ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

当たり前過ぎることで。

 

ふと、時々思うこと。


家があって屋根があって、雨露暑さ凌げる有難さ。
一日無事に暮らしお布団で寝られる幸せ。
温かいお風呂に入って清潔に暮らせること。
美味しいとか不味いとか言いながらも、
食べられる食べ物の有ることと、
食べられる条件、健康とか経済とか

畑から材料調達から作り手まで…、

揃っていて咀嚼、消化できること。

肉体を養えること。


空が美しいなあ、今日はどんな天気かな、とか
眼があって、感じられる喜び。

排泄を思う時に思うようにできること。

洗濯機に任せればあっという間に

綺麗?! になった気分になって、

お洗濯ものをお日様の光で干せる喜び。
手足が使えるから、お掃除できる。
地球に草や樹が繁っているから呼吸もできる。

 

随分前に、霊能者がどんなふうに霊能が
強くなっていったか…、という話を聞いた時、
病床に臥している頃、一杯のお水の美味しさに有難さが
込み上げ、思わずコップのお水に手を合わせ拝んだ、という話。

お水が飲める有難さか、と。
極限状態で、お水を美味しいと思える感動がある。
飲める有難さを感じる。

肉体あってこそ、この世界があってこそ、
存在してこその喜び。

日々、当たり前過ぎる、ひとつひとつを時々
思い出して…。

 

冬なら給湯器があって、お湯を遣わせて頂ける有難さ。
夏なら冷たい氷を簡単に手に入れられる有難さ。

 

身近な人がいることで自分を観ることができる有難さ、
対象があること、他者がいることで、関わりあえる有難さを。

 

時々、思い出す。
なかなか、無私にはなれない。

時に、些細なことで不満もてんこ盛り。
当たり前過ぎる有難さを忘れることもある。

当たり前の有難さに加えて、有難過ぎることを

この世界で挙げたらキリがない。

有難過ぎることも思い出して、この時代に生まれたことは有難きこと。

折角だから「至福の時」を体感しよう…と思う。

 

「有難い」と、殊更に思わなくてもよい、ってなことを

ずっと前に浄土真宗の小冊子に書かれてあったことも思い出す。

これまた、意味深い。

 人間以外の生物は有難がって生きているだろうか、と。

 


有難過ぎる「現代の生活」。

しかし、美しい水が飲める川は無くなった。

 

「文明の存在」その是非を問う時、
当たり前はどこまでなのだろうか…。

 

 

 

 

 

「 いなせ 」 から…思うこと

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)を読み、江戸時代のことがもっと
知りたくなり杉浦日向子さん(故)の本を読み始め、
「いなせ」という言葉の由来が書かれてあった。
「粋でいなせな…」という言葉を時代劇などで
決まり文句として聞いたことはあるが、
昨今その言葉に当てはまる風情を感じることはない。

さて、どんな由来かと言えば…。
“いなせの「いな」は鯔(ぼら)の幼魚のことなんです。
鯔の幼魚が大川(隅田川下流)を上っていくときに、背びれを水面すれすれに出して
いくんですが、その姿がスマートでカッコいい。「いなせ」な衆とは、その鯔の
背びれのようにすっきりした丁髷を結っているところから来ているんです。
あと立ち姿がよい、というのも「いなせ」の条件。”
(『杉浦日向子の江戸塾』PHP文庫より)

簡単に言ってしまうと、江戸のかっこいい男性たち(火消し衆など)を

形容する言葉だ。
カッコ良さについて今更、薀蓄を書こうとは思わない。^^
マスゴミの十八番、食傷気味の話題だから。
かつ、丁髷を結っていないから、使うところもないが。


それよりこれを読んでふと想像してみると、
当時の川がいかに透明で美しかったかを思った。

現代日本の都市に流れる川にたとえ「いな」が泳いでいても、

何かを比喩したくなる輝くような「自然美」はない。

川の汚れのみならず、あらゆる自然が汚染され、

護岸や道路、公園、ダム、鉄塔など過剰なインフラ整備がなされ

生態系が津々浦々コンクリートや巨大建築物で破壊され尽くした。

企業が製造する物質のゴミゴミゴミだらけ…。

他の生物に冷酷で無機質。

目をそむけたくなる、悲しい現況だ。


幕末訪日欧州人によると、

江戸の町は巨大な美しい田園都市だったという。

地上の楽園、野鳥の楽園とも欧州人から呼ばれ憧れられてもいた。

自然は豊かで、美しい川辺を散策する人々は暮らしに
余裕もあったことが窺がえる。
どこの家でも植物を愛で育てていたというし、

家々の庭先にフクロウが棲んでいたり、

ニワトリの毛の手入れをしたり、

カササギが人の子守りをしてくれたという。

日本は、鳥に人が近づいても逃げない国だった、と。

 


植物や動物、すべての生物は生き生きしていたことだろう。
町のみならず、日本全体の雰囲気がとても良かった、と感じられる。

鯔の幼魚を「いな」と呼ぶのを初めて知ったのだが、
幼魚が水面すれすれで気持ちよさそうに群れをなして泳いでいる様に
丁髷を「いなの背中」に喩えた、ちょいと洒落た言い回し。
川の水の美しさ、魚たちの生命力から情緒は言葉へ映り(移り)、
情景に対しての比喩は江戸らしく、
また派生する言葉に奥行きを与えてもいる。

「いなせ」という言葉を誰が言い出したのか調べていない。
江戸の庶民も武家も差別感など全くなく友人関係は成立し、
サークルような様々な会(講)を楽しんでいたという。

あくまでも私の想像であるが例えば、
俳句や川柳などの会(講)で楽しい使い方がウケたかもしれない。
遊び心からだろう「いなせ」という言葉は、

世間に広がり、現代人さえも知っている言葉になっている。

 

 

ちなみに、「士農工商」という言葉は明治政府

皆が幸福だった良き時代の江戸社会を否定させ、

明治政府を肯定させるための教育プロパガンダとして

悪用したのである。「競争」という言葉も明治政府が作ったもの。

 

 

江戸と現代の精神の教養レベルが違い過ぎやしないか。

江戸社会の日本の識字率は約85%だったという。

当時、世界一だったそうだ。

しかし明治政府(ユダ資本提供による戦争三昧)の時代には、貧困が増え、

貧しい家庭の子どもたちは学問に触れる機会を奪われ、

識字率が下がった時代だった。

 

そして、戦後から現代人は識字率こそ高いものの、

その言葉の質は年々劣化の一途を辿っていると言える。

GHQによるあらゆる情報統制によるマスゴミ狂育プロパガンダによって、

言葉の浅さ、情緒の無さ、粗雑さ、合理化や効率化、損得勘定。

経済のために複雑さや分析力は研ぎ澄まされ情報は

大量になったが、偽情報ばかり。

 

