ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

油  9

 

 

「この国は俺が守る」〜田中角栄アメリカに屈せず(仲俊二郎著/栄光出版)
第9章 「残された日々」  271頁〜287頁(転載)

271頁〜281頁 (抜粋転載)

 

 昭和58年(1982)10月12日、東京地裁は6年9ヶ月に及ぶロッキード事件の法廷闘争に区切りをつけた。丸紅ルートの一審判決が下された。収賄で田中に懲役4年、追徴金5億円。贈賄で丸紅会長の檜山広が懲役2年6ヶ月、専務の伊藤宏が懲役2年、専務の大久保利春が懲役2年・執行猶予4年の有罪であった。
 
 この裁判は物証がなく、すべては檜山が請託したという自白しかなかった。
コーチャンらは『TANAKA』という名を出し、田中角栄であるが如き印象を演出し、
自分と檜山との会話を巧みに描写する。
 断定を避け「そうに違いない」という方向へ誘導する供述をしている。コーチャンらアメリカ側の用意周到さが窺えた。裁判は檜山が自白したという調書に沿って進められたが検事調書は裁判過程で猫の目のようにころころ変わり、檜山の供述が正しく反映されず、都合の悪い部分は一方的に除外し、検事が強引に捻じ曲げ不自然極まりない調書が出来上がった。
 嘱託尋問という違法な証言を最高裁が認めたばかりに、無関係の者まで次々に逮捕され無理やり供述を強いられ、それを証拠とされ、田中角栄は有罪へと陥れられた。
 冤罪を晴らせなければ死んでも死に切れない、日本国総理大臣の尊厳がかかっているのだ。外国から賄賂を受け取るなどと、よくも破廉恥なシナリオを考え出したものだ、と。

 地裁で有罪判決が下った後も、冤罪であることは田中自身が最も承知しているからこそ、高裁、最高裁まで闘うつもりであった。それは政治家生命を賭け、隣国中国との国交回復が国益であり、即ち世界平和への礎になることを田中はビジョンとして消えることはなかった。また、ソ連と平和条約を結び、北方四島の返還、そして最も大きな課題である資源問題が日本国存続の根幹であり独自の資源ルートを確保することが、二十年、三十年先の日本の繁栄を慮って、田中は再起を願っていた。

 アメリカがいざという時、日本にどれほどのことをしてくれるのか。
エネルギーを分けてくれることはなく、先の石油ショックその危機に際し、キッシンジャーは援助を明白に否定し、更に日本の資源外交を露骨に批判し、アメリカによる呪縛を痛感している。日米の友好関係、それを担保する安保条約も重要だがこれと資源外交が矛盾するとは思わない。


 なぜ、検察、裁判所、マスコミ、メディアが束になって田中抹殺に血道をあげ、事実を歪曲し罪人に仕立て上げなければならないのか。アメリカへの怒り、キッシンジャーへの憤り、無実の人間を見えない鉄の鎖でがんじがらめに縛り上げ、日本のアメリカシンパたちを総動員し無理やり有罪の檻に入れられた。
 だが、田中はその怒りを胸の中に締まった。日本の司法がそこまで腐っていると思いたくなかった。よって、最高裁まで挑む決意があった。
 我れアメリカに屈せず!そう自分に言い聞かせた。

 

 昭和60年(1985)2月7日、手塩にかけ育ててきた派閥メンバーが「創政会」の旗揚げで、まさかの裏切りに遭う。重鎮の金丸信が後見人役の竹下登が派中派である勉強会を立ち上げた。120人超の田中派議員のうち、81人が参加を希望したが、当日朝ギリギリまで田中の引き止め努力もあり、それでも40人もの議員が竹下のもとに集まった。その中にひときわ目をかけていた梶山静六、羽田、小沢一郎らもいた。最大派閥である田中派は田中の首相退陣後、10年が経っても首相候補者を出していなかった。派内の不満や閉塞感の醸成が、天下取りの野望を秘めた竹下らが反旗を挙げた事情がある。小沢一郎は後に当時の心情について恩人である田中を裏切る気持ちはなく、竹下登を後継者に指名しておけば組織がもつ、と考えたという意図を述懐している。

 「創成会」結成の事前情報を聞いたとき、田中の顔から生気が消え化石のようにこわばったという。目が白目に変わり、泣いているのか笑っているのか分からないような思考が停止した放心の表情を示した。「クーデターか…」とつぶやいたという。

