ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

プロパガンダに気付いて…互いが自由に。

西洋文化の困ったところのひとつが
自由のはき違えだと私は思う。

いわゆる欧州系の人間が唱えるFreedom
「自由」は、物理的なことを意味していると、
常々、思っている。

誰かが物理的な自由を追い求めれば、
他者、対象が不自由や犠牲、迷惑を強いられるのが、
三次元の法則だ、と思う。


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些細なことであるが、
半年前のこと。うちの周辺道路は自動車の往来が激しく、
道路も狭い。その日私が自宅付近に近づき、車を駐車場に止めようと
減速し始めた頃、車の前や横をウロウロする
スケードボードに乗った青年がいた。
かなり迷惑だな…と、様子を見たら白人青年だった。

私は車の窓を開けて、その青年に「ちょっと危ないよ!いい大人が
狭い道路でそんなもの乗らないで!」と、
ヒステリーおばさんと化した。(この頃、ワタシ変なオバサン?!)
青年は、おののきスケートボード
乗って慌てて通り過ぎたが、動揺して転びそうになって、
やっと乗るのを止めていた。

また、ある日のこと。区画整理していない地域の主要道路にも関わらず、
車が一台しか通れない道でのこと。
そこで飼い犬の紐を外し、はしゃいで散歩してる親子がいた。
その様子に気付いて、もちろんこちらは超低速である。
私の車が通ることを殊更に騒いで、犬の心配をしているのであるが、
紐を外して遊ぶのなら、公園でお願いしますと、厳しく言った。
やはり、その親子は白人だった。

余談だが、十数年前迄よくTVに出ていたアメリカ人タレントは、
殺人歴を持つことを最近知って驚いた。そんな経歴を持つ人間も
売れっ子タレントになってしまうことには呆れた。
ドンだけ、物理的に自由なんだ?!と。
日本人はもちろんアジア系やアフリカ系の人なら、
出国さえできないだろうし、
タレントなどあり得ない…とも思った。





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他の民族、人種に比べ、世界中に白人は散らばり、
他国でも好きなように暮らしている彼らに
以前は、欧州系人彼らは勇気があって行動力・冒険心が
旺盛なんだぁ、自由に行動しているなあ、と能天気に思っていたけれども。

国際金融家や偽ユダ、欧州勢に疑問を感じるようになって
身近なことを観察していたら、経済的にも社会的にも優位で
自由度の高さを白人たちが謳歌しているのは、
与えられていたからだったのか…と気付いた。

この狭い日本の国土で、道路事情をお互い気遣いながら暮らしている
私たち日本人。物理的には不自由でも気遣いや工夫で何とか解消しつつ…。

それにひきかえ、他の民族に比べ、
欧州系人の彼らはマスゴミイメージ戦略から
生活習慣・経済・マスゴミ・宗教・教育・言語に至る迄
(白人は善良、優秀な人間というプロパガンダ)、
扱い等々が優遇されてしまっている。
特別扱いの常識の風潮が漂っている。

よって、移住しているその先の
国の常識、良識、価値観、事情、扱い等々に遠慮することや
気遣うことができていないのだろう、ことに改めて気付いた。

よくよくみると、日本に来ている外国人、
旅行者も含めて、欧州系人は図々しいし威張っているなぁ、
と思える事に時々遭遇する。

刷り込みのイメージで日本人のこちら側が「いい人」と思い込んで
いるだけのことが多い。
「白人」を友人に持つ事が優越感になる日本人もいるようだ。
だが、むしろ、
どこか有色人種を蔑視する狂った日本社会であるのに、
中国人や韓国人、フィリピン人、ネパール人、ブラジル人、トルコ人…等々は、
お金の為と言えど、日本社会に馴染もうと、辛い仕事を請け負っていたり、
日本人に添おうとする努力を感じ私は好感を持っているし、健気な印象がある。
はっきり言って、マスゴミ情報で汚染脳され、
実態に気付けない、白人優位の人種差別を助長している
日本人を私は軽蔑している。

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さて、あまり書きたくないのだが、
日本人は正論を持って厳しく叱る、
また厳しい眼で睨むと彼らは、
恐れることを聞き知っており、
体験的にそう感じた事が幾度かある。
理由もある程度、納得している。
だが、その理由はここには書かない。


ともかくイメージ映像などでアメリカ人らが、街をスケートボード
楽しそうに徘徊するのを目にする事があるが、
あれはUSAの国土が広いからあんなことができるんだよ、と。

日本のように狭い街並みで、目配せや仕草でお互いが気遣い、
事故の無いように暮らしている状況認識が、彼らにはできない。
中世から現代まで大陸をどんどん欧州用に塗り替え、
物理的自由度を高くしていった彼らの感覚には認識不能だろう。

最近一層、様々な刷込みイメージで欧州系人・白人に好感や憧憬を
抱き偏重している日本人が多い事も嘆かわしい。

短絡的に世界は一つだとか、を嬉しがる以前に、
アメリカ、アフリカ、アジア…大陸、諸島あらゆる民族の迫害、
混乱を作って来た歴史を持つ人間が、学習し自覚して欲しいこと、
それは欧州系の彼らにこそ、
平等とは何か、自由とは何かを自問自答して欲しい。

 

平和社会の本質は、簡単な言い方だが、
それぞれが自国(祖国)に民族が戻り、地理的に近い隣国・民族同士が
資源や技術の共有・協力・助力をすることだろう、と思う時、
現代になってマスゴミは年柄年中、近隣諸国同士の悪い情報・イメージを
報道する。つまり、軍事産業でぼろ儲けをする人間にとって、
必要な喧伝な、だけである。
隣国への個人的な印象や感情は、皆がマスゴミによって、
制御・汚染脳され“”軍事拡大”に利用されている…ことに気付いていない。

(USAとの安保理など全く不要で、日本の地理ならば、

韓国北朝鮮中国台湾ロシアと友好的に政治をするのは、当然のこと。

USAならカナダやメキシコと仲良くやってくれ、と。
向こう三軒両隣である。遠くの資源・経済・人力をあてにしないことだ。



私の思う自由とは「精神の自由」である。
物理的に自由度を高くすることは、
単なる傲慢だ。
慎みを忘れ図々しくなることである。
そろそろ、世界中の皆が気付いて
発言する時代ではないだろうか、と。

無論、人種ではなく、個人を見ること、感じることが
相手を尊重することだろう。
人種によって優遇、贔屓、チヤホヤすることも
ひとつの人種差別である。


本来、人格と人種は関係ない。
そして、人間以外の動物は色眼鏡をきっと持っていないだろう。
生物としての人間同士も、分け隔てなく本音であればこそ
心が通じるのだ、と思う。

家庭教育で個性・人格は育まれるが、
国家教育では個性・人格は歪められる。
国家は人種差別を個人に対して裁くが、
人種差別を作っているのは
各国家の政治経済格差とそのプロパガンダである。

欧州系国家が優位な人種の位置づけをし、
平和、平等と言うパッケージに人種差別という毒を入れて、
世界中にバラまいている。

世界中を偽ユダ彼らが私物化できるよう、
何百年も価値観を混乱させるための胡散臭いことをし続けている。

現代日本社会において妙に白人をチヤホヤするようになったのは、
戦後のGHQマスゴミ・狂育の戦略によるところが絶大だろう。

相互が自由になるには、
事実を知る、視点を変える、見る角度を自在にしていくこと、
それこそが人の求めるべき自由であり、「精神の自由」だ。
内観する能力、想像力と言えるだろう。



