ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

紙を 神のように・・・(断捨離__完舎利へ。)

 

 

日本の古い、江戸社会のシステムに驚きと

ご先祖さまへの感謝・・・
様々な思い、切なさが、よぎる。
こんなふうに書き出すと、
ノスタルジーとして一笑に付されるだろうか。

カミ(紙)を 神のように大切に扱っていた昔の日本。

 

 

昨今の「断 捨 離」ブームは、
マスコミで映像や画像、書籍などを駆使し、
amaz●nや|KE Aなど国際金融家資本の多国籍企業が、
日本市場に参入のため、更なる消費を狙っての
プロパガンダとして利用されているようにも思う。

日本の昔からある生活様式や文化、伝統をも

破壊する目的の汚染脳ブームの一端でもあるのではなかろうか_と。


断捨離という仏教用語を大々的にそれらしく引用し、

気に入らない物品を廃棄することを奨励する著者や発言者を

広告塔にし、延いては、開運やら金運を謳っているのも少々疑問。


確かに、気まぐれに貨幣で購入した物品に

埋もれるようにして暮らす現代人に、

整理整頓や清掃で清潔にすることは、
心の整理にも大いに有効と、共感はするものの。。。


自分の家さえ、すっきりすればいいのか。
感謝という儀式は、しないよりは良いと思うけれども、

貨幣と交換に、一時的な欲望を満たし所有していた物質への

責任は、チャラになるのかぃナ?と。

 

爆増しているゴミの処理の実態。
海外へお金を支払い膨大なゴミを引き取ってもらったり、
巨大なゴミ処理埋め立ての地域で土壌汚染が深刻であったり。
ゴミ処理焼却場の排煙は、空気を汚染している。
ゴミの舞台裏の一部でも垣間見てしまうと、

断捨離にかこつけ、開運・金運を追いかけるのも、

結局のところ責任逃れ、利己目的という理屈が、導かれてしまう。


貨幣礼賛・物質礼賛

とどのつまりは、西洋文明礼賛社会の
限界ではないかナ、と。

 

西洋礼賛を軸として国際金融家が作り上げた資本主義経済。

貨幣が空気の如く生活に不可欠な世界。

時間、空間、物質、情報、あらゆるものが量を求め、

手に入れること、優位であること、Getが、生きがいの指標の社会である。

マスコミの垂れ流す映像、画像の広告、新聞、雑誌、

それら西洋礼賛が込められた刺激がある以上、

物欲、金銭欲、権力欲、名誉欲など

エゴを断ち切るのは至難の技だ。

 

安易に物品を捨てて、精神的な執着を断ち切るという
即物的な反省行為では、いづれまた同様の矛盾を
抱え込むかもしれない。
莫大なゴミという物質の負の遺産は、
国、人類レベルの因果応報も起こり得る。

 

ゴミについてアレコレ考える時、

数十年前に見たUSA映画のワンシーンをたまに思い出す。

タイトルはすっかり忘れてしまったのに。

 

主人公の男が、夫婦喧嘩の後だったか、機嫌の悪い朝。

紙皿にプラスチックのフォークを使って

朝食を済ませ、キッチンのゴミ処理シュレッダーに、

残飯や紙皿やフォークを丸ごと放り込み、

マシーンはガガガァーと起動するも、途中で故障停止してしまう。

男はそのキッチンゴミ処理シュレッダーに腹を立てて足で蹴る。

 

如何にも、USA映画の描写だな、と思った。

食事が即物的なもので、使い捨て食器類も生ゴミと同様、

捨てるという荒々しい行動。ありふれた日常なのだろうか。

おまけに、止まってしまった機械を蹴り付けて、

機嫌の悪さを表現するという。

何たるガサツさ___。ゾッとした。

 

残念な生活感の彼らに憧憬、敬意さえ持っている

現代日本人の価値観。

どれほど、汚染脳され、ねじ曲げられているんだろうか、と。

 

 江戸社会は言うなれば、「捨てることを断つ」という、

ゴミという邪魔物にされる物質の存在がほぼない、

その概念、認識が必要ではない、限りなく

完全サイクル社会であったという。

先日、農産物の取りこぼしという余剰が

他生物への与えとなると、記した。

また他生物へ山と里の境界にお供えをしていた昔の日本人。

 人工的な生活物資や空間については、

中世以降、貿易をできない海外情勢でもあったから

自然へ負荷を掛けない、資源を考慮し尽くした暮らしぶり。

 

