ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

種苗法改定 5/12農水委員会一般質疑趣旨説明 5/14質疑、採決


マスコミ茶番ウィルス騒動を繰り広げる最中、
国民に不利益な法案の可決が目白押しのようだ。
その中の一つが種苗法の改定で、
今日、令和2年5月12日農水委員会にて一般質疑、趣旨説明
5月14日に質疑、採決とのこと。

先日、種苗法改定について書いたものの、
2018年問題になった種子法廃止、
2020年種苗法改定案も、
元々の種子法や種苗法を知らなくてはならないので、
やはり、法律にも無知な私は、にわか知識では書けない。

参考までにわかりやすいyoutuberの方の動画を紹介。

 

(追加5/12)

www.youtube.com

 

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

 

 

 

種苗法改定は、グローバル企業に都合が良い法改正。
(日本モ ンサントやバ イ エ ル ク ロ ッ ク サ イ エ ン ス のような
多国籍企業、タ キイやサ ントリ-やら・・・)

改定案の趣旨は、種苗の海外流出とジー・マーカー・テクノロジーによる

品種開発を防ぐためであるというが、

農家による登録品種の直増殖をも禁止するのは理屈に合わない!と

動画作者が伝えている。

 

ジー・マーカー・テクノロジーとは1世代であるF1種が、

F1種の状態を保って次世代が生育できるようにする技術。)

 

 

 

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多国籍企業、つまり偽ユダが所有する無国籍企業が世界中に蔓延り、

日本は標的の筆頭にあるだろう。

家族で切り盛りする農家が安心な野菜を届けてくれている社会が

危機に晒されている。

金銭崇拝の社会は、真摯に生きる人々を切り捨て、

寄生虫の資本家、投資家が旨味を吸える社会に行き着く。

無国籍企業の生産する農薬や化学肥料たっぷりの、F1種や遺伝子組換えが

日本の農地を席巻し汚染しないでくれ!と叫びたくなる。

大資本が、植物を生産し金儲けすると自然が破壊されるのは、

プランテーション農業で立証済みではないか。

 

金星で元ユダと偽ユダが自力で農業やればぁ〜。

 

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テレビや新聞からではなく、

日頃から参議院衆議院内閣府などのホームページの閲覧が必要だ。

マスコミの偏向報道も判ってくるのだろう。

が、文書が複雑で量が多過ぎ。敷居の高さが

マスコミをのさばらせる訳で。

それにしてもわかったつもりになる

マスコミ・マスメディアの情報が、現代社会で最も恐ろしい。

 

国会のみならず、様々な専門委員会にもライブカメラを設置して

常に、視聴できる時代じゃないのか!!

 

政治の不透明さに、マスコミが追い討ちを掛け、

国民の目にマスクを、耳に栓を付けさせている。

兎にも角にも、マスコミ不要である。

 

 

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 (追加5/12)

 

下記に紹介する転載記事について。

品種改良に関しては日本のお家芸であることを教えてくれる。

が、近代から現代にかけてミクロのテクノロジーの精鋭が、

自然破壊、生態系、他生物の破壊になる。

結果、人類存在の喪失へ繋がっていくだろう。

 

直接、明後日の種苗法改定とは関係ないかもしれないが、

約150年前。

幕末訪日欧州人のプラントハンターと称する

フォーチュンという人物が、幕末の日本に於いて、ワタシはこの箇所を

読んでいて厚顔無恥な人物と感じてしまった程の、

植物採取を行い、欧州に持ち帰った逸話がある。

現代は、その厚顔さが組織(無国籍企業という法人)になっているようである。

それほど、江戸社会の自然は美しく訪日欧州人を魅了したとも言える。

それにしても、江戸社会までの日本人の植物への愛情の深さは何処へ

行ってしまったのだろうか。

F1種であろうが遺伝子組み換えであろうが、

味覚を満たし腹が一杯になれば、自然環境には無関心とは

人間劣化ではないのか。

偏見というより、旅の恥はかき捨てか。

やはり、行政は在日帰化人が中心に動かしているのではなかろうか?