平等・公平な社会風潮にするには、まず
外部から自分の意識に刷り込まれたプロパガンダや
付けてしまったフィルターに気付く事だと思う。

マスゴミ・映画ドラマ小説…あらゆる映像メディアは
偽ユダ・白人に好都合になるようで作られている。

(例:映画ではヒーローや善人または被害者→白人、悪者→黒人
   理想社会を描いた映画や映像→白人だけ
   明るい未来を宇宙人が語るネット映像等→必ず白人の容姿
   未来予言書著者→白人(偽ユダ)執筆
   太古の秘密もどき発見の書の著者→白人(偽ユダ)執筆
   権威のあると思わせる理論や説→主に偽ユダ執筆
   才能があると思わせる芸術芸能活動→主に偽ユダ
   発見、新しい…などオリジナリティを強調する技術→主に偽ユダ
   アフリカやアジア各諸島などの美しい自然のを破壊しながら、
   豪奢な宿泊建築やリゾート地を作り、有色人種の労力をフルに利用し、
   カネを稼ぐだけが目的なのに、自然保護とか遺産とかで
   マスコミや広告を使い喧伝する→偽ユダ
などなど他にも多数。

欧州系人が優秀というよりマスメディアを支配しているから、
(偽ユダ)が執筆や製作などのやっていることが、
主流になるだけである。これらすべてがプロパガンダだと思っている。
優遇(差別)されていることに
安住や満喫できること自体、彼らが鈍感なのではないか。
各民族の心の痛みを分かったつもりのふりはしていても、
未だ分らないから、優遇される社会で闊歩できてしまう。


中世以降、インディアンをアメリカから迫害・排除しておきながら、ご丁寧に、
インディアンを擁護するさも天使のごとく発言の書籍も白人(偽ユダ)。
間接的には、それ隠蔽だろ?!…と。


昨今の日本に限らず、世界中で外国人の出入りが急増している。
日本人なりに、外国人に対して親切にすること同時に、
日本の事情による社会規範を乱す行動の外国人、
他国から日本に来て、この国の住人を軽視する外国人には、
人種等関係なく、公平に注意をすることも時に、必要あろう。
あるいは、さっさと帰国し自国・祖国を尊び大切になさいませ、と。


自国の常識を他国に持ち込むこと、押し付けることが当たり前の偽ユダ・欧州系白人。
それを自由だとのたまう。
他の民族が同じ事をすれば即、悪者として徹底弾糾するマスゴミプロパガンダ。


他国の常識に合わせる心がけ、努力、気遣いをしている
アジア、アフリカ…諸々地域の人。

どちらが人として
まともだろうか…。

 

 

 

スーパー小袋から……。

 

 

先日、たまたま巨大某ショッピングモールの食品売り場で
少々買い物をし支払いを終え、レジ横の台で鞄に品物を入れている隣に、
ひと回り位年上の女性が来て、買った食品を買物袋に詰め始めるやいなや、
明らかに購入量よりも多いだろう、台の据付ビニル小袋を
トイレットペーパーよろしく、ぐるぐるぐる〜っと引っ張っておられ、
ご自分の買物袋に仕舞われた。
時々、お見かけするそうした行動タイプの方であった。

お節介承知でひとこと苦言を呈すべきか、
いや、年上の方に失礼だ。
そう、生活もお互いに大変な時代だ。
こういった行動に至る何かご事情が、あるやも知れぬ。
せめて、その小袋が役立つ使い方になることを心で願うか、と。

ともかく、どうでも良いような些細なことである。


レジ横のその場をつつがなく立ち去ろうとした時、
おばさん気質の例に漏れないワタシは、
お姿をつい見してしまって、その女性が
Vトンのバックをお持ちでいらっしゃったのが、
印象的であった。

 

街では、欧州系車や国産高級車にお乗りになっている
運転手の方は概ね、運転が乱暴な気がする。あるいは、
明らかに道路事情を混乱させるような場所に、まま
お車をお止めになる。

更に疑問なのは、お巡りさんが、

高級なお車らに対して駐車禁止やスピード違反だ、として

対応しているのを見た事がない。

変だよなぁ…、と。

 

前回記したことで、他者、対象を咎めては己の心が不自由に
なってしまう…。同じ穴の狢に…、と分かってはいるものの…。

色眼鏡で、恐縮ではあるが…、
なぜか、符合するのは、高価な物品をご使用の方の多くは、
公共の場や、他者の物や空間と、私物の垣根が低いのか、と。


あ、税金を一杯お支払いになっているからか…なぁ。

 

率直に言えば、公私混同か、わりと道徳感に疎い方が多い印象を受ける。
もう少し踏み込んで言えば、虚栄心や自己顕示欲を

くすぐる高級な物や事柄などを嗜好される方は、他者や対象への思いやり、

配慮はさておきの、タイプなのではないかな、と。

 

お上品に、上等に、格好よく、綺麗に、お洒落に、

見せようとする行為、あるいは努力と、

品性は逆だなぁ、と常々思う。

 


子どもの頃から変わらず、ワタシはそう感じている。

いや、おばさんになったワタシの嫉妬かぃ?!とも考えた。

が、前述した事例と照合すると…、さもありなん。

 

 

話は飛ぶが、欧州文化では「競馬場」が、かなりのお洒落をして
繰り出す貴族の社交場であるのだとか。

 

日本を思えば、競馬場を始め、パチンコ、競輪競艇…、
あらゆる賭博場に於いて、決して清々しくはない、
どちらかと言えば荒んだ感じをあるいは、

胡散臭さや虚飾の雰囲気を感じる人も少なからずいるだろう。

 


色眼鏡で恐縮ではあるが…、
これを民度の違いと思うのは、当方だけだろうか?!

 

はっきり言ってしまおう。


日本人はその昔、素朴でまともだったから、
賭博場などカネが多く動く場、欲得がうごめく場所が、
荒んだ空気になるのは、当然のことで、自然の成り行き、と思うのである。

 

清貧とは逆の、西洋文化の影響と思える、

金銭物質礼賛(物質崇拝で、心がお留守気味)である事を
現代日本に於いて、それを証してしまっているのではないか…と。


つまり競馬場が社交場っていうのは、かなり欲得勝負に免疫がある人間というか、
損得勘定金銭欲が満たされることを存分に楽しめるのは…、
その〝スジの集団〟に類似しているな、と。

 

毎度、しつこく書く内容だけれども。
明治以降、どんなに欧州からの刺激や影響を受け、
技術が精鋭、発達しようが、目的が利己利益の勝負、競争、
虚栄・虚勢、虚飾の「欧州発」のマフィアヤクザの文化文明に、
当方は明るい未来を感じない、もう限界だと思ってしまう。

 

(他民族の生活を全て破壊し強奪強姦し、奴隷の力で生活を維持してきたことを

 我が富とする盗賊団の末裔が、

 欧州貴族・金融家シェルバーンサボイタクシスモルガンメロンロスチャイルドロックフェラ-盗賊団)

 現代日本人を始めほとんどの人間が、その輩に憧憬を抱く、キチガイゴイム(汚染脳家畜)。

 富=金&物質という価値観を刷り込まれているがゆえに。。。

 

 

 

約260年、国家破壊や奴隷商売のイエズス会を封じるため、

鎖国政策を続けた江戸期。

 

幕末迄の日本人は、身分に関係なく
季節ごとに美しい自然の風景を楽しむ行楽や句会を、
人生の中で大いに楽しんでいたという。
ほどほどに働いて、趣味や遊ぶ時間を充分持っていたそうだ。
個性的なお洒落、美意識があった。植物動物をいとおしんで暮らしていた。
鎖国ゆえに質素でも、知恵を使った暮らしぶりは、
豊かで美しかったことが窺える。
金銭物質礼賛が育たない環境だったという言い方もできるだろうか。

江戸時代半ばから幕末にかけて、藩政によって差はあったものの、
お米の生産は充分でむしろ余剰しており、食糧に困ってもいない、
皆、幸福感に満ちた表情で、丸々とした姿だったという。

一揆が一番多かったのも実は、西洋礼賛・軍事国家へと
変貌した明治以降だと聞いた。
その頃はもう暴動と呼ぶのだろうか…。

江戸時代を貧しかった、とほとんどの人間が思い込んでいるのは、
明治期の実態と江戸時代の事実を映画やドラマ等の映像や文章でイメージを
マスごみや偽教育が、意図的にすり替えてきたからだろう。

そして、かつての日本は人が近づいても野鳥も逃げない、
鳥たちの楽園だった、と「逝きし世の面影」(渡辺京二氏著)に
綴られていたのは、特に心に残っている。

幕末までの日本人は、知恵深く優しく、
賢かったことを改めて思う。

俯瞰して大雑把に言えば、西洋からの支配の影響を受けるまでは、
東洋をはじめ南北アメリカ大陸、オセアニア、アフリカ等々…欧州以外の

地域の人々は、自然に、生物に、地球に、…畏れを持ち敬い、

慎ましやかだったのだ。そして「中庸」思想があった。

それは生物として自然な感性としてだと思う。

 

余談だが、20年程前に、レイチェルカーソン著書を読んだ時、

当たり前のことが書いてあるだけで、

なぜそんなに有り難がって、名著だ、ベストセラーだ、と騒ぐのか?

