家族とは、他人ではない。
血縁とは何か。
窮地の時、自分の身になって感じられる
その関係は、他人と家族の一線でもある。
もし、最悪の状況になった時、大親友が助けてくれるかどうか。
身を呈して、身を投げ出して、命を守ることは、有るか無しか。
肉体の流れとして残したい生命のエゴ。
可能性として、母親はどうだろうか。父親はどうだろうか。
昨今は、肉親という繋がりが希薄に感じられる喧伝が溢れているけれども。
命のつながりは、巷で声高に響く〝愛、i、アイ・あい〟〜〜と唱える、
その〝愛(ai)〟を
超えるのか、超えないのか、の問いが、
未だ、私には解らない。
それはそれとして。
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日常に於いて、家族と互い向き合う情緒的な事柄は、千差万別だけれども。
案外、お父さんの考えている思想的なものだったり、
案外、お母さんの考えている思想的なものを
人物の全体性を知ることがないライフスタイル・生活思考パターンが、
家族の摩擦を生み出している、
やも知れぬ。
自分の考え方が形作られる思春期の頃。
自分自身を十分に観察し、それは何に由来する思考なのか…。
親の考え方、及び願望を客観的に知っていたら、
自分を更に深く知る手がかりになるかも知れない。
それは、祖父祖母やそのまた先代の先祖の思い、願いが
己の人生の中に、基点として散りばめられていることを
気づくのも、己の人生の生き方の指標になるのかな…と
思ったりする。
数年前、私の気づいたことに、母親が生きたかった生き様を
娘が体現するという構図が、実はよくある、という観察だ。
父親と息子の関係性も同様だろうか。
そのあたりは、女性である私には解らない。
社会というフィールドでは、もっと複雑になるだろうから。
ともかく、願望を含む想念が、次世代に発現されるという
これまでの時代の形象に、
縁という事象・意識の方向性を感じずにはいられない。
が、これからは希望・願望が即、実現するという世界が
始まるようで、意識の分断なのか、個の強化に依るものなのか。
潜在意識の欲望が滅せられる流れなのだろうか・・・。
血縁が希薄になりつつある今の世は、
どこへ向かうのだろうか。