 

「逝きし世の面影」(渡辺京二著)459〜462頁より転載。

 

 中尾佐助によれば、世界の花卉園芸文化の第一次センターは西アジアと中国で、日本のそれは中国に由来する第二次センターだとのことだが、江戸時代にはすでに中国と言う第一次センターを凌駕し、おなじく第二次センターである西欧よりはるかに進んでいたという。つまり「江戸期の日本の花卉園芸文化は全世界の花卉文化の中でもっとも特色のある輝かしい一時期」であった。花卉文化が大衆に普及し始めたのは、中尾によると元禄期からで、欧州よりも二百年早い。

「花見や菊人形のような大衆の参加する花卉文化が発展し、花卉の同好団体が多く誕生し、植木屋、庭師といった花卉園芸の専門業者が出現し、園芸書の出版がはじまった」のは、世界にさきがけて日本においてだったのである。

 椿と桜の品種改良は早くも室町時代に始まり、徳川期に入ると椿は欧州に紹介されて評判をとり、桜は四、五百品目、梅は二百品種の多きに達した。
世界的に見てもこのように「高木性の花木が大改良された例は見あたらない」と中尾は述べている。

 そういう江戸期の輝かしい花卉文化は、ケンベル、ツェンベリ、ジーボルトなどの紹介でひろく世界に知られていた。
 フォーチュンはその評判にひかれて、1860(万延元)年から翌年にかけて日本を訪れた英国のプラントハンターである。彼の目的は「ヨーロッパに知られていない、観賞用ならびに有用な樹木あるいは植物の品種」を収集することにあった。彼らそのために訪れたのは、主として江戸郊外の団子坂と染井である。いずれも当時名だたる園芸センターだった。染井について彼はこう書いている。「公園のような景観、木々や庭園の数々、きれいに刈り込まれた生け垣が次々と続いた。そしてついにつき添いの役人が、染井村に着いたと知らせてくれた。この地域はまるごと育樹園で覆われている。一マイル以上続く」直線道路にそって、その育樹園は並んでいるのだ。私はかつて世界のいかなる地域においても、これほど多数の植物が売り物として栽培されているのを見たことはない。育樹園はそれぞれ三、四エーカーの土地を占め、管理はゆき届き、鉢植えや露地植えの数千の植物を保有している。こういった育樹園はおおむね特徴をともにしているので、ひとつの有様を述べれば、他のすべてを説明したことになる」。
 彼は団子坂と染井で、ヨーロッパに知られていない高度な園芸植物をふんだんに見出し、そのすべてを買い込んだ。彼にとって日本は、文字どおり宝の山だったのだ。しかし彼の収集は団子坂と染井に限られたのではない。江戸中の植木屋が彼の滞在する英国公使館に珍種を持ちこむようになったし、神奈川宿方面においても彼は、日本人助手を雇って近郊の寺院や農村で見出される珍種の収集に怠りなかった。
 もともと彼はロンドンの王立園芸協会から、園芸植物収集のため中国に派遣され、そこから母国へ数々の未知の品種を送り出したのだが、世界中の未知の花卉類を母国ひいては欧州のコレクションにもたらすことに、異常ともいえる使命感をもっていた。彼は日本訪問の第一歩を長崎で印した。長崎郊外には二度目の来日を果たしたジーボルトが住んでいて、彼はさっそく表敬がてら、ジーボルトの植物園を偵察したのだが、ジーボルトの長男アレクサンダーによれば、彼は「父の留守に」やって来て、「許可を受けずに、新しいすべての植物の枝を折り花を摘みとった」。ジーボルトは「そういう行為に利己的な学問上の争いの気配を感じて、すっかり興奮してしまった」という。

もちろんフォーチュンは、〝Edo and Peking〟中に、そんなことは一行も書いていない。1860年度に彼が調査し、〝荒らしまわった〟(ransack)のは秋と冬の日本の植生だった。しかしこのプラントハンターの執念は翌61年の春、この国を再訪させずにはおかなかった。

