この日本の古い言葉は、
人間の能力の何が最も大切かを物語る、と思う。
言葉という道具の限界というのか。
昔の日本の人の経験による指摘の言葉が、本質を伝える。
教条的な教本を使っての宗教が、本質からズレて行くのも、皮肉にも
この言葉に集約されているではないかと。
ある種の世界観(キリスト教思想)を批判する者を
批判し、忌み嫌うことは、
観念の渦中。その罠に気づかないのだろう、と。
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各々自身の実感・体験経験。小さな日常の気付き。
その欠片を少しづつ当て嵌め重ねて、
各々の人間の意識は研ぎ澄まされていくのだろう、と思う。
地球摂理はそんな感じではないかな。。。
人間は他生物への助力の役割なのだから。
人工的利己優先な言葉、それに満ちた書籍に、正解はないわけで。
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人間中心主義の思考に、落とし込まれた
選民意識。
救われたい願望、エゴがある程に、
カンニングよろしく、答えがわかる方法(楽ちん、短絡の方法)を選び、
他の提示する仮の正解を
盲信・すがるようにして信じ、自分を騙しながら肯定して。
やがて、自分自身の人生・思考、思想が希薄になり依存心が増幅する。
布教やら、多くの人に伝えなければ・・という、奴ら御用達の
マスコミのような、衝動性が、偽の己を突き動かす。
現代の情報過多、情報飽和状態は、そうした動向、
集合的思考の所産であろうと。
権威や権力、金銭の力に無意識に頼り、イデオロギーを盲信し、
他者を否定する人生へと変貌する。
悪魔社会へのシナリオ。
宗教者の多くは、ブランド的価値観に反応しやすい。
(机上の価値に浸っているから)
学校やら、巷の組織、啓蒙的団体。
(西洋的価値観の社会組織はフェーマス・有名性や権威的であることが、
最重要。。。w)
そこで交わされる会話は、優越劣等感を苛むような会話に溢れている。
なぜなら、具体の、個人の、尺度が分からなくなっているから。
それが、西洋的団体やら西洋宗教の仇。
個人の、八百万の神、アミニズムの感性と、逆行した心理。
(わかりにくい表現でスンマセンw)