自然の豊かさ、遊び心から生まれる精神活動は明らかに鈍化、

画一化、短絡化している。


昨今、若者の言葉で気になるのは微妙なひねたイントネーションや
短縮する言葉がTVなどでやらた取り上げもてはやし、流行させる。

老若男女、どこの地域でも、その語調を持った言葉を使うように
波及させている言葉が多々ある。
マスゴミが流した風潮に対してそれが「いまっぽい」…とか、
流行の波に乗っている、というマスゴミの絶大な影響力と、

マスゴミへの絶大なる大衆の肯定感によって、
その流行の雰囲気から外れていると、…何故だか疎外感が漂う。


英語が日本語に同化した単語はその傾向が強いだろうか。
「ギター」というと、語尾の音が上がるとエレキギター
語尾が下がるとクラシックギター、という違いを表したり、
前出と同じように「クラブ」という言葉を使う時、
踊るための店は語尾音が上がり、趣味や部活動の集団をクラブという時は
語尾音が下がる。そんな言葉の扱い方が気になる。

語調を調整して流行を漂わせ差別的になる慣習。
それは西洋礼賛的で、階級(差別)社会が当たり前の、

英語圏や英語教育の悪影響の一つと言えないだろうか。

(日本人はもともと野次馬根性やミーハーに象徴される

好奇心旺盛な特性がある。生物として自然種ゆえ。

もしかしたら江戸にもそんな語調を遊ぶ風潮はあったかもしれないので、

断定はできないが…差別感は漂ってはいなかったと想像する…。)



江戸時代のように、何かを比喩して言葉を楽しむのではなく、
語調で共有するノリが重視され、情趣はない。そして、
独特なその時代の「ノリ」をのせた言葉遣いではないと、
排他的差別的な空気さえ発生してしまう。



女子や男子という言葉も学校教育で使ってきたものを
昨今は成人の若者に「子」を付けてマスゴミ雑誌あたりから

言い出したのは、未成熟さや意図的な若者文化礼賛で年齢差を強調したいとか、

未婚者が増えているから…とか。色々あろうが、全般には肉体的苦労がない

現代人の精神幼児化現象を象徴しているのかもしれない。
また、TVや学校教育の普及で、
方言も弱まってきていることは以前から言われていた。
自然環境破壊によって心を伝える言葉が劣化し、
政治、狂育、体制側からの影響や風潮が優先される現代日本人の言葉。


自然が破壊され尽した社会では、
趣のある言葉や気の利いた言い回しは、もう生まれないだろう。
自然が、時間の流れの中で自ずと生み出す美しさや、
生物全体の心の触れ合いを大切にする社会があってこそ、
「文化」と呼ぶに相応しい言葉や芸、創作、が生み出されるのではないか。

発音に頼って漠然としたノリに支配され
言葉を詰め込んでも心は伝えられない。核心は伝わらない。
中身の浅い、共感の少ない会話。

そんな悪循環が現代の会話で起きている気がする。


自然から感じ取った言葉によって文化が育まれていた時代の
言葉は豊かである。
自然を破壊し続ける現代社会で使われる言葉は、

マスゴミ、企業、狂育が扇動しどんどん貧弱になっていく。

マスゴミと企業がセットになって環境破壊が進んでしまう。

一体、いつまでこんな劣化社会を人間は続けるつもりだろうか。


年々流行歌の歌詞の比喩表現がお粗末になっている。

思えば、江戸社会の残照があった明治大正の頃に生み出された

歌詞は、日本人の精神性がいかに上質だったかを思う。

現代で、欧米社会の歌手の真似事をすれば、一過的には、

歌唱力とか才能をもてはやすものの、言葉に魂や思想が

ないから即、飽きられる。

言葉の話から逸れるが、あのストリートダンスから

進化?いや明らかに劣化した、関節炎を起こしそうなアドレナリン処理用、

集団「奴隷ダンス」を学校教育に教科を取り入れると聞くが、

荒々し過ぎて私は非常に不愉快で正視できない。下品の極みだ。

 

日々、マスゴミと狂育が、

人間の精神生活の「時間」と「感性」を奪い、

本物の文化を破壊し続け、偽文化でガス抜きをさせているのだ。


幕末まで。

かつての日本では…
澄んだ空気や水、風にそよぐ木々の葉音、野鳥のさえずり、

川のせせらぎ…自然から伝えられる言葉にならない心が、

人間の直感や霊感を磨いてたことだろう。

 

まずはマスゴミを生活から追い出して、

改めて自然、生物、から学ぼうと思うこの頃である。



 

ゴミの分別はゴミを増やしているという実態

www.youtube.com

 https://www.youtube.com/watch?v=qq4jKQGzwUg

YouTube のURL

プラスチック製のゴミは、実はほとんど焼却されて
いることをずいぶん前に知ったが、
ペットボトルもここまで
ひどい状況だとは思わなかった。
再生紙の製造にも無駄なエネルギーを使うことで
実は、環境に負担が大きいことを聞いている。

リサイクル(一度きりの再生)は、全く環境に貢献していないのだ。


むしろ、再生するために余分なエネルギーや資源、労力を
費やし、税金の無駄遣いしている
実態(既得権益者のみが得をする)を知らなくてはならない。

何より、ゴミを減らすことが
大前提だ。

とどのつまり企業製品をできる限り、
不買することである。

消費社会では毎日呆れる程、
ゴミが出る。
ゴミを客観的に見ると、ほとんどは企業製品の過剰包装だ。
子供の頃記憶では、肉や野菜をそれぞれの商店で買って
簡素な包み紙で済ませていたと思う。

多少のものなら家の敷地で焼却することもできた。

ゴミ回収車は生ゴミをトラックの荷台に入れる程度の
簡素なものだった。

どうもダイオキシンの害も喧伝に利用された感がある。
(YouTubeの武田氏の話でダイオキシンの件は
調べてみなくてはと思った)

 

マンション居住を奨励する風潮も、課税やインフラで

人間の暮らしが「カネ」必須、「税金」徴収を延々と続けさせたい

国家や国際金融家の思惑としての喧伝もあるだろう。


今では、燃やしてはいけないし、分別のための袋まで自治体に
カネが流れ、袋としてのゴミも増やさせられている始末。
そのゴミ袋製造会社の利益と自治体の癒着も想像に難くない。


どこまでもどこまでも、執拗に、納税をますます強いる
社会システムである。「偽装情報&喧伝社会」と言えばいいだろうか…。
もうウンザリだ!!

