ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

尾畠春夫さんのことから 【一】

 

 

8月15日。
8月12日から行方不明になっていた藤本理稀くんを
尾畠春夫さんが発見し救助した話題が聞こえてきた。
TVは無く見ていないが、ネットの記事であちこち取上げられて
いるから、関心もあってYouTubeにあったインタビューの動画を視聴した。

(日頃、TVを見ている人にとっては食傷気味の話題かもしれない。)

 

尾畠さんは生業の鮮魚店を65歳の誕生日で辞め、恩返しの気持ちで、

ボランティアに専念し、もう13年献身的に活動されてきた方と知り、
敬服してしまった。丁度、父と同じ世代ということもあり
親近感を覚えた。信条も似ている。

 

インタビューの動画が30分以上ある中で、理稀くんが見つかったことを
自分の子供のことのようにして感動されている。
尾畠さんの涙して喜ぶ姿はワタシも思わず、もらい泣きしてしまった。
皆、繋がっているなぁと。

 

また、献身的な心で生きて来られた方だからこそ、

たった20分で見つることができた、

奇跡を引き寄せる、神業をも感じた。


理稀くん行方不明の件はアブダクションではないか、との説も

あるようだが。それはさておき。

 

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ところで、尾畠さんのインタビューの中で、ワタシなりに感じたことを
書き留めたい。

捜索していた理稀くんを発見し、ご両親へ引き渡すまで、
決して警察や消防に託さないと宣言していた様子が印象的だった。
理稀くんの家族と尾畠さんとの約束。もし、私が見つけたら直接、届けると。

 

現代の法律は私たちの生活を守っているようでいて、
監視や管理であったり活動の自由を奪われたり、
個人の理に適った意志や判断が排除されている社会。
本当の弱者の切実な声は、切り捨てられる法規制や世相。

それを痛感する時代にあって、法律に対しての尾畠さんの宣言は、
些細なことのようだけれども、
現代の西洋型の法律とは根本的に相容れない、
日本人の精神性、(古き良き)日本人魂を垣間みた気がする。

 

法律よりも、人情であり、法律よりも、思いやりでありお互い様の心、
個人の約束、良心が、実は社会を支えている…。

個と個は対等であり、組織は従属するものという真実。

 

 

もともとの日本(江戸期まで)は平等な社会であった。

明治から西洋型の法治国家に変貌した。

競争社会、生産性効率性、金銭多寡の損得勘定やキリスト教者的な善悪判断が、

狂育やマスゴミで示され汚染脳へと仕向けられてきた。

差別問題にばかり目を向けさせられ、江戸期までの日本人が元来持っていた

生物の摂理の中にある、内なる平等の意識、あるいは慈悲心や、

主体的な個の良心、個個の対等は失われていった。

 

西洋的な教育・宗教・政治による倫理観や懲罰は、外部からの規範。

それを牽引するマスゴミプロパガンダで、大衆の恐怖心を煽動し、

受動的な強迫観念の中に「平等の意識」は埋もれてしまった。

 

また、現代日本人は西洋化で、‘個の自立’こそが‘大人’とか‘成功者’だ、と

狂育やマスゴミは喧伝する。確かに、個の欲望、自己顕示欲を満たしたり、

わがままや、傲慢な所望、野心は、カネがあれば何でもかんでも実現できる。

金銭による経済的な自立や、物理的あるいは表面的な自由さは、

多くの現代日本人が手に入れただろう。だが、

個の意志、良心や良識ある判断、‘内なる自律’を培うのに、

権力側の影響が絶大で、極めて困難な社会。欺瞞の現代日本

そうした中にあって、尾畠さんの活動は稀有がゆえ、極端に注目が集まる。

過剰なマスコミ報道は、大衆のヒロイズムをくすぐり、嫉妬心や焦燥感をも駆り立てる。

そうして個の自律の芽を攪乱し枯らそうとする。

 

 

法律の云々以前の、生物として本来の人間の全うな判断力。
自然摂理に沿った本能的な生活や行動や精神性。
(現代のような権力側の命令や規律が及ばない…、
 余白・余剰、間や遊び…の大切さを思う)

無意識だけれども、昔からある日本人の意識。
心根から発露する良心的な行動や知恵、直感。

 

現代日本に於ける政治経済や宗教・教育…、

それは支配都合の西洋的規律。

貨幣の威力が、良心を穢したり、己を蔑む、

物質偏重や性悪説が前提の西洋的な思想に基づいた法律は、

人間の本質的な自律・意志を萎えさせる。

良心・知恵・直感を見失う。

見えない首輪を大衆全てが付けている。

依存的な保安の社会。

 

 

 

個としての自律・意志が、この世も含め宇宙の本質という印象を
戦前生まれの尾畠さんの言動や生き方から感じられた。

宇宙の本質とは、少し大袈裟な言い方かもしれない。

「お天道様」を悟る、と言い替えてもいいだろうか。

 


度々、当方が紹介する「逝きし世の面影」にある内容が、
この事例と重なると思ったので、少々お固い文体だが、私見も含め
2回に分けて掲載したい。

 

 

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「逝きし世の面影」渡辺京二著(平凡社)___

第七章 自由と身分  一部抜粋 (264~266頁)

 

