ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

日々は、素朴な疑問のテンコ盛り

 

自然という言葉を繰り言のように当方は使うけれども。

自然という言葉がいつから発生し、使われるようになったのか?を

知らない。

仏教用語だとは思うが、それ以上は分からない。

 

自然という言葉は「じ」をシと読み、

然という「しかり」という訳語がある。

“自らのまま”・“あるがままに”と言い換えられるか。

 

 

 

 

 

現代日本語の成り立ちについて注視することは、

主に明治期、英語を翻訳するために熟語を造語したことだ。

その造語した由来を私たちはまず学ぶ事が無い。いや、学べない。

 

言語の成立とその波及は、謎めいている。

時代のプロパガンダでもあっただろうなぁ。

 

 

 

目安として

訓読みは、音と字の形と意味を網羅して、

漢字は後から当てはめられただろう。

紀元前から徐々に約8世紀の仏教伝来で中国語圏。

 現代で使用頻度の高い音読みの熟語の多くは

英独仏語の訳語として外来語で、明治以降1860年代以降の英語圏。

 

といった視点も時に重要ではないかな、と思ったりする。 

 

 

言語の概念が思考に大きく関与し、

言語の思想が人間の社会を形作る、その根源を思うと、

言語を曖昧に活用する事に時々、危うさを憶えることがある。

逆に、違和感なく使える熟語に関心したり。

 

 

日本語のおおもとはヤマト語であると思うが、

大陸半島(中国・朝鮮)の影響も、多大だと思う

幾度にもわたって、その影響を受け

うまく懐柔あるいは凌駕されてきたのだろうか。

歴史の流れと言語の関係はどうなのかな、と思うこともあるが、

素人がそこまで分析するのは難しい。

 

 

***************************

 

 

で。

まったく、関係ない事だが、

塩は何からできているのか?を

疑問に思う事は無いだろうか。

無意識だけれどもわずかな疑問が時折、

意識に上ってくることもあるだろう。

 

当方は長らく疑問だった。10年程前に

赤峰勝人氏という自然農を追求されている方の

「にんじんから宇宙へ」という書籍を読んだ時、

“塩”が何から組成されているか記されていて、

腑に落ちた覚えがある。

 

(地球の数億年前の植物の“化”石化だとか。

うろ覚えだが…。今一度、詳細を知りたいことのひとつ…。)

 

 

 

現代人は、あまりにも無意識層に無知・無頓着なのかもしれない。

 

 「日常の意識と無意識」というテーマが当方のひとつの関心事だ。

物理的な事、精神的な事、分けるに分けられない狭間には、

疑問だらけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後…

 

一昨日の夜、ふと天井に近い壁の所に白っぽい虫が

とまっているのに気付く。

よく見たらモンシロチョウだ。

 

先日飛び立った蝶かもしれない。

その数日前、飛び立った翌々日だったか、洗濯物を干していたら、

家の周りをフワフワと飛んでいたのを見かけたのも、

たぶん、その子だった気がする。季節外れだから余計にそう思う。

 

行動派の彼?彼女?は、案外と近隣を飛行していたようだ。

 

 

ここ三日は雨が続き、大丈夫かな?と、時々思い出していた。

里帰りして雨宿りすることにしたみたいで、何だかうれしい。

蝶にも帰巣本能があるのかしらん?と。

 

あいにく、家の中には花を飾っていないし、

心地よく羽を休めそうな環境が無い。

おまけに、猫たちがいるからとても危険だ。

幸いにも、高い所にじっとしているから襲われないだろうけど。

それさえも、解っているかも知れない。

夕方から昨日の昼頃まで同じ場所でじっとしていた。

 

ちょっと雨が止んだな、と私が窓に近寄ったら、

またも偶然に、カーテンを動かしている時、

蝶は窓際で出たそうにバタバタしていた。

そして窓を開けると、

もう一度うちから飛び出していった。

 

 

また、雨が続いたらうちに戻っておいで…と

思いながら、見送った。

 

昨夜の強い雨。蝶はどこに身を寄せていただろうか。

無事でいてくれるといいなぁ。

 

 

 

どんな生物も意識の奥の方で

繋がっているんだな…と感じる。

 

人間都合の環境の下で、生きる生物の健気な様子に、

人工その虚無を見る。

自然界で人間だけが狂っている。

 

人工物に囲まれた環境下でも、

人間以外の生物の姿には、いつも詩があることを想う。

 

