ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

小作農者的立場からの概観。。。五

 

 

脳内ホルモン・アドレナリンを大放出するために、

ゲームに没頭したり。
暴走運転をしたり、爆音で音楽を聴いたり、賭け事に興じたり。
肉食が享楽となり生命への畏怖はどこへやら…。
集合無意識の汚泥の顕れの如く、
陰湿なイジメやDVがあらゆる世代で蔓延っていたり。
汚染脳によって虚栄を満喫する偽の想像力=妄想が、
大金を稼いで羨望の的になる事が人生の夢・勝者という
常識だったり。
〝卑しさ・浅ましさ〟が精神の原動力となって、

荒々しい意識へと陥っている昨今。
大衆の哀しき混乱はどこから来るのだろうか、と。

 


現代日本人の極端な潔癖さ・完璧主義や自閉的になる元凶が、
昔の日本とは変わって、自然に則した循環が欠けていることは、
大いに要因があるだろう。
人工社会システムの中に取り込まれた現代生活では、
地球規模では非常識でも、人間社会では
〝常識〟になってしまう。


ゴミを税金によって処理するということへ
漠然と生理的違和感を感じるものの、
疑問を持たせない社会システム、教育、人間社会の常識。
それに目を向ける思考をも欠落させる汚染脳・欺瞞のもと、
惰性で便利、営利を追い求め、自らの知恵を喪失している。

 

江戸社会ではほとんどゴミという概念が必要でないほど、
物資を使い切る社会であったそうだ。
髪の毛一本まで役立てたと言われるほど
人口密度の高い江戸の町は特に物のサイクルが

商売と結び付き盛んに行われていたという。

 

それらを徳川幕府鎖国政策のせいで資源などの輸出入を行わなかったから、
貧乏臭い暮らしだった、と批判し、

生活が快適になったのは西洋化によって科学技術が進歩したお陰だ、と

ありがたがる見方をする日本人がほとんど。
電気の恩恵は如何ばかりか、と。
電気が文明開化の象徴として、

物質社会へのステレオタイプの肯定がある。

 

 

江戸社会では朝4時頃には起きて5〜6時頃に出勤だったという。
電灯が必須なのは、現代の暮らしのリズムが

遅い時間へとズレているからではないか。

エアコンがない時代は大変だったと言う人もいるだろう。
だが、冬の季節でも日常で体を大いに使う生活に

冷え性はあまりなかったのでは?と。


暑い時、水分を含んだ大地が広がり、水辺は美しく、
木陰があちこちにあれば、涼やかな風が吹いてきたことを想う。


暑さを凌ぐのに、冷風がどうしても必要な現代は、

〝科学技術を精鋭するような頭の労働〟に偏っているからかもしれない。

 

飛行機や電車、自動車がない時代は遠いところへ旅行へ行けないと思うかも
しれないが、風景が全て絵になる世界で、自然美のある場所は全てである。
膨大な量の映像画像を目にする現代の、記号としての名所だ、

観光地だ、世界遺産だ、と騒ぐことが、本末転倒のように思う。

 

その昔。食べ物も、自然栽培は当たり前。

新鮮な食べ物は住んでいる場所によりけり。
素材の美味さに勝る、食べ物はなし。


人工的な加工食品の悪魔的な味に魅了されるのは、家畜の如く飼い慣らされ
素材の美味しさを知らない人工的な暮らしの現代人の悲しさではないか。

地下資源を膨大に搾取する物質文明や偽言説で人間の心を惑わすマスコミ台頭や
西洋的価値観を是とさせる教育の社会とは異質で、
自然の一部としての人間の暮らしであったその昔、精神の矛盾は少なかったと思う。
西洋礼讃社会へと変貌したことで、精神の複雑さを極めている。

そして人生観・死生観も変容してしまった。


ルシファー的支配は死への恐怖のイメージ洗脳が要で、
大衆の精神をどこまでも貶めていく。

 

ともかく、現代社会で輸出入されている

物質・資源で不可欠と思える物は、
ほぼ皆無ではないか、と私は思っている。

知恵や知識こそは、各国で共有されて然りのはずのそれが、

特許や著作という偽ユダ思想の権利の縛りで障壁が著しい。


石油を軸として輸出入を重視するのは、貨幣の流通を激増させる中で、
欧州貴族・国際金融家の実体のある富

(領土や資源地や秘宝、知的財産と永続的な権威権力)を

増やし掌握のためであり、
秘密裏にかつ合法を装い、日本を筆頭に諸外国の資産・資源を奪取し、
偽ユダ以外の権力組織を解体し、大衆の遺伝子を劣化させ他民族を激減させ、
偽ユダ支配の世界統一という野望のためであろう。

 

欧州貴族・国際金融家が裏で手引きし、ぼろ儲けのための巨大戦争
その〝真の目的〟に対して、政治的駆け引きとして国防のために、

貿易・膨大な物資の輸出入が、

国民が使わざるを得ない物質に埋もれる人間社会の常識こそ

現代社会のゴミ問題や環境汚染の根本原因ではないのか。

 

現代日本人にこんな捉え方をする人はあまりいないとは思うが、

つまりは仕事と称し
〝やらなくてもいいことをやらされている〟のである。

貨幣という架空の価値の創出のための大衆の労働状況を
膨大なゴミという存在は、証明してくれているのではないか。

 

 

自然の一部である生物としての人間が、

自然を破壊しながら便利さを追求し、利己に拘り、

次第に、知恵や礼節、自然と共に暮らした先祖の培った精神性が失われ、
五感、直感は鈍くなり、体力や気力が失われ、ならなくてもいい慢性病になり。
人との心の関わりが複雑になり、金銭も絡んで疑心暗鬼になり、

バランスを崩した精神は、アドレナリンを疑似体験の刺激で

脳内に分泌させたくなる。


脳だけが忙しない社会に変わってしまったと思う。

 


物質礼賛社会、物質主義、唯物論についてあれこれ疑問をたまうも、
答えを明確に発言し、影響力を持っている私ではないから、
ほんの少しだけ、気付いた者から疑問を伝え、

心の有り様や暮らしの在り方をちょっとでも変えようとの思いで

繰り返し同じ蘊蓄(ウンチク)をたれている訳だが。

 

 

ネガティブなことばかり書いてしまったが、
そろそろ本当のことに気付き、行動を起こしている人たちが
現れ始めている機運もある。

 

まだまだ食で肉体エネルギーを得る今のところの人類にとって、

食物を育てる事_得る事が必須なのは言うまでもない。

更には、農という仕事、植物を育てる中に、

人生や社会、地球についての学びのエッセンスが

まだまだ膨大にあるだろう。宿題の状態だと思う。

 


農業ではなく、「農」に変わっていくこと。
「天下泰平」というブログの執筆者が、

〜半農半X〜を謳っておられる。

「半X」は、個性が生かされる趣味や仕事という意味だろう。

 


その生き方に私も共感するところである。