日本人の私にとっては不可解だった。


昨今、西洋の進歩発展の価値観、優秀・勝者を果てしなく目指す、
高く、速く、多く、強く、大きく…という完璧主義が、

東洋にそして日本に、重苦しく充満してしまった。

中世以降、欧州勢はそれ以外のすべての大陸、多数の諸島、
アジア、もちろん日本も、奴隷と略奪の被害で悲惨な社会にしていった、
そのスジの集団より、もっと強烈な歴史を持つ欧州勢力の爪痕を
マスゴミ・偽教育で西洋礼賛汚染脳によって、
何食わぬ顔でかき消そうとしている。
むしろ、尊敬や憧憬を強要されている気さえする。私は身震いがする。


特に戦後から現代社会にかけて、過去歴史の事実・実態を
こっそり忘却させんばかりの必死のマスゴミ活動が見て取れる。
このようなことを書くこと自体がヒンシュクという風潮をも
巧みに作っている。
おぞまし過ぎる歴史を彼らは、さっさと封印したいのだろう。
なぜか、幼い頃から私は西洋文化や現代文明に
疑問や違和感が尽きなかった。
30代になって、欧州勢やイエズス会、国際金融家集団の正体を知り、
中世には何十万人もの日本人も、奴隷として世界中に売られていったことを知り得て、
江戸時代が鎖国に至ったのは、重大な経緯があったからか、と合点し、
多くの疑問や違和感が氷解した。

隠れ切支丹や宗教についての解釈も180度変わった。

今、西洋への憧憬や欧州の有名人を世界中で丁重に敬うような
盛んなプロパガンダの理由は、むしろ判りやすく滑稽に映る。

 

それにしても、最近のケイタイ電話のCM広告やその他広告、

昔の日本を描いたつもりの映像、画像は、
下品で暴力的でひど過ぎる。日本人を貶めたい悪意さえ感じる。
食や医に関して昔の日本が西洋からよき影響を受けたような
人気女優を起用した汚染脳用ドラマには呆れてしまう。

 

幕末迄の菜食が主で慎ましく美しく暮らした日本人から変わり果て、
まったく逆の肉食偽食加工食砂糖菓子浸けになった大多数の現代日本人は、
真偽を見極める眼力や感性は、すっかり劣化してしまった模様…。

 


暗いことばかりに目を向けていては気が滅入る。
浅ましく卑しいことを目にする事もあれば、
時には清々しいこともあるものだ。

2年程前のこと。町内の廃品回収に参加している時、
八十歳後半の女性が衣類の古布を丁寧に紐状にして
古紙をきちんと束ね、微笑みながら「お願いします」と
美しい状態で出された姿が忘れられない。
その方の使い終わった物への感謝の念を
感じずにはいられなかった。贅沢な住まいの方ではなかった。
品性はこうした方から漂い、敬う気持ちが
こちらも自然と湧いて、記憶に残っている。

 

 

それでも、「自分の欲望に正直なこと」も悪い事ではない、としよう。

できるだけ菜食をと気を付けているはずの自分が、半年程前に、
家人に誘われ入ったラーメン店で、ニンニクご自由にどうぞ、
というトッピングを二人で調子に乗ってたっぷり投入し、
ご機嫌で食べ終わり店を出る際、
店主はワレワレに「ありがとうございました。」と
言わなかった…、、、だののあまりにショボイこと(当たり前か…。)まで、
覚えている。(苦笑)
人間誰しも、浅ましく卑しく図々しい行動をして、
他人様の気分を損ねたり軽蔑されることはあるもんだ。あはは^^;。
ビニル小袋より、むしろ質がワルいわな…、と反省しつつ。


現代社会はそういう狂乱時代のサバイバルが
課題なのかいな…ぁ???
納得できなくとも。

 

 

広告まみれ喧伝だらけの現代日本
まあ、できるだけ虚飾、虚栄に吊られ汚染脳された「偽の欲望」に流されず、
少しでも昔の事実を知って、真実を学び、凡人なりに
本当の「欲」とは何かを問い続けることにしよう。
それもきっと中庸だ。

日常の些細な出来事から、大層なことを思った次第。

 

 

 

不安を選ぶ、という話のつづき

つづきというか、補足。

 

ついでに理屈を書くと、方向性を持って生きると目的意識や念が強くなるから、
今、流行言葉のいわゆる、引き寄せの法則というものが起きるだろう。
更に言えば、意識の世界で単位が変更されるというか(mmからcmそしてm…)、
例えば、些細なこともひとつひとつ感謝することを心がけるエネルギーが、
やがて塊になって、もっと大きな感謝や感動になる塊に出会うという感覚だろうか。
景色が段々、ダイナミックに変わっていくというか。

 

こんなふうに意識が変化するときは、塊になって大きな感謝や感動に…と

綴ったけれども、意識そのものは微細になって、

気付きは逆に、細やかになっていくように思う。

波動が高いという言葉を耳にするが、その状態は

意識が繊細になり密度が高くなる、

質が上がる感じ、と言えばいいだろうか…。

 

 

大きな循環の始まりも、小さな今できることから、気付いたことから、
ひとつずつ、身近なことから、お互い様の気持ち…から、と思うのだ。

・・・・・・・・

別段、大目標でなくていいのである。

 

と、書いたものの究極的な大々目標も少し頭の片隅にあると、

バランスが取れるのだろうな、と思う。

生物は利己には違いない。現代人はもちろん私も、

そんな大々目標に対し逆走しているのだが…。それでも、

少々クサイし宗教チックであるが、

「地球・自然への感謝や恩返し」「皆が喜ぶこと・生物が喜ぶこと」

「世のため人のため」「真実の平和」とか、漠然とでいい、

誰の中にも眠っている大きな意識、宇宙意識みたいなもの…、

無私の願いをちょこっとだけ(ほんの少しで充分)意識化して、

持ち続けると、心の軌道修正をしやすいように思う。

例えば、 己の中にある陰の部分、卑しさ浅ましさを

無私の願いに照らし合わせるようになるから、

客観的に観る事ができるようになる。

それは内的な循環の始まり。

 

昨今、スピリチュアルなどで流行の「(自分の)願望を叶える・成功者になる」

とかの風潮において、心の努力が偽善的になっている状態、

その執着からも解き放たれ、気楽にもなろう。

汚染脳用の成功論に翻弄されることも無くなるだろう、と思う。

 

究極的大目標を心に置くと正邪の見極める眼力、

己の中に真実が観えてくるのではないだろうか、と。

それが私の伝えたい「脱汚染脳」。

 

そして他者に悲喜こもごもの心模様を見い出した時、

客観的に己の陰の部分をも見ているから、

責めたり咎めたりする心が治まっていく気もする。

邪の現象を理性的に通り抜けられる。

 

(咎め心は自分の潜在意識に制限が増えてしまうから

精神が不自由になる・が、当方やってしまっているなぁ…。

大仰なことを綴っているが、自分のこととなると、反省。)

 

 

 「日常の小さな心がけや姿勢と究極的な大目標」と言いつつ、結局は

意識の「あそび」がこの世の顕われであることなのだ…と。

(生物はみな気まぐれ、気ままさが調和を生み出しているのが

自然の本質だ、と当方は考えている。)

 それはともかく。。。

 

 