カネが大きく流れる程に、流れの途中にある利権、既得権益者が
儲かるからこそ、ややこしい社会システムにしたい。
環境問題さえも喧伝用にする。それが裏政治のご事情である。

 ともかく、ペットボトル飲料や缶飲料を買わないで
自分の水筒で暮らす習慣を身に付けたり、
工場で出来た食品をできるだけ買わない。

スーパーでインスタント食品や惣菜を買わない。
コンビニ弁当を買わない。
(ホントは買っちゃいけない。働いちゃいけないのだょ…。)

(どの工場製造食品も石油をたっぷり使った立派な器に
入った、健康によろしくない食べ物ばかりである。)

 経済がどんなに潤っても、一般人の暮らしはまともに
ならないようにできている。消費し、ゴミ処理負担で税金を
更に払わさせられる社会。まして、工場で出来た食品は
病気を作ってくれるから、医療費負担も増加。
製薬と医療施設がぼろ儲けの社会なのだ。そこにも
特許利益や既得権益が渦巻いている。

自分の頭で裏社会を想像しよう。

カネを稼ぎカネを払う消費社会は、自らの首を絞めるのである。

カネを稼いで暮らしを豊かにする時代を
近い将来終わらせることが、人間のみならず、生物全体、
自然環境回復に必要だろう。

都市で会社員をしていても環境破壊して生物としては
~「不徳」~を積んでいる。

 これから生き抜くためには、人生設計を変更して、
自給自足を模索しながら個人の得意な技術を生かして
カネの不要な生活に変えていくことが、
子どもたちのための明るい近未来になろうか。

 

今日からできることは、
自分で作る、できるだけ自家製、素材中心の生活を。

 



 

 

ゴミ屋敷

失礼ながら怖いもの見たさで、YouTubeに掲載されているTV番組の

ゴミ屋敷レポートを視聴してみた。ゴミが道路までせり出している屋敷の

住人に向かって、取材レポーターが取り留めもない質問を繰り返し、

レポーターいわく「モノを貯めてしまうというかぁ…、、、

              モノが捨てられないタイプ…??」

住人「うぅ~ん、どっちかと言えばね…。断捨離なんて…

                                                             とんでもないよっ。」…。

って、ちょっとアンタら、だから取材が成立してるんでしょっ?!(笑)

と、元も子もない質問に思わず突っ込みを入れたくなった。

しかも、住人「どっちかと言えば…」って、自明じゃないですカッ。

どんだけ、マスコミトークに吊られてんだっ…??

断捨離って言葉を知ってるくらいなら、
ちょっと、考え方変えらんないのかねぇ?!と、
お節介なことを思いながら、ぼんやり見ていた。


それはともかく、「マスコミ」は「ゴミ屋敷」取材が大好きだよなぁ~と思う。

たぶん、ゴミ屋敷を取り上げると視聴率が上がるんだろう。
(つい好奇心に駆られて…ワタシも見たし。)

社会の中で、少々悲壮な暮らし方をしている人々を

連日のように紹介するTV。
法律が…、行政が…、と建前を盾に取りながら、好奇心や怖いもの見たさ、
自分は社会の一員としてまともに暮らしているという
視聴者側の自負心や優越感をくすぐるようにして、
大衆心理を操作しやすいネタだから、度々取り上げるのだろう。

かつ、視聴率もさることながら、放送目的のひとつに
「日本社会はこんなにひどく病んでます!」と
自虐観を刷り込むことも目的であるだろう。
番組で決して、根本解決につながる分析はしない。

マスゴミの伝える内容は、相も変わらず無責任だ。
取材で丁重にゴミ屋敷住人に接しながらも(慇懃無礼な感じ)、
痛々しい暮らし方をしてしまう人を実は侮蔑し、

視聴者に差別感を促し蔓延させる。
延いては、衛生観念や潔癖症に磨きがかかるよう喧伝も熱心だ。
(番組スポンサーは花OUやピー&ヂーやS林製薬あたりかいな?!笑)

抜かりナシ。

 

******************

ゴミ屋敷になる人の心理を思うに、環境(ごみ)問題が気掛かりな

「凄く優しい・律儀」な性格と、
「金銭・物質への極端な執着心、その奥には

  強い孤独感、寂しさ・感情の満たされなさ」という特徴が、

心の底にあるように思う。

そして自分自身も環境(ごみ)問題への疑問や、人や物に対する律儀さ、

あるいは金銭物欲という面に於いて、
ぼんやり見ながらも、多少なりとも深層心理では
重なるところがあるから、見てしまうのだろう。

頭では理性的に「非常識」を批判しつつも、
好奇心がそそられるのは、誰しも
感情的にはどこかで共通点があるからだ、と思う。

凄く優しい面というのは、捨てられない心理に繋がる。
昔の日本人の物を大切にする心とか、情深さが強く残っていて、
粗製乱造・大量生産時代のこの社会に対して
どこか割り切れない、やるせない思いがあるのだろう。


江戸社会、特に江戸の都市生活では掃除して出た「髪の毛」さえも
再生利用していたという。ゴミは出ない、ほぼ完全循環社会だったようだ。
糞尿は農家が買取りに来るシステムがあった。
面白いのは、相撲部屋から出る糞尿は高値で買取ったという。
ちなみに、昔の日本人は、排泄をすることを羞恥と
捉える感覚もあまりなかったようだ。
犬や猫、あるいは赤ん坊が排泄を気持ち良さそうにしている姿は、
こちらも安心感があるではないか。
特に赤ん坊の排泄が母親にとって逐一大切なのは、本能的なことだ。
いつの時代から、排泄が恥ずかしいことになったのか…。
よくよく考えれば、動物的な生理現象として日常の風景に溶け込んでいる方が、
本来は自然なことのはずなのに…。

更に言えば江戸時代は、ほぼ菜食だったゆえ、腸内、体内は
肉食する現代より、衛生的だったであろう。

人間は体内に腐敗菌・悪玉菌が多いと、無意識に
自分の体から出た物を汚いと感じるところがあるように思う。

現代人がやたら唾やら各種クソ(^^)などを汚がるのは、
肉食や化学調味の加工食品、油脂の多い食品、奇々怪々な物を食し、
石油化学製品の日用品洗剤シャンプーリンス芳香剤、等々をふんだんに使い、

肝臓に負担を掛け、内臓全体を汚しているから、かもしれない。

更には、ゴミや排水へ化学物質を垂れ流し、自然環境を毎日一人一人が

破壊していることへの罪悪感が、自分の中から、他人から出てくる

モノへの不衛生感と、無意識では繋がっていることだろう。



******************

大半の現代日本人が、この粗製乱造・大量生産時代に

実は、違和感や罪悪感を感じながらも、
何がどうなっているのだか?

