他者の創造性を楽しむのは素晴らしいことであるが、
作られた物や枠が、自分のアイデンティティになるのは、
他者が意図して作った枠の中に入ることになり、自身の存在が
薄くなるであろうことは述べた。
元来、すべての人は創造性を持っていると思う。
ワタシガブランドデスガ、何カ?くらいの
態度のデカい生き方、人生でありたいもの。(あくまでも願望デシタガw)
と、思っていたが、改めて〝ブランド〟という言葉の
語源を調べてみたら、ゾッとした。
ブランドは、英語「brand」からの外来語。
「brand(ブランド)」の語源は、焼き印を押す意味の
「Burned」で、自分の家畜と他人の家畜を間違えないよう、
焼き印を押して区別していたことから、
「銘柄」「商標」を「brand(ブランド)」と言うようになった。
家畜に押す焼き印の「Burned」は、罪人の地肌に刑罰として
焼き印を押していた「烙印」に由来する。
オット、、、ワタシガブランドデスガ・・・という持論は、
自分が烙印そのものになってしまうではないか〜ィ!
それはそれで、ケッたいなことだ。
(支配者側願望ということダょ。_ _;
潜在的に己にもあるんだろうなぁ_ _;・・・内省)
逆に、他者のブランドをありがたがって纏うということも、
つまり、私はそこの家畜です、という積極的な宣言になる訳で。
どちらにしても、〝ブランド〟という概念_意味、
言葉、言霊には、支配の意図の臭いがすることは間違いない。
社畜_という言葉が、〝ブランド〟(烙印)を正確に表しているのでは?と。
ついでに造語として記してみると、
公務畜_烙印、学畜_烙印、食畜_烙印、服飾畜_烙印、物畜_烙印・・・。
ますます、〝ブランド〟という言葉がワタシは虚しく感じてしまう。
完全支配の戦略として、この言葉の本質に
大衆が気付かないように誘導されている?!と。
〝ブランド〟という価値観がまるで、勝者であるかのような錯覚を
与えながら、あちらのご都合でカテゴライズされる。
大衆は優越感という餌によって、
盲信盲目・判断力欠如がすり込まれてきた、と思うのだ。
〝ブランド〟を纏うほどに、「真」の〝自由からの逃走〟をしている
現代生活・政治経済活動、コレ如何に?!