ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

キャベツについて

 

 

ずいぶん前のこと。

自然農を実践している知人からの話。

 

畑で充分実ったキャベツから、『もう食べられるよ。』、

というメッセージを子供は受け取ることもあるんだよ、

と聞いた。

 

私はその話にいたく感動した。その頃からキャベツを

丸ごと塊で切ることをしなくなった。

一枚づつ剥がして、料理することにしている。

昔から、キャベツを千切りにする時に思い浮かぶのは、

規則的に切っていても、その形を構成する細胞の一つ一つ、

役割が違うのだなぁ、と。

故に、命は何もかも違うけれども調和して育つのは、不思議なことだなぁ、

と感じながら料理していたことだった。

 

キャベツ、諸々の食材に限らず、

生物は命からのすべてが違う「伝え」なるものを

内包している気がしていた。

 

もしかしたら、塊で丸ごと切ると、

キャベツの葉一枚一枚が悲鳴をあげているかもしれない。

充分、実っていないキャベツのエネルギーは

強張っているかもしれない。

それは想像に過ぎないけれども。

 

ちなみに、3年位前キャベツの実り具合は、軽くなったものの方が

ちょうど良い食べ時であることを知った。

市場のため、出荷のために、重量を基準にする

金銭社会では、本当のことを知るのは難しいのだろう。

 

食物を自ら育てて食すことをせず、

お金で安易に買える現代 社会。

料理する時、食す時、命を頂く心の有り様は、二の次、三の次。

形がきれい、虫がついていないかどうかとか、

どんな栄養素を摂取できるかとか、カロリーだとか、

育てない者が免罪符のようにして、残さないことだけが大目標だったり。

日本人の飽食ブームが成人病やアレルギーさえ作っている。

医食同源の真逆で、本末転倒の料理・食事の現状。

 

 

植物は、一瞬たりとも生きることを怠ることなく

地道にコツコツ成長しているのだろう。

微生物や虫や他の植物と一緒に、

雨・土・風・お天道様の恩恵を素直にまっすぐ受けて。

 

 

そんなふうに植物や動物を頂く時、思いを馳せると、

食べる時のみならず、どこかの宗教信者ではない私だが、

至らないながら、食材に手を合わせて、

料理したくなることもある。

 

 

気づいた時だけれども様々な食材に

料理する始めに、手を合わせ拝むようになって、

そそっかしい私であるが、包丁で指を切ったりする怪我を

しなくなったことに最近、気づいた。

 

 

 

なぜかキャベツの話はこのブログで二回目である。

 

ともかく、多くの人たちの努力もあって、

どんな農法であっても汎用的になって

手軽に手に入る有難さ。

生で、加熱で、漬物で、様々な料理で食卓を支え、

胃腸の働きを助けてくれる、素晴らしい野菜のひとつ。

 

なかなか、心の有り様は安定しないものだが、あらゆる生物に

自然摂理に、日々感謝があれば、何より。

丁寧に食材を調理する心を身に付けたいと、反省を込めて思うこの頃。