 仲間に裏切られたという思いは、田中の心のひだを深く傷つけた。それは派中派が及ぼすだろう悪影響への危惧ではなく、むしろ信じあってきた仲間の背信に対する寂しさ、いや、自分の無力を力ずくで悟らされた悔しさからくる深手かもしれない。
 田中はすぐさま片っ端から出席予定者たちに電話をかけ、引き止めにかかっている。
それが成功し、当初の半分の40名にとどめることができたのだった。しかしその日を境に田中の身体は暴走し始める。多くの量の酒を求めるようになった。これまでロッキード事件でマスコミや世間のバッシングに耐えながら、裁判という戦いの日々を刻んできた。その矢先の創成会の結成は外と内からの二重苦が田中に襲いかかった。創成会旗揚げから二十日後、1985年2月27日夕刻、突然、脳梗塞で倒れた。
田中、66歳の時である。

 数ヶ月後、長女の真紀子がイトーピア平河町ビル田中角栄事務所を閉鎖し、議員会館の部屋を利用こととした。秘書であった佐藤昭子早坂茂三らも去ることとなった。
大派閥の終焉を思わせる淋しい風景であった。だが落ち目は、田中個人に当てはまらなかった。翌年7月7日の総選挙で、田中本人は一度も顔を出していなかったのに

17万9062票を獲得し、2位に10万票以上の差でトップ当選を果たす。田中の資金援助もあり、田中派も142名が当選する健在ぶりであった。だが田中の健在ぶりをマスコミは「18万票を割る」というふうに、2位と大差があったにも関わらずさげすんだ報じ方をした。


 1987年7月29日、東京高裁で二審の判決が下った。田中が欠席するなかで、控訴を棄却し一審判決を支持したのである。懲役4年、追徴金5億円の実刑判決だ。検察・裁判所は、田中を再び有罪とした。田中は直ちに最高裁へ上告した。上告審に向け長い戦いが始まった。長女の真紀子は車椅子の父に寄り添い手となり足となって、リハビリに、政治に、そして裁判に没頭し、田中も懸命に耐えた。だが、徐々に身体が衰えてく。
時間と、病と、裁判と戦い、田中は心底疲れ切った。田中は政界引退を決意する。しかし裁判への闘志は未だ衰えてはいない。潔白を勝ち取るまでは死ぬに死に切れない思いであった。

 1990年1月24日、田中は政界を引退した。衆議院議員勤続42年余だった。最高裁判決は決まっておらず裁判が続いている。田中は真紀子の世話のもとリハビリに励みながら、潔白へ向け日々を過ごす。

 この時期、思いがけない来訪者があった。1992年4月7日、来日していた江沢民総書記が目白へ訪ねてきたのである。政界を引退し一老人となった病床の田中への見舞いであった。江沢民は田中の目を覗き込むようにして、静かに力強く言った。
「中国では井戸を掘ってくれた人を大切にします。
1972年の国交正常化は、田中先生のご尽力によるものです」と。田中は涙を浮かべ頭を下げ、シャンパンを一気に飲み干した。おそらく周恩来と一緒にマオタイを飲んだ時の光景を思い出していたことだろう。

 真の外交とはこういうことをいうのではないか。
田中は日本の国益を背負い、時に喧嘩をし、しかし精一杯の誠意を尽くして相手の懐に飛び込んだ。そして互いにWin-Winの成果を得、国交を回復させたのだった。これほどの外交巧者が果たして今の日本にいるだろうか。国際間で多事多難の今日、もし田中ありせば、と思わざるを得ない。


 江沢民が来日した年の8月、田中は20年ぶりに中国へ訪れた。真紀子夫妻ら家族7人を含め総勢30人程の旅だ。もちろん私費である。人生の記憶へのけじめをつけようとした旅だった。北京釣魚台に滞在し、孫の雄一郎が通訳を務め、中国政府要人達と会見をした。田中は笑みをたたえるなか、感極まったのか時々、感動のうめき声をあげ、涙を流した。思い出深い会議室、亡き心の友、周恩来との再会を果たしていたのかもしれない。そして翌年の1993年7月18日、衆議院選挙が行われた。真紀子が新潟3区から無所属で出馬し、トップ当選を果たす。父角栄の後を継いで、政界入りするのである。
田中は真紀子が初登庁する姿をテレビで見ながら、目を潤ませ時折遠い昔を思い出すふうに目線を泳がせたという。優しい一人の年老いた父親の姿がそこにあった。

 46年前の28歳で初当選した時の自分と重ね合わせていたのかもしれない。
田中はそれから5ヶ月ほど過ぎた12月16日、田中は帰らぬ人となった。
75年の波乱の人生に幕を閉じたのである。

 

***

 

