ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

仕事と労働‥‥‥怠け心について。

 

とある Youtuberの言葉を引用し、

アルゴリズムが(ワタシ)視聴者に暴力を奮ってくる〟という、

Youtubeの現況下に於いて(笑)。

 

武田邦彦氏の動画を時々視聴させて頂いている。

半年ほど前、しばらく「怠け心」について(内省を込めて?!w)考えていた時、

視聴した動画で「働くとは何か」について語っておられ、

思索のヒントになる氏の一部の解説が、記憶に残った。

だが、うっかりその動画がどれであったのか忘れてしまった。

怠け者故か_w、内容がうろ覚えだから、氏の伝える主旨と外れ、

ヘリクツ程度の私見だが、書き留めたい。

 

武田氏は、東洋というか日本と西洋の思想の違いに、

「働く」という捉え方が大きく異なるであろう、と

指摘しておられたと思う。

そこに旧約聖書のアダムとイブ(エバ)の寓話を引用され、

大変参考になった。


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以下

アダムとエバ - Wikipediaより転載  *(旧約聖書の要約文章)

旧約聖書『創世記』によると、アダムの創造後実のなる植物が創造された。アダムが作られた時にはエデンの園の外には野の木も草も生えていなかった。アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、その中央には生命の木と知恵の木と呼ばれる2本の木があった。それらの木は全て食用に適した実をならせたが、主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。なお、命の木の実はこの時は食べてはいけないとは命令されてはいない。その後、女(エバ)が創造される。蛇が女に近付き、善悪の知識の木の実を食べるよう唆す。女はその実を食べた後、アダムにもそれを勧めた。実を食べた2人は目が開けて自分達が裸であることに気付き、それを恥じてイチジクの葉で腰を覆ったという[2]。

この結果、蛇は腹這いの生物となり、女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、地の実りが減少することを主なる神は言い渡す[3]。アダムが女をエバと名付けたのはその後のことであり、主なる神は命の木の実をも食べることを恐れ、彼らに衣を与えると、2人を園から追放する。命の木を守るため、主なる神はエデンの東にケルビムときらめいて回転する剣の炎を置いた[4]。

その後、アダムは930歳で死んだとされるが、エバの死については記述がない[5]。また、「善悪の知識の木」の実(禁断の果実)はよく絵画などにリンゴとして描かれているが、『創世記』には何の果実であるかという記述はない。

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「アダムとイブ」は、誰もが知っている人間の罪の始まり、

原罪を描いた話である。

 

余談であるが、旧 約 聖 書の知識は皆無の私が恐れ多くも、
この創 世 期「ア ダ ムと イ ブ」の中で、ツッコミを入れたいところがある。(苦笑)

 

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アダムはエデンの園に置かれるが、そこにはあらゆる種類の木があり、

その中央には生命の木と知恵の木と呼ばれる2本の木があった。

それらの木は全て食用に適した実をならせたが、

主なる神はアダムに対し善悪の知識の実だけは食べてはならないと命令した。

 

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「善悪の知識の実を食べてはならない」という神からの命令で、
すでに判断できていたアダムがいるではないか?!と。

 矛盾を感じ、稚拙な…疑問が湧いた。

それはともかく。

 

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この結果、蛇は腹這いの生物となり、
女は妊娠と出産の苦痛が増し、また、地(アダム)が呪われることによって、
額に汗して働かなければ食料を手に出来ないほど、
地の実りが減少することを主なる神は言い渡す。

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西洋での働くとは、〝額に汗して働かなければ食料を手に出来ない〝

神の命令に背いた罪が故の〝原罪が始まりの苦役としての労働〟、

〝労働すなわち罰〟という捉え方が、

貴族が支配し、尚も続く西洋思想の底流にあるのだろう。

それが中世以降、世界中に波及してしまったことを

問わねばならないのではないか、と。

 

 

一方、日本人にとって働くとは、それと同じではなさそうだ。

明治から西洋文明礼賛となった以前。

 

