ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

〝キリシタン〟あるいはイエズス会とは何であったのか。

 

 

当方別ブログより転載

 

 

(山田盟子氏 著書より抜粋)

 
野史の研究家でもありました八切止夫氏から、「倭寇に劣らぬような存在で、
マカオにはイエズス派の、キリスト戦闘団がありましてな・・・・

硝石を握ってましてな」
と、これに続く日本の戦国大名の動きを聞かされたことがあります。

 

キリシタン禁教の前に、たくさんの庶民が、硝石の物納として、
つまり奴隷にされて海外に移出されてましたようです。
〝白銀海岸〟(*1)から送り出されたからゆき男女は、

この奴隷が初まりであったのです。

日本は鉄砲は真似して作れても、火薬の硝石がなかったのでした。
その時期に「ドリチナ・キリシタン」(讃えんかな神の御名を)と、
取持役の日本人イルマンの口移しで、諸大名が洗礼を受けたのも、
みんな火薬の硝石欲しさで、これがキリシタン大名の実像だという説を
八切氏は私に語りました。
本職とした歴史畑の人々が、こんな事実にあまりふれていなかっただけに、
二昔も前にこのことを聞かされた私はびっくりしたものでした。

このことでは学者の森克己氏も、こう述べておられます。
「中世の倭寇については、資料が日本側に残されていない。
ただしポルトガル人が渡来すると、日本人、朝鮮人
奴隷として海外に輸出された。天正十五年(1587)に発した人身売買禁止令は、
かかる場合に対する応急処置であった。鎌倉期すでに専門の人買勾引が、
諸国に市をたて、「人売禁止」の法が出ても、戦国期における辺境の諸大名は、
伊達や対馬の宗のように、人売公許という分国法があった」
と、「人身売買」について述べているのです。

また徳富蘇峰は、この人売について、大村由己の「九州動座記」を紹介しました。
「宣教師から硝石樽を入手せんため、大名、小名はいうに及ばず、
豪族の徒輩までが、己の下婢や郎党はおろか、自分の妻まで南蛮船で運ぶ。
それは獣の如く縛って船内に押し込むゆえ、泣き叫び、喚くさま地獄のごとし」
これは大村由己が、秀吉のお伴で九州に行った時の見聞録なのですが、
蘇峰がそれを「近世日本国民史」に入れたところ、
二版から憲兵の命令で削り取られてしまいました。

 

島原にポルトガル人のレイス・アルメーダが来たのは、
おうら(1637)が記録に残る64年も前のことでした。
それより十数年も早くに、
すでに鹿児島にはポルトガルからザビエルが来ておりました。

島原の口ノ津の資料によりますと、アルメーダは来るなり二週間の伝道で、
二百五十名も洗礼をしたこと、前年は島原のお殿様である有馬義直が、

口ノ津海港と同時に、
実弟大村純忠を通して、イエズス会の宣教師の派遣を乞うたとあります。


「人売禁止令」の出る二十年前の永禄六年(1563)に、
島原の有馬城主のみならず、他地方の諸大名も、いっせいに
「ドリチナ・キリシタン」をやらかしましたのは、
戦国期に生き残るための硝石欲しくてでした。


したがって交換の人売も各所で行われ、〝白銀海岸〟は島原の浜だけでなく
もっと他藩の海岸もそうだったのではないでしょうか。
ひょっとして口ノ津に上陸したバスク人のアルメーダなど、
イエズス派の者でしたから、豊後に施養院、孤児院を開いたかと思うと、
口ノ津、博多、肥前名護屋をへて平戸へ、口ノ津、島原、豊後、堺というように、
その足は真の布教より、諸大名にとり入っての硝石契約が主のようでした。

 

信長のところにはルイス・フロイスが招かれ、京に住まいをもらい、
堺港からマカオへの航路を開いたのも、天下統一を狙っての信長が、
火薬の硝石を入手するためと考えられてもいたしかたないようです。

 

その頃のヨーロッパでは、法皇グレゴリウス13世の命で、
パリの教徒が魔女狩りをはじめており、パリの近郊だけでも、
一晩に3万人も殺すようなことがなされたのが、元亀元年(1570)でありました。

 

日本ではヨーロッパの暗い出来事など知ることもなく、

摂津の高槻城の高山飛騨守は、洗礼名ダリョを得、

息子の右近もジュストをもらい、

城内のバードレ館に年俸二百クルサドスの給与を、

マカオから来た宣教師カリオンに与えておりました。

ですから島原のお殿様の有馬義貞も従臣三十人とでコレリヨより受洗して、

ドン・アンドレを名乗ったのです。

口ノ津にこの頃入ったジャガ芋は、

いまでも半島で盛んに植えられてますことにはびっくりさせられます。

 

 

天正少年使節として、宣教師ワリニャーノと共に、
大友、大村、有馬の少年がローマにと向かいました。
ところがこの少年たちが、寄港先で見ましたのは、
膨大な日本人奴隷であったのです。
そのことは少年たちにとって、どれほどの驚きだったことでしょう。
有馬のオランダ教科書にその文が使用されていますが、
ミゲルを名乗った有馬晴信の甥の清左、
マンショを名乗った大友宗麟の甥の祐益らは、
「行く先々で同じ日本人が、数多く奴隷にされ、
鉄の足枷をはめられ、ムチ打たれるのは、家畜並みで見るに忍びない」
「わずかな価で、同国人をかかる遠い地に売り払う徒輩への憤りは
もっともなれど、白人も文明人でありながら、なぜ同じ人間を奴隷にいたす」

すると大村純忠のさしむけた少年マルテー(洗礼名)は、
「われらと同じ日本人が、どこへ行ってもたくさん目につく。
また子まで首を鎖でつながれ、われわれを見て哀れみを訴える眼差しは

辛くてならぬ・・・。
肌の白いみめ良き日本の娘らが、
秘所まるだしにつながれ、弄ばれているのは、
奴隷らの国にまで、
日本の女が転売されていくのを、正視できるものではない。
われわれの見た範囲で、
ヨーロッパ各地で五十万ということはなかろう。
ポルトガル人の教会や師父が、硝石と交換し、
証文をつけて、インドやアフリカにまで売っている。いかがなものだろう」

 

これら人売のことでは、ポルトガル王のジョアン3世から、ローマ法王庁に、

ジパングは火薬一樽と交換に、五十人の奴隷を差し出すのだから、

神の御名において領有することができたら、

献金額も増すことができるでしょう」という進言があり、

イエズス会からの戦闘教団が、1541年4月7日、

8年をかけて喜望峰まわりで日本へと着いたのだという。

 

 

 

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〝白銀海岸〟(*1)・・・アフリカ、ガーナの黄金海岸に匹敵する比喩