ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

徒然(2)___言葉について

 

 

 

言葉とは間接情報の始まり。

 

 

実感体験。

それを己に落とし込むのと同時に。

伝えるという衝動が起きる。

 

危険を回避するためであったり、

知恵を共有して共存へ進むためであり。

エゴ・保身を起点として、生きていくための道具。

それが言葉であろう、と。

 

だが、実感体験、事実に直面したことを伝える必須性の有無。

考えさせられる。

 

 

伝える言葉、それは物理次元で抽象性を発生させ、

共通性を強制する道具であり、支配の起点とも

なっているであろうことを思う。

 

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マスコミの不気味さ、その影響下の世界が

如何に、地球・生命を劣化させるか。

現代人が、言葉という道具が双刃の剣であることを

認識するこの時代なのかもしれない。

 

聖書に、はじめに光ありきと記されているのを

どこでどうなったのか、はじめに言葉ありきという

文言も巷で長きに併走している。

 

 

その出所をワタシは知る由もないし。

調べると迷路に入ってしまいそうだから、

そんな無駄なことはしないけれども。

 

 

言葉というその原点は、意識の陰り、疑心が始まり。

カタカムナやヲシテ文字など原始言語を紐解きたくなるのは、

古代の人々のテレパシーの真髄へと魂が

求めてしまうからであろうかな、と。

 

 

同時共生を意識化する世界と

なるであろう地球未来。

 

もちろんマスコミ(偽共生情報媒体)はオワコンで。

映像画像、映画小説ドラマ、書籍、2次元媒体の全体、

まして広告は過去のガラクタ。

 

意図というものは支配(独裁・独善)を含有する。

現象界で歪みが生じる。

 

不特定多数へ向けての技術依存の情報というものが、

支配(独裁・独善)の始まり。

 

 

広く多く人へ伝えるという行動は

時に善意。時に悪意。

善悪の垣根を超えて

意識が汚染される危険性。

我々はそこに気付き客観的に扱うべきではないか?と。

 

 

敏感な人は、そんなこと、とっくのむかしに気付いているだろう。

鈍感な人は、きっと劣等感の渦で己を見失っているだけだろう。