年配者が「誰か、何かのお役に立ちたい」とか、

「孫が可愛くて」という言葉を聞くと、

苦労を乗り越え、我執に気付き、それを自身で許し、

楽しくあろう、と生きてこられたから、

こうした思いが湧き上がるのだろう。

この気持ちこそ、心のご褒美だなぁ、と感じる。

 

体験あってこそ。

便利で快適、肉体的苦労を伴わない現代社会。

 命、心、知恵、気力、肉体をしっかり使わないと

実感、本物の感動や感謝、人情や献身も始まらない。

それ以前の、茫洋とした意識、虚の世界で

多くの人間がさまよい、もがき、苦しんでいる昨今。

 

TVや映画、ケイタイやら…、メディアの中の感動は

生(なま)の感動・体験ではないことを自覚した方がよさそうだ。

 

不安を選ぶというのは、実体を体験することでもある。

 

 

 

 

 

 

 

不安を選ぶ、という話

 
 
先日、家人より興味深いことを教えてもらった。
テレフォン人生相談のパーソナリティである
加藤諦三氏が「不安を選択する人と、不満を選択する人がいるが、
多くの人は不満を選んでいる」と度々語ると。
つまり、挑戦や創造には正のエネルギーが必要である。
それに伴って「不安」も付きまとう。
後者は現状維持を選択することで安定安住する。すると、
負のエネルギー「不満」が増える、という意味だろう。

バケツの水は腐ると言ったところか。

不満を選ぶ人を「ピーチクパーチク組」と、私は命名することにした。
ついでに不安を選ぶ人を「サクサク組」(仮称)とでも呼んでおこう。
大半の人間はピーチクパーチク組である。
この対の言葉で、自分の生き方に反省を込めて、
ずっとその境目を行ったり来たりして、混乱していたのだ、と合点した。
確かに、目標を持って生きている時期は、ピーチクパーチク組の
人間が離れて行く。サクサク組に入り始めると、
それの合図のようにシンクロニシティがよく起きるようになる。

怠惰さが生活に忍び込んでくると、感動や思わす感謝したくなる出来事は減り、
自分の不満が募るからか、人間関係や煩雑な悩みに振り回される気がする。
また、不意の難題も増えるのである。
あるいは、サクサク組から外れてくると、ピーチクパーチク組の問題より、
難題になっている場合があるようにも思う。

「不安」と「不満」の象徴的な言葉のお陰で、
「生き方に方向付けする、自己実現、目標を持って生きる」を
することで、関わるご縁、見える景色が違っていたことに、
今更ながらこの歳で気付き、少し考えの整理がついた。

ついでに理屈を書くと、方向性を持って生きると目的意識や念が強くなるから、
今、流行言葉のいわゆる、引き寄せの法則というものが起きるだろう。
更に言えば、意識の世界で単位が変更されるというか(mmからcmそしてm…みたいな)、
例えば、些細なこともひとつひとつ感謝することを心がけるエネルギーが、
やがて塊になって、もっと大きな感謝や感動になる塊に出会うという感覚だろうか。
景色が段々、ダイナミックに変わっていくというか。

「ピーチクパーチク組」にいると、些細なことに感謝と不満が、
混ぜこぜの暮らしになるから、なかなか塊ができないのである。
だから、出来事や感謝の単位はいつまでたっても小粒である。
すべて感謝の心境なら、サクサク組とかピーチクパーチク組とか
関係なくなるのだろうけれど。
そこまでに至る生き方はこの世ではなかなか難しい。
宗教的に言えば、悟りを拓くと言われるものだろうか。

ひとつ肝心なことは、目的意識の質である。
有名になりたい、偉人なりたい、金持ちになりたい、資格を取りたい、
何賞を穫りたい、何とか大学に入りたい、何とか会社に入りたい、
という表面的、形骸的な目標は、
単に振り子現象、プラスとマイナスの行ったり来たりの、
2次元に陥るだけである。しかも競争があるから、
どこまでも肩に力を入れて生きなくてはならない。
努力も大変なものになるだろう。己の一方通行の願望だから。

そして、利己的大目標達成の果ては、マイナスである環境破壊や社会問題に、
繋がっている職業、大企業陣、政治家…、汚染脳教育・研究者…な訳である。
ご褒美を目指す「努力と達成」の構図は、先述した振り子現象で
つまりギブアンドテイク(2次元)意識で、
外部からの刺激(主にマスゴミ&教育プロパガンダ)で、
競争(明治政府による造語)の摩擦エネルギーにより、
三角形が形成され、ヒエラルキー・ピラミッド型社会に帰結する。
支配側の思惑で頂点は幾らでも高くできる。
そして社会や自然環境が疲弊、破壊へとひた走る。
現代社会はもうその終着点が目に見えている。

ちなみに、冷淡な言い方をすれば、
ピーチクパーチク組はピラミッド型社会の
底辺を不本意に?!支えているのである。


充実した目標とは、存外に素朴なもので他者対象を喜ばせて、
自分もそれを楽しみたい。面白そうだから…。
そんな温かい想い、好奇心の始まりがたぶん、正解だ。
様々な「循環」が始まるから。

大きな循環の始まりも、小さな今できることから、気付いたことから、
ひとつずつ、身近なことから、お互い様の気持ち…から、と思うのだ。

「不安を選ぶ」という主題から逸れたようだが、
日常によく見れば、不安だが、ちょっと目的意識、勇気を持って
行動すれば、何かが動き出す。観察、洞察も忘れず。

そこでもうひとつだけ書いておこう。
誰しも感動や感謝が可能な世界観は、
私たちほとんどの人間に知識の範疇にない、
むしろ蔑視されている、不可能と思っている…、
「狩猟採集」の暮らしであることを家人は熱心に語る。

それについて私もある程度、共感している。
まだ知らないことが多いから、すべてを肯定できる術はないし、
私は臨機応変、折衷案がいいと思うから、良いとこ取りがいいんじゃないか、と。


ともかく、簡単に言ってしまえば、目標を持って生きる必要性は、
誰しも子どもの頃から大人の言葉の刷り込みで、分かっていることである。
別段、大目標でなくていいのである。



さて、自身のこと。
呑気にしている近頃は、
ピーチク〜組は、面倒臭いと改めて分かった。
かと言って、サクサク組の凌ぎを削る競争も疲れるから、
日常のちょっと不安でも、よし!と
思えることから手をつけようかな、と。
その実、ピーチク〜組が真実の循環を作る要だ、と思うから、
やはり日々の暮らしの心がけ、姿勢は大切だ。

『うつくしく、やさしく、おろかなり ……              私の惚れた「江戸」杉浦日向子』

2015/10/07 の当方他ブログより転載

『うつくしく、やさしく、おろかなり ……私の惚れた「江戸」杉浦日向子ちくま文庫

杉浦日向子

***********************

江戸の色(47〜49頁より抜粋)

江戸で『色』というと、色彩以外を指すことが多い。
洒落本、滑稽本などの、大衆小説では、情人を『色』と呼ぶ。
好色、色欲、色事、色気、色町、すべて、男女の関係に通じる。
色、恋、愛。
この中で、愛が最も尊い気がするのは、明治以降、神仏の慈悲心を
「愛」と訳してから。江戸のころは、愛とは、「物」に対する執着を云い、
「壷を愛する」「人形を愛する」など、所有者側の物への、一方的な
束縛を示していた。単なる、強引強欲だ。
 恋には、純真なイメージがあるが、これも青春の流行歌が全国的に普及してから。
江戸では、「恋の闇」と云い、盲目的に想いを遂げたくて突進すること。
八百屋お七が恋の見本だ。恋は、思春期の麻疹のようなもので、
動物のサカリと同様の、生殖衝動だ。
残る、色。今では、恋愛よりも格下の、遊びに近い分野に入れられて、
昼の話題ではないとされている。
が、江戸では、前二者よりも上級だった。愛や恋は力ずくや勢いで獲得できるが、
色には駆け引きが必要だ。巧妙な心理戦であり、一筋縄ではいかない。
 ランク付すれば、愛は、他人に横取りされるぐらいなら、壊してしまうタイプで、
男女間に置き換えれば、最低。恋は、発展途上。生殖が完了すると
急速に冷めてしまうので要注意。
色は、人情の機微を知ってこそ楽しめる、卒業のない生涯学習といえる。
「色はその日の出来心」。色にはマニュアルは存在しない。

