ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

ちまたの音楽や映像・画像が発信配信される意図、行方に。。。何となく感じること__その5

 

 

 

映画史をほとんどワタシは知らなかったので、

メモとしてWikipediaより簡略に記す。

 

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19世紀前半に完成された写真技術を現実の運動の記録として再現を試みるべく、19世紀後半、フランスのマレー、アメリカのマイブリッジ、ドイツのアンシュッツなどの研究があった。これらの人々の研究の集積の上に、1893年エジソンの映写機・キネトスコープを開発し一般公開。フランスのリュミエール兄弟がシネマトグラフ=現在のカメラと映写機と基本的な機構を持つ複合機(カメラ・映写機・プリンター)を開発し1895年3月にパリの科学振興会で公開。エジソンのキネトスコープは箱を覗き込み動画が視えるものであったのに対し、リュミエール兄弟はその箱の仕組みからスクリーンに投射するものへと改良し、一度に大勢が映像鑑賞を可能にする技術を作った、というのが現在の定説らしい。

リュミエール兄弟らが公開した世界初の映画群は、駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる情景のワンショットを撮影したものなど計12作品。初めて映画を見る観客は、「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れ観客席から飛び退いたという逸話も残っているという。映画が実用化された頃は情景描写であったが、やがて筋書きを含む演出作品が作られていった。

詳細はwikipedia【映画史】で。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%A0%E7%94%BB%E5%8F%B2

 

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ウィキペディアの記事の中に、映画という技術ができたばかりの頃、

大衆のための初上映で、列車の到着を見て画面内で迫ってくる列車を恐れ

観客席から人々が飛び退いた、という話は、現代では笑い話かも知れない。

 

が、動物や赤ん坊が映像を見て、現実と映像を倒錯し勘違いして

話しかけたり、吠えたりすることは、先述の列車を恐れた観客と

ほとんど変わりがない。

人間の意識というものは、自己と他者の違いを認識できる歳になれば、

経験した顕在意識にある記憶のお陰で映像が単なる道具、

媒体であることは承知できる。

 

 

脳の中の意識なのか、境界のない宇宙意識に類する意識なのかは解らないが、

最近のスピリチュアルや脳科学の言説に例えば、

他人を咎めると、潜在意識では、自分と他人との境目がないから、

結局、自分を否定する咎めることになる云々、という話がある。

 

考えてみれば映像も、現実か仮想なのかは、顕在意識では分別できても、

潜在意識では、現実のように捉える可能性があるだろう。

特に、映画やドラマは感情が盛んに揺さぶられ、感動も含め

ある程度は、顕在意識と潜在意識が曖昧になっている

変性意識の状態に陥ると思われる。


特に、映画館などは暗くした状態で鑑賞するのだ。つまり、催眠状態である。

映画館の画面だけが明るい暗闇の空間は、非常に精神への影響が大きいだろう。

軽症だがマインドコントロールが発生する、とワタシは思う。

それらを考えれば、より慎重に視聴する必要があるのではないだろうか。

よって最近は映画鑑賞を基本的に避けるようにした。

また、歴史について思い巡らす時などは、頭の中で拾い集めた映像によって

想像力を使うものだから、意図的な映像が頭の中で動き出すと、

偽言説が優位になって誤謬が起きることも考えられる。

特に歴史に関した映画は見ない方が、賢明だと考えるようにもなった。

 

 

話は逸れるが、陰謀論について賛否両論であるが、

実相を見れば明々白々であるのに、

本気で考えない見ようとしない人の方が多いと感じる。

お金を使って便利に効率的に変化した社会に

不安や疑念より、むしろ、良い時代に生まれたなぁ、と

人生に対して肯定感を持って生きている人が大多数の時代。

映画という娯楽も、進歩発展した時代の良き道具として、

それを楽しむのが常識である。ワタシの映画への疑念など一笑に付されるだろう。

 

前回「カンタ!ティモール」について政治的な誤謬が起きるとして、

意見がましいことを書いたが、製作者の伝えんとする思いは、真実であろう。

 

映像に映っていた取材当時の地元の人々の、はち切れんばかりの笑顔の記録は、

政治に翻弄されながらも、自然を畏い自然に抱かれる生活がある。

だから、地域の人々に助け合う心は失われず、苦難を乗り越えられ、

悲しみを受け入れることができたのだろう。

瞳の輝き、笑顔、幸福感が、自ずと伝わってくる。

映画、TVやゲーム、PCがほとんど無い社会の方が、

幸せ気分ではない、真実の幸福感があるというものだ。

 

人間は自然界の暮らしの中では、多様な脳内や体内のホルモンが

完璧なタイミングで分泌され、

精神も肉体も満たされる、と私は思う。

 

