ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

恥をかく・・・ということ__(追記)

 

 

恥をかくことについて、前述した。

 

この現代日本社会で一般的に、

恥をかくと言えば、他人の視線から見て、

自分の外見や行動、所有するものが

蔑まれた時、そうした雰囲気を自分が感じた時に、

自身がいたたまれ無い心持ちになること、とワタシは解釈している。

 

*******

 

日本人にとって、恥をかく、恥ずかしいという心理は、

明治以降、変わってしまった、と思うのである。

精神構造が変わってしまったとも言えるだろう。

 

 

ある動画を見ていたら、

マスコミが無かった時代は、

誰も皆、幸、不幸について考えることはしなかった、と

フロイトの言葉を伝えてた。

マスコミが世の中に登場する前後の時代をフロイトのみならず、

実際に、体験し社会の変貌ぶりを感じた人もいたことだろう。

 

大半の人が追い求める幸福感、幸せという観念、その現代人の執着ぶりに

常々疑問があったワタシには、腑に落ちる言葉であった。

 

 *******

 

話は少し逸れたが。最近思ったことだ。

 

心を耳が感じる・・・。

耳へんに心という字に込められているのは、

良心に恥ない、己が精神に向けての意味が、

含有されているのでは、と。

 

いつも引き合いに出す書籍「逝きし世の面影」には、

日本人の良心的な行為、生活感に、圧倒される訪日欧州人らの

観察記録がそうした想定を許してくれる。

ここでは、その記述の数々は本書に譲るけれども。

 

さてそれを踏まえ、昔の日本人は、良心に背くような精神に

「恥」を感じていた、とワタシは想像する。

現代人にもその意識が残存しているとは思うが・・・。

 

だが、現代の日本人の多くはどうだろうか。

良心に背く行動はしないにしても内心・心情はどうだろうか。

見えない捉えようのない奇妙なる社会通念に束縛を受けて

判断する行動が、ほとんどではないだろうか。

見られている、見せるため、全ては外部が基準での物事の行動基準、判断が

己の精神を席巻しているのではないか。

 

それが故、良心を表す行為という人間、

延いては生物として当たり前の感受性が痲痺し、

良心の発露に、訳の分からない、気恥ずかしさを

覚える人も多いのではないか。

逆立ちの意識、何とも悲しい精神状態ではないのか。

昭和平成の不良やしらけと呼ばれた世相や風潮は、

時代の変遷の屈折を顕著に象徴していたか。

 

奉仕や献身、無償さという自然と湧いてくる意識を

ゴイム用キリスト教条的な正義感、兵士の奉仕の意である、

ボランティアという肩書き?あるいは*

聖母的な犠牲という愛(仮想幻想の人工的観念的な完璧思考/宗教的刷り込み)で、

良心は、正義やら愛という大袈裟で胡散臭い鎧に包まれ、

向けどころのない、

身体感覚にある本来の素朴で生物の当たり前の優しさ、

慈悲心、痛みへの共振共感の

発露を何とか昇華している人も少なからずいるだろう。

 

なぜ、そんな心情に変貌したのだろうか。

欧州文明の性悪思想(ゴイム用キリスト的教 条)、奴隷を操るための貴族思考が、

日本を穢したとしか、ワタシには思えない。

 

物質の支配者、持てる者の優位性が素朴な人の良心を歪ませる。

弱肉強食がこの世の摂理とあらゆる汚染脳で信じ込ませることが、

持てる者の優位性を強固にする。

それが貴族ら資本家らの、恥を掻くことだけは避けてきた、

恐れからの虚の努力、痕跡、証ではないのか。

 

ゴシップ・スキャンダルで政治家や著名人・賢者を

貶める、辱めるマスコミの陰険な報道の奥には、

そうした特権階級者の病んだ心理構造も写し鏡として

潜んでいることだろう。

マスコミ(ケータイも同様)それは、

輩の所有する最大の支配用・独裁・独占ツールなのだから。

 

それぞれ良心の捉え方も違うとも思うが、ワタシにとって、

虚栄心が、最も良心を穢す根本のように思うのであるが、どうだろう。

(人工種故、生物としての卑しさを受け入れられない卑小さ哀しさ弱さ。

 貨幣経済に執着する支配者らの内的世界は、虚栄心に満たされ・・・。

 それを元ユダらに利用されているか。)

