ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

草について___1

 

朝顔に釣瓶とられて貰い水」……加賀の千代女

「行水のすてどころなきむしのこえ」……上島鬼貫

 

最近、この俳句にふれる機会があり心に沁みた。

 

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雑草が生えていると草抜きや草刈り、伐採などをして、

美観を保つことは、常識。

害虫を減らすことや植栽に日光を当てるのにも、当然の作業である。

いかに人工空間を清潔に保つか。人工空間の中にほんの少し自然を

感じられる何かがあれば、何となくいい感じ…程度に、植物を取り入れる。

そんな庭や街の有り様が求められる社会。

何となくいい感じの植物が、風土に合わない外来種だろうが、

遺伝子組換やF1種だの、どうでもいい現代。

 

 

ワタシは思春期の頃から漠然とだが、

雑草を徹底的に排除しようとする考え方に疑問があった。

というのも、中学高校と寮生活をしていたのだが、

規則違反の際には、罰則として草抜きが課せられた。

また、学校関連の敷地を清掃するのにも必ず、

草抜き中心の作業を年中行事としてやっていた。

かなり整備されていたが、更なる美観を目指し、

小さな草も見逃さないことを奨励していた。

はっきり言って、草抜き作業を中学高校でやり過ぎた…と思う。w

それ故か、草について、雑草というものについて、

アレコレ考えるようになったかもしれない。

ちなみに、植物学者でもあった昭和天皇の有名な言葉

「雑草という草は無い」を三十歳の頃知り、嬉しかった。

 

 

それにしても、日本社会全体が

(生産性のないと決めつける通称:雑草と呼称する)草を嫌い、

美観に拘るのは、なぜなのか?

いつ頃からなのか?

なぜ、そこまで都合の悪い虫を忌み嫌うのか?

美観を重視して作られた人工的な庭や街の草木の周りに、

チョウチョやトンボなら飛んでいてもいいけれど。

蚊や蠅、ゴキブリなどもっての他。

そんな感覚が当たり前の時代。

 

人間の命は大切にするが、わずかな自然に集う想定外の

生物に対して冷酷なのはなぜか?

子供っぽい疑問を未だに抱えている。

ワタシも好奇心をもって害虫を観察することはない。

できれば、速やかに退散して欲しい。

そういう思いが自分にあるのは、なぜなのだろう、という疑問だ。

言うなれば、「害虫という虫」はいないハズなのだ。

 

ひとまず、ワタシなりの回答を少々挙げるなら、

主に広告印刷物やCM画像、映像の中で、キレイな庭や街、公園、庭園の

イメージが刷り込まれ、人間の勝手な自然美を求めてしまう

想像力・思考回路になってしまっているからだ、と思うのだ。

 

あるいは、ハエやゴキブリ駆除のCMは見るに堪えない。

戦後50年以上、毎度CM映像を目に焼き付け、害虫の危険性の

ウィルスやバイキンによる病気の事実・実態を知る術も、実感もなく。

否、あのような映像をTVで幼い頃から目にしていれば、

虫のことを具体的に知ろうという好奇心など湧くことはほとんどない。

生理的に、一切受けつけ無くなるよう、

悪意を持って映像が作られていると思ってしまう。

 

一方的に害虫を徹底排除することが、衛生であるという、

正義のもと。ほとんどの人はその思考回路で、虫を見るようになってしまう。

 

植物、虫、微生物、動物あっての自然界。

その世界、その循環が無かったら、人間は存在できないのにも関わらず。

 

 

 

二十歳頃見た「ノスタルジー」という映画だったと思うが、

ソ連時代に亡命したタルコフスキー監督の映画のワンシーンは、

草について考えていた私の疑問に、幾ばくかの回答をもたらした。

ストーリーは記憶にないが、ある演者が部屋から庭の様子を眺めながらの、

セリフの内容が印象に残っている。もう言葉も忘れてしまったのだが…。

~手入れの行き届いたキレイな庭より、

 自然に任せ草木たちが生きる様子を見る方が

 心が安らぐ。だから、庭の手入れはあまりしたくない~

というようなことだったと思う。

 

美観を維持する。整備して手入れしてキレイにする。

自然を人間の常識に当てはめ、手を加えていく。

草抜き、草刈りもそのひとつだ。誰のためにそれをするのかといえば、

人間のためだ。

あるいは、家の庭や畑なら、近所の苦情を避けるため、人目を気にして

では、ないだろうか。清掃で衛生を保つことは大切であるが、

過度に衛生に拘るのは、病的な心理、利己の顕れという気もする。

 

そこに生きる草木や虫、動物、微生物の命を

排除しながら、人間都合の美観を保つこと、常識を保つこと、衛生を保つこと…。

 

小さな命が毛嫌いされたり無視されていることが、

目には見えない命の世界からは、

どんなふうに映っているのだろうか、と常々想う。