だが、人工空間では、時にやる気を起こしたくて、

コーヒーをたくさん飲んだり、

興奮したくなって、映画やドラマを見たり音楽を爆音で聴いたり、

ゲームに没頭したりして、目や耳だけを極端に刺激し、

ほぼ無意識に、アドレナリンを出してみたくなったり。。。(アホっか)

 

不快な人工空間を受け入れるよう、不快さを認識しないために、

香水や芳香剤や洗剤で嗅覚だけをごまかして

副腎皮質ホルモンなるものをほぼ無意識に、

分泌したくなったり。

 

睡眠時にセロトニンだ、

オキシトシンはスキンシップだ、と、

分裂的な努力をしなくてはならず・・・。

それがさらに、自己欺瞞を増やし、

精神と肉体のバランスは、崩れていくのである。

 

 

素朴な暮らしだからといって、知性が劣る訳でない。

むしろ自然からの気付きは豊かで、人として幸福感がある生き方こそ、

知恵深い証である。

人工社会で生きるワレワレは知識は多分にあっても、知性の使い方が歪み、

決して知恵深いとは思えない。

人工的な場で、幸せ気分は多少作れて、高揚感は発生したとしても、

生きることそのものの幸福感は薄いのだから。

 

人工社会にある音楽や映画・映像画像、様々な文化は、

幸せ気分は多少作ってくれる。

だが、真の幸福感になるのか、と言えば、なんだか違う気がする。

所詮、慰みではなかろうか、と思えてならない。

 

 

 

宗教や道徳倫理という外部からの啓蒙で、

感謝だ、前向きだ、感動だ、良心だ、幸せだ、と

一神教的思想教育や倫理観が連綿と続き、浸透してしまっているから、

自らの発露ではなく、自身の心に言い聞かせるようにして

無理強いの肯定感というものに、自己欺瞞が潜んでしまう。

更に、人によっては罪悪感もおまけで付いてくる場合もあるから、厄介だ。

 

人工的な世界では〝良心擬き〟それこそが、迷路、暗闇を作っている気がする。

己の心の奥底を見つめる、認める作業をしなくてはならないことと、

偽ユダの作り続ける人工世界は、現代人の心の闇と連動しているから…。

 

この地球では自然と共に生きること以外は、

各々が、徒労とも言うべき精神的な暗闇の確認作業をしなくては、

精神と肉体のバランスを取ることができないのだろう。

つまり、人間も生物であるから、

人工世界では、生きずらいことが前提、と思うのである。

 

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約200〜150年前。工業技術が次第に多様に編み出され、

人工的な生産物質は増え、自然と関わりの深い食を直接的に得る

農耕という仕事から、大多数の人間が徐々に乖離しつつ、

税金を前提とした人工都市の労働を中心とした社会になり、

金銭が不可欠な暮らしへと変遷した。

それは人生の暮らし方の選択肢や、

個人の才能能力特技を発露させ謳歌する場も網羅した

社会構造へと急速に姿を変えていった。

 

一方で、人間以外の他生命、動物や植物は選択肢どころか、

犠牲があまりに酷い状態になっていることに目を背けている現状。

地球全体が痛めつけられている自然の状況を感じると、ワタシ個人は

泣きたい気持ちになる。こどもっぽい感傷かも知れない。

が、それはどうしようもない湧き上がる感情である。

 

自分が幸せ気分なら、他人・周りも、他生物だって幸せだろう、というのは

人間の身勝手・自己欺瞞ではないか、と思ってしまう。

己をなだめるような幸せ気分と、社会、地球全体の幸福感の違いを思う。

 

社会の一員から外れ野生の中で生きることもほぼ不可能。

が、最近は徐々に人工社会から外れて生きていく人たちも増えている。

人類全体が、欲望を満たし幸せ気分に酔いしれる社会が、

実は狂気の世界に向かっていることに

賢い人たちから、気付き始めているだろうか。

 

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映画・映像・画像はとても人工的なものである。

様々な視点を持って想像し表現していても、

立体映像であろうが、五感を刺激できるバーチャル型の映像だろうが、

所詮、人間の視点でしか作ることができない。

 

技術が進歩して、五感を擬似的に体験する・・・。

その目的は、地球から偽ユダの差別対象である有色人種が

火星へのお引越しを促すご予定、その想定で、

馬鹿げた技術が研ぎ澄まされていると思うのだ。

偽ユダあんたらが引越しせぃ、ってなことである。

 

 

パソコンの文字変換さえも、文字ソフトに聖書のための有効性を含有させて、

開発している偽ユダ主導のクラウド化。私の中では、信用できない道具だ。

〝イサクの燔祭〟をタイピングした時には一発で、

〝ハンサイ〟という熟語が出てきたことに

驚いたワぁ〜〜〜〜。

たわいない日本語、熟語は、すぐには変換できなくなっているのに。

日本語さえも壊そうとしているのが、偽ユダですから!