臨機応変、不特定多数、互いに充実した時を過ごすためには、

目の前の相手を敬い、赦す、心のゆとりがなくてはならない。
色には、愛の束縛願望も、恋の生殖達成もない。

愛や恋は、会えない時にも相手を常に想っているが、
色は会えない時は電源をオフにして、とりあえず自分の時間を優先する。
二十四時間、相手とケータイで繋がっていなくては不安なうちは、

とうてい無理な課題。
「色っぽい」は、江戸では最高の誉め言葉だ。「オイロケ」だと

フェロモンむんむんの軽薄な感じだが、本来の「色気」には、

容貌だけではない、言動などの内面的な魅力が不可欠だからだ。
色気のない人生は、モノクロの世界だ。出会いと別れを重ねるにつれ、

若いころ、接写だった視野が、だんだん広角になり、

画素も増えて鮮明になり、隅々まで色や輪郭がはっきりしてくる。
いろいろ、難しいけれど、どうせなら色っぽく生きよう。
(「プリズム」2003年10月号・記事)

 

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ここから当方の感想と屁理屈を。^^

笑いを分析すると興ざめするのと同じく、
「色」の概念とかの、知ったかぶりを述べたら、
色気などまるでないのは承知の上…。(苦笑)

 

現代社会で「愛」という言葉を否定する者は、
ちょっとオツムがどうかしている、と思われるだろう。
が、頑固者の私は譲らない。

以前にも『逝きし世の面影』「第八章 性と裸体」で書いたのだが、
「愛」という言葉の概念が、長い間どうも私は気に入らなかった。
第八章の感想には「愛」より、日本人は「情」ではないか、と綴ったのだが、
つまりは「情け」と表現していた慈悲心が「愛」という言葉にすり替わった
現代人の蒙昧。

明治以降は日本人の宗教観を刷新させるべく、キリスト教思想の台頭を目指し、
「色」の概念は不貞の象徴のように、降格、抹消された。
代わりに、「愛」を文学、芸術、宗教、教育で高尚なものへとイメージを
作り替え、日々の精神活動を表現する言葉が、がらりと変えられたことを
杉浦氏の説明で納得する。

慈悲心としての意味でこの約150年間、「愛」がごく当たり前のように
キリスト教の宗教観から、一般の道徳観に至るまで、流布し続けている。
現代の「愛」に投影されるのは、「情」のようなお互い様ではなく、
一神教的な、絶対的な、崇高過ぎる、
ありもしない偶像・虚像が想定されている印象を受ける。
ヒロイズム、自己顕示欲の臭いが、私はする。

余談(好きな言葉であるが、日本には「詠み人知らず」という言葉がある。
それに引きかえ、欧州米の彼らは、偉人、著名、有名への執念を感じる。
あるいは大衆に、畏怖や敬意を「強要」しているようにも受け取れる…のは

私だけだろうか…。

ヒロイズム、英雄視が大好きなのは、日本人の私からすると、
どうも出しゃばり感、偽ユダの自意識過剰を感じてしまう。)

一方で「愛」という言葉は、
日本人の流行歌のみならず世界中の歌謡で、
恋愛の昇華されたものも、「愛」として表現されるが、
どう聞いても執着心、利己心をごまかし、
きれい事にしたのが歌詞や文学芸術その他諸々でないか、と。
その食い違いが、未だ私は気に入らないのだ。

日本人にもともとある「情」「慈悲」と
「愛」の違いを物心着いた頃から漠然とは感じていた。
「愛」という言葉がいつまでたってもどこかバタ臭く、
クッサイ感じ、違和感があったのは、
もろもろの理由が潜んでいたから、と思うのである。
日本人としてその違いをはっきりと認識し言語化している人もいるだろうか。

現代日本人が解釈している「愛」という言葉は、
一貫性に乏しい言葉だったのか、と。

歌詞を筆頭に芸術全般が、キリスト教的借り物の
「本来は情と言われていた慈悲心を訳した、輸入の言葉=愛(LOVE)」のせいで、
もともとあった日本の「情」、「色」、「愛」「恋」(所有欲、執着心、サカリ)が、
ごちゃごちゃになってしまい、曖昧さのせいで、
人間心理の言語化が誤りを起こし、
社会問題の根になっていると言えないだろうか。

日本人にとって「愛や恋」の稚拙な精神活動が、
やがて磨かれたその先にあるものが「色」だったのか、と。
人生経験の厚み、達観した心境を表現し、成熟した精神活動と言える。
江戸時代の「色」の概念を知ると、
主に文化芸術の「愛=LOVE」をテーマにしたものは、
明治以降、陳腐になったのかもしれない。

正直なところ、昨今のドラマ、欧米映画や小説、
現代日本も同様であるが、「愛=LOVE」を主題にしたものが
軽薄でストーリー性が弱く、イメージの世界は記号化され、
想像力を見いだせない。
一神教的な絶対感から導かれるヒロイズムに、
違和感や胡散臭さを感じる。説明的で感情の描写もワンパターンで安っぽく…。
まぁ分かりやすいと言えば分かりやすいが……、飽きる。
加えて、ほとんどのドラマ、映画や小説等(偽文化・プロパガンダ目的)、
もう10年位遮断していると、いっそう汚染脳用であることが判る。

「愛=LOVE」という現代人が持つ一貫性のない概念によって、
感情、思考が混乱し、明確化・言語化できず、個の意識の脆弱さの

弱点を突き依存心を利用し、
一神教絶対神の枠の中で、巧みに制御されるよう仕組まれている…、と

言えないだろうか。
(ややこしぃなぁ…笑)


元来、日本にあった、人にとって精神の自由に至る独特な思想
「色のような概念」を一世紀半の間、封印させていると言えないか。
「色」が社会認識として復活すれば、
輸入の「愛=LOVE」が単純で稚拙なことが見えてくるのかもしれない。
精神的な自由さが、社会に発生するとも考えられる。

単純さ軽薄さも時に必要であるが、それだけで精神活動は収まらない。
長い歴史の中で昔の日本人が育んだ微細な感性を
ユダキリ欧州人の影響で明治期に、卑近なものとして、
いとも簡単に切り捨ててしまった。

もし現代日本人全体が、鎖国の延長のようにして平和社会が続き、
成熟し「色」の概念も精鋭され現代に至ったなら、
西洋文明に対して、短絡的な印象、評価を持ったのではないか。

昨今、世界中の西洋礼賛の風潮がいっこうに止まないのは、
つまり、汚染脳、劣化脳が完了してしまった、ということだろう。
残念ながらマスゴミ、狂育、企(鬼)業の所産である。
古典文学にあまり触れられないような教育が為された明治以降だが、
「色」と「愛」の違いが感じ取れないと、
様々な日本の古典作品の本質も捉えられないだろう。私もそのひとり。
現代日本人が昔の作品を読めない、理解できないから、いっそう、
日本の歴史を軽んじてしまう負の連鎖は続いている。


杉浦氏の説明によると、「恋」は生物的な性衝動で、
「愛」は欲望で、慈悲心とは別物と。
「色」は精神活動として上質のものと伝える。
仏教から影響を受け、日本人なりに編み出し成熟していった「色」。

また、「色」というのは、西洋文明、キリスト教が語る
「愛=慈悲」と「愛=男女の恋愛」の
意味の倒錯、あるいは誤謬を整理してくれる要の言葉とも言えるだろう。

倭人からの自然種の流れを残し、自然と調和して暮らす知恵のあった日本人は、
的確に微妙な感情、情趣を表現することもできた民族だったと思うのである。
明治以降、政府の暴走で借り物の西洋文明の怒濤に飲み込まれ、
大切な叙情性を見失ってしまった私たち現代日本人。

