都市の外れであっても、
最近はめっきり生活空間に野生動物が少なくなったから、
ついつい、スズメやカラスやハトやカモやセキレイなどに目をやってしまう。
時々、サギもいる。あっちのSAGIじゃない。(苦笑)
それでも、1キロくらい離れたところに、大きな市民公園があるからだろうか。
都市では珍しいヒタキも、時々やってくる。
聞こえてくる啼き声がいつもと違う時、電線や屋根にふと目をやると
スズメと違う姿を双眼鏡で改めて見て、ワクワクする。
その比較は、ちょいと申し訳ないが、、。
うちの猫の額庭に植えてあるビワの木にも蕾から開花が
始まらんとしているこの時期。
毎日のようにメジロが蜜を吸いに、集っているのが嬉しい。
はたまたスズメさんやカラスさんには失礼かもしれないが。W
やはり、稀少な生物になる程に、有難がってしまうのは、
人間社会でも同じで、一般人と有名人のオーラの違いかぃ?!W
(なんか違う気もするが。)
それはともかくビワの木は、敷地に植えると病人が出る
なんて言う、有難くない風評もある果樹だが。
(それも奴らの20世紀前半医療の陰謀か?!)
母が癌の告知を受けた当時、ビワの葉の効能を
書籍で知り得て、実践して自然退縮した経験があった。
その素晴らしさを感じたが、実家は商売だったため
敷地一杯の建屋だったから、木を植えることができず、
毎月ネットでビワの葉を購入するのに、
ずいぶんと苦心した。
よって自宅にビワの木を植えることは私にとっては、
薬箱を置くのと同じで、ごく自然なことであった。
家人はあまり喜んでいないから、私の勝手な思いは承知だが。
ビワの木はほとんど剪定をせず、赴くままに育ててきた。
植物、その命について様々に思うと、
人間の都合で「切る」行為に疑問があったから。
すぐ横の車の通らない狭い道で盛大な工事があったり、(陰謀カヨ×)
近所の人に通行の邪魔だと文句を言われる時だけ、
やむなく、ちょっぴり剪定。ほとんど剪定のフリ・・・
くらいに留めてきた。(どんだけ頑固なワタシ。W)
そして施肥もしないし摘果もしない。
が、毎年6月中旬にはビワの実がよく成り、
近所の人にお裾分けし、リピーターも現れ・・。
うちの脚立を勝手に使って収穫を楽しむおばさんや、
剪定していないビワの木のせいか空き家と勘違いされ無断で、
もぎ取ろうとするお爺さんと仲良くなったり。
皆様のその図々しさに、笑い話のネタが増え、かえって有難かった。アハハ〜
近隣の人との対話をくれる楽しい果樹でいてくれて嬉しいのである。
そして何にもしていないから、気楽でもいられる。
ホント、公共の場(公園や街路樹)で果樹など、
農作物を育てさせない土地の法規制は、
国際金融家について知るほどに
農協、大手スーパー、___輸入果実のため、
そして「カネ支配」のためとつくづく思う。
(ちなみに、農家は本当に薄利で
過酷な仕事なので責める訳にいかない。
日本農業の衰退、年々の食料自給率の低下も、
多くの日本社会の問題と同様、
GHQが経済支配の意図、日本に対し悪意をもって
施行させた法整備が、そもそもの根本原因だ。)
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ところで、ほとんど剪定しないことで気付いたことのひとつは、
やはり鳥のことだ。
それは、まだ想像の域を超えないが、もしかすると
鳥たちは、食になる目ぼしい樹木などを目印にしたりして、
行動を形作っているのではないかな?と。
人間が美味しいお店を記憶することに、
ワクワクするのと似ているのかもっ。
そんな風に、想像するとメルヘン(ぷッぷ)は
すぐそこにありますな。。。笑
空から見て、変わらない状態の場所に安心感を持ち、
食べたい物がそこにある、という記憶は
人間の食に対する関心と、ほとんど同じかもしれない。
木は成長するから大きさは変わるけれども。
毎年、馴染みの木があるその場所、様子、風景を
行動の基準にしているのではないだろうか。むしろ
人間より、もっと切実なランドマークではなかろうか、と。
剪定をし過ぎて様子が変わってしまう樹木には
あまり集うことをしないのではないかな・・・。
動物たちは、人間が鈍くなっている本能を
変わりなく持ち続けている。
人間たちが気付かない視点で、この地球を感じて生きている。
人工物が刻々と増え続けるカネ礼賛社会において、
鈍くなり忘れ去ってしまっている人間の生物としての感受性を
都市においても、野生動物たちは普遍的に持ち続けているのではないかな。
(マヨネーズが好きなカラスはどうなのか?はさておき・・・)
私たちが狂い続け失い続けている五感を取り戻すのに、
改めて、身近な動物や昆虫、原産・固有種などの植物、
(ビワは日本原産ではないようだけれど)
日本の風土にあった植物などのことに、
関心を持ちませんか?観察しませんか?想像しませんか?
そんな思いが込み上げる、今日この頃である。