 

 

 

変態はたのしい

 

 

先日、いつもの朝市へ出かけ露地物としては季節外れの

無農薬のブロッコリーを見つけて買った。


冷蔵庫で数日間保存し庫内で少しづつちぎって料理にしていたが、
改めてそれを出してみたら、あちこちアオ虫たちに食べられていた。
花芽のところはかなり崩れており、
茎の間には糞がたくさん落ちている。 

アオ虫は平気だが、それでもちょっとびっくりした。

 

ひとまず食べることは諦め、
アオ虫のお住まいだったのね〜、てなわけで、
「アオ虫マンション」に見立て水を入れたプラスチック容器に、
ブロッコリーを引き続き、栽培のつもりで
台所の隅っこに置いてみた。

 

どちらかと言えば虫の観察が好きな私は、
気になる度に、約4匹いるアオ虫たちの様子を見ていた。
3日位過ぎた頃、ブロッコリーがしなびて
臭くなって来たので、(当たり前だ)
そろそろ、片付けなきゃな〜と思いつつ、
様子を見たら、アオ虫の頭の辺りが形を変え始めている。
おお〜、食欲旺盛だったから成長が早いのだろうか?

 

その臭さを我慢して、もうしばらくそっとしておいたら、
次に見た時は、1匹が臭くなったブロッコリーから離れ、
お気に入り?の場所へ移動していた。1匹がプラスチック容器の側面に
繭を出してしっかり吸着し、じっとしていたのだ。意外な早さだ。

 

更に数時間後。いつも使っているショッピングバックを手にしたら、
内側上部にもアオ虫がいることに気付いた。
繭のようなものを出し始め、変態が始まっているではないか。
あとの2匹はブロッコリーの茎の所で少し色が黒ずんで、
繭はほとんど出ておらず形だけは蛹になっている。

 

 

もう初秋。蛹に変わった彼らは、いつ成虫になるのだろうか?
観察好きのくせにアオ虫のことを知らない私は、家人に聞いた。
すると、「冬越しするかもね」との回答。

 

ところで、それぞれが各所で蛹になっていたのだが、
1匹はプラスチック容器の外側面に。

もう1匹は、ショッピングバッグの内側。

共通しているのは、石油製品だ。
アオ虫がどんな判断をしてその場所を選んだのか興味深い。
安全確保のために、一定の間は変化の少ない物質を

探す能力が具わっているのだろうか…、と考えてみたり。

 

ブロッコリーの茎にいる2匹は繭が無く

どうも乾涸びているように見える。
もう無理かと思いつつも、2匹は別のプラスチック容器の中に、
直接手で触ると酵素に影響があるか、と思って

念のため、割り箸でつまんで仲良く並べてみた。
(ミミズ体表を手で触ると酵素を壊し死んでしまうと

聞いた事があったので)

 


それにしても、どうやって移動したのか想像が難しいのは、
アオ虫マンションの位置から1m位空間の離れた
ショッピングバッグの内側上部に引っ越した、アオ虫ちゃんだ。

その彼?彼女?は行動派だ。

冬越しをするなら、いつも持ち歩いているショッピングバッグは

しばらく休みにしておこう。
知らぬ間に、行動派の彼?彼女?を
振り落としたり潰してしまっては気の毒だ。
蛹で絶命させるのは忍びない。

この冬はバッグを使わずと決め、棚の端にしずかに移動させた。

 

春を楽しみにして、蛹ちゃんたちのことは私なりに
冬越しの準備をした(つもり)だから、もう忘れていた。

 

 

昨日の午後3時頃。

台所の奥にある窓にヒラヒラ動く影がある。
大きめの蛾が窓の外にでもいるのかな?と、よく見たら、室内側で、
それはモンシロチョウだった。
明るい方へ懸命に向かおうとしている。
急いで窓を開けると、それに気付いて窓から外へふわぁぁ〜〜と出て行った。
度々、家の中に色々な虫が入ってくるからなぁ、と思いきや
どうやら蛹ちゃんの1匹のようだった。

 

ところで、どの蛹ちゃんが羽化して旅立っていったのだろうか、と。
プラスチック容器を見たら、三匹は静かにしている。
もしかして、バッグか?と確認したら、

行動派の、彼?彼女?だった。
蛹は頭部の殻が破れ、中身は空っぽになっていた。

 

