〝主義〟という言葉を知ることになったのは、
小学生末か、中学生になった頃と記憶する。
社会という科目が、地理・歴史・現代社会と
分かれてから、主義という言葉が
授業で殊更に耳に目にするようになり。
当時、思春期の頃に。
〝主義〟という言葉には、思想、思考の「偏り」が
あるからこその熟語だな・・・と思った。
〝主義〟というものを主張すれば、
その逆の義が発生するという原理があろう、と。
どちらが本当か?の戦いの言葉だな・・・と。
〝主義〟という言葉に、授業で出会った時。
そんなふうに直感として
感じたことを覚えている。
宗教も同様で、世界平和、人類皆平等を声高に叫ぶも、
他の団体との争いは何事ぞ?
宗教団体間の縄張り争い、集金力の競争。
すべてを包むはずの理念団体のはずが戦いを極める。
ヒエラルキーの頂点は高くなる一方。何が愛だ?平等だ?
矛盾しているではないか?
ひとつの括りが、起きれば、始まれば。
それ以外との対立、対峙が発生するに決まっている。
そんな主張の世の中で。
思春期の私は、本当の真ん中はなんだろか?と。
疑問に思った。
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中学生になった時、漢文に触れる国語の授業でのこと。
「中庸」という言葉に出会って、いたく感動した。というのか、
ずっと抱えていた疑問を中庸という言葉でやっと腑に落とせる
可能性をこの熟語に見出した。
ずっと知りたかったことは、この中庸という熟語の感覚・・・。
解釈?
言葉の説得力で様々な今までの疑問を落とし込めるのか、と。
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家人は、言葉が発生して生物としての人間は、
間違った方向へ進んでしまったのだと常々言葉にする。
皮肉な会話と思う。
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バランス・中庸を崩すことの奥義も
宇宙の采配・・・なのだろうか?!?!?!?