 諸々の持病に加えて肺炎をこじらせ、9月から慶応病院に入院していた。体力はかなり衰えていた。亡くなる日の朝9時過ぎ、回診の医師団に「眠い」とつぶやき眠り込んだ。一時間程して娘婿の直紀代議士が見舞っているとき、急に痰をからませ苦しみ出した。急いで真紀子ら家族も駆けつけ、医師団の懸命の治療の甲斐もなく、午後2時過ぎに息を引き取ったのだった。数日前には容態が落ち着き、集中治療室から戻ったばかりで、家族も一安心していた。医師が田中に、「何が好きですか」と尋ねたところ、「車に乗るのが好きです」と答えた。死去の前日、真紀子が見舞いに訪れ、小康を取り戻した父を祈るような気持ちで励ました。
 「お父さん、よくなったら、ドライブに行こうね」「うん。行こう、行こう」そういう意味のことを言って、田中はうれしそうな表情をしたという。

 翌朝の朝日新聞社会欄に、「田中元首相死去 金権支配、最後は「眠い」と出ていた。その横に立花隆が「“角栄的なもの”精算を」というタイトルで、いつも通りのコメントを載せていた。

 田中は自分の寿命の終焉が近づいているのを知っていたのかもしれない。衆議院議員引退から江沢民の来訪、中国再訪問、そして長女真紀子の衆議院議員当選と、4年足らずのあいだに、立て続けに人生のけじめをつけている。だが最大で最後のけじめであるロ事件の無罪判決を見ぬうちに舞台から去った。さぞ無念であったことだろう。


***

282頁〜287頁 (原文転載)

 しかもその最大で最後のけじめは田中の死後、まるでそれを待っていたかのように下される。最高裁は田中の死亡を理由に、公訴棄却の決定を行い、裁判を終結させた。つまり検察の起訴を無効にしたのだ。では田中は無罪になったのか。そうではない。後で有罪とするのだ。それはまだ決着が着いていなかった榎本と檜山の上告審にある。
 田中が亡くなってから1年数ヶ月後の1995年2月22日、最高裁は榎本敏夫、檜山広の上告棄却を言い渡す。1、2審とは違い、嘱託尋問は違法(毒樹)として退けたが、その毒樹から派生した検察官による作文調書、つまり毒樹の果実は有効と認定する。あえて毒樹と果実の矛盾に目をつむり、首相の犯罪を宣告して無理やり決着をつけたのである。
 何と長い裁判だったろう。起訴から19年目になって、そして最高裁への上告から見れば7年半後に、ようやく裁判が終了したのだった。
 政治家田中の後半生は、でっち上げられた無実の罪との戦いであった。国益を思い、日中国交回復と資源外交に邁進した田中にとって、その無念さは言語に絶するものであろう。しかし、田中の挫折によって得した者、安堵した者もいる。そのとき地球の裏側で、シャンパンを抜いて高らかに笑ったに違いない。だがその人物とて国益を思っての行動なのが悲しい。
 良きにつけ悪しきにつけ、田中は成熟した大人の政治家だった。気骨に満ちた信念の政治家だった。党のために大いにカネを集め、大いに使った。集め方に多少荒っぽかったところもあろう。だが法に触れることはしていなかった。

***

 そんな田中に比べ、今日の為政者の何とスケールの小さなことか。内政にせよ外交にせよ、国益と国民の幸福という大局観をもたず、ただ自己保身だけに汲々とし、結果に対する一切の責任も負おうとしない。目先の出来事ばかりを刹那的に追うだけの小さな政治と化している。世論調査の数字ばかりを気にしている。
 ただ清貧であればいい。カネにさえ清ければ、国家観などなくても総理大臣になれるのだ。そんな時代である。無能力者でも清貧であれば国のリーダーに選んでも文句を言わない国民とマスコミ。
 能力よりもカネの潔さのみがリーダーの条件だと勘違いしている極端な考え方が、今の世論なのだ。高潔な教育者になるのならそれは必須だろう。が、世俗のリーダーたる政治家にそこまでの人間的清潔さを徹底して求めるマスメディアの姿勢は、果たして国益を代弁していると言えるのだろうか。
 汚職を許すというのではない。違法な行為は断固、罰せねばならない。
しかし行き過ぎた清潔度と倫理観の要求は人間を萎縮させる。人の心というものは濁ったものなのだ。幸せな人を見て、よかったと思う者もいれば、不幸になればいいのにと妬む者もいる。これが人間なのだ。
 田中に対し、マスコミがあれほどまでに金権非難を繰り返したのは、異様な感じさえする。社会の木鐸としての正義感からそうしたのだろうか。 随筆家で編集者でもあった山本夏彦がこう喝破している。「汚職は国を滅ぼさないが、小さな正義が国を滅ぼす」2002年に他界した人物だが、まるで今日の日本を観察しているようではないか。
小さな正義が横行している。ともあれ田中バッシングはマスメディアによる狂気の嵐であった。ほとんどの新聞やテレビ、ラジオ、週刊誌などが集団となり、まるで噴火する火山のマグマのような勢いで激しく田中を叩き続けた。19世紀後半の哲学者ニーチェは言う。「狂気は個人にあっては稀なことである。しかし集団や党派、民族、時代にあっては通例である」