こんどは春と夏の植生を観察しようというのである。当時、江戸市中へ入れるのは条約国の外交官に限られていた。60年に彼が江戸に滞在できたのは、オールコックの客として招かれたからである。しかしそのオールコックは、マイケル・モス事件で香港に召還されて当地にいない。公使代理をつとめるマイバラ(Fredrick Gerhard Myburgh 1836~68)に頭を下げたくなかった彼は、アメリカ行使ハリスの好意にすがった。ハリスは大歓迎で、おかげで江戸入りがかなったフォーチュンは、五月の染井と団子坂に対面することができた。
「染井の庭園は、秋頃とはまったく異なった装いをみせていた。それらは夏の衣を身につけていたのだ。木々は葉で覆われ、花をつける種類の灌木や草木類は花盛りだった」。彼は団子坂でも染井でも、去年見ることのできなかった珍種を見つけ出し、片っ端から買い求めた。「あらゆる隅々が調べ尽くされた」
のである。中尾佐助によれば、このようにして彼によって英国へもたらされた品種は、
たとえばアオキの雄木がありクリンソウがある。「ヨーロッパの庭園には斑入りの庭木はほとんどなかったが、ただアオキだけは斑入りがすでにヨーロッパに入っていた。ところが雄の木がなかったので、実をつけることがなかった。彼が日本から雄のアオキを導入したので、ヨーロッパ庭園の斑入りのアオキも、秋冬に赤い実が見られるようになった」。またクリンソウは大型サクラソウであるが、フォーチュンによる移入以後、英国でもてはやされ、いろいろな品種が生まれていまでは日本へ逆輸入されているという。しかし英国臣民たるフォーチュンのアメリカ公使館滞在は物議を呼んだ。
マイバラは書信をよせて即時江戸退去を要求し、彼はそれに従うしかなかった。もっとも彼はほしいものは十分手に入れていたので、いわば金持ち喧嘩せずの心境だったのである。ただし、マイバラへの返信でいや味だけはたっぷり言っている。
川添登によれば、フォーチュンの「訪れたのは団子坂から染井までであり、その背後の巣鴨では、植木・花卉の栽培が、さらに広大な地域にわたって展開しているのを知らなかった。染井・巣鴨は、花卉・植木栽培の文字通り、世界最大のセンターだったのである」。徳川期の花卉栽培文化が当時の世界をリードした淵源は、川添によると、大名や旗本の屋敷あるいは寺社に庭園が設けられたことにあったらしい。江戸には、大名屋敷に付随する庭園だけでも千を数え、そのうち後楽園、六義園クラスのものが三百あったという。リンダウが「数多くの公園や庭園がこの江戸を埋め尽くしているので、遠くから見ると、無限に広がる一つの公園の感を与えてくれる」と言ったのも、思えばもっともな話だ。庭園はむろん観賞用植物を必要とする、その必要にこたえて江戸北郊に園芸センターが展開したのは先述の通りだ。江戸の花卉文化は先述の吉宗将軍の事例もふくめて、武士階級のリードするところだった。第一、武士は閑だった。
大久保のつつじが染井のそれを抜いて名を売ったのも、同地の鉄砲同心たちが閑にまかせてその栽培に精出した結果だというし、有名な肥後六花を生み出したのも、細川藩士が結成した花連である。

一方、寺社の貢献も無視できない。フォーチュンは神奈川周辺で珍種をあさるさい、

標的をお寺に定めた。彼が念願のアスナロの種子を採集できたのも、

そういう寺のひとつにおいてだった。

 

 

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*貨幣価値の差が、外国人に買い漁ることを許していた時代である。

だが、世界共通の通貨になったところで、特許や独占市場・販売がまかり通る

現代以降は、貨幣が存在すること自体が、大衆を苦しめていくのだろう。

 

マスコミ嘘つきウィルス騒動より、命を繋げていく法改定の行方の方が、

大切だと私は思う。

それにしても、日本人はマスコミに時間と気を奪われ、

大企業、無国籍企業が台頭し効率化がかえって貧しい精神を作っている。

西洋礼賛になって、良いことは無かったと私には思えてならない。

歪んでしまったであろう中世以降のキリスト教思想の危険性も常々感じている。

 

そして、自然と共に生活を豊かにする遊び心を失ってしまったことが残念だ。