気に入る何かを

努力し寄せ集め、手に入れたとしても、心が豊かになることはない。

ただ欲求を満たすだけだ。

それはまたいずれ飽きるだけである。

 

 「負」の事柄について創意工夫の努力をすることで、

「心の豊かさ」、満足感、充足感が生まれ、自身の財産になり、自信になり

壊れることも、奪われることもないのである。

優越感、劣等感、競争心、妬み、嫉妬や焦燥感はなくなる。

 

 

 “こんなふうだったからあんなふうにはなりたくない。”

“あんなふうにはなりたくないからこうしよう。”

“こんな自分はいやだからあんな人間になりたい。”

というムダな葛藤は消えていくのである。

 

つまり感情の振り子現象、(感情運動の同じ繰返し)は

無くなるから、心が自在になっていく。

 

それは、心が安定し穏やかになり、中庸の心、

揺るぎない理性、客観性、公平の視点が生まれる「種」になるのである。

 

それが「豊かさ」の始まり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信号待ちにて。

 

 

交差点でのこと。
おじいちゃん、おばあちゃん、娘さん、孫さん
揃って信号待ちをしていた。

猛暑の中、お孫さんは汗だくのようで、おばあちゃんが
孫の顔をぐりぐりという感じで何度も顔から首、Tシャツの襟もとの
汗を拭っていた。その拭ったタオルは
ご自分のものらしく自身の顔の汗もついでに拭いていた。

おじいちゃんと娘さん(孫のお母さん)は
各々の団扇で自分を仰いでいる。

おばあちゃんは孫の汗を拭き取り、自分も汗を拭いた後、
次は団扇でお孫さんを仰いでいる。

孫は有難うを言うでもなく悠然としている。


この光景を後ろから見ていた私は、不覚にも
泣きそうになってしまった。
ああ、「日本のおばあちゃんだ」と。
そこかしこ人の目構わず、孫のことを一番に気にかけ、
懸命に世話をする。自分のことはさて置き、
子供が少しでも居心地が良いように、面倒を見る。
それはごく自然な感じで、
本当の母性の姿を久しぶりに見た気がした。


昨今、「おしゃれ」とか、「見栄え」とか、「かっこ良さ」を
気にして、自分も子供も見栄えが最重要項のお母さんには
あの、無心のたっぷりとした愛情、慈しむ仕草はできまい。

それは平和ゆえの余裕なのだろうか…。
マスコミや学校教育の悪影響もあってのことだろう。如何せん、
現代の親たちは育てるのに最も肝心なことを喪失している気がする。


幕末までの日本の大人たちは、子供を深く慈しんでいたという。
その名残がある明治大正昭和初期までの「日本の母」のような
そのおばあちゃんの何気ない仕草に、胸を打たれた。


明治大正昭和初期。

明治以降、軍国政治の乱世で日本人皆が食うや食わず、
見てくれなどそっちのけで、「生きる」ことに
一生懸命だった時代。
土を鍬で耕し、モッコを担ぎ、リヤカーを引き、風呂敷を背負い、

大きな背負子で商い、若い母たちは子供をおぶっていた光景。


私の生きてきた時代にはもうセピア色になりかけた情景だけれども、

時に目にしたり、その時代の写真や映像、

あるいは祖父母たちの話には、命がけの生活があった。
日本人が命ある限り、真剣に生き延びようとした、

人々の熱い魂を感じる。

そこに「美」があり感動があった、と私は思う。


だが決して、軍国、戦争の乱世だから人間が真剣に生きたという意味ではない。
あくまでも、幕末までの日本人の「真心」や

「人の良さ・情深さ」「品性・気高さ」が、残されていたから、

「美」「熱き魂」が受け継がれたのだ。

 

残念ながらマスゴミで劣化した現代日本人にはもう、

この先の乱世に、真心、気高さ、美や熱き魂が湧き上がる事はないだろう。

見てくれ、見栄え、かっこ良さ、表層を気にして生きることの虚しさ。
損得勘定、虚栄心の種を日本人はいつから己の心に蒔き出したのだろうか。



偏見と言われることを承知で書くが、
西洋社会、白人社会の虚栄心、自己顕示欲(ヒロイズム)の根深さが、
現代社会の大きな問題の根本原因の一つであることを
指摘しておきたい。
そう感じている人が多少でも居れば偏見では無くなるだろうか。


国際金融家所有のマスコミ全般。
TV、TVのCM、新聞、雑誌…そこで伝えんとすることをよく観察するがいい。
常に、「見られること、見せること、好かれること、

得をすること、勝つこと、もてること、ちやほやされること」…

つまりは優越感を触発させ、卑しき心に傾くプロパガンダに溢れている。

日本人が、西洋礼賛によって命を「生きる」本質から乖離し、
「見せる」ため、虚栄と虚言の人生になっている人間が

増え続けていることに危機感を覚える。


いつか年老いて死ぬとき、己の生きるエネルギーは本音以外ない時になって、
初めて「自分は何てバカで軽薄だったんだ…」と思うなら、まだましか…。
いや、人生はよくできたもので見栄を張り続けるといづれ、
虚栄心を捨てなくてはならない出来事に遭遇するものか…。


有難うを子供がわざわざ言う必要のない、
太陽のように当たり前の愛情を注ぐことで、
子供が自然と育っていくのだろう、と思う。

信号待ちで、孫の顔を一生懸命拭く「温ったかいおばあちゃん」は
夏を涼やかにもしてくれる。
それが、日本の良さ美しさ「情深さ」ということは
忘れたくない…と思った次第。