 田中追放の熱気はもはや誰も止められないほどの強烈台風となった。検察や裁判所でさえ、その熱気に煽られ、いやひょっとして自らがその熱気を煽り立て、嘱託尋問から逮捕、そして裁判へと突っ走るのである。三木武夫らの政治家もそれを利用した。国民もこぞって拍手喝采をし、国全体が田中を追放することで溜飲を下げようとした。そして彼ら追放劇の役者たちは背後に潜む国際的陰謀を知ってか知らずか、ひたすらゴールに向って走った。そんななかで田中は孤独に戦い、そして敗れ去ったのである。
 敵は大きすぎた。何と報われない政治人生ではなかったか。国民の幸福のために一命を捧げた稀有の政治家は、やがてアメリカが企むロッキード事件でその政治生命を絶たれる。
 日本の国益を考え、ひたすら奉仕してきた総理大臣が、こともあろうに賄賂を受けたという犯罪者のレッテルで葬られたのだった。

 竹下が率いる創成会はその後、田中の最高裁判決が出る1ヶ月弱前の1987年7月4日、経世会と名を改め、田中派からの独立を果たした。113名の議員が参加し、この日をもって田中派は消滅したのである。脳梗塞で病床にあった田中の気持ちはいかばかりであったろう。
 しかし田中は政治家としての人生に本当に負けたのだろうか。アメリカの謀略にはめられ、冤罪を背負ったままこの世を去ったのだが、だからといって、悲劇の敗北者なのだろうか。そう断定するのは後世の人たちによる田中への片寄り過ぎた思い込みなのかもしれない。
 政治家田中角栄は依然として日本の政治に影響を及ぼしている。その証拠は人材の厚さを見れば自明である。田中派のなかからどれだけの総理大臣が輩出されてきたことか。竹下登を始め羽田孜橋本龍太郎小渕恵三、そして総理大臣ではないが小沢一郎と、政界に君臨する巨匠を次々と輩出しているのだ。これほどの厚い人材層を田中は時間をかけて培養してきたのである。
 総理就任3ヶ月で日中国交回復を実現し、アメリカが反対する独自の資源外交を展開した田中角栄は、死して後も政治に熱い息吹を吹きかけている。
 今は国難の時代である。内政外交ともに問題が山積している。歴史にイフはない。しかしそれを知りながらも、「東日本大震災後、もし今、田中角栄がいたなら、政界、財界をはじめ各界各層から一般市民に至るすべてを巻き込んで、未曾有の危機に立ち向かっていったであろう…」と、つい思ってしまうのである。        (おわり)                  
                                  

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以下、感想を。

 


 『この国は俺が守る』〜田中角栄アメリカに屈せず(仲俊二郎著 栄光出版)より
「油」というタイトルの流れで巻末の2章を当方ブログに転載(省略部分あり)

させていただいた。

田中角栄氏が失脚した最大の理由は、石油など独自の資源外交について
彼ら(偽ユダ)から睨まれたことが原因であることを以前から感じてはいた。

20年ほど前に、友人に勧められ社会派恋愛小説を読んだ時、背景設定が
リアルだったので、ロッキード事件の経緯が参考に
執筆されているのではないか、と思っていた。
本書を読み終え、改めてそれに合点がいった。

また、第9章の家族との描写も含め、田中氏の晩年はどんな様子だったのか。

田中首相現役の頃やロッキード事件渦中をマスコミは散々報じたにも関わらず、
事件経緯・結果についての報道が、尻切れトンボという印象で、ワタシにとっての
マスコミ不審に繋がっていた。
ニュースを筆頭に一貫性のない情報を拡散、垂れ流すだけ、
隠蔽、捏造、情報操作も。
無責任で信用にあたらない集団であることを若い頃から感じていた。

本書を手にして、ロッキード事件や田中氏の政治活動の大まかな流れ、
他にも長年、頭の片隅にあった疑問が解けたことは収穫であった。
ロ事件の判決はさておき、政治に真摯に立ち向かった政治家の最期は、
穏やかであったことも知り、いち国民として安堵もした。