訳が解らなくて、それでも細かいことに囚われ過ぎると

生きていけないから、切り捨て、諦め、目を背けながら
日常を送っているのではないだろうか。


日々のゴミ、資源ゴミ、大掃除やら引っ越しの時の粗大ゴミ、

自己啓発的な断捨離のゴミ…とか言って、

さっきまで目の前に有ったが、自分の都合や気分や流行で

いらなくなった物を税金のオカゲで、

行政がトラックに積んで運んで行ってくれて、

やれやれ…。


と、思いつつも、本当はただ、目の前からどっかへ移動しただけ。

別の場所に運ばれ、一か所に集められ、
可燃ゴミは、ある程度炭素にもなるだろうが、多くの物質から

ダイオキシンや毒ガス発生の要らないおまけつき。

雨や風でどこかをまた汚す。
不燃ゴミなら、延々と自分が使ったガラクタはこの世から、

抹消されることはない…。
ややこしい化学物質、重金属が土に浸み込めば、

いつかどこかに凝縮した毒が…大地へ、川へ、海へ、

そしてまた魚や小動物が摂取し、食物連鎖の果てに、

自分の、子や孫の、口に入る…かも。
ちょっと考えれば、誰でも想像できる。
頭の片隅では、夢の島がゴミの島であることは十分承知している。

ゴミ屋敷住人は、それらを直感的に感受し虫の眼のように、

「え~っとこの金属は何?ステンレスはどうなる?傘の骨は??

 鍋の取っ手と本体は??調味料の蓋に付いた紙は???

 紅茶のホチキスは????…アルミ箔は?????

紙袋の紐やハトメは??????

洋服のボタンは?ファスナーハ?ハッハ???????

…エ~っと…エ~~と。。。oz …zzz、、」

エンドレス。

 

細かくひとつひとつ見て、考え、思うのだけれど、
執着心も足かせになって、何をどう行動したらいいのか…。

できない…。
そんなふうに見て取れる。

罪悪感を忘れることができる人と、できない人の違いだけ、じゃないのか。
ゴミ屋敷住人は、現代ゴミ問題の本当の代弁者だと思う。


マスゴミCMで売りさばく、大量の飲料水やら食品やらあらゆる

ゴミ生産の加勢をする“増す”ゴミ。

TV新聞雑誌ネットあらゆる場で物欲を刺激し混乱を促している。

そんな奴らが、知らぬ存ぜぬで、涼しい顔して他人事で取材して、
どんだけ自作自演なんだよ✖
と、毒づきたくなる。

偽ユダ大株主を筆頭とする
企業全般とマスゴミの営利活動、マネー流通巨大化の所産が「ゴミ」だ。


先祖が培った「日本人の良心」の向けどころを

失くしてしまった、

この哀しさ。
「物を大切にする心、資源を尊ぶ心」を

失わさせられた、

この怒り。

 

偽ユダん国際金融集団が演出する
金銭物質礼賛社会が、個人の極端な執着心を生み出し、
心優しく繊細な人々がゴミ屋敷にしてしまう。
それを正直に顕わしてくれているのだ。
少々意志と行動力が足りないようだが…。

地球のゴミ汚染は、他人事ではない。
己の事である。

この世のあらゆる存在、物質は循環によって成立つ。
変な罪悪感から皆が解放され、幸福感の持てる社会にするには、

体内と潜在意識を大掃除することが、
ゴミ社会からの脱却だと思うのである。

で、とにかくできるだけ「買うな」・変な物を「食べるな・飲むな」と。

とどのつまりは、競争意識や虚栄心を刺激して偽情報をばら撒く、
マスゴミと企業とマネーを徐々に捨てること。






「日本人の意識構造」  会田雄次著 …某サイトの当方読後評の転載

…某サイトの当方の読後評の転載

 

「日本人の意識構造」 会田雄次著 (講談社新書)

本書と共に、「逝きし世の面影」渡辺京二著(平凡ライブラリー)を読むと
(順序は、本書を先に読んだ方が良いと思います)、
日本人の本質が見えてくる気がします。


あるいは、欧州勢力によるプロパガンダである日本自虐史観から、
脱却できるかもしれません。学生の頃(ん十年前)、たまたま本屋さんで出会い、
この書を読みましたが、今でも、内容が心に刻まれています。
本質的な観点で日本人を捉えているからこそ、記憶に残っているのでしょう。
欧州は階級社会が顕著で、階級が変化することはないが、
日本は一般的な例えだが、戦国時代の豊臣秀吉を挙げ、家系も含め社会の上位へも
刷新される可能性がある柔軟な社会構造、社会認識であることが記されていました。
日本は平等感のある国だ、とこの書で客観的で尊い日本観に気付かされました。
ただし、本書は明治からの西洋礼賛を肯定した上で、論理展開がなされています。

最近になって様々なことを知り得て
明治維新から「文明退化」だと私は考えるようになりました。よって、
現在は本書のすべてを賛意できる訳ではありませんが、充分参考にはなります。

本書に書かれている内容ではありませんが、
例えば、明治政府は意図的に士農工商という言葉を波及させたということ。
江戸時代にはほとんど使っていない言葉でした。
あるいは「競争」という熟語も明治政府の造語です。
明治期に、江戸社会の素晴らしさを否定する喧伝のために
差別社会だったような教育がなされ、
軍事国家に進むため「競争」も喧伝したのです。
江戸社会は武士も町人も一緒に趣味の会を嗜むような
生活環境だったことも最近になって知りました。
江戸社会は識字率が世界一でした。明治になって識字率が下落したのです。
あるいは、江戸には市民フォーラムのような「講」というシステムがあって、
様々な問題解決や市民のアイデアを反映できる
社会活動が自由にできていたのですが、
明治になって大久保利通はその有意義な機能を廃止させました。

******************
(鎖国になったのは中世の日本人奴隷被害の実態、仏教破壊、
欧州勢による植民地化の謀略を阻止する為というのが真相。
アフリカやアメリカ大陸の被害は伝えるのに、
日本人奴隷被害は学校教育やドラマ映画小説では決して伝えません。
それはなぜでしょうか?考えてみてください。)
******************

江戸時代末。
戦争がない約250年。鎖国が生み出したものは…。

すべての日本人は幸福感がみなぎっていました。
子どもを滅多に叱らず溺愛するようにして
愛情をたっぷり注ぎ子育てをした江戸時代までの日本人。
愛情深く子育てをする日本人は、自ずと優しく礼節を身に付けていました。
いつも親切で微笑みがあり優しさに溢れていた日本人。
家には鍵などありませんでした。犯罪などほとんど起こらない社会だったから。
庭先に梟が住みつき、人間の子守を鵲(カササギ)がしてくれていたお伽噺のような、
でも本当にこの日本にあった美しい世界。
日本ほど自然や人々の心が美しい国を見たことはない…と絶賛する
幕末訪日欧州人の伝聞集「逝きし世の面影」は、かつての本物の日本を伝えています。

欧州権力から明治政府首脳陣は軍事にまつわる資金提供がなされ、
戦争社会になって以降、日本は金融・貨幣を軸とした軍事国家に姿を変え、
明治~昭和初期の日本人は勤勉労働と貧困、暴力的教育で心が傷めつけられました。

(それまでは米・繊維というある程度まともな税制=年貢)