ほんの短い間の出来事だったが、楽しませてもらった。
ブロッコリーは食べ切れなかったけれども、何となく満足。

 

窓から舞い出ていったモンシロチョウが、
次の命に繋がることを祈りつつ…アリガトウ。

 

 

 

 

 

 

 

 

葉加瀬太郎のバイオリンから…

 

 

 

なぜだか葉加瀬太郎の演奏を聴きたくなって

Youtubeで検索して聴いてみた。

 

何だか、心にしみる。

 

何だか、大げさ。

 

何だか、ドラマチックで、やけに作り事。

 

ああ、現代はコミックなんだな…と思った。

 

もう、渾身の・本気の・時代を経た魂は、

ちょっと客観の世界でこの世を見ている。生きている。

だけれども、「今」に在らんとする意識の世界…。

 

だれもが、この世(三次元にて)の演者だと

気付きかけている。

それが、コミックなのだ。

 

立川志輔の落語も大好きなのだけれど。

落語を聞いていると、

この人は多分、すごく、コミック誌が好きな

落語家なのじゃないかな?!という

描写が随所にある。

 

現代の表現者の大半は「コミック」なのだな…。

真剣だけれども傍観者。

人生の悲喜交々は主観ではなく、

幾多の魂の人生経験で操る技を身につけつつある。

一生懸命と脱力。

 

冷静と、…情熱。

言語化しようのない無自覚なその熱情が解るのは次の時代か…洗脳社会故に。

 

 

 

主観を腫れ物のように恥部のように恐れながら照れながら、、

扱う時代の…客体・客観。 

 

そんなスタンスが現代日本社会なんだなぁ…と思った次第。

 

 

 

 

 

 

動物である

頭を使う事は外的世界を変える事。
体を使う事は内的世界を変える事。

 

身口意。

 

三次元に於いて

量と質が等しいことは調和として最も美しい。
量が増大することは気化(幻想)。
質が重質することは固化(虚無)。

 

かくさん (その1)

 

 

ある場所で、たまたま偽ユダについて会話する機会があった。
相手の人は、「BSでヒットラーが600万人のユダヤ人を
迫害したドキュメンタリー番組を見た、ひどかったんだねー」と話されていた。
言ってよいか迷ったけれど思わず、
ヒットラーロスチャイルドの私生児らしいですよ」と私は切り出した。
ユダヤ人迫害も事実かどうか疑問視されていることや、ユダヤ人と呼称する人種は
アシュケ…とスファ…がいて、アシュケ…は偽ユダであること。
公社からの民営化は彼らの私有化であること、
マスゴミも偽ユダの支配下であることを矢継ぎ早に伝えた。
その人はその話題に戸惑っておられた。が、全く拒絶する様子でもなかったから、
その流れで、田中角栄の話になぜか飛んで、ロッキード事件も、
やらせで、当方なりに分析した経緯を話し出すと、

別の話題に変えようとされた。
確かに一気に話す内容ではないのだけれども、ふと気付いた。

 

当時のロッキード事件マスゴミで知っている多くの人は、
田中角栄について考える事自体に拒否反応があるのかもしれない、と。

 

マスゴミは偽スキャンダルでバッシングして、
ん国際金融家らに都合の悪い人物を標的にし、
TVで散々、イジワルそうな表情の映像や
人格イメージを徹底的に汚し切る。

ロッキード事件は、今やマスゴミ十八番の手法、

それは初期実験的な報道と当方は位置づけしている。

 そして正論を掲げ反骨精神旺盛な人物の政治家生命を奪ったり、

実際に暗殺する。

大衆心理のほとんどは、つまり

一度嫌いになった人物の印象を

好感に塗り替える事はまずできない。
したくないのである。

それは、食べ物に例えると分かりやすいだろうか。

 

また一見、マスゴミの事実関係の説明で大衆は論理的に

理解しているつもりだが、

実際に視聴する私たち自身の心象を見つめると、

映像の威力で感情が優先になっているのが、

映像メディアの恐ろしいところである。

(イギリスのタヴィストック人間関係研究所を筆頭に

各大学の研究で様々なメディア実験があろう)

 

更にそうした媒体は、間接的な体験のものだから、

余計に無責任な感情となり、

感情の野放し・TVに向かって悪口言いたい放題になる。

 

 