布教と称しフランシ スコ  ザビエルら(ポ ルトガル勢の日本襲来ダ)が

来た中世キリスト教は、日本でも仏教を破壊し国家をも破壊の狙いで、

九州を中心としたであろう一時期には多くの信者を集めた。

主に中世、日本支配層切 支 丹らの残党によってキリスト教の影響は、

江戸社会の伏線として残存し続けた。

徳 川 政 権はそこに厳重な警戒を行なっていたことを

現代では、鎖国政策下での厳罰を〝切 支 丹への迫害〟という解釈でマスコミや教育、

観光地などでも喧伝されている。

(現代はキリスト思想を利用した偽ユダによるプロパガンダが覆い尽くしている)

 

2019/11/24当方ブログ記事を参考までに

http://tadaimachan.hatenablog.jp/entry/2019/11/24/215610

 

 

わずかな例であるが、江戸時代については、

年貢で幕府へ納めることは義務に違いなかったが、

100年も年貢率が変わらないほど、長閑な社会であり、

お上に申請せずとも、暮らし向きを良くするよう農民は

次第に、農地を拡張できたようだ。よって、米作は余剰になっていき、

江戸中期にはすでに貧しくはない社会であったという。

やせ我慢の意味合いで、「武士は食わねど高楊枝」の言葉が

残っているのは、暇な役人仕事の虚無なプライドの代償を揶揄し、

実態(働くことは心身の豊かさへ)を明かしてもいようか。

 

江戸社会は、食べていくために体を使い働くことが、

楽しみや生きがいを見いだせる社会状況だったと言える。

 

幕末訪日欧州人が、「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」、

という残された記述も、それは真実だろう。

 

 

遡って、現代で縄文時代と呼ばれるようになった、

数千年から1万年以上前のこの列島に、

倭人と呼ばれる人々が定住し始めた頃。

共和的な集落で社会が作られていたようだ。

長(おさ)も、そうでない人々も、共同で、作物を育て収穫した食料を

神(自然霊・八百万神)へ供えたのち、

平等に分配する、平和に暮らす社会であった、と言われている。

 


体得してきたその名残りは、7世紀、主に渡来と思われる人々が天孫降臨を謳って
政治を掌握し始め、日本と呼称するようになって戦乱の多い時代も経たけれども、
江戸末期まであった、と私は捉えるし、
現代社会でもわずかに、それは残っているかもしれない。

 

例えば、リーダーが謙虚であること、質素であること、
平等であることを美徳とし、そうした振る舞いを
尊敬に値する長と見なす価値観は、
現代の日本人であっても、たぶん共感することだと思う。

 

書籍「逝きし世の面影」の中で、幕末訪日欧州人らは
先制政治社会と聞いて訪日したが、将軍に謁見した時、
主君は質素な身なり素朴な佇まいであったことを

意外だとする、見聞が記されている。
中世、訪日欧州人を接待する宴席で、織田信長自ら食事の給仕をする様子に
欧州人たちは驚いた話も、読んだことがあり興味深かった。

 

昔の日本人が、立場・役割の上下関係を重んじる反面、
生活者としての個人に上下は必要がないという感覚を持っていたのは、
米作という農耕を中心とした社会発生が根底にあるからかもしれない。

 

数千年前から1万年以上も前に、この列島に共和的な社会集落の痕跡があると
判明してきている昨今。
旧約聖書が成立した時代よりそれ以前の、社会にとって働く意義や動機が、
異質であることを武田氏が指摘したことに、共感せずにはいられない。

お互いに協力しあって、等しく分かち合う中に、
〝苦役としての労働〟に、なることはあるのだろうか?と。

 


西洋文明に基礎知識はないがご容赦いただき。

西洋社会は奴隷と貴族の構図が社会の発端と私は理解している。

 

 イサヤという霊能力を持った人(当時は特殊な出自)が、

ユ ダ ヤ人主導(貴族)の放埓な社会に対する改革の挑戦が、

宗教活動となっていったというのだから。

 

新約聖書はキリスト誕生からの書物。

旧約聖書ユダヤ教キリスト教が指南書としていること自体、

深淵たる謎である。現代社会の闇に繋がっている気がする。

この書が、キリストが誕生する前からの、

ユ ダ ヤ人の宗教書であることは間違いない。

 

ユ ダ ヤ人の出自は、倭人とも重なる部分があることを
K氏説やその他諸々の情報で語られているが、
太古の時代、ひとまず一万五千年前まで
テレパシーのあった人類世界の時代から考えると、
旧約 聖書という文字(言葉)を使ったものが、