巨大戦争が繰り返され国民の生活は不安定に、

あるいは、階級社会になりました。

それらの向けどころのない焦燥感、憎しみや悲しみ苦しみにもがき、
子育ても厳格になり、体罰を肯定する教育へと堕落し
犯罪も増え疑心暗鬼な社会へと変わっていったのです。


戦後は安保が免罪符となってアメリカとその背後の言いなりとなり続け、

更に日本人の心が荒廃してしまいました。

つまりは、国際金融家に脅され続けているのが現代日本の有り様、と言えます。


効率化や合理性という貨幣経済に偏った理論も、つまり欧州支配層にとって
利益になるご都合論(偽ユダ支配の横着怠惰)であることを
日本人は認識する必要があります。その暈が西洋礼賛であり、

優性思想・白人優先社会なのです。先進国と銘打っているのは偽湯田の

コントロールに他なりません。

(その隠れ蓑のようにして極東情勢…日本にとっての情勢不安を

マスゴミが煽るために中国朝鮮半島と日本で混乱する情報を

流している…という巧妙さ。ですが、同じパターンです。

世界中でそれは同じ構図があります。隣国不安をマスゴミが作り出すのです)

 



現代日本人はアメリカ&(欧州権力)が制御するマスコミや学校教育で
日々洗脳され、疲弊してしまった状況です。
昔の本物の日本人の姿と、今の荒廃してしまった"偽"日本とのギャップを知る上で、
会田雄次氏著「日本人の意識構造」も良きガイドだと私は思っています。

 

 

 

 

 

 

 

玄米菜食をして8年ほど。
それ以前、私は煙草を吸っていた。
家族の病をきっかけに止めたのだが。
不覚にも、半年前にまた吸い出してしまった。
健康に気使っているはずが、何にもならない。

更に放射能汚染の危険も囁かれる今の煙草。
節制食生活の玄米菜食のストレスか?!

まったくもって本末転倒である。

ストイックさもほどほどにしないと心のバランスを崩すだろうか。

いや、他に理由があるのは判っているが

それは心に納めておこう。(苦笑)
家族に責められながらこの半年。ちょっといじけている。
ああ、止めるよ、頑張る。と言いながら、また
吸ってしまう自分の弱さ。まずは、自責を止めることから…か。

という訳で喫煙するようになってしまった愚か者。
しかし、横道?裏道だって「どんなことでも発見はある」が信条の
私としては転んでもタダでは起きたくないので、
気付いたことを書いておこう。随分言い訳がましい前置きだ。


ところで先日、知人と家人私で久しぶりに居酒屋へ行った。
普段は朝は果物、昼夜は玄米か分搗き米かそば。
味噌汁、煮物、和え物やサラダなど中心の食事で、
揚げ物は食べないことにしている。

が、その時はうっかり、安価さも手伝って
唐揚げやらポテトフライ、ゲソ揚げ…と
揚げ物ばかり注文してしまった。

以前は日常的に揚げ物もしていたが、
ここ5年めったに揚げ物を作らなくなった。
世間一般の主婦が聞いたら、私は怠け者主婦となるところだが、
食について色々考えるようになって、揚げ物は明らかに「毒」の類で
あることが解ってきて、ごくたまにサツマイモやかぼちゃのてんぷらか、
大学芋などをわずかな油で揚げ、あるいは揚げ焼きにしている。
少量で揚げるから残らず、保存は不要だ。


おそらくは・・・果菜食がルーツの霊長類にとって、
基本的には抽出された油の摂取は不自然だ。
まして「加熱油」は体に与えるダメージは大きい。
揚げ物が好物の人は生活習慣病の可能性が高いようにも思われる。
よって避けるに越したことはない。
しかし、何十年食べていたものを一切食べないという
厳格さも、私にはないので外食の時だけ
気が向いたら選ぶ、という訳で先日思いがけず、
多めに食べちゃったのであるが…。


翌朝、明け方寝床で急に咳が出てきた。
ああ、やっぱり煙草のせいだ。半年せっせと吸ってきた当然の報いだ…。
天井を見ながら罪悪感に苛まれ、また咳き込む。
アホである。

と、その時去年出会った年配者がひどく咳き込んでいることが
頭に浮かんできた。その人は揚げ物をよく料理する食生活の話をしていた記憶。
他にも揚げ物が多そうな食生活の人で、激しく咳き込んで
いたことを思い出した。喫煙者ではない。

そういえばこの十数年くらいか、
街で咳をしている人が多くなっているのが気になっていた。

思い出すと半年間、煙草を吸って咳き込むことは少なかったが、
今朝に限ってひどく咳が出たのは、もしかしたら
揚げ物を多く食べたから…かもしれない、と思い至った。

最近、大量に売っている食用油は、菜種油、大豆油、コーン油…
すべて遺伝子組換だ。居酒屋などでそれを使っていないはずはない。
家庭でも消費する油が安価に越したことはないから、
危険性に関心がない人はそれらを手にするだろう。

コンビニ入口辺りには盛大な唐揚げの広告。
レジ横で揚げ物を販売している。
夕方、学生らしき若者や疲れた様子の仕事帰りの人らが
コンビニ前で、揚げ物をほうばっている姿を見かける。

大量生産されるそれら食品は衛生の安全だけで、
決して素材の危険性など考慮されていない。
実験ラットが3か月間は発癌が無いとして、
安全をうたう遺伝子組換食品。しかし、4か月過ぎると癌化して
2年経過し驚くほど大きな腫瘍を持ったラットの写真を
目にした人もあるだろう。

揚げ物炒め物が多い中国では女性に肺がんが多いとも聞いている。
なぜなら、料理しながら揮発する油を吸い込むからだという。
先述の咳き込んでいた人たちも女性だった。
食べるだけでなく、酸化し揮発した揚げ油も吸い込んで、
悪影響を及ぼすことも気を付けた方か良さそうだ。


煙草が原因で、煙、気管支、肺 咳というイメージがあるから、
まさか、遺伝子組換の酸化「油」が原因という発想は、無理があるだろうか。
医学的な知識がない私では、咳と胃腸に運ばれる酸化油との
因果関係を説明することは容易にできないのだが、
経験的に消化の悪い物を食べた後,小腸から大腸への辺りが
咳と関係しているようにも思える。


先日の自分の経緯や知人のことを併せると無関係でない気がする。
大気汚染の影響もあるだろうが、マスクを付けても、禁煙分煙が進んでも、
街で咳き込んでいる人は減る様子もない。
咳イコール空気とは限らないのではないだろうか。


サクサク、パリパリ、コッテリ、ジュワッとジューシーで
モグモグ食べる揚げ物の魅力は、なかなか止められない。
が、今や酸化油の問題に加え遺伝子組換油の危険は、
揚げ物以外にもインスタントラーメンやスナック菓子も同様だ。
ほんの一瞬の食感の快楽に、体を犠牲にするのは哀しい。