大衆が、こぞって嫌悪感を持った人物の転落人生や亡くなることは、
大衆心理の中で正義感が盛り上がる一方で、
貶められた人物への(ざまあみろ的な)卑近な優越感が

大衆それぞれの心理に発生する。

連日過剰垂れ流しマスゴミ報道で大衆はその話題に

食傷気味・膨満感を持つことになる。

それと同時に、大衆側自身ひとりひとりの

後ろめたさ、うっすらとした罪悪感を伴って、

事件一連のマスゴミ報道収束と共に、
以降、大衆は生理的拒否反応とも言うべき思考となり、

一切それに触れず考えたく無くなる。

 

事後に事実関係を分析する者が、一般人にほとんど居ないのは、

だからこそマスゴミにとって好都合である。

嫌悪感あるいは好感、その「感情」を操ることが

マスゴミには如何に重要か、という訳だ。

 

 

 

深層は、嫌悪感による共犯的自責の念を大衆に発生させるのが
「レッテルを貼る」ということである。
それは「目に見えない意識」(無意識)の行為だから

自己によって客観視するのは、非常に厄介なのだろう。

 


そんな大衆の深層心理を逆手に取って、

マスゴミの人物バッシングは繰り広げられ、
政治的に操られているのが、戦後から延々と続く映像メディアの

マスゴミによる大衆汚染脳だ。

 

元来、意識は水や空気のように透明であるはずが、

マスゴミの恣意的かつ無駄な情報による大衆の小さな罪悪感の集積で、

潜在意識、集合意識が曇り濁ってしまう。

そこに警鐘を鳴らしたいのが、当方の本意のひとつだ。

 

 


かなりのひねくれ者である当方、

自称へそが2.5回転くらい曲がっている。

集団から嫌われる者と好かれる者の観察をほぼ無意識にしてしまう。

 

その観察から集団心理を当方なりの客観(生物的行動)で、
役割という見方をしてみたり、長所短所を己の姿に照らし合わせてみたり、

あるいは人間同士の因果関係や、
好かれる人物と嫌われる人物の生立ちにまで想像を

膨らませてしまう癖もある。


そしてどちらかと言えば、

一般に嫌われる人物に興味が湧き観察の目を注いでしまう。
むしろそうした人物の方が、面白かったりもする。
嫌われ者を擁護する視点も持っていたい、とも思ったり。
観察癖のこの当方こそ、嫌われ者になってしまうわな。(笑)

 

 

マスゴミの大衆汚染脳の狙いとは別で、

せめてもの恩恵と思ぼしき事を

ひねり出し見方を変えれば、マスゴミ報道の経緯は、

真逆の視点、あるいは異なる角度で
物事を考える、本質を見抜く自己の訓練に役立つ、と言えるかもしれない。

トホホーー;
(そんなことしなくて済む報道を望むが、まったくもって無理だから)

 

ドラマや映画では、映像に登場した回数と時間が

最も多い人物に、鑑賞者側は好感を持つ結果になるという。
受け身での鑑賞・見るという行為は、

視覚聴覚の情報「量」で好感度を左右されるのだ。

(CMはそれを利用している顕著な例)

 


繰り返しになるが、人物の悪印象の映像をニュースで繰り返し見る事が、
大衆にとっての嫌悪感に比例してもいるだろう。


人物に限らず、ケイタイだのゲームだのその情報に触れる程に、
経験値が人生時間に呼応するから、好きな事になってしまう。

そうせざるを得ない心理が人間にあるのだ。


心理的メカニズムを知って、情報量も

自らコントロールすることが重要だ、と思う。

 

 

 

 

 

鬼塚正昭氏の遺稿で、佐藤慎一郎氏が出版にこぎ着けた
田中角栄こそが対中売国者である」(成甲書房・今年3月出版)
という書籍の内容は、当方の知らないことだった。
中国から300億円の資金提供を受けた田中角栄の裏話には
どのような経緯があったか…。まだ読んでいないから分からない。

が、概要と目次に目を通し分かる事は、

これも汚染脳用ではないか、と。


なぜなら書籍を紹介されているHPを見ると「東シナ海油田」についての
話が載っていない。

中国共産党が、ん国際金融家の腰巾着であることは
書かれているのだろうか…。

 

 

 

 

これからの選挙の意義は、立候補者が命賭けで“偽ニッポン”の  真相を伝えること…

 

 

 東京都知事候補

 桜井誠氏  都知事に相応しい。

(経歴については他ページ等参照のこと。)