人工的な書物(信じている方には申し訳ないが

ルシファーが神となるための書)という印象を受けてしまう。

犠牲と救済を自作自演する…人工の世界。

信じる如何の以前に、謎めいた書物だなぁと常々思う。

 

(現代でキリストと呼ばれる、イサヤの出自や復活奇跡のエピソードの前後関係を
 K氏の講演で聞き、真偽は確かめようがないが、
 その説を歴史の流れに当てはめると、事実ではないか、と
 思わざるを得ない説による伝聞がある。)
参考までに
https://blog.goo.ne.jp/powbbie/e/fadc25393cf67fc926eef40b35e1c3af

 

 

 

ともかくは縄文時代よりは、かなり後の時代になって、

旧約 聖書は編纂された書だと思う。

 

 

* * *

 

共和的な集落の社会に、神の〝命令〟はあっただろうか。

あるいは、必要だっただろうか。


逆に言えば、神の命令があるとすると、
共和的で平和な社会は生まれなかったのではないだろうか。

 

神の命令で、共和的な社会を作ることも、人間の本性・素質を問えば、
それは無理であろう、と。

 

人間は魂の乗り物として肉体を纏ってこの世に生を受ける。
魂だけの状態をこの世に生まれてから私は、確認できてはいないが、
様々な臨死などの話を聞くとおそらく、
肉体が無くなった後にも、意識というものは存在するようだ。

度々話題にする死亡体験者のK氏は、意識は完全な世界であり、
あの世は退屈だと言っておられる。
つまり、この世では物質が存在し、肉体という道具を授かって
大いに使って、使い切ってあの世に旅立っていくことが
魂の極上の喜びなのだろう。

肉体を持たない意識だけの状態の退屈さを
この世でも、怠けたい、面倒臭いというぼんやりとした欲求・感情は
せっかく授かっただろう肉体と意識の連携の中で、

元来、心身を休める以外に、起こらない感覚ではなかろうか、と。

 

 

 


人間は他者から命令されて行動することは、自分自身を省みても、
肉体の性質から考えても、最も苦痛なことである。
何か命令や指図を受け行うことが苦痛なのは、動物としての人間・万人の性である。
まして、命令に背むき厳罰が下ったとしたら、
生きる気力は失せるのではないか。

 


例えるなら、猫は秀逸な手本である。(笑)

共同生活において、身につまされている。(泣)

 

 

人々の生きる気力が現代に近づくにつれ、失せてきたように思うのは、
日本であれば、明治以降の軍事政治社会の中で、命令と競争の教育に始まり、
年貢が、税金という義務に変わった貨幣の性質を思うし。。。


〝肉体の苦痛・苦役〟を回避せんとする刷り込みの

〝便利さの追求=如何に肉体を使わず、更に知恵をも使わず

物質を他動させるか〟が、

知識としての科学技術のお陰と喧伝されてきた。

(闇と光を暦をも支配する偽ユダが、奴隷用キリスト教思想_を駆使した自作自演の世界)

(人類使用禁忌であるはずの、石炭・石油の燃焼によって

 回転する道具とリンクした発端の、産業革命___他国に利用させ

 偽ユダの不徳を回避と富収奪。コアの物質の回転とピストン動作による

 エネルギーの創出・拡大____ことわりの矛盾と歪みの発生)

 

 


働く=仕事ではなく、〝貨幣を得る=労働〟に変換させられ、
農耕という、すべての人が食べるために必要な仕事、
協力し合って生きる喜びを

西洋的な政治は、残念ながらそれを喪失させたのではないか。

西洋的な旧約聖書に端を発している社会通念が台頭し、自主性、主体性

生きる気力・やる気が、腹の底から湧かない状態に

大衆が陥ったのではないか、と。

 

 

 

 

 

そして、カテゴライズされた宗教、それに依った思想・思考は、

人間の生きる気力の発露・発動を撹乱し、制御し、封じる、

〝最も有効な支配〟のシステム・組織・媒体である。 

と、思う。

 

 

 

神は上(うえ)ではなく、

神と人は共にを体現となる農は、

ひとつの叡智と、感じる。

 

どうだろうか。。。

 

 

 

 

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