彼らユダキリ(偽ユダ・かつユダキリ教洗脳甚だしい輩)が

人工種であろうことを見下したいのではないが、
感情が、実は「若い」のではないか、と思える。
その人工種系の人間にとって、幕末の日本に在った「色」は、
特に、チンプンカンプン、ワケわかんな〜ぃ!?
だったのじゃないか。

優生思想を是が非でも突き進めたい彼らが、
理解できない概念は抹消、あるいは低俗と
処理させ、無視してしまったのだろう。

優生であろうとする感覚が、
既に劣生な精神の発想じゃなかろうか?!と。
彼らの卑近さを露呈しちゃってるょ…。
トホホ。

 

ともかく当時、単純な精神から、複雑な精神活動を理解することは
困難が故、致し方無かったのだろう、と私は解釈している。

キリスト教の慈悲心を解釈した「愛」は、
やはり、日本では「人情」だ。
それで充分だと思う。

実際のところ、現代社会では「愛」の言葉がばらまかれた結果、
杉浦氏の言う「愛」=「強引強欲」が具現化しているではないか。

昨今、ピラミッド型社会の頂点(偽ユダ世界支配)が
更に高くなっていると感じられるのも、汚染脳の「愛」に潜むヒロイズムが、
マスゴミ等の影響で一般人もその加勢をし続けていると言える。


いかんせん、慈悲心=愛=LOVEと訳した時代の過ちが、
現代に絶大な悪影響を与えていると思ってしまう。
皮肉にも、五十音順の「あいうえお」は
「あい」が始まりだから、妙に受け入れやすい語感。
だが、五十音順の成立は漢字を使うようになってから。

詳しく知らないが、漢字が使われる前からの、
この地の言葉は今の日本人にとっても、
言霊の威力があるように私は思う。
言霊、音の力があるのは大和言葉ではないかな、と。

「アイ」とは大和言葉では、「かわいい」という意。
「かわいい」という言葉は対象に、幼さ弱さを見い出した時に使う。
上下関係が発生する言葉。

現代日本人が「愛」という時、今尚、
言霊には「かわいい」が含まれている気がする。

(冗談だが…、LOVEを逆にして
EVOLを読むと、「えばる、いばる」って読めなくもないのはナニ…?!?)


話は飛ぶが、マザーテレサ氏は「愛」(慈悲)の象徴のように
語られ続けている。だが、先日たまたま目にした記事で、
氏は、聖人として生きていたにも関わらず、
心の闇に常日頃、苦しんでいたという。

大したこともできない私に言及する資格はまったくないが…。
敢えて言うと、人間が聖人、善人、選民であろうとする時、
愚人、悪人、賤民を作る、増やす。

上の立場であろうとする程に、下の立場も発生、増大する。
マザーテレサがもし「人情」という感覚に気付いたなら、
少しは、気が晴れたかもしれない。

すべての存在は、善悪や上下ではなく、相対的に存在する…と。
お互い様の心、人情があれば、皆の心が中立で自由自在に生きられる。

「色」…。
愛ではない、より精神の自由に繋がる大切な言葉だった「色」。
概念を取り戻すこと、定位置に戻すことを
夢想する。

 

 

 

 

 

ちょっとした母性の、心の機微から気付いたこと。

 

今日、ふと自分の心の機微で気が付いたことがあったので

忘れないよう書き留めておこう。

 (メモ:飼い猫の母性愛発揮ぶりを見て、当方事情と重ね思ったこと。

居ないなら居ないなりに…楽しむコツ)

 

 

***

 豊かさをとは何か。

 

それは自分にとって負の事柄、受け入れ難い様々なことを

受け容れられるよう、認められるように、

負を生活の中で創意工夫、あるいは心の努力をして、

楽しめるようになることが、

「心の豊かさ」になっていくのだなぁと思った。

 

決して、自分に都合の良いこと、望むもの、好きなもの、気に入る何かを

努力し寄せ集め、手に入れたとしても、心が豊かになることはない。

ただ欲求を満たすだけだ。

それはまたいずれ飽きるだけである。

 

 「負」の事柄について創意工夫の努力をすることで、

「心の豊かさ」、満足感、充足感が生まれ、自身の財産になり、自信になり

壊れることも、奪われることもないのである。

優越感、劣等感、競争心、妬み、嫉妬や焦燥感はなくなる。

 

 

 “こんなふうだったからあんなふうにはなりたくない。”

“あんなふうにはなりたくないからこうしよう。”

“こんな自分はいやだからあんな人間になりたい。”

というムダな葛藤は消えていくのである。

 

つまり感情の振り子現象、(感情運動の同じ繰返し)は

無くなるから、心が自在になっていく。

 

それは、心が安定し穏やかになり、中庸の心、

揺るぎない理性、客観性、公平の視点が生まれる「種」になるのである。

 

それが「豊かさ」の始まり。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

信号待ちにて。

 

 

交差点でのこと。
おじいちゃん、おばあちゃん、娘さん、孫さん
揃って信号待ちをしていた。

猛暑の中、お孫さんは汗だくのようで、おばあちゃんが
孫の顔をぐりぐりという感じで何度も顔から首、Tシャツの襟もとの
汗を拭っていた。その拭ったタオルは
ご自分のものらしく自身の顔の汗もついでに拭いていた。

おじいちゃんと娘さん(孫のお母さん)は
各々の団扇で自分を仰いでいる。

おばあちゃんは孫の汗を拭き取り、自分も汗を拭いた後、
次は団扇でお孫さんを仰いでいる。

孫は有難うを言うでもなく悠然としている。


この光景を後ろから見ていた私は、不覚にも
泣きそうになってしまった。
ああ、「日本のおばあちゃんだ」と。
そこかしこ人の目構わず、孫のことを一番に気にかけ、
懸命に世話をする。自分のことはさて置き、
子供が少しでも居心地が良いように、面倒を見る。
それはごく自然な感じで、
本当の母性の姿を久しぶりに見た気がした。


昨今、「おしゃれ」とか、「見栄え」とか、「かっこ良さ」を
気にして、自分も子供も見栄えが最重要項のお母さんには
あの、無心のたっぷりとした愛情、慈しむ仕草はできまい。

それは平和ゆえの余裕なのだろうか…。
マスコミや学校教育の悪影響もあってのことだろう。如何せん、
現代の親たちは育てるのに最も肝心なことを喪失している気がする。


幕末までの日本の大人たちは、子供を深く慈しんでいたという。
その名残がある明治大正昭和初期までの「日本の母」のような
そのおばあちゃんの何気ない仕草に、胸を打たれた。


明治大正昭和初期。

明治以降、軍国政治の乱世で日本人皆が食うや食わず、
見てくれなどそっちのけで、「生きる」ことに
一生懸命だった時代。
土を鍬で耕し、モッコを担ぎ、リヤカーを引き、風呂敷を背負い、

大きな背負子で商い、若い母たちは子供をおぶっていた光景。


私の生きてきた時代にはもうセピア色になりかけた情景だけれども、

時に目にしたり、その時代の写真や映像、

あるいは祖父母たちの話には、命がけの生活があった。
日本人が命ある限り、真剣に生き延びようとした、

人々の熱い魂を感じる。

そこに「美」があり感動があった、と私は思う。


だが決して、軍国、戦争の乱世だから人間が真剣に生きたという意味ではない。
あくまでも、幕末までの日本人の「真心」や

「人の良さ・情深さ」「品性・気高さ」が、残されていたから、

「美」「熱き魂」が受け継がれたのだ。

 

残念ながらマスゴミで劣化した現代日本人にはもう、

この先の乱世に、真心、気高さ、美や熱き魂が湧き上がる事はないだろう。

見てくれ、見栄え、かっこ良さ、表層を気にして生きることの虚しさ。
損得勘定、虚栄心の種を日本人はいつから己の心に蒔き出したのだろうか。



偏見と言われることを承知で書くが、
西洋社会、白人社会の虚栄心、自己顕示欲(ヒロイズム)の根深さが、
現代社会の大きな問題の根本原因の一つであることを
指摘しておきたい。
そう感じている人が多少でも居れば偏見では無くなるだろうか。