 

 

twitcasting.tv

 

都民ではないから一票投じることができないけれども。

当方にとっても、聞く価値のある街頭演説だったので掲載したい。

ぜひこちらの地元でも街頭演説を行なって欲しいと思う。

 

 


有田芳生先生もお忍びで応援に来てた!【桜井誠・東京都知事候補】パチンコ店前にて「パチンコ規制」を叫ぶ(司会:せと弘幸氏)2016.7.24西武新宿駅前

 

 

 ただ…天皇についての解釈は奈良時代から違っているので(ミッシングリング)、

その真相が分かると現代がなぜ狂った社会なのか、という

理由も解ってくるのだけれど。

それほど奥深く隠蔽されているようなのだ。

 

そして、西洋礼賛がたたってか、日本で外国人優遇の問題を

中国・韓国北朝鮮・フゥリピン・イラン等々に限って

取り上げていることも少々問題だと思う。

白人系外国人への優遇(これも差別)は法整備の優遇だけでなく、

日本人からの感情的優遇、白人系外国人の優越感や支配的態度には

大きな闇の問題と歴史的背景があることにも言及して欲しい。

桜井氏の発言は極東問題を悪化させる地雷を

踏むような発言かもしれないが、

一般の朝鮮人支那人も日本人も、

民族性の差異をも利用されている…、目を向けるべきその矛先は、

マスゴミや茶番劇役者の政治屋やそれを操るん国際金融屋さんたちだ。

とどのつまりは、世界中の一般大衆全体が狂育や政治、マスゴミからの

汚染脳による被害者なのだ。

 

 

主が母屋を明け渡しさせられ、離れに住まわせ、

居候が自分の家の如く母屋で大きな顔でふんずりかえることを

熱心に積極的に進めようとしているのが、

偽ニッポン政治の目的だ。

 

国際金融家集団の目論む偽ワンワールドにするために

外国人労働者不法滞在者、観光者によって日本を

破壊させようとする政治意図を見抜き、発言していかなくては、と思う。

 

「皆さま、母国・祖国に帰って地元を大切にして生きて下さい。

マスゴミの言うところの成功者なんて幻想ですよ。

白人の皆様はヨーロッパへ、黒人の皆様はアフリカへ、

中国人の皆様は中国へ、朝鮮人の皆様は朝鮮へ…。

そうすれば、環境破壊も是正され、きっと平和社会になりますから…」と。

非現実的であるけれど、そう呟きたい衝動に駆られる訳で…。

 

タンザニア出身の知人が言っていたことを思い出す。

アフリカは元来、豊かな大地なのだ。白人たちは彼らから

大地を奪い利用し続けるためにアフリカを貧しいイメージにして

メディアで繰り返し流しているんだよ。

貧困に苦しんでいる人ばかり映すのもそうした作戦なんだ…と。)

 

 

 

 そして、この人もよくぞ言ってくれた、と思う。

C1A配下チョウセン汚電通勢力下のマスゴミの一端を

発言した立花孝志氏の動画。

 

 

 


東京都知事候補者 2016 政見放送 立花孝志

 

 

これからの選挙の意義は、立候補者が

“偽ニッポンの真相”伝えること…

だな、と思った。

 

不正選挙システム企業・安倍ムサシ”が選挙票の隠蔽疑惑を

今回、更なる巧妙さで総ム省があっさり改竄しているだろう

先日の参議院選挙の様々な情報で改めて思い知った。(呆れた)

 

偽ニッポンの選挙は出来レース&不正選挙なのは、

洞察力のある人ならもう分かっている。

だから、選挙など意味がないと諦めざるを得ないし、

政治に関心を持っても国民不利益が目標だから、

大衆の心には無力感が席巻してしまったのだろう。

 

カネや権威・マスゴミ知名度で当選させてもらえる国会議員

各政党所属議員やら…諸々、民主主義と標榜しての茶番劇場の議会は、

国民代表ではなく、国際金融家配下の偽ニッポン・朝セン官僚の

パペットとしてしか、どうせ活動できないのだから、

現議員に何を期待しても無駄だ。

 

 

 

国際金融家とタッグを組んでいる

田布施システム二〜三世国会議員やら

在日チョウセン勢力汚電通マスゴミ”が、画策し

毎日毎日、偽情報を垂れ流し、偽大義で偽法案を通過させ、

日本の姿を消失させんとする意図が、

あることは肌で感じる。

(明治以降それが顕著になった訳で)

