2019年6月に記した続き。
約2年前の、旅についての記事から…。
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現代人は、間接的な______映像、画像、文字______から
影響を受け実体験からの、感受が希薄になっている、というようなことを述べた。
(ブログに記すことも間接であることは承知でスガ)
〝比較〟でしか思考が形作られなくなっているのではないか。
と、言うような内容を美術館、何々展の絵画鑑賞を例に挙げ記した。
〝比較〟〝競争心理(優越劣等感による刺激)〟、
あるいは〝仮想体験(人為的な設定・演出)〟で
アドレナリンのような興奮、オキシトシンのような鎮静。
右往左往…多忙な・・・諸々のホルモンを分泌することで、
快感を得るという、行動様式(支配)が当然となり、
日常、自然界の本質からの、素朴な実感・体験の真実、各々の個性的な疑問、
その重要さに気づく世界から遠のいた二次元思考、間接体験の所産。
仮想なる、人工なる___病理の意識状態にも疑問を持てなくなっている。
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「百聞は一見にしかず」と諺はあるが、今や映像、画像、印刷物が
「一見」の代替としてまかり通っている。
ワタシも闇の権力のたぐいを記すのはあくまでも、
書籍で読んだり人から聞いたこと、ネット上の間接情報と、
そしてぼんやりとした経験と想像の域である。
ただし、生活の中に空気の如く侵入している
貨幣支配を実感しているから、推察・推理は広がってしまう。
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さて。(前置きがいつも長いナ。w)
旅について記したいことの一つは、
〝リゾート地〟についての疑問だ。
若い頃、ご多分にもれずワタシも1、2度、
有名な南の島へ旅行に行ったことがある。
一度は、親戚の案内で立派なリゾートホテルに
泊まることができ、ともあれ一つのよき思い出だ。
ただし、ホテルの接客演出や客室、食事、建物、プールなどの記憶はあれど。
自然の豊かさを堪能した記憶は薄い。
ホテルの目の前にある青い海、白い砂浜。
グラビアよろしく遠目ではTHEリゾートの風景であったが。
海に入り泳いでみると案外と水が濁っていた。少々がっかりであった。
観光地だから期待しても仕方がないか、と。
二度目は某マラソン大会のために行った
リゾート地であるが、その時は普通のホテル泊。
たまたま地元に住む日本人と話す機会があり、環境問題について聞いたところ、
案の定、地元住民にとっては観光地が故の、環境汚染は深刻とのこと。
更に、教育や交通についても住み難さ、問題を挙げていた。
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今回の偽ウィルス騒動。そしてアフターコロナと言われるこれからの
時代は、大衆の海外旅行はかなり規制が
増えるだろう、とワタシは予想している。
今までのような万人が消費万歳の経済体制では無くなりそうな気がする。
大衆に向けては社会主義的な施策。
(汚選民用の自由社会・そこにも数千年に由来する理由があろう、と推察する)。
よって、資本主義社会に飼い慣らされた
ゴイムワレワレにはAIバーチャル旅行も計画中か。
お誂え向きか。。。
金金汚選民ド偉いさんだけが、
実体験観光旅行が可能だろうか?!(苦笑)
(宗教的呪詛による一定期間の不徳帳消し末端期)
それにしても観光、観光地というものが、そこに暮らす生活者に
とっての住環境の劣化、経済活動のキッチュ化は、
多くの人が薄々は感じてきたことだろう、と思う。
歴史という時間を味方につけた京都のような
例外は少々あるかもしれないが。(歴史教育洗脳は横に置き。)
主要都市部に程近い、数十年前に温泉等で繁盛した観光地が、
今や廃墟と化している場所は、日本に多数ある。
海外旅行の格安、一般化と、自動車高性能化、
道路の交通網インフラが整備され過ぎたことも要因だろうが。
観光という概念、価値観が一般化して久しいが、
何の発言力もないワタシだが、今も尚も懸念してしまうのは、
元々は人の出入りが少ない地域、
人の手があまり入っていない自然環境のみならず、
素朴な地域の人たちの心までも、荒ませる可能性だ。
旅の恥はかき捨てなる無責任な観光客。
礼節を知らない烏合の衆を相手にし続けると_____。
見ず知らずの人と関わる時に、地元の素朴な人は疑心暗鬼が前提と化してしまう。
お金を落としてくれることだけが、目的になる場合も。