 オールコックが慎重に推量の形で披露したのと類似の見解を、カッティンディーケは
ほとんど断定に近い口調で述べる。「日本の下層階級は、私の看るところをもって
すれば、むしろ世界の何れの国のものよりも大きな個人的自由を享有している。
そうして彼らの権利は驚くばかり尊重せられていると思う」。
この思いがけぬ断言に私たちは驚きと戸惑いを禁じえないが、とにかく彼の言う
ところを聞こう。

 そのように民衆が自由なのは、日本では下層民が「全然上層民と
関係がないから」である。上層民たる武士階級層は「地位が高ければ高いほど、
人目に触れず閉じ籠ってしまい」、格式と慣習の「奴隷」となっている。「これに
反して、町人は個人的自由を享有している。しかもその自由たるや、ヨーロッパの
国々でも余りその比を見ないほどの自由である」。
 
 法規は厳しいが、裁きは公平で、「法規と習慣さえ尊重すれば、決して危険では
ない」。こういうカッティンディーケの所見は、後述するフィッセルの著述の影響を
受けているのかもしれない。


 しかし「日本政府(徳川幕府)は民衆に対して、あまり権力を持っていない」と
驚くべき断言をするとき、彼は彼なりに経験を踏まえていたのだ。


 オランダ日本駐在全権領事官ドンケル=クルティウス(1813~79)が
出島拡張の一案として、町との境になっている掘割の埋立てを提案したとき、
奉行岡部駿河守長常(1825~66)が、そうすれば「近所の民家はすべてその所有する
艀の溜まり場を失うことになるからという理由で」拒んだ例を彼は紹介する。
 彼のいうところでは、奉行の回答書には「奉行と言えども日本の掟を守り、
この権利を尊重しなければならぬ、という町民の感じをしたためた書面が
添えてあった」という。カッティンディーケはこのことをもって

「政府(幕府)がいかにその国民の権利を尊重するか」ということの一例とし、
この種の例は他にもしばしば見受けられたとつけ加えている。
プロシャ使節団のヴェルナー艦長も「絶対専制支配が行われている日本において、
個人は時に立憲的なヨーロッパにおいの諸国家においてより多くの権利をもって
いた」例として、次の様な話を紹介している。

 

「われわれの長崎滞在中に幕府は病院を建てようとした。幕府につかえて
いたオランダ人の軍医少佐ポンぺ博士は、このための適当な場所を捜し出し、
長崎奉行もこれに同意した。その場所は貧しい農夫が居住し、1~2反の畑を
耕作している丘の頂上であった。
 奉行はこの農夫に、この土地を地価と収穫高とを算入して幕府に譲渡するように
頼んだ。だが農夫は自分がまいた種をまず収穫したいと思うと指摘し、
幕府の依頼をあっさり拒絶した。

 彼にはその後、二倍、三倍の価格が提示されたが、彼は強情な態度を改めず、
最後にはどんな条件でも土地を譲渡するつもりはないと宣言した。
奉行は強制収用する立場にはなかった。強制収用法は日本には存在せず、
幕府は止むなく他のずっと不適当な土地を病院のために購入することになった」。
 

 むろんこの挿話はまともな史家ならば、利用をためらう種類に属する。
第一にこれは伝聞である。第二に、よしやオランダ人がヴェルナーにそのような
説明をしたとしても、オランダ人は幕吏から、その土地を断るための遁辞を
聞かされたのかもしれない。

 だが、私は、ヴェルナーのいうような事実はあってもおかしくないものと考える。
この時期の長崎奉行は、すべての欧米人がその開明性と温雅な態度を賞讃した
岡部長常である。カッティンディーケの伝える前例といい、岡部ならこのことが
あって不思議とはいえない。
 カッティンディーケが経験したところでは、幕吏は乱暴を働く外国人に対して
はなはだ軟弱だった。オランダ水兵が事件を起こした場合も、穏便にことを
すまそうとする風が見えたので、かえって彼の方から、そういう場合は容赦なく
処分してほしいと頼んだくらいである。
彼らはいったい何のために両刃をたばさんでいるのか、というのが彼の率直な
疑念だった。しかも幕吏は外国人に対してだけ弱腰だったのではない。
 彼らは「例えば甲と乙との町の住民の間に争いが起こった場合には、
往々町中の恐ろしい闘争となり、闘争の後には幾人かの死人が転がっている
というような騒動が起きても、決してそれを阻止することはない」のである。
「私は一度そのような大闘争を目撃したが、それは長崎で流行する凧揚げの
遊戯が原因であった。その犯人は事件の終了後になって訴追せられはしたが、
喧嘩は何時間も長い間、何の防碍もされずに続いた。
町の顔役が出て、そのいきり立った青年たちを宥めて、やっと喧嘩が鎮まった
という有様であった。
  我々が日本に着く少し前のことであったが、厳重な監視を受けて
いた支那人街から、2~3百人の支那人が町に流れ込んで、
長崎に数日間上へ下への騒動をかもしたことがあったが、その時とても、
奉行は、その支那人を指定の居留街に復帰せしめる適切な措置を
少しもとらなかった。支那人は酒にも飲み飽いて、とうとう自分から居留地
帰って行った」。

「日本の幕吏にいたっては全く言語道断だ。我々はむしろ警吏は全然ないと
言いたい」というのが、カッティンディーケの感想である。

 

 彼の証言は、われわれが長年慣らされてきた幕藩体制下の抑圧された民衆像と
あまりに喰い違っているので、にわかに信じ難い気がしないでもない。
しかし、アンベ―ルもまた、これとまったく同じ趣旨の証言を行っているのだ。