そんなこともあって、前回の考察(改ざん旧約聖書の予定に準じた予言なる社会風潮)は、

ひとつの事例として、あながち独りよがりではない、と判断した訳で。

(顔?!ブックが布教用なのは知られたことだが。。)

 

 

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もっとも伝えたいことが、後回しになった。

 

日本人の信念体系を思うとき、

以前にも記したが、学校教育のお陰で

多くの日本人が口にできる、

平家物語の巻頭の言葉を思い出す。

 

祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらわす
驕れる人も久からず
だた春の夜の夢のごとし
たけき者も遂には滅びぬ
ひとえに風の前の塵に同じ

 

仏教の無常観が、私たちにはあると思う。

 

中世から、欧州貴族勢が権力や富を持ち続けるという実態に、

現実味を感じないのは、この無常観というフィルターがあるのも、

少しは関係しているのではないだろうか、と。

 

無常観というものは、ある意味で平等感にも繋がっている。

破壊と再生が人為を超えた力で、なされていることを

集合無意識に近い潜在意識が捉えている。

日本人が今も尚、平和、調和、平等が、心に響くのは、

自然界のうつろいが人間社会にもあると信じているから、と思う。

それは確かに普遍的で、自然の「ことわり」という感覚が、私にもある。

 

ところが、欧州は石や金属を使って暮らしを成り立たせる歴史だ。

何百年何千年も物質を維持せんとする即物的な思考、生き方が、

欧州貴族たちの理想、哲学や美学なのだろう。

 

体感や感受性ではなく、神話や聖書が根幹の精神性。

中世前後からそれが、彼ら集合無意識の信念体系になったと言えるだろう。

永遠の生命だとか、永久の富、不変の名声名誉、完璧な家柄や血族という

ものを信じて止まない価値観と思う。

永遠を目指すという幻想がお好みであり、彼らの嗜好なのだ。

ともすれば、人類創生は欧州貴族勢のオカゲダぁくらいの気合いで、

そんなこと嘘でも、まことしやかに言説や科学証明を塗り替える勢いで、

暗躍しているんだと思う。

遺跡破壊とか隠密の遺跡物収集なんか、そんな感じで・・・。

 

上から目線みたいな発言で恐縮だが。。。

 

で、自然の摂理は、やはり無常が真実、と思う。(東洋思想の勝ちぃ〜!笑)

にも関わらず、

中世からだろう、欧州貴族勢や、およそ17世紀に登場した国際金融家の

君臨を許し続ける原動力となっているもの、

それは、何か。

 

集合意識でのより多くの人への認知や操り、とワタシは思う。

カバラ数術や陰陽道が、権力維持装置とも思ったりする。

 もちろん、マスゴミ、マスメディアや印刷物による教育や宗教思想啓蒙も。)

 

集合意識レベルで様々なガス抜きの方法が、

あるんじゃなかろうか、と。

アホみたいなことを考えてしまうのである。

 

ガス抜きとしてそれは、映画の中で、

ちらっと密かに真実を込めてみたり。

(悪意ではなく、善意的な真実のメッセージみたいな。

 テレパシー能力が人間には本当はあるょとか、

 経済の中で悪意はあるけど、

 本当は救世のためだよ、みたいなメッセージなど)

以前に記したスイス国家防衛のノウハウ本を

一般化する出版をしてみたり。

慈善事業や寄付贈与を盛んに行なったり。

(結局は系列で富を巡らしているだけだが)、

法律や様々な契約に類する物理的に証明できる物や組織では、

善意を大衆に向けて周知できる状態にしておくこと。

 

他者を規約などで間接的に縛りつつも、ほんの少しだけ、

真実や善意を含ませて、他者を安心させてみたり、

喜ばせてみたりして。

 

比喩的には、宇宙銀行の貯金が減らないような

無駄に、涙ぐましい努力をしているんじゃないかな?と。。。

あまりにもファンタジックな与太話で、すみません。(汗)

 

ともかく、無常という理は真実と思う。

だが、それさえも、スルーしちゃえる悪魔的ノウハウを

持っているのが、連綿と君臨し続けてきた秘訣?!と、人工種である

欧州貴族勢力や国際金融家に対し、そんなことを思った次第。

陰謀が、陰謀論として闊歩している所以が、

彼らなりのガス抜き法なのかいナ、と。

 

 

 

 

ひとりよがりな内容でゴメンナサイ。m(_ _)m