ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

暮らし方の違和感

 

 

実家は商売を営んでいた。

生まれてから小学二年まで、日本家屋と三階建物を繋げ迷路のような家で、

祖父母は三階に、日本家屋の2階に私たち家族は五人で暮らしていた。

小学三年の時に、父親が商売の都合ですぐ近くに小さいながらビルを

建て七人で引っ越した。十年前まで、社屋の四、五階を自宅として私も

暮らさせてもらっていた。

 

(幼い頃の私にとって迷路のような住居は、とても幸運であったと感じている。

 現代の人工物のみで画一的な間取りの住環境に、様々な疑問が湧く。

 

都心部の暮らしは便利である。

商業地区のど真ん中で、自転車でほとんど用件がなせる場所であった。

 

だが、いつの頃からか、私は住宅という形に疑問を持つようになった。

便利という有難味と対称的に、自然への渇望感は強くなり、

土が身近に無い、植物や動物との共存が難しい暮らしに、

様々な厄介さを感じながら生活していた。

 

 

ホームセンターなどで〝土を買って〟自宅のガーデニングをする。

建物の排水溝・配管を詰まらせないために苦悶もした。

ペットを飼っていた時も、糞尿を随時処分に気を付け

人間の暮らしの妨げにならないよう、色々工夫もした。

幸い、日光がよく当たる少し高い建物は、

乾燥しやすい状況もあったから、湿度の高い日本であるが、

カビや細菌については、さほど困ることはなかったけれども。

 

 

それでも、子供の頃、祖父が趣味で家庭菜園として郊外で

野菜を作り出し、夏の終わりにはたくさんの野菜が家に

持ち込まれた後、土にいた蟻が、いつの間にか家の中を

闊歩するようになり、果ては観葉植物の植木に巣を作り、

床や窓際には何年もの間、蟻が歩いていた。

あるいは、長い間放置した食品や物品から、蛾が孵化してしまった

こともあり、土が無い無機質な環境に、虫が発生することの

面倒さを感じてもいた。

 

現代日本人の多くが虫を嫌う。室内に様々な危険な化学薬品を

使って、虫を排除するのが当たり前になっている。

 

だが、多様な虫がいることで基本的な生態系が維持され、

私たちは食をはじめとし、あらゆる恩恵を得ることができている。

それを忘れるわけにはいかない。

 

 

つまり、虫が悪いのではない。

人間の暮らし方、住宅、都市、大地を扱う人間の有り様、

生態系を完全に無視した暮らし方、生き方が、

明らかに間違っている方向へ進んでいることを

人工物に囲まれた暮らしの中で、痛感していた。

 

 

私の理想的な住まいは、土間があって、

暖房と調理が随時できる囲炉裏あるいは竃があって、

台所は戸外と繋がり、残渣も適当に地面に散らせば、

そこへスズメたちがやってきて、蟻たちも食を得て、

適当に人間と食べ物を共有できて。

 

色々な虫が室内に入ってきても、そのうち飽きて外に出て行くだろう

隙間があって。きれいとか汚い、危険VS安全という瑣末な感情から

いちいち他生物に目くじらを立てなくても良い、

「まあいいか」と思える、大地、自然循環にお任せできる現実的な他力。

そうした意味での快適さがある暮らしを常々想像するようになった。

(私に於いては、現在は微妙な住宅の状況であるが、

 以前ほど人工物に囲まれてはいない暮らしで。△ 。w)

 

 

最近では、夏は高床式住居で冬は竪穴式住居に暮らしたい・・・

妄想が広がっている。(笑)

素材重視の素朴な暮らしが私の理想である。

 

ホント、自動車やら巨大輸送の交通社会など

無くなってしまえ!というのが本音である。

 

道路や鉄道や船、飛行機などあらゆる交通には

巨大な場を設けなくてはならない。自然を破壊して。

旅ではなく旅行というものは、自己意識の喪失感・枯渇感の暮らし方から、

補正のための行為であろう、と。

あらゆる物資や人間の移動が必須とされる金銭労働も、

自然破壊に至るものしかないのが現況である。

 

 

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現代日本の住宅は、石油を消費させるため。

あるいは、欧州米勢の利益をもたらす貿易。

(偽ユダ株主多国籍企業プランテーション事業が主軸の貿易)

 輸入材で日本の森林が疲弊する方向へ、

生活様式や日本人の思考が西洋礼賛になるよう、

自然から乖離し、窓も小さく、化学薬品や人工物質を多用し

電力がないと暮らせない、人工空間で閉鎖的になる暮らし方を

推進しているように見て取れる。

 

巨大なビルなどの建築物は、

人間の潜在意識への圧迫感・卑小感・依存心を与えることを

キリスト教の西洋建築にそれは見出される。

昨今は、その縮尺が雛形となり建造されているのであろう。

 

 

日本建築様式が形成されて以降、昭和・平成初期までの建物の縮尺や素材が、

人間の無意識に、安心感・安定感を与えるマテリアルであった。

それは、堅牢で柔和で親和的であったことを漠然とであるが感じる。

 

阪神大震災を目処に準備されていた)

建築基準法が国際規格に変えさせられたのは、

施工技術の便宜的なことではない。

貨幣経済のための輸入行為や特許収益や国家破壊やら、

現代日本人へ精神的な制御を網羅し、あらゆる悪意

(元地球人所望偽ユダ実施の人口削減の意図)のもとで、

定められたのだ、と私は推測してしまう。

 

それは火星への引越しを想定した住宅であると、

今時の、気密すぎる新築住宅を見るにつけ

妄想しながら観察する。

 

散歩中、古い日本建築の住宅と味のある庭木が植えられている

佇まいを見ると、ホッとする。

 

 

 

進歩発展などプロパガンダだァ〜と心の中で叫ぶ、

保守的で、こどもじみた、変なおばさんである。