西洋的〝愛〟は、マネー・金・貨幣(交換条件)が、あっての言説。
お金がある世界では、対称(表裏)のようにして、
愛という行動・感情に崇高さを見出し、
無償という形でアピールできる。犠牲というパフォーマンスになる。
つまり、英雄感(ヒロイズム)、自己顕示欲が満たされる。
そこに溺れて逝く、善人(偽善者)の有史以来(約2000年)の世界。。。
自己欺瞞が発生してきたのではないか。
(江戸社会までは、〝愛する〟という意味は、人形を愛する、壺を愛するという
執着心として使われていた。
「慈悲心」をLOVEと訳して、愛という翻訳が成立し、
現代で多用する造語ができた経緯がある。(杉浦日向子著を参照)
言葉について揚げ足取りをしたいのではない。
だが、ユダキリ教による作為的な解釈が、明治以降行続く「愛」という単語の、
言霊としてワタシは違和感があるので、
その感知を整理したくなって、常々このように考えている。)
だからこそ、これからはそうじゃない。
無為自然から私たちは真に「無償さ」を学び、
自然循環を学ぶこと。
体現・体得していく。
内なる自然に気付く。
自然回帰。
「情け」は人の為ならず。
情とは、心青し。
地球である。
己の生き様が、いつか何処からか…、
「糞か。実か。」を受け取るまでに至る時間の経緯という事実。
三次元の実相。
相反して、
損得・欲望が、客観・観察を疎かにしてしまう虚の人工世界。
植物を中心とした自然が、
地球の、人間の、
同源・動源。
宇宙摂理の入り口に、未だ、立ち往生しているワレワレではないか。
と、そんな風に思う。