オっと、煙草の誘惑に勝てない自分は、もっと哀しいではないか⁈
お節介にも他人の食事に口を挟んでいる場合ではない。
が、デモせめて喫煙のお陰で自前だが人体実験ということで、

ひとつ気付けて良かった事に…しておこう。(苦笑)








遊び

土曜日の朝、野菜市へ向かう途中公園の中を通る。
先日はお父さんと三歳に満たない位の女の子がいた。
木立に隠れて、お父さんに「わぁっつ!」と
驚かす、かくれんぼのような遊びに夢中になっていた。
小さな女の子の遊びながらの笑い声が響き、
ほのぼのとした朝の光景だった。

と、その時思い出したのは、うちにいる一歳になる雌猫である。
時に彼女は「雌」ぶりを発揮し、家人は「雄」と見なされ、

スキンシップの役割である。
一方、私は遊び仲間、兼召使いである。一日数十分遊んでやらないと
機嫌を損ね噛みつかれたりする。どちらかと言えば損な役回りである。

その彼女が気に入っている幾つかある遊びの中に、
「驚かす」ごっこがある。まさに、その女の子と
同じような遊びだ。

私が何か用で別室へ行こうとする時、
先駆けて行き、暗がりの部屋の入口の陰に隠れ、
こちらが部屋に入った瞬間に「わぁっっつ!」
と、やられる。彼女の遊びに付き合って、
「きゃぁ~~!」とネズミのふりをして騒ぐことにしている。

あるいは、ちょっとした箱が床に置いてあると、
上から見下ろすこちらの状況からは、丸わかりだが、
その箱に身をひそめ彼女はすっかり隠れたつもりでいる。
こちらが近づくと「わぁっつ!」とやる訳である。
まあ、私はウサギか小鳥のつもりで、驚いてみる…のである。(苦笑)

猫は日々、遊びながら訓練している。それは、獲物を捕まえるため
想像力を使い、俊敏さを鍛え、しなやかさを保つ。
じっと待つ時間もまたひとつの訓練かもしれない。
生きる・食べるがために身に着けるその鍛錬こそが、
わくわくする「遊び」なのである。

人間が幼い頃、遊びが仕事というのも納得である。
生きる知恵、精神力、身体力、直感、様々な能力を育てるのは
子どもの頃の「夢中で遊ぶ」遊びより他はない、と

猫と暮らし改めて感じられた。

人間は動物である。幼い頃は特に本能が現れやすいものだろう。
先述した「三歳くらいの女の子」のように誰にでもある
「かくれんぼ」や「驚かそう」という感覚。
家人が常々(五月蠅い位)言う、人間は狩猟採集だ、と提唱する話は
日常にその様相が実は、溢れていることを感じるのである。

 

4/24追記

教育で周知させる農耕民族と狩猟民族というカテゴリーはたかだか数万年前。
人類起源は約600万年前。その太古から今に続く時間を
自分なりに想像し思いを馳せることは、案外、日常に役立つと思う。
汚染脳から身を守るためにも…。

 

 

 

 

マヨネーズ

 

 家族の病をきっかけに「食」に関して試行錯誤して8年ほど経過した。
今の食生活は基本的には玄米菜食。時々お魚。たまに少々のお肉も頂く。
(大豆グルテンミートは発酵していない大豆を使用しているので×)

本当は果菜食を目指しているので朝は果物。しかし
長年、穀類加熱食を食べてきたから
すべて果菜類にはなかなか移行できない。

そんなわけで…
時々、ポテトサラダが食べたくなる家人。(ハム等加工食品はいれない)
以前は化学調味料や遺伝子組換の油を避けようと
奮発して3倍くらいするマヨネーズを購入していた。
まともな食品は高くてお財布に厳しい。
マヨネーズは本来贅沢品なのである……。

 

昨今、大企業のマヨネーズは安価で大量に波及し手軽になった。
しかし大企業が利益を生み続けるには、製造過程の工夫もさることながら
原料コストをいかに下げるか、で対応しているということだ。

つまり、安心な素材より安価な原材料を選択するのは市場原理。

遺伝子組換油だろうが、抗生物質乱用卵だろうが、

化学調味料・精製塩だろうが衛生管理の問題だけクリアし、

イメージ戦略を駆使し、ひたすら大量に売りさばき、

化学調味料(旨味の記号化)でリピート率を上げることだけが目的だ。

 


Youtubeで手作りマヨネーズの動画を見つけてから、
マヨネーズを買わずにある程度安心な食材で作ることができ、大助かり。

2分簡単手作りマヨネーズ

https://www.youtube.com/watch?v=8Ny8DTs-crI



ハンドミキサーがあれば、あっという間に出来上がり。
当方は蓋がついたちょっと大きめのガラスカップ⁈ボトルで
直接作るので器を移し替える必要もなく、できたらそのまま冷蔵庫へ。
ちなみに油はオリーブ油か米油。主には平飼卵が手に入った時。

マヨネーズがいつも当たり前にあるのは便利のようだけれど、
ご馳走と贅沢は違う。贅沢は不自然なこと。
有難さを忘れてしまうなぁ、と思うようになった。
時々だから作る&食べるのが楽しく喜びもある。

コーン油・大豆油・菜種油は遺伝子組換の代表油。
(エ〇ナ)などもってのほか。

日本中いや世界中へ遺伝子組換植物を生産し油を大企業は製造し、

安価に売りさばき、病へいざなっている。そして、病院&薬でぼろ儲け。

…というマッチポンプ

(市販食用精製油の製造工程は食品と言えるのか…。
溶剤抽出法・溶剤はヘキサンやへプタンという石油化学性物質。
圧搾法だけの食油は自然食品店くらいにしかないだろう。)

メーカーのマヨネーズに危険油を使っているのは当たり前。
化学調味料は発癌や痴呆の原因のひとつと言われている。

消費者が使用すればするほど、生産される構図。
負の連鎖を少しでも減らすには各自が価格や簡便さで判断せず、
家族の健康や社会への疑問解決を小さなことから実践したいもの。


下記は比較用に掲載。
光景に驚嘆だが不気味でもある。

利益のため工場の設備、精度に
ここまでエネルギーを注ぐなら
もっと他にすることないのかなぁ、と。
特に卵を割るファジーな作業を機械化するのに
設計・工作には随分苦労しただろうな?
と、思うのだけれど。

衛生管理厳戒態勢・無機質に食品を作る…
人間もロボットのような仕事。
衛生管理と均質化のために莫大な電力や設備投資が
必要であることが、金銭労働を増大させている。
工場でできる食品は、命を失った偽食品だなぁと
改めて思う。

…工場生産マヨネーズ

https://www.youtube.com/watch?v=ps_X1TqiJZQ



*************

厳密に言えば、手作りマヨネーズだって
ハンドミキサーを使うなら、それを作る工場が必要なのだから、
どうなんだ?という疑問もある…。金銭労働の呪縛…。
理想は泡だて器。いやマヨネーズ断ち・穀物加熱食断ちである。
が、ともあれ、各自の些細な手作りが社会を
ちょっとづつ変えていく…と思っている。