 

危機的状況のこの国で、

本質を掴み在野で研究し活動してきた人物の出馬を機に、

問題の真相の一端を大勢の人々に伝えるのが、

残されたわずかな正攻法の手段だ、と感じた次第。

 

 

当方は全然、知識が足りないけれども、

根本的なことを問えば、神話時代に遡る約三千五百年前、

更には数万年の認識についての「歪み」が根底にあることを思う。

また、約2000年欧州勢ユダキリ問題、中世からの偽ユダ国際金融家を

大衆が周知しなくては、世界中の問題の根本解決には至らない、と。

 

ともかく、

皆がメディアを信じ込んで世界を見て知っているつもり”になっている

現代社会の状況下では、

せめて街頭演説で、偽ニッポンの実態に対して

真摯に向き合ってきた人の生の声に耳を傾けることが、

社会の刷新につながる第一歩だと思われる。

 

国家という括りと政治はもちろんのこと、

食糧・教育・宗教・科学・医療・福祉・金融・通信・

あらゆる産業…

世界中すべて汚染脳情報に取り囲まれた大衆は

無自覚な

奴隷・家畜・ロボット…状態である事を

まずは知り自覚し、受入れることだろう。

 

つまり、「起きなくていい余分な問題」「茶番劇」

インチキリーダーによる、

社会全体の偽問題・偽事件偽事故偽戦争偽テロ…。

 

インチキリーダーが支配運営するマスゴミの偽情報が

世界中を席巻している。

 

まともに暮らそうとする一般大衆にとって本来は、

遭遇する必要の無い、

国際金融家がバラまく諸問題や不幸に見舞われ、

世界中の大衆が認識を制御されながら、

人生を翻弄させられていること。

その根本に気付き、探り、知る事が急務の時代だ。

 

直感的に疑問を持つ事の重要性。

疑問を見失わないで、過去のマスゴミ喧伝情報、教育刷込み言説

マスゴミは例えば、ロッキード事件、国営から民営化の前後報道、

大麻事件の流布、ガン偽治療、原発事故の被害隠蔽、

中国北朝鮮問題…何もかも…すべてやらせ)

(狂育は例えば、日本は資源がない、

 独創性ではなく作り替えることが得意な国民性という

 刷込み教育の文言、英語が世界共通語として強制的に学習させる、

 母国語を粗末にし神話を学ばない伝えない民族は滅びることを承知の上の

 GHQ政策。)

 

 

 

外側の与えらえた知識や情報より、

内側の自身が感じた直感を信じ、

素朴な疑問を忘れないよう、

その試行錯誤が真実を見つける道だと私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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輸入材

 

 

隣町に約二百メートルとわずかだが、

古い街道沿いに古民家が並ぶ、

昔の日本の風情を感じさせてくれる道がある。

町並み保存会が活動したお陰で残すことができたそうだ。

散歩道として気分よく歩くことのできる、

ごく少ない、人に優しい道である。

 

そこの古民家の格子や木の塀、

何軒かの木造建築を見ながら歩いている時に、ふと気付いた。

 

ああ、そういえばホームセンターなどで売られている

輸入材のラティスや木製ベランダだと、10年も経つと、歪んだり

汚れたりして、寂しく痛々しい印象になる。

あるいは、今流行の飲食店で、ヨーロッパ風やらアメリカ風やらアジア風、

サブカル的?やロック的?な意匠の建物や店舗装飾が、

やはり、十年位経過すると、どこか荒れた印象になっていくところが

多い気がする。そう思うのは私だけだろうか…。

つまり、アイデンティティの底が浅い意匠と言えば良いのか、

そうした「物」は、時間と共に「美や風情を刻む事が難しいのだろう。

 

 

だが、日本の木材を使って作られた建物、窓枠や格子や木塀など様々な建材は、

味わいとなり、経過した時間に歴史を感じさせてくれる。

情緒、風格のある佇まいが、街全体にまで生み出されるんだな、と。

良くできたものだ。

 

 

地産地消という言葉は食べ物だけではないようだ。

その土地、その風土にあった物を使うというのは、

建物にも通じる、あるいは衣類にも。

言葉や習慣、文化…様々な価値観に繋がっていることだろう。

 

風土にあった暮らし方は、そこに住まう人々の心も

安定させてくれるようにも思う。

 