国際金融家所有のマスコミ全般。
TV、TVのCM、新聞、雑誌…そこで伝えんとすることをよく観察するがいい。
常に、「見られること、見せること、好かれること、

得をすること、勝つこと、もてること、ちやほやされること」…

つまりは優越感を触発させ、卑しき心に傾くプロパガンダに溢れている。

日本人が、西洋礼賛によって命を「生きる」本質から乖離し、
「見せる」ため、虚栄と虚言の人生になっている人間が

増え続けていることに危機感を覚える。


いつか年老いて死ぬとき、己の生きるエネルギーは本音以外ない時になって、
初めて「自分は何てバカで軽薄だったんだ…」と思うなら、まだましか…。
いや、人生はよくできたもので見栄を張り続けるといづれ、
虚栄心を捨てなくてはならない出来事に遭遇するものか…。


有難うを子供がわざわざ言う必要のない、
太陽のように当たり前の愛情を注ぐことで、
子供が自然と育っていくのだろう、と思う。

信号待ちで、孫の顔を一生懸命拭く「温ったかいおばあちゃん」は
夏を涼やかにもしてくれる。
それが、日本の良さ美しさ「情深さ」ということは
忘れたくない…と思った次第。



 

 

 

 

 

 

 

当たり前過ぎることで。

 

ふと、時々思うこと。


家があって屋根があって、雨露暑さ凌げる有難さ。
一日無事に暮らしお布団で寝られる幸せ。
温かいお風呂に入って清潔に暮らせること。
美味しいとか不味いとか言いながらも、
食べられる食べ物の有ることと、
食べられる条件、健康とか経済とか

畑から材料調達から作り手まで…、

揃っていて咀嚼、消化できること。

肉体を養えること。


空が美しいなあ、今日はどんな天気かな、とか
眼があって、感じられる喜び。

排泄を思う時に思うようにできること。

洗濯機に任せればあっという間に

綺麗?! になった気分になって、

お洗濯ものをお日様の光で干せる喜び。
手足が使えるから、お掃除できる。
地球に草や樹が繁っているから呼吸もできる。

 

随分前に、霊能者がどんなふうに霊能が
強くなっていったか…、という話を聞いた時、
病床に臥している頃、一杯のお水の美味しさに有難さが
込み上げ、思わずコップのお水に手を合わせ拝んだ、という話。

お水が飲める有難さか、と。
極限状態で、お水を美味しいと思える感動がある。
飲める有難さを感じる。

肉体あってこそ、この世界があってこそ、
存在してこその喜び。

日々、当たり前過ぎる、ひとつひとつを時々
思い出して…。

 

冬なら給湯器があって、お湯を遣わせて頂ける有難さ。
夏なら冷たい氷を簡単に手に入れられる有難さ。

 

身近な人がいることで自分を観ることができる有難さ、
対象があること、他者がいることで、関わりあえる有難さを。

 

時々、思い出す。
なかなか、無私にはなれない。

時に、些細なことで不満もてんこ盛り。
当たり前過ぎる有難さを忘れることもある。

当たり前の有難さに加えて、有難過ぎることを

この世界で挙げたらキリがない。

有難過ぎることも思い出して、この時代に生まれたことは有難きこと。

折角だから「至福の時」を体感しよう…と思う。

 

「有難い」と、殊更に思わなくてもよい、ってなことを

ずっと前に浄土真宗の小冊子に書かれてあったことも思い出す。

これまた、意味深い。

 人間以外の生物は有難がって生きているだろうか、と。

 


有難過ぎる「現代の生活」。

しかし、美しい水が飲める川は無くなった。

 

「文明の存在」その是非を問う時、
当たり前はどこまでなのだろうか…。

 

 

 

 

 

「 いなせ 」 から…思うこと

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)を読み、江戸時代のことがもっと
知りたくなり杉浦日向子さん(故)の本を読み始め、
「いなせ」という言葉の由来が書かれてあった。
「粋でいなせな…」という言葉を時代劇などで
決まり文句として聞いたことはあるが、
昨今その言葉に当てはまる風情を感じることはない。

さて、どんな由来かと言えば…。
“いなせの「いな」は鯔(ぼら)の幼魚のことなんです。
鯔の幼魚が大川(隅田川下流)を上っていくときに、背びれを水面すれすれに出して
いくんですが、その姿がスマートでカッコいい。「いなせ」な衆とは、その鯔の
背びれのようにすっきりした丁髷を結っているところから来ているんです。
あと立ち姿がよい、というのも「いなせ」の条件。”
(『杉浦日向子の江戸塾』PHP文庫より)

簡単に言ってしまうと、江戸のかっこいい男性たち(火消し衆など)を

形容する言葉だ。
カッコ良さについて今更、薀蓄を書こうとは思わない。^^
マスゴミの十八番、食傷気味の話題だから。
かつ、丁髷を結っていないから、使うところもないが。


それよりこれを読んでふと想像してみると、
当時の川がいかに透明で美しかったかを思った。

現代日本の都市に流れる川にたとえ「いな」が泳いでいても、

何かを比喩したくなる輝くような「自然美」はない。

川の汚れのみならず、あらゆる自然が汚染され、

護岸や道路、公園、ダム、鉄塔など過剰なインフラ整備がなされ

生態系が津々浦々コンクリートや巨大建築物で破壊され尽くした。

企業が製造する物質のゴミゴミゴミだらけ…。

他の生物に冷酷で無機質。

目をそむけたくなる、悲しい現況だ。


幕末訪日欧州人によると、

江戸の町は巨大な美しい田園都市だったという。

地上の楽園、野鳥の楽園とも欧州人から呼ばれ憧れられてもいた。

自然は豊かで、美しい川辺を散策する人々は暮らしに
余裕もあったことが窺がえる。
どこの家でも植物を愛で育てていたというし、

家々の庭先にフクロウが棲んでいたり、

ニワトリの毛の手入れをしたり、

カササギが人の子守りをしてくれたという。

日本は、鳥に人が近づいても逃げない国だった、と。

 


植物や動物、すべての生物は生き生きしていたことだろう。
町のみならず、日本全体の雰囲気がとても良かった、と感じられる。

鯔の幼魚を「いな」と呼ぶのを初めて知ったのだが、
幼魚が水面すれすれで気持ちよさそうに群れをなして泳いでいる様に
丁髷を「いなの背中」に喩えた、ちょいと洒落た言い回し。
川の水の美しさ、魚たちの生命力から情緒は言葉へ映り(移り)、
情景に対しての比喩は江戸らしく、
また派生する言葉に奥行きを与えてもいる。

「いなせ」という言葉を誰が言い出したのか調べていない。
江戸の庶民も武家も差別感など全くなく友人関係は成立し、
サークルような様々な会(講)を楽しんでいたという。

あくまでも私の想像であるが例えば、
俳句や川柳などの会(講)で楽しい使い方がウケたかもしれない。
遊び心からだろう「いなせ」という言葉は、

世間に広がり、現代人さえも知っている言葉になっている。

 

 

ちなみに、「士農工商」という言葉は明治政府

皆が幸福だった良き時代の江戸社会を否定させ、

明治政府を肯定させるための教育プロパガンダとして

悪用したのである。「競争」という言葉も明治政府が作ったもの。

 

 

江戸と現代の精神の教養レベルが違い過ぎやしないか。

江戸社会の日本の識字率は約85%だったという。

当時、世界一だったそうだ。

しかし明治政府(ユダ資本提供による戦争三昧)の時代には、貧困が増え、

貧しい家庭の子どもたちは学問に触れる機会を奪われ、

識字率が下がった時代だった。

 

そして、戦後から現代人は識字率こそ高いものの、

その言葉の質は年々劣化の一途を辿っていると言える。

GHQによるあらゆる情報統制によるマスゴミ狂育プロパガンダによって、

言葉の浅さ、情緒の無さ、粗雑さ、合理化や効率化、損得勘定。

経済のために複雑さや分析力は研ぎ澄まされ情報は

大量になったが、偽情報ばかり。

 

