ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

所詮…遊び道具

暇人の独り言…。


放送事故というタイトルのYouTube動画を見ていたら、
匿名の書込みの是非について討論の末、
言葉の揚げ足取りレベルの口論となっていった。

確かに声を荒げた会話は…、放送事故っぽい。
失礼ながら、ちょっと笑ってしまった。

誹謗中傷の書込みは度が過ぎる場合は取り締まるべきで、

実名でネットでは活動するべきという意見。
片や、そこまでする必要はないと。

 

当方はハンドルネーム。批判めいたことを書くことも
あるから、ズルいのは承知の上で実名は出さない。

 

ところで、またYouTube動画の話題になるが、
蛭子能収氏の話。子どもの友達が蛭子家に遊びに来た時、
冷蔵庫にあった蛭子氏の楽しみにしているプリンを
食べてしまった。そこで、蛭子氏は後日、連載中の
漫画の中で、その子どもの友達を懲らしめる四コマ漫画
描いた。もう二十年以上前の出来事。

それをネタに、今頃になって口の悪いタレントたちから

吊し者にされていた。

蛭子氏の言い分は「嫌なことがあったら漫画にすることは
時々あるけど、まさか本当に殺したりはしないですよ」と、
当たり前のことを言っていた。アホらしい話の番組(動画)である。

が、蛭子氏は案外、古き日本人の特徴をいくつか残している

人物ではないか、とも思っている。

 

考えてみれば、江戸時代も平和な社会であるにも関わらず、

残忍な絵や卑猥な絵、辛辣な風刺画、破天荒な小説が
たくさんあったようだ。

サービス精神が遊び心で、時に他人を驚かせ楽しむため、

表現者は現実の鬱憤を晴らす昇華のためだったり、

退屈凌ぎに精神の陰影を表現するのは昔からのこと。

人間の毒々しい感情や想像力の所業も、

平面の場ではある意味で普遍的なことだろう。

 

 

インターネットは仮想空間と言われるように2次元である。

直接、誰かに会って話したり、面と向かって争ったりする訳ではない。
江戸時代の浮世絵や風刺画を電子化した世界という見方もできる。

現代社会はキリスト教的モラルが流布され蔓延してしまったから、

単なる仮想の自浄作用にまで、目くじらを立てる程、

余白・遊びの無さが問題の根を増やした、と常々思う。

 

ただし、絵ではなく文字の場合は難しい側面がある。

また、電子技術は伝達のタイムラグが少ない分、

現実世界とリンクしてしまいやすい。


絵であれば、それは過去であり記憶である。

鑑賞側に、時間の流れの中で想像の自由を与え、

解釈はそれぞれに委ねられ曖昧さが成立する。
かつ、絵は「遊び」を前提とした道具だ、と

誰しも認識しているから損得とは、関係ないところで

鑑賞するものである。


だが、文字・文章は概念や常識を共有しながら
伝達する道具で、事務的かつ実利や記録の側面を持つから、
常識から逸脱したり誤解や間違いで、人を傷つけたり迷惑をかけ、

損得が発生したり、国の利害にまで及びかねず、

大きな争いの元となる。

偽ユダはそれさえも利用している訳だが、それはさておき。

 

ともかく、言葉で心が傷つくことがあるのは、

誰しも分かっていること。


二次元の世界を実利的に活用したい人間と、
単なる遊び道具として活用する人間が、
同じメディアで、時として衝突している。

摩擦が起きる。

 

話は少々逸れるが、

株式や為替のような数字だけを扱い、

現実で使う実利を得ることは、不自然だ。

資本投資や企業利益とカネの整合性は有って無いように見受けられる。

根本を問えば、国際金融家が作り上げた金融システムは虚構で、

ほとんど虚の利益なのだから二次元で完結すべき、と思う。

 

もっと本質的なことを考えると、お金というものが
量の尺度しか無いことが狂っている。

 

ギャンブルで儲けてそのカネでジャブジャブ消費するのと、
現実社会で肉体と時間を使い、働いて得たお金と等価であることが

そもそも異常なことだ。が、有史以来それが変わらない。


こんなに世の中が発達したと言いながら、

未だに、お金の価値の中に質を与えることを

しないのか、できないのか…。

その代償のように、人間の意識が金銭礼賛となって荒み、

物資は偽物や粗悪品が増大した。

 

 

二次元である世界(‘TV新聞雑誌映画…携帯等々のメディア全般)は
どんなに大規模に精巧になったところで、

所詮…遊び道具・オモチャだ。

仮想世界を遊びとしてではなく、現実にその損得を持込みたくなる人間や

自分の欲求不満を解消するのに、

仮想世界と現実を倒錯し、実行してしまう幼稚さ。

結局は、物理的世界、肉体を、自身も含め

老若男女、社会全体が疎かにしているからだなぁ、

という印象を持つ。

 

お金も、ある意味で紙幣という二次元の遊び道具である。

現代のお金に込める価値や意味、懲罰などが

現実のカネの質より重過ぎやしないか。

 

支配者層は肉体を使わない代わりに、

権威権力と言う架空の価値を作り上げ、カネに幻想の重みを増やし続ける。

が、しかし結局のところ、そのお金の価値を成立させ支えているのは、

物理空間での肉体的活動なのである。


肉体を疎かにしている人工礼賛の人間たち支配者層の世界観に、

自分のことはできる限りは自分で、というごく自然な、

生物的な世界観だった大衆である私たちの方が、振り回され続けている。

あるいは、中世に国土の奴隷支配を強いられた人々が、未だ犠牲になっている。

 

遊び道具に、三次元の現実生活と同等の常識を持込みたくなる人間の方が、
現実の世界から乖離して生きている人間ではないのかな……、と。

 

 

 

少々、伝わりにくいが
屁理屈を考えてみたのだが。

YouTube動画も仮想世界だから、

まぁどうでもいいか…。

 

 

(俳句や短歌は絵や音楽と同じく偉大だなぁ。。。)