言葉とは間接情報の始まり。
実感体験。
それを己に落とし込むのと同時に。
伝えるという衝動が起きる。
危険を回避するためであったり、
知恵を共有して共存へ進むためであり。
エゴ・保身を起点として、生きていくための道具。
それが言葉であろう、と。
だが、実感体験、事実に直面したことを伝える必須性の有無。
考えさせられる。
伝える言葉、それは物理次元で抽象性を発生させ、
共通性を強制する道具であり、支配の起点とも
なっているであろうことを思う。
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マスコミの不気味さ、その影響下の世界が
如何に、地球・生命を劣化させるか。
現代人が、言葉という道具が双刃の剣であることを
認識するこの時代なのかもしれない。
聖書に、はじめに光ありきと記されているのを
どこでどうなったのか、はじめに言葉ありきという
文言も巷で長きに併走している。
その出所をワタシは知る由もないし。
調べると迷路に入ってしまいそうだから、
そんな無駄なことはしないけれども。
言葉というその原点は、意識の陰り、疑心が始まり。
カタカムナやヲシテ文字など原始言語を紐解きたくなるのは、
古代の人々のテレパシーの真髄へと魂が
求めてしまうからであろうかな、と。
同時共生を意識化する世界と
なるであろう地球未来。
もちろんマスコミ(偽共生情報媒体)はオワコンで。
映像画像、映画小説ドラマ、書籍、2次元媒体の全体、
まして広告は過去のガラクタ。
意図というものは支配(独裁・独善)を含有する。
現象界で歪みが生じる。
不特定多数へ向けての技術依存の情報というものが、
支配(独裁・独善)の始まり。
広く多く人へ伝えるという行動は
時に善意。時に悪意。
善悪の垣根を超えて
意識が汚染される危険性。
我々はそこに気付き客観的に扱うべきではないか?と。
敏感な人は、そんなこと、とっくのむかしに気付いているだろう。
鈍感な人は、きっと劣等感の渦で己を見失っているだけだろう。