ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

ブランドについて 1/_

 

 

敵を作るかもしれない発言・・・。(まぁいつものことw)

 

とりあえずワタシは、〝ブランド〟という言葉が

嫌いであることを宣言したい。

・・・オオゲサ(笑)

 

生まれてこのかた、この世が逆さまであると思っているワタシにとって、

皆が喜んで群れる〝ブランド〟という類が、

皆さま、ちょっとオツムどうかしてるんじゃ・・・?

という視点が密かにある。

 

日本に於いては学生服を自動的に強制的に、着る時期。

中学〜高校の頃、行動を規制される規則とやらに、

元々疑問があった。

が、この制服や鞄を単一に、というシステムは、

政治思想云々ではなく、生活という便宜的結果として、

学費がかさむ子供を持つ親にとって、経済的負担を軽減し、

衣類雑貨の余計な競争を抑制するのに、

定着すべくした、と言う見方もあろうか。

 

されど、ランドセルや制服はもともと

軍隊用品が発端で形成されたもので、

敵味方の判別、行動単一統一化する、目的。

由来はあまり大衆にとって好ましいものではない。

全体主義、独裁政治のための〝ユニフォーム〟。

 

そして、社会人になってまで、同じような銘柄?

似たり寄ったりの商品やロゴという刻印?!

〝ブランド〟?の商品で身を包むのは、

制服や学生鞄が子供心にとって、皆(カテゴリー選民意識を満たす)と

同じで嬉しい、幼稚園〜高校生。

群れることで安心する群衆心理現象である。

 

如何にも日本人的な、右へならえの習性…。

(平等意識はあるけれど、ほんの少しだけ違うことへの優越感。過当競争好きな民族。)

 

という印象をVトンだ Cネルだの、ネずみー好きやら、

高級車やら、有名大学・有名企業・・・

その他〝欧州系・・フェイマス〟なるブランドに心酔する日本人に、

心の奥底でワタシは侮蔑の目を向けてきた。

 

今も尚それは変わらない。

が、もしかして屈折した嫉妬?単純な劣等感なのか?と

自問自答したこともある。

 

が、どちらにしても誰かの作ったデザイン、

刷り込みの偽美的感覚で、本当に好きではない形、

似合ってもいない色、〝ブランド〟的意匠の主張。

あるいは、政治戦略の価値観に即したシステムに疑問もなく、

自己紹介で出身ゆう名大学名を声高に伝えたり、

有名企業の社員であることを自慢吹聴する者。

優越感の汁を吸うのを楽しめるほど、

他人の数倍、勉学研究、社会貢献しているのですよね?!と

問い詰めたくなる、トコトン性悪なワタシがいる。

(ワタシは内心、環境破壊して金儲けする大企業に勤務することがご自慢だなんて・・・。

コイツはたぶん、地球を破壊したい異星人に違いない・・って思う。笑)

 

 

自分の虚栄心が満たされる均衡点を探っての、

高額の鞄や財布や服やらを購入している様子。

あるいは、地位や経済が保障される立場にあることを人生の武器とする者。

それを目の当たりにするとワタシは、

滑稽に、あるいは侘しく感じてしまうのは、

なぜだろうか?

〝ブランド〟という価値観が好きな人のコンプレックス、

根深い劣等感を密かに感じてしまって。

 

 

経済的に余裕があることを顕示するがための、

刻印_証明とも言うべき〝ブランド〟という価値観。

確かに、〝ブランド〟という言葉の上面にある

信用できるとか、安全という保証の一面はある。

が、金銭を使う、支払う行為には

保証も付くのが元来あるべき有り様。

(これは日本的な価値観か?!___)

 

 

昨今は服飾類や地位権威類・ステータスに限らず。

ありとあらゆる商品、サービス、世界観に

〝ブランド〟という言葉が闊歩して。

〝ブランド〟という言葉が〝ブランド〟化し。(アホらしい)

 

経済を活性化させんとする、

極めて表面的で形骸のマーケティングに、

世の末を感じてしまう。

 

多くの人が、〝ブランド〟という言葉、文字に過剰反応するのは、

本物、真心を感じることができなくなっていて、

レッテルで判断するしかない、

嗅覚、心眼が鈍っているのかもしれない、

現象のようで‥。

 

巨大拡声器なるマスコミ、CM、あらゆる加工され続けてきた、

映像画像文字___間接情報(事実の体験ではない・記号)の影響で、

大衆の心理が、〝ブランド〟信仰、盲信、

虚の世界に突入しているのではないだろうか。

 

ともかくは、〝ブランド〟信仰は自己欺瞞の骨頂ではないかぃナ?と。

言うなれば、唯一無二の自己_アイディンティを

お金や時間と引き換えに売り渡し、他の価値観に自身を投影し、

外部基準_他者目線の優位的価値を持ってして、

卑小と化した己が保証されるという、依存心。

自己「実」否定と自己「偽」肯定。

とんでもない、お人好し行動・中身空洞状態である。

 

 

偽世界住民宣誓のご褒美は、

偽の尊敬や優越劣等感の塊という羨望が

集まってくるだろう。

自己欺瞞が分厚くなる一方で。

自身の姿、その存在は薄くなるようである。