だが調べる程に、更なる疑問も浮かんできた。
「日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約」
(通称)日中友好条約が調印されて以降、日本はODA(JICA)円借款などで中国へ支援を
行ってきた際、関与した政治家が数億円単位のバックマージンを税金から…という実態を
私たち一般人はほとんど知らない。
田中氏を擁護する立場で書かれた本書から、日中関係の政治的裏側を知ることは
できない。

けれども唐突だが、倭国の時代から交流があった中国との間柄に思いを馳せると、
田中氏の果敢な政治行動も歴史のひとつとして、実を結んだという見方もあるだろうか。
1960年代中国共産党の閉鎖性が世界情勢から取り残され追い打ちを掛けるように、
文化大革命(1966)以降の疲弊(毛沢東江青/エージェント)に、
周恩来首相は難渋していたであろうその時期。建前のような条約ではなく、
田中氏が旧友に手を差し伸べたようにも、本書から感じ取れた。

大国のプライドや立場、日本にも好機であることを田中氏は承知だったのだろう。
偽ユダがたぶんほとんど関与しなかった稀有な条約だったのではないか、と思う。


ちなみに、Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約
より抜粋
<交渉の経過>より
1972年9月の日中国交正常化の際に、発表された日中共同声明の第8項で
「平和友好条約の締結を目的として交渉を行うことに合意」していたが、その後の動きは難航した。
〜〜中略〜〜
1977年7月に鄧小平が共産党副主席、副首相として再復活し、
その主導により経済建設路線がスタートしてから、状況は劇的に変わっていった。
日本側は1977年12月頃には平和条約の締結に前向きな中国の姿勢の変化を感じていた。
福田赳夫内閣の期間・・・清和政策研究会設立者/1979)


(参考までに)
https://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20170929/Recordchina_20170929027.html
https://www.sankei.com/world/news/180529/wor1805290010-n1.html

 

上記の記事から思うのは、USAのように日本国家予算特別会計からUSA国債購入や
安全保障条約と称し、日本人の血税をこっそりゴッソリむしり取り続ける、
USAを操作しながらの偽ユダ十八番、強請り外交よりは、日中関係の方がマシか。

だが、日本は今、中国人や中国企業流入が凄まじい。

土地や水資源を買い漁っているという。
更には、もともと日本は中国のものという珍認識もあるようで、

さすがに呆れてしまう。
諸外国人が日本を凌駕した時には、日本の良さが消えてしまうであろう。
奪ったはいいが手に入れたそれは、魅力が失われていくのである。
郷に従わず、奪おうとする者が席巻すれば、そこは空虚な地となる。
それぞれの国、地域の魅力は、その国の人々でしか生み出されない、と思う。


マスコミが扱うすべての情報は、偽ユダの誘導の意図があってのこと。
アジアの脅威と化している中国不審船団や

チベットウイグル、モンゴル等の民族弾圧の根っこにも、

中国共産党の暴走政治も、偽ユダ支持や裏資金によるものか?!
ウガンダ東ティモールの紛争もヤツらに仕組まれたものという。
地域社会の混乱や民族社会の破壊=NWO…。

買収や移住、弾圧、侵略、または表面的な平等さや博愛の偽善狂育やマスゴミ喧伝は、
つまりは偽ユダの金融支配による富の収奪と人口削減の‘任務’に端を発している。
いかんせん西洋礼賛文明は幼稚だ、とワタシは世間の物差しと逆さまなことを思う。


***


再び田中角栄氏の話を。
現在の金額は知らないが、総理大臣には(執務室の?)金庫に

当時1億円の現金が、公務の諸経費として用意されていたそうだ。
在任の間なのか、年間なのか期間は定かではない。

総理大臣であった田中氏が辞める際、それは手つかずだったという。

それに引きかえ三木首相の退任時には、金庫にあった1億円は

すっからかんだった、と本書と他の関連書に書かれていた。
政治不審、反日感情自虐史観を煽るマスゴミ情報には上がって来ない、
国民にとって、何を信じれば良いのやら…という世相。

その不安な国民感情に対し、税の重みを身に沁みていた

政治家田中角栄が、公人として信頼に足る、救いの逸話がある。


人生の幕を閉じる寸前に、田中氏が発した「車に乗るのが好きです」という言葉は、
文明を謳歌する個人の素朴な感情から、日本列島改造論は始まっていたの

かもしれない。もちろん、新潟という日本海側、交通不便な雪