自然の豊かさ、遊び心から生まれる精神活動は明らかに鈍化、

画一化、短絡化している。


昨今、若者の言葉で気になるのは微妙なひねたイントネーションや
短縮する言葉がTVなどでやらた取り上げもてはやし、流行させる。

老若男女、どこの地域でも、その語調を持った言葉を使うように
波及させている言葉が多々ある。
マスゴミが流した風潮に対してそれが「いまっぽい」…とか、
流行の波に乗っている、というマスゴミの絶大な影響力と、

マスゴミへの絶大なる大衆の肯定感によって、
その流行の雰囲気から外れていると、…何故だか疎外感が漂う。


英語が日本語に同化した単語はその傾向が強いだろうか。
「ギター」というと、語尾の音が上がるとエレキギター
語尾が下がるとクラシックギター、という違いを表したり、
前出と同じように「クラブ」という言葉を使う時、
踊るための店は語尾音が上がり、趣味や部活動の集団をクラブという時は
語尾音が下がる。そんな言葉の扱い方が気になる。

語調を調整して流行を漂わせ差別的になる慣習。
それは西洋礼賛的で、階級(差別)社会が当たり前の、

英語圏や英語教育の悪影響の一つと言えないだろうか。

(日本人はもともと野次馬根性やミーハーに象徴される

好奇心旺盛な特性がある。生物として自然種ゆえ。

もしかしたら江戸にもそんな語調を遊ぶ風潮はあったかもしれないので、

断定はできないが…差別感は漂ってはいなかったと想像する…。)



江戸時代のように、何かを比喩して言葉を楽しむのではなく、
語調で共有するノリが重視され、情趣はない。そして、
独特なその時代の「ノリ」をのせた言葉遣いではないと、
排他的差別的な空気さえ発生してしまう。



女子や男子という言葉も学校教育で使ってきたものを
昨今は成人の若者に「子」を付けてマスゴミ雑誌あたりから

言い出したのは、未成熟さや意図的な若者文化礼賛で年齢差を強調したいとか、

未婚者が増えているから…とか。色々あろうが、全般には肉体的苦労がない

現代人の精神幼児化現象を象徴しているのかもしれない。
また、TVや学校教育の普及で、
方言も弱まってきていることは以前から言われていた。
自然環境破壊によって心を伝える言葉が劣化し、
政治、狂育、体制側からの影響や風潮が優先される現代日本人の言葉。


自然が破壊され尽した社会では、
趣のある言葉や気の利いた言い回しは、もう生まれないだろう。
自然が、時間の流れの中で自ずと生み出す美しさや、
生物全体の心の触れ合いを大切にする社会があってこそ、
「文化」と呼ぶに相応しい言葉や芸、創作、が生み出されるのではないか。

発音に頼って漠然としたノリに支配され
言葉を詰め込んでも心は伝えられない。核心は伝わらない。
中身の浅い、共感の少ない会話。

そんな悪循環が現代の会話で起きている気がする。


自然から感じ取った言葉によって文化が育まれていた時代の
言葉は豊かである。
自然を破壊し続ける現代社会で使われる言葉は、

マスゴミ、企業、狂育が扇動しどんどん貧弱になっていく。

マスゴミと企業がセットになって環境破壊が進んでしまう。

一体、いつまでこんな劣化社会を人間は続けるつもりだろうか。


年々流行歌の歌詞の比喩表現がお粗末になっている。

思えば、江戸社会の残照があった明治大正の頃に生み出された

歌詞は、日本人の精神性がいかに上質だったかを思う。

現代で、欧米社会の歌手の真似事をすれば、一過的には、

歌唱力とか才能をもてはやすものの、言葉に魂や思想が

ないから即、飽きられる。

言葉の話から逸れるが、あのストリートダンスから

進化?いや明らかに劣化した、関節炎を起こしそうなアドレナリン処理用、

集団「奴隷ダンス」を学校教育に教科を取り入れると聞くが、

荒々し過ぎて私は非常に不愉快で正視できない。下品の極みだ。

 

日々、マスゴミと狂育が、

人間の精神生活の「時間」と「感性」を奪い、

本物の文化を破壊し続け、偽文化でガス抜きをさせているのだ。


幕末まで。

かつての日本では…
澄んだ空気や水、風にそよぐ木々の葉音、野鳥のさえずり、

川のせせらぎ…自然から伝えられる言葉にならない心が、

人間の直感や霊感を磨いてたことだろう。

 

まずはマスゴミを生活から追い出して、

改めて自然、生物、から学ぼうと思うこの頃である。



 

ゴミの分別はゴミを増やしているという実態

www.youtube.com

 https://www.youtube.com/watch?v=qq4jKQGzwUg

YouTube のURL

プラスチック製のゴミは、実はほとんど焼却されて
いることをずいぶん前に知ったが、
ペットボトルもここまで
ひどい状況だとは思わなかった。
再生紙の製造にも無駄なエネルギーを使うことで
実は、環境に負担が大きいことを聞いている。

リサイクル(一度きりの再生)は、全く環境に貢献していないのだ。


むしろ、再生するために余分なエネルギーや資源、労力を
費やし、税金の無駄遣いしている
実態(既得権益者のみが得をする)を知らなくてはならない。

何より、ゴミを減らすことが
大前提だ。

とどのつまり企業製品をできる限り、
不買することである。

消費社会では毎日呆れる程、
ゴミが出る。
ゴミを客観的に見ると、ほとんどは企業製品の過剰包装だ。
子供の頃記憶では、肉や野菜をそれぞれの商店で買って
簡素な包み紙で済ませていたと思う。

多少のものなら家の敷地で焼却することもできた。

ゴミ回収車は生ゴミをトラックの荷台に入れる程度の
簡素なものだった。

どうもダイオキシンの害も喧伝に利用された感がある。
(YouTubeの武田氏の話でダイオキシンの件は
調べてみなくてはと思った)

 

マンション居住を奨励する風潮も、課税やインフラで

人間の暮らしが「カネ」必須、「税金」徴収を延々と続けさせたい

国家や国際金融家の思惑としての喧伝もあるだろう。


今では、燃やしてはいけないし、分別のための袋まで自治体に
カネが流れ、袋としてのゴミも増やさせられている始末。
そのゴミ袋製造会社の利益と自治体の癒着も想像に難くない。


どこまでもどこまでも、執拗に、納税をますます強いる
社会システムである。「偽装情報&喧伝社会」と言えばいいだろうか…。
もうウンザリだ!!

カネが大きく流れる程に、流れの途中にある利権、既得権益者が
儲かるからこそ、ややこしい社会システムにしたい。
環境問題さえも喧伝用にする。それが裏政治のご事情である。

 ともかく、ペットボトル飲料や缶飲料を買わないで
自分の水筒で暮らす習慣を身に付けたり、
工場で出来た食品をできるだけ買わない。

スーパーでインスタント食品や惣菜を買わない。
コンビニ弁当を買わない。
(ホントは買っちゃいけない。働いちゃいけないのだょ…。)

(どの工場製造食品も石油をたっぷり使った立派な器に
入った、健康によろしくない食べ物ばかりである。)

 経済がどんなに潤っても、一般人の暮らしはまともに
ならないようにできている。消費し、ゴミ処理負担で税金を
更に払わさせられる社会。まして、工場で出来た食品は
病気を作ってくれるから、医療費負担も増加。
製薬と医療施設がぼろ儲けの社会なのだ。そこにも
特許利益や既得権益が渦巻いている。

自分の頭で裏社会を想像しよう。

カネを稼ぎカネを払う消費社会は、自らの首を絞めるのである。

カネを稼いで暮らしを豊かにする時代を
近い将来終わらせることが、人間のみならず、生物全体、
自然環境回復に必要だろう。

都市で会社員をしていても環境破壊して生物としては
~「不徳」~を積んでいる。

 これから生き抜くためには、人生設計を変更して、
自給自足を模索しながら個人の得意な技術を生かして
カネの不要な生活に変えていくことが、
子どもたちのための明るい近未来になろうか。

 

今日からできることは、
自分で作る、できるだけ自家製、素材中心の生活を。