 

 *******

 

悪ぶる生き方考え方が、日本社会の空気にジワジワと広がっていったのは、

外側との比較が増えてからのことだろう。

つまりはマスコミの台頭と時期を同じくしていると。

 

 

内的世界を軽んじ、混乱し、富・名誉・権威を持つ者を崇める、

外的な基準に価値を見出す即物社会に変貌し、大衆の意識に

虚無感・ニヒリズムが起きた、と。

金持ちがエライ、運がイイと考えたり、立場の優位性が

ひたすら格差社会を先鋭する。マスコミや企業活動が煽動する。

環境破壊は、カネが、経済活動が、権化なのに。

 

 

聖書に端を発した印刷技術。新聞や教科書は大衆に急速な変化をもたらした。

明治以降の活版印刷で普及した、娯楽の小説などの空想のストーリーも、

短絡、即物的な勧善懲悪、性悪説が軸となった。

現代においては、映画・小説・ドラマ・ゲーム・イラスト・・・、

もはや善人は偽善者で悪人が正義のような構図。

悪徳性を美化する、綺麗か汚いかという短絡判断。

見えない美、真実を感じ取れない想像力の低下。

動植物・・・生物の殺戮、悲惨、無慈悲さ。

弱肉強食なる短絡イマジネーションを

多くの人間の意識に、日々刷り込まれ続けている。

慈悲心を完全排除する集合意識へと方向づけされているようだ。

 

 

 

やはり、

幸、不幸に拘ることを知らなかった時代を知る、

フロイトの言葉、思いを重ねると、

マスコミという巨大組織の悪徳性が克明になる。

不特定多数の人間に、

同一の価値の定義(支配者都合の常識や通念)を媒体で誘導し、

即物的な世界観・見える世界・証明できる観念での、

比較意識から派生する「恥」という心理を

弄る、弄ぶこと。

それによってイデオロギーや常識とされる・・・借り物の価値観を

押し付けられているという事。

それに、気付かない社会状況になった事。

その最大の悪質な問題に、

私たちは、気付く・見抜く、必要があるのデアル。

 

他人と自分の意識世界は全く違うという千差万別の意識の普遍。

が、しかし違うからこそ影響しての変化する宇宙摂理の三次元世界。

 

それを意図的に同質に変化させ支配しやすいよう、

便利なようにするのが、人工種偽ユダらのご都合。

ルシファー宗教者ら。

 

個々人の精神の世界は撹乱され、悩みが絶えないのは、

外部の不特定多数に向けて、支配者に都合のいい価値観を

押し付けられていることに由来するのではないか。

比較してしまう表層意識(映像画像言語で刷り込まれた記憶)に気付くべき。

それこそが、自己否定の始まり

優越劣等感の苦悩であることを自覚すべきではないのか。

 

 

 *******

 

もう、この時代に及んで、マスコミ、不特定多数に向けての

メディアに疑問を呈し否定したところで、無力な発言は承知のこと。

無論、ブログを記すというこの行為も同様のもので、

同じような立場・価値を批判する愚かさに歯痒さがある。

 

けれども、人間の意識というものが外部的な情報で撹乱され続けての、

自然破壊であったり、人間精神肉体の劣化であったり、

他生物への残酷さ無慈悲さに、記さざるを得ない衝動もある。

 

象徴的な異常なるこの世界、時代に、

ひとりひとりが沈思する必然の時期。

偽ウィルス騒動のコロナ禍とも重なる。

それは偽ユダ(人工種族)欧州貴族や国際金融家が、

あらゆる地球の富を収奪すると同時に、

元ユダ(現金星人)の叶わぬだろう

地球帰還を利害で画策し続けての、

有史以来の茶番劇。

 

地球を尊ぶ生き物に、未来が満たされることを想像する。

そんな過渡期ではと感じる。

 

ともあれ「魂・良心に恥じない生き方」は、

生物本来の意識への回帰、魂の高密度へ、

自然の新たなる循環・醸成・創造へと

つながっている気がする。

 

現代・現在では「恥をかく」という心理は、

外面世界に於いて、内面世界(精神世界)からの特攻隊なのだぁ〜!

 

で、猫が股を舐めている姿が、愛おしいと思うのは、何故か?を

ふと思う。。。w

 

 

 

 

【5/17 記事を一部修正】

【5/18 記事を一部修正】