江戸社会の常識は自然循環をもたらし、かつ

人工的な物質が、集合無意識の中に罪悪感を

もたらすことはなさそうだ。

だからこそ、精神的な美が社会全体に

広がっていたのではなかろうか、と。


あるいはまた、社会構造の川下・下流にこそ、

人間の存在意義や棲み分けを
大いに生み出せる世界があった。

そこに公平さ、平等感も生まれてくる。

 

更に、ひとことおおい私が付け加えるなら、

一国の社会全体の精神性の循環さえもが、無意識か偶然にしろ、

社会システム、その構造に備わっていた当時の人々の知恵深さ。

人間の直観の為せる技を想う。

 

限りある資源という事実を受け止め、人工と自然の折り合いを付け、

丁寧に物事を扱う良心のある世界。

 

少数派の資本家・欧州貴族国際金融家の利益のために

長距離物流を前提とする大規模な工業や貿易、

多国籍企業が繰り広げるゴミ増の加工食品・物品など。

人生時間切り売りの虚無な労働で、

粗製濫造する社会ではなかった、

日本の古き時代に思うを馳せる。

 

 

質素さが、知恵を使う暮らしに庶民の生活を洗練していき、
文明の名に相応しい社会があった。


未だ、現代日本の多くの人が江戸時代が、

単なる文明未開の社会であったと誤解している。

鎖国政策で貧しい国政だったと思い込んでいるようだが、

 即物的な生活、競争社会しか知らない、現代日本人の

精神や肉体の飢餓感は、心の卑しさや荒々しさを増幅させている。

利己的にならざるを得ない社会システム、と私には思われる。

 


豊かさの本質が、江戸社会にはあったことを

少しでも、私は学びたい。

 

下記に転載した、わかり易く噛み砕かれた書籍を読み、

人々の心が美しく、温かったことを私は想像する。


それは、

「物や対象・事物を尊ぶ、実体験、身体や知恵を生かす生活の上に、

 見えない世界も成立ち、結果として豊かさが増すもの」と、感じる。


三次元に生きる上での「嗜み」「慎み」というか・・・。

 

現代は、お金を稼ぐノウハウの情報には、猫も杓子も群れるほどだが、
自らの知恵を育てる生き方や、
他者のためへの知恵や工夫、身体を使い喜びとなる人生は、
失われている気がする。

 

江戸の庶民社会に、

未来図の雛形を感じ、ヒントを見出せると思うのだが、

どうだろうか。。。

そして、全うな社会には、平和な時間・時代こそ、要なのだろう。

 

 

 

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お江戸でござる

杉浦日向子・監修 】深笛義也・構成】

出版社:ワニブックス・・・・・・・・・・・・・

224〜229頁を転載。

 

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 江戸の街では、物を徹底的に使い切るリサイクル社会。

その代表的なのが、
紙くず屋です。紙くず屋は集めた紙を、

十種類から二十種類くらいに分けます。


一ミリか二ミリくらいのパルプの繊維でできている現代の紙に比べて、

伝統的な和紙は十ミリ以上の長い植物繊維でできています。

添加物がないことも、梳き返しを容易にしていました。
リサイクルは最後まで行われ、最後は表紙の裏打ちの厚紙、

今でいうハードカバーの芯になります。
一枚一枚、のし板という大きなまな板のようなところで押し広げるので、

証文や大事そうな手紙が
出てくることもあります。その場合は保管しておいて、

持ち主が現れた時に返すのです。

紙くず屋によって保管の期間は違いますが、

三年間も保管しておいてくれたというエピソードがあります。

一枚一枚の紙に接し、色々字を読むので、

紙くず屋には博学の小僧さんが沢山います。


 江戸時代では紙がとても貴重なので、

大事に扱うように、本をめくる時、左の下の角だけを
持ってめくるという、取り決めがあります。

そうすればそこだけが汚れて、印刷してある部分に
指紋が付くことはありません。これは、子どもの頃から教えられます。

和紙はとても優秀な紙で、
扱い方さえきっちりしてれば、何百年でも劣化しません。

ひとつの教科書が百年くらい使われます。
貴重とは言っても、庶民に手が届かなかったわけではありません。

手紙を書くような紙でも、安いものから
高いものまで種類があります。リサイクルしている「梳き返し紙」は、

かなり安く手に入る庶民の紙です。

 