マヨネーズはあくまでも味覚補助食品だ。

精製油は本来、生物には不自然である。

植物に含有されたままある油分状態が自然。

抽出後、酸化は当然で肉体に負担であることは間違いないし、

植物を多量に酷使しカスが出ることは本来不自然なのである。


料理は調味に頼り過ぎず。ほどほどがいい。

もしかするとポテトサラダも化学調味料(味覚旨味の記号化)で

食べたくなっているだけなのかもしれない。


できるだけ、素材を生かしてこそ「食べる」意義。
体を作ってくれてる「素材=体」…と思う。

 

 

 

お金を儲ける事に遠慮してしまいます。という…

某サイトで紹介されていた2011年の質問の話。

某・知恵袋の質問者への「ベストアンサーの雄弁な回答」に疑問。

資本主義社会が成り立つ根本を問う。

お節介承知で当方投稿。

 

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疑問なのは、富はどこから来るのか?

お金そのものに価値はない。
けれど物質に価値を投影するから価値が生じる。

ではその物質はどこから来るのか?

それは地球の物質を使って変化(ヘンゲ)させ、
「お金」という人工的ルール(ギブアンドテイク)によって、
人間の欲や感情が満たされる。

地球資源は無償(自然摂理)だが、
もし、地球から物質の代償として「お金」を請求されたら、
大富豪者が地球に対して最も「借金」が多い。莫大な借金を抱えている。
貧乏者は地球に「借金」は少ない。

地球の資源を無償で使わせてもらっているから、
人間社会の勝者・富者の論理で「お金」という
人工的な道具(人工的ルール)がまかり通り、
我儘得手勝手な社会・人工環境を作っている。

地球環境・空気・水・大地、あらゆる自然が汚染され、
枯渇に向かっている昨今。
「お金」を使った経済活動(ギブアンドテイク)は
明らかに地球を破壊している。

「お金」は人間社会の勝者富者の勝手都合な
ルール・競争で儲けることを
是としているからいつまで経っても、地球破壊を止めない。
(ちなみに、明治に「競争」という熟語が作られた。
江戸時代までは自然環境も人の心も美しい日本だった…という。)

自然摂理から見ると、使ってはいけない
地下資源まで乱用し、地球環境の未来が危うい状況。
地球環境破壊は、企業営利活動や好戦的軍事国家らによって
延々と終わらない。
環境保護と称して某企業が局所的に自然環境保全活動をしても、
所詮生態系を破壊する営利が基盤ゆえ
本物の循環ある森や水に変えることは不可能。
宣伝用であり私有化のため。

************

質問者さんが漠然とお金を儲けることへ遠慮してしまうのは、
人として心が健全。

営利目的・儲けるための会社・組織に対して、
質問者さんの潜在意識では生物として本質的に矛盾を感じているから、
遠慮や罪悪感が起きる。


地球環境を壊して営利活動をしている組織・その中で労働するのは
地球や植物動物すべての生物にとっては、大迷惑。
それを不自然だと思わない人間は、生物として不自然。

各自が己の気まぐれな欲、洗脳されて発生する偽欲に気付いて
地球環境を破壊する労働から足を洗う時代。

「金銭労働」とは納税を増大させ、
大きな政府・権威権力軍力を維持させるためである。

心が喜ぶ「真実の仕事」とは、自然・生命を生かすことに繋がること。
儲ける必要がなく、競争しなくて良い社会。
無償でもやりたいと思える仕事。
無償どころか当然のこととしていること
にこそ能力・才能が潜んでいる、と。

感じます…。

 

 

 

 

女性の社会進出の真相

 

 

20代末頃だったか。学生時代の友人の家へ
泊まりに行った時に話していたことをふと思い出す。
「私たちって絵を描き続けようと思っているのに…。
なぜだか、30歳頃になったら、
自分はスーツ着てハイヒール履いて、書類一杯入ったバッグ持って、
カッツカッツとビジネス街を歩いているはず…ダ?!みたいな
キャリアウーマンのイメージが頭に浮かんでくると思わない?!」って
言ったら、「ほんと、そうだよ~~~。
テレビのトレンディドラマの影響だぁ~。変だよね~!」
「キャリアウーマン?!そんな訳ない。
うちらが。アッハハ~~」と、笑っていた。

闇の権力のことを知り、色々調べているうちに、
数年程が経ちアー□ン・ルッソ氏の動画を知った。

参考までに(Youtubeより)

 

「ロックフェラーの友は、911を事前に予告した」 アーロン・ルッソ (1 of 2) - YouTube

「ロックフェラーの友は、911を事前に予告した」 アーロン・ルッソ (2 of 2) - YouTube


女性の社会進出を促すウーマン・リブ運動が起きたその背景に言及していた。
約50年程前までは世界中の女性たちの多くは子育てや家事、
食糧調達等が役割であった。それが、1960年代後半から1970年代初め頃、
男性と同権を主張し同じように金銭を稼ぎ、同じように社会地位を
獲得していくのが、これからの女性の生き方であるべきだ…、
というその男女平等の運動は、実は□ックFェラーらが支配戦略として
国連やマスコミを使ったプロパガンダであったのだ。
□ックFェラー財団が資金提供しテレビ新聞雑誌をフル活用し派手に
後押したという。
□ックFェラー某氏いわく
「女性も社会で賃金労働をすれば、課税徴収ができる。
更に、母親からできるだけ早く子供を乖離させたら、学校が家庭になる…。」

つまり、家庭崩壊、家族関係の脆弱化が大きな目的だった、
ということなのだ。社会の根幹を破壊する運動であること承知の上で行った
男女平等の喧伝活動。
マスコミに影響を受け易いミーハーで負けん気の強い高学歴女性は刺激され、
まんまとそれに引っ掛っていったのが「ウーマン・リブ」やらせ社会運動の
真相という訳だ。

アー□ンルッソ氏は、某氏の中に「邪悪を見た」と語っている。
正に、現代は猫も杓子も金銭や権威を目指し、家族との対話の時間、
人生の大切な時間の切売りをしながら、地球や体によろしくない物や事に
加勢をする労働や消費が人生の軸となってしまった。
賃金労働者が倍増したということは、
インフラや交通網整備への莫大な公共建設投資増で税金負担。
時間や労力節約とばかりに簡易な食品、時間短縮・簡便な生活を
好まれる社会に於いて、インスタントレトルト簡易薬味調味料肉食お惣菜
ペットボトル飲み物外食ファストフードコンビニ簡易衣料使い捨て雑貨…。

