ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

2015年4月27日__当方の記事

 

 

 

当方の別ブログ

2015/04/27より転載

 

 

tadaimachan.blog.fc2.com

 

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2015/04/27

 

 

逝きし世の面影の第十三章「信仰と祭」とは
ほとんど関係がない話題だが、キリスト教
影響はどの時代から…という分析は日本人に実はとても
重要ではないか…という視点でこの記事を書いてみようと思う。

歴史に精通した諸氏にとっては一笑に付されるような
推理だろうと思いつつも、メモ程度に書き留めておきたい。
 
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豊臣秀吉千利休切腹を命じたのは1591年。
千利休が切支丹だったこと、切支丹大名に加担し続け、
更に秀吉を暗殺する計画が
秀吉に発覚したからではないか、と私には思える。
本能寺の変の主犯・真相に少々類似していることを思う。

千利休には切支丹としての証拠がないと言って、
歴史でその是非を語られることは殆どない。が、利休切支丹説を
後になって調べたら三浦綾子氏『泉への招待』にその説がある。
キリスト教者の被害者美談だろうから参考にはしないが、私のこの憶測が
的外れでもなさそうだ、と。

千利休の出自を見ると、中世の堺の豪商の倅である。
屋号は魚屋(ととや)と言ったそうだが、手広く商う貸倉庫業運輸業だったという。
稼業が火薬奴隷貿易に加担していたのではないか、と考えられなくもない。
港もある中世の堺に豪商が発祥したのは、京都での商談・政局談に好都合の地であり、
正に火薬と奴隷取引の貿易商談の中核都市だったと思われる。
(ベネチアを彷彿とさせる。また、堺は商人の自治区だった)


千利休茶の湯を始めた理由は商人の跡取りとして
品位や教養を身に付けるためと書いた記事も読んだが
戦国時代にそんな悠長な理由とは考えずらい。
茶の湯という密室宴会の場で大名同士の情報交換、
イエズス会からもたらされる火薬と戦国武将が差し出す、
日本人奴隷の取引商談や政局情報交換、
鉄砲や刀、南蛮珍品、砂糖や綿商材等
(追記・銀・石見銀鉱山等・・・)
大名や宣教師らの商談要請と共に密会所のホスト役、
商人として仲介し、相当額の利益を得るため奔走していたのではないか。
織田や豊臣が茶人を召し抱えたのも、兼・商人だった彼らの情報を
でき得る限り、把握したかったことだろう。

(5/5 追記:この記事を書いた後、調べながら判明したことだが、
織田や豊臣の政治思想は平和路線が真意と思われるので、
二人の将軍が、私利私欲だけで茶の湯を政治利用した訳では
なかった、と当方の考えを改めたことを記しておきたい。)


天下三宗匠と呼ばれた茶人、千利休の他、
今井宗久、津田宗久、等々、当時の有名な茶人は商人でもあった。

茶道が日本の文化的役割を担っていると広く流布されている。
そうした文化面に焦点を当てて千利休を見れば、
千利休が商人の顔を持っていたなど生臭い話に聞こえるだろうから、
抵抗を感じるだろう。
千利休の功績、茶の湯文化の様々な美学美談の逸話は多い。が、
ある程度、後世の人間が脚色できることもあろう。
精神文化やその歴史は事実より想像力の世界だ。
利休の暗躍とイエズス会の真相を覆い隠すためにも…。

茶道の世界は現代に至っても閉鎖的かつ金銭寄進が奨励され
経済的に優位者の社交場の側面があり、ヒエラルキーも強固である。
日本人の平等感とは異なり、その茶道界の体質は権威重視で
どこか西洋的であり茶の湯キリスト教の聖杯儀式と共通点を
見出せるのも偶然ではなさそうだ。
茶の湯という隠密な社交場で、何世代にも渡る人間関係、親戚関係もあろうか。
先入観を承知であるが、現代でも権力者、出世者、富裕層、重用者に
キリスト信者が多いのも、あながち無関係でもない気がする。


千利休切腹の理由を映画や歴史ドキュメンタリーや歴史書
秀吉の逆鱗に触れた、として未だにその理由に様々な解釈を
マスゴミで与えている。
理由をいつまでも推理で煙に巻いているのは、
秀吉が伴天連追放令を下した本当の理由、実相は、
決して日本人全体に知ってもらっては困るからであり、
困る人間が未だいるということではないのか。
捏造事実に捏造史で泥の上塗り…。

何度も書くが16世紀半ばから末、イエズス会と切支丹大名による
火薬日本人奴隷取引、神社仏閣破壊が九州で激化。
豊臣秀吉は前年(1586)まではイエズス会布教許可証を発給しているも、
九州平定で視察した秀吉は、その実情、惨状を知り得て
1587年伴天連追放令を発布。
4年後1591年に秀吉から千利休切腹を命じられている。
伴天連追放令以降、切支丹へ厳戒令を布いた後、イエズス会や戦国武将たちに
とって豊臣秀吉の暗殺が発想に浮かばないはずはない。

千利休と親交の深かった「利休七哲」と言われる大名。
蒲生氏郷高山右近細川忠興芝山宗綱、瀬田掃部、牧村利貞古田織部
高山右近を筆頭に、細川、蒲生、牧村、古田ら…切支丹大名である。
千利休を通じ火薬を入手し、また日本人奴隷を差し出すため
親交が深まっていっただろうか。
この切支丹大名先祖に秦氏百済系であることも
日本人奴隷に抵抗感が少なかったことも考慮できようか。

利休の名はもともと宗易、抛筌斎と称したという。
1585年正親町天皇から禁中茶会の折に勅賜したという。
では「千」はどこから来たのか。ひとつの説として1653年「利休由来書」では
祖父田中千阿弥は足利義政の茶同朋であり千阿弥は
朝鮮から移住した文化人という説がある。

ふと疑問に思うのは、せんりきゅうではなく「せん〝の〟」りきゅう」なのか。
祖父が千阿弥の説があるが江戸時代に入って後述された文献だ。
「聖」=「セント」=「せんの」を想像できなくはない。
イエズス会から千利休はすでに「神父」のような役割を与えられていたのではないか。


もう20年近く前に見たTV番組で地元の江戸時代から続く
尾張藩美濃経路に面した呉服屋について紹介していた。
その呉服屋の奥には茶室がある。
参勤交代で各地方から来た藩主らが江戸への旅程で
密会のため利用していたという。床の間の掛軸で隠された壁面には、
十字やキリスト像マリア像をあしらった祭壇が作られ、
中庭の燈籠にも十字を施すなど鎖国の江戸時代只中に関わらず、
切支丹大名の活動・交流を生々しく窺がわせる。

隠れ切支丹をかくまうことが町民の茶室に及んでいたということは
禁令が発布されても江戸時代約250年そのような密会が各地で、
静かに継続されていたことを思う。