そんな心象を観光客との関係、対_人間同士に呼びこんしまう。
悲しいことではなかろうか。
くわえて、ゴミ問題、環境問題もいっそう深刻化するであろう。
移民の多い国に、危険や支障が
増大することと、共通した問題だ。
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大自然を捉えたキレイな広告やら画像映像に、一瞬は好奇心はそそられるものの。
子供の頃から、リゾート地、リゾートホテルと言うものに
幾ばくの違和感があった。
美しい海に垂れ流される、大量の宿泊者の化学物質を含んだ汚水は、
浄化できているだろうか。山頂付近のホテルや施設も然り。
それ以前に、そのリゾート地を開発するのに、
どれほどの自然を破壊し、多種生物の住処をぶち壊して、
人間サマだけが貴族ゴッコをすること。その、傲慢さ。罪深さ。
生物の営みを想像すると、ゾっとし、堪らなく胸が痛む。
一度なりともリゾート経験したのだから、そんなことを
のたまうと偽善者となるわけだが……。
としても、TV雑誌等のリゾート紹介記事を
目にするとそんな感覚になってしまう。
ペシミスト、悲観的と家人からは批判される。
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幕末までの日本には、登山やスキー、海水浴は存在しなかった。
山に登るのは修行者であったり、海に潜るのも海女や漁師、
お役目の人たちだ。
レジャーそれに付随するスポーツ等余暇の使い方、
概念(貴族の暇つぶし。見栄の張り合い・競争)は、
様々な意味において、不要であっただろう、と思う。
もちろん、四季折々豊かな身近な自然。
多種多様の鳥や小動物、虫たちも生活の中に溢れていたのだから。
海、山、動植物、自然への「畏敬の念」は、
今や、過去の遺産のようであるが。
自然を活用するのを最小限に留める、
普遍の姿勢ではないのか。
深山幽谷のような立入り禁止であろう自然空間には
母国の物見遊山の者、まして他国の人間が弄ることは、
地霊精霊への冒涜と言えないか。
もちろん日本人も外国の聖域でそうした無礼をしているなら、
許されるものではない。
近代以降の欧州的人間中心主義のような
傲慢の暴走を防ぐことができるなら、と。
「慎み」という美意識は巡り巡って
人間の、日常生活環境の、水や土や空気の清浄を保つ、
多生物の繁栄に、という循環へ繋がっている。
当時訪日した欧州貴族勢の多くのエージェントたち。
幕末から明治初期の日本をくまなく調査旅行をし、
日本の自然環境を相当に、把握したようだ。
(「逝きし世の面影」参照)
登山やハイキング、海水浴、スキー、ゴルフ諸々。
貨幣経済活動をセットにし、自然環境を人工化への
欧州貴族ゴッコのリゾート設計、
つまり観光という概念が確立された訳である。
あらゆる印刷物を始まりとして、
多種メディア、大量情報の茶番に踊らされ続ける消費社会。
今日までくまなく世界中に貨幣が巡ってきた。
自然破壊、生物排他と引き換えに。
自然に凄まじい犠牲を払わせて。
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現在では観光庁にエ-ジェン トか(イギリス)_?!
D_後金損氏の、貨幣礼賛なる発言で、
日本全体を陳腐なテーマパーク化させん、とハリっ切ってようで。
暴力支配、略奪強奪強姦はさすがにできない状況下での、
ステルス汚染脳支配を今もひたすら目的にしている。
何百年経過しても厄介な欧州支配層。
それは、何であるか。。。
(ユダキリ教用の旧約聖書の茶番予言盲信デアル。元地球人関与であろう、と。)
かつ、数年前の富岡八幡宮事件とも間接的な関連を想像する。
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遠い昔の日本人にとって。
自然は、畏怖・崇敬の空間であったことを
忘れたくない、とワタシは思う。
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現代人が汚染脳されているアイディンティティが、
虚・負〜競争_強奪_排他、すなわち利己によるものだからか?
欧州貴族勢の文化的価値観、キリスト教的人間中心主義の影響を
もろに被ってきた虚しさ。
偽情報社会の常識を疑うことが先決だ。
その常識が、偽の夢や代替の希望を人々に抱かせ、
かえってゆとりを失い、日常を形骸化させ唯物的になり、
混乱しているのではないか。
地球、他生物をひたすら疲弊させていることを
とみに感じている。
【3/12 一部追記】