それらの工場生産、食品素材衛生のための添加物化学物質を
製造するための電力ガス水道…エネルギーの莫大な消費は
更に貨幣を必要とする。24時間、常に金銭を追う社会故の
無駄なエネルギー莫大消費である。ジャンク食や
自動車依存によって不健康に。医療保険増大、生命保険加入。
代理育児教育施設の増加、お金の流れが増加で金融関連の労働も倍増だ。
これを雇用増加、景気拡大と言えば聞こえが良いが、
企業の利益拡大はすなわち支配階級層の更なる富裕独占の為である。
現代は「トラブル」「プロブレム」がお金になるように仕組まれている。
女性の社会進出がデメリットばかりではなかったかもしれない。
しかし所詮、洗脳された思考で判断し最も重視すべき子育てが
軽んじられ、社会が闇の勢力主導(ロボット化)になって
いくことに気付くべきだろう。
洗脳によって各々自らの人生の問題を増やしているのが実態だと思う。

現代の女性は多忙による疲労、家族家庭育児の尊さを見失い、
複雑な苦悩や焦燥感、空虚感を常に抱える故に、
食生活荒廃、育児放棄、不健康不妊、家庭崩壊…、社会混乱、
そして次世代へ負の連鎖、負の遺産となる環境破壊へ繋がっている。
家事労働を舐めてはいけない。子育てから学び、
暮らしの中の創意工夫は無限だろう、と。
賃金労働とは違う「真心」が家族のまっとうな人生を育むのだと思う。


**************************

すでに闇の支配を知りしばらく経った頃。
託児所で短期間だが仕事したことがあった。乳幼児を預かる保育の先輩職員が、
無造作に子供を「扱っている」様子を目にして多々疑問が沸く。
母親なら気使う些細な仕草も、他人が乳幼児と接すると、
仕事ゆえ「子供=商品(物?!)を扱う」という状態になる。
そこでは職員から子供に愛情を持って接している様子を
感じられなかった。幹部や職員が最も気使っていたのは母親の顔色であった。
施設は不要ではない。しかし、子供に対し日々の仕草が母と他人では違うのだ。
例えば子供の服の乱れが心地わるかろうに…と想像してさっと整える、
そんな無意識の手からの思いやりなのだ。
業務として大勢の子供に対し最低限の安全に集中する、
多忙な職員に、濃やかな愛情を求めることは当然無理であろう。
言わずもがな親ならではの思いやりの動機が心や感性を育てるのだと思う。

言語の対話が少ない無意識に大きく影響する3歳まで、できれば7歳頃まで、
親子共に愛情に満足できた時間を持ったか否かで、
互いの人生を左右するのではないか、と。
つまりは、人生に大きく影響する育児期の親子関係を軽視し、
女性の賃金労働を肯定する風潮が、社会混乱や人口削減の
政治的意図であることを考えれば、逆に乳幼児期がいかに
重要であるかということだと言える。

古い話題だが、1970年代頃大流行したUSAからの
スポック博士育児論の波及も当然、□ックFェラーらの
策謀であったと推測できる。
当時の日本人は、戦後を引きずり日本の精神性を
否定することが社会風潮、マスコミの喧伝活動で
あった。スポック博士育児論は日本人女性の大半は違和感を
持ったにも関わらず、戦争に負けたのは
日本人が劣っているから。USAは何でも先端だ。
子育てさえも間違っていた、これからの時代は…という
焦燥感と短絡的な反省によって、お粗末な育児論

(「泣く子供を抱くと抱き癖がつく」だとか、

「乳児の頃から別室で寝かせると自立した子供になる」とか、)、

ゾッとするような偽・育児論である。そんなものを
受け入れてしまった女性も多いと思われる。

いかに、偽理論や偽思想がマスコミで波及させているか…。

もし、ウーマンリブ運動という権力に都合の良い口実と
マスコミの魂胆を見抜き、情報に流されず、祖母、母、娘…へと
日々の心の行き届いた暮らしが受け継がれ、
慎ましく丁寧に生きることを皆が実行していたら…。
家事を日々工夫すれば、質素でも心身を満たす生活になるだろう。
修理等で衣類や日用品、雑貨の扱いもお金で解決することを減らせるだろう。
結果的に知恵や工夫、勘が磨かれる。「もったいない」という
一過的なことではなく、物への愛情や研究心が育つ。
市民が日々の暮らしに賢者であれば、マスコミや行政が作為的に
喧伝してきたウーマンリブはもちろん、多くの偽情報、風潮…
最近では格差社会、セレブ等という卑しい言葉に、振り回されはしない。
物価上昇に煽られず、不動産購入も安価だったかもしれない。
都市過密化、地方過疎化、環境もここまで疲弊しなかっただろう。

社会改善の鍵は、できる限り女性が賃金労働や宗教活動や
安易なショッピングを控え家庭で工夫を旨とし、
地元社会へ参加、貢献、趣味等の好きなことで無償提供、
半自給自足のような取組みが挙げられる。
既に家電製品や移動手段の恩恵を受けているから、
少しでも自主的奉仕、身近な助け合い、
市民活動、議会公聴、町内会、家庭菜園などで
無償の行動で社会へ貢献することではないだろうか。

お金になる、お金を稼ぐ、ことがあまりにも是とされ、
無償の働き、奉仕の尊さが日本の社会から失われつつある。
(海外のようなサービスに対してチップが
必要な社会は実は病んでいるのだ。)

昭和50年代頃から「家事労働を時給に換算する」など
というマスコミの愚かな言葉が女性の怠け心や勝気さを刺激してきた。
家事の対価を考えたり、軽視することは
つまり人生を軽視することと私は思う。

女性が物欲、金銭、出世が目的の労働になる時、心の余裕を失い、
我が子へ接する態度がギブアンドテイク思考となる。
揚句、損得が最優先の社会荒廃に加勢する利己人間の増加…。
「それができたら、これをあげる。」
「それがほしいなら、これをしなさい。」
交換条件は人間を貶める思考である。
動物に芸を身につけるために餌を利用し手なづける。
動物は餌を得るために交換条件を与えられると頑張ってしまう。
人間も交換条件の振り子現象に囚われやすい。
そんな状態が子育てに子々孫々と反映増幅されてしまえば、
人として自主的、主体的な良心、想像力、意志、愛情、
そして創造性を自分の中に育てることが
更に、困難になっていく。
かくいう自身も無償の愛情を体得したとは言い難いが、
人生に於いて努力したいと思う。

無償さ、無条件さ、良心それが愛情と言われるものだろう。

元来、人は具わっていたと私は思う。

それを失わせるのが“対価労働でありピラミッド型競争社会”なのだ。

闇の権力の思惑を見抜けるように汚染脳に気付きたいもの。


母は人生の詩を伝える人。
人生は大儀や目的ではない。
人は自然の一部なのだ。
自然は無償である。

その普遍の摂理から目を逸らさせ続けるのが、
支配階級層の国際金融家と、一般市民のお金を追う
ミクロ労力の集積の肥大した幻影が
マクロ「マネー」なのだ。