紙くず屋以外にも、様々なリサイクル業があります。紙とともに、

江戸で貴重なのが、灯りです。そこで
「蝋燭の流れ買い」が登場します。

蝋燭からしたたり落ちて、燭台に留まる蝋を竹のヘラでこそぎ落とし
買い取っていきます。それを溶かしてまた蝋燭にするのです。

竈や火鉢などの灰を買う「灰買い」という
商人もいます。歌舞伎の『世話情浮名の横櫛』で、

与三郎という主人公がかつての恋人の家で「この家のものは、
竈の下の灰まで、俺もものだ」と啖呵を切ります。

灰が価値あるものだから、こういったセリフが出てくるのです。


灰には無数の用途があります。作物の根を育てる肥料として優秀で、

江戸の名物である練馬大根の栽培には
欠かせません。畑の土もよくなります。

関東は火山灰地質で関東ローム層という、酸化しやすい土壌です。
それが灰のアルカリ性によって中和され、作物がよく育つ、よい土壌になるのです。
藍染屋でも灰を沢山使います。藍を染める時、

灰がないと藍がきれいに染まりません。より鮮やかな発色を
するようになるので、藍染の他、紅花染にも欠かせないものです。
酒造りにも、灰は活躍します。種麹を作る時、上に灰を撒くと、

他の有害な雑菌の生育を抑えてくれます。
麹菌だけがすくすくと育つのです。

酒ができあがる時にも、灰を投入します。

灰に含まれるアルカリ性で酒の酸化を抑え、

酸っぱくならないようにするのです。

また、灰に含まれている炭素が、酒の余分な臭みを吸収し、味をよくします。
絹や綿や麻などの糸作りにも、灰の汁で煮ると光沢が出て柔らかくなります。

わかめを灰にまぶして干すなど、
海産物の灰干しにも利用されます。

その他にも、漢方薬、紙漉き、洗剤など、くまなく使われます。
当時は、衣類を始め、生活雑器、建物まで全て天然素材でした。

だから何を燃やしても、きれいな良い灰になるのです。

灰買いで豪商になったのが、灰屋紹由。俳諧連歌、書画に通ずる風流人です。

 


割れた瀬戸物を接いでくれるのが、「焼き物継ぎ屋」です。

割れた破片を取っておけば、元通りに接いでくれます。

「割れ物はないかえー」といって、やってきます。
白玉粉」という大理石の一種、つまり水酸化カルシウムに、

布海苔と粘土を加えたもので接着して、
熱を加えて焼き接ぐ_______

今でいうハンダごての要領で、傷のところに溶かして入れていくのです。
高級品の場合は漆で接ぎます。焼き継ぎ屋が繁盛したおかげで、

江戸中の瀬戸物屋が不景気になったくらいです。
江戸の古い川柳に「焼き継ぎ屋夫婦喧嘩の角に立ち」とあります。

江戸の夫婦喧嘩は派手で、ものを投げ合うなど
しょっちゅうです。「ドンチャンガッチャン!」と

夫婦喧嘩が起きたのを聞きつけると、焼き継ぎ屋は外で喧嘩が
終わるのを待っています。

 

古い傘の骨を買うのが「古骨買い」です。骨の状態によって、

四文、八文、十二文の三段階で江戸では買い取ります。上方では、

土瓶や急須、人形、団扇などと物々交換します。

買い取ってきた骨は、「傘貼り浪人」などのリサイクル業者に回していきます。

傘貼り浪人は新しい傘は作らず、ほとんどこうしたリサイクル傘を作っているのです。

残っている油紙は丁寧に剥がし取り、魚、味噌、漬け物など、水気のあるものを

包む包装紙としてリサイクルされます。無駄なく竹籤(タケヒゴ)の一本まで

使い切ります。

女性が髪をとかした時に抜ける髪を扱うのが、「梳き髪買い」です。

髪を集めて「髪文字」(かつら)にしたり、髪を膨らませる入れ髪として

使ったりします。そして「くず屋」は、腐ったもの以外は何でも払い受け

してくれます。底の抜けた釜や鍋、布の切れ端だって預かってくれるのです。

現金で買い受けるほかに、物々交換もできます。

その他、「古着屋」「湯屋(銭湯)の木拾い」「古樽買い」「肥汲み」など、

いくつものリサイクルが商売として成り立っていました。

「炬燵の櫓直し」「下駄の歯入れ」などの修繕業者も多くいました。

ものというのは、形の残る限りすべて再生できると考えられていたのです。

使えなくなったものを使えるようにするプロが、修繕屋です。

彼らは誇りを持って仕事に当たっていました。

ものは最後の最後まで使い、ほとんど捨てることがなかったのです。