結局、遠くの世界・青い鳥“偽イメージ・偽情報

追っても仕方が無い。幻想でしかない。

 

身近な土地・世界を活かして暮らす事は、

環境負荷が少なく、自然を生かすことにも繋がる。

人間の第一使命だな…と思った次第。

本当の自然循環は、身近な小さなことから

もたらすものなのだろうな…、と。

 

自己中心的ではなくて。

己の中心に気付くことか。。。

 

話が飛躍してしまった…。^^;

 

 

 

 

 

 

「お金の秘密」…安西正鷹著 からの感想           当方別ブログ転載予定記事

(H28.7.9)

 

 

 

5月半ばのこと。近所の道路を歩いていたら側道に植えられている
ツツジの剪定をしていた。
だがその様子が剪定とは言い難く、市職員か、土木下請業者かは分からないが、
チェーンソウで乱暴に凄まじい伐採をするのを目にした。
剪定について何の知識も持っていないような、
まるでチェーンソウの扱いだけを面白がっているが如くの若手作業者。

それを見て、私は胸がぎゅぅっと痛くなった。
ツツジも生きているんだよ…と。(涙)

昨今、自治体が行なう街路樹、草木に対しての
乱暴な伐採作業の様子があちこちで見られる。
余分な想像であるけれども、多くの人間と同じくその作業者も、
自分の所有する自動車やバイクは、きっと舐めるように大切にしていることだろう。

命を繋ぐ、空気を与えてくれる植物、目を、心を和ませてくれる植物には、
思いやりの欠片も無い暴力的な関わり方。
カネのかかった物質、虚栄心を満たす道具には愛を注ぐ。
何という物質礼賛社会なのだろうか。

逆さまの価値観。
本末転倒にもほどがある異常社会。


些細なことだったが、その様は記憶から消えない。
あの時、進言をするべきだったと未だ、後悔している。
ひとことおおい私としては。

これが現代日本の実状だ、と思う。何とも、切ないことだ。
幕末までの日本は欧州勢の人間がうらやむ美しい国土だったことに
改めて思いを馳せてしまう。

古来からの日本人の精神性だった
八百万神への畏怖心は一体どこへ消えてしまったのだろうか。
現代日本人の自然観は劣化の一途を辿っている。
なぜなのだろうか、と。

 

この地の変化に富んだ自然の豊かさや多様さを完全に忘却させんとする
現代教育やマスコミ政治経済のプロパガンダによるところが大きいであろうが、
闇の権力についてあれこれを調べ知るうちに、
535年関西隕石落下(K氏説)を機に、
半島から亡命中の半島系支配層(百済系)が天皇と自称した時。


その経緯を知る藤原氏奈良時代の暗躍で、八百万神をすり替え、
古事記日本書紀偽書)の啓蒙で、神人物崇拝=天皇という、
大衆にとっての誤謬が、その根にあるのではないかと、思い至る。

 

音読みと訓読みの違いは、大和語と大陸からの言語を示している。

コジキ・ニホンショキ・テンノウ・・

音読みである。

大和言葉は、やまとことば・やおよろずのかみ・・訓読みの違いを

分析し、感受感得することの重要さ。

 

 

また、魏志倭人伝として伝えられた大陸の客観的な資料も詳細に読めば、

洗脳目的の現代日本史教育下では理解し難い、

日本という国の史実・事実の変遷の参考にもなろう。

逝きし世の面影で編纂紹介されている幕末訪日欧州人らの書物、言説は

客観・観察となり、それと類似し同様の用を為している。

 

 

「自然への畏怖心」は、生物として無くてはならない感性だと思う。
「八百万神」は、古代日本に於いて概念ではなく天皇の専売特許でもなく、
実感として人々の生活に根付いていた精神性だったと思うのだ。

生態系・食物連鎖・「自然循環」を意識化し、かつ詩情がもらたされる
豊かな想像力へといざなう精神的象徴としての神々。
太陽や星、大気や風、雨や水に、火に、山に大地に、
植物、微生物、昆虫、動物、鉱物…
万物に命が宿ると感じる心、精霊信仰が人には、元来は具わっているはずなのだ。
倭人種は、自然環境や他生物、生活に、活かす知恵を顕著に持っていたと想像する。
ところが、現代では神社仏閣を筆頭に、いつのまにか宗教観や信仰心が
神話偶像や人物崇拝へとすり替わっているように思う。

支配者層の天皇家や藤原家らが行なう、
政治的な意図で度々、半島や大陸からの文化的影響や
多少の遺伝子の交雑があったにしても、
倭人種が祖先の大多数の一般大衆であり、
自然への畏怖心は少なくとも約150年前までは、
この地には脈々と流れていたと思う。

ところが、明治維新1868年頃を境に、欧州勢国際金融家が牽引した
産業革命と称する経済活動と大規模戦争を日本支配者層は安易に受入れ
それを契機に急速に、日本人の自然観は劣化し崩壊が始まった。
現代日本では「八百万神」は風前の灯だ。


毎度の仮説を持ち出すが、
朝鮮半島から北陸地方にこっそり亡命していた支配層一団が
535年の隕石落下を機に関西へ移住し、天孫降臨を唱え
この地に暮らす倭人を支配し始めた。
7世紀初頭、日本という名が呼称され始め、
645年大化改新では藤原氏が政治的主権を掌握した。
同時に、藤原氏は仏教を国教にせんと奨励した、それを
現代日本では肯定的に捉えさせるよう歴史教育がなされている。
更には、古事記日本書紀を成立させた背景には、口伝を
改竄したであろう分析も多々ある。


今回、「お金の秘密」で初めて知ったのは、まだ読んでいないのだが、
斎部広成「古語拾残」という著書の内容、中臣氏批判だった。
“中臣氏の勃興と軌を一にして神道は没落した”という点は、正に
神道=八百万神を敬ってきた倭人種の自然観が歪曲され始めた根、
発端と捉えることができるだろう。

話は逸れるが「お金の秘密」の中で私が信憑性に欠けると感じる内容は、
藤原鎌足ユダヤ人のレビ族、藤原不比等ユダヤ人シメオン族…
松重揚江と中原和人という二人の在野の歴史家が唱えた仮説や
関祐二氏のそれを裏付ける云々…”
この概念的な説明は、いかにも訝しい。

日ユ同祖論を提唱し始めた一人が戦前に執筆した佐伯好郎という人物だ。
その説については、晩年その同祖論を唱えた理由を
ユダヤ資本を導入するための功利的な企画」と
Wikipediaに記載されていた。
が、その理由にも目逸らし・藤原氏影響下の意図(藤原氏からの影響を隠蔽)が
込められていると憶測してしまう。


あるいは、失われた十支族だか十二か十三支族という説が
天皇家らのルーツと関係があるという話も、535年隕石落下説を加味すれば、
当然ながら書籍からの説は信憑性を感じない。
しかも(素人くさい理由だが)、十だ十三だ、と数字がコロコロ変わること自体、
単なる噂話のようでバカらしいと呆れるし、今流布されているのは
偽支族の話であり、功績どころか、過去の社会より更に、

人間や生物、地球環境を劣化させている支族らに、何の有難味があろうか。

 

王族・貴族や天皇家やら血脈血族血縁にやたら拘る選民階級の思考、
支配者層らはその家系が血塗られたものであることは棚に上げ、
“文明を生み民衆を導いてきた誉れ”とする一般的な歴史認識
ホマレではなくホラではないか?!と私は思ってしまう。


まあ、一般人のこちらが雲の上の歴史や人間を
批判したところで仕方が無いのだけれども。(苦笑)

家系を重視する彼らが血脈血族血縁に拘るのは、
常識的な目線で言えば、単純に、巨万の富を延々と掌握し続け、
できれば未来永劫、そして、あわよくば更に大きくしたいからであろう。
その大きくしたい支配者層同士の利害がぶつかる時、
大衆を使って水際で、大規模戦争が必要なだけだ、と言える。
彼らにとっては戦争を実行すれば、新たな利益が発生し、
更なる富を手にするチャンスのゲームなのだから。

支配者層らの婚姻も、財産保守や拡大のために、金持ちは金持ちと
結婚しないと財産が目減りするから、やたらに家系が重要な訳で。
大衆の犠牲を払ったその上に、巨万の富を築き守り続ける家系に
美しい血が流れているとは到底思えない…。

こんなふうに思う私は、ひねくれているだろうか。
それでも昔のこの国の人たちが口にしたことは、やはり正しいと思う。
「氏より育ち」なのである。

一般大衆としての私たちが自覚することは、

権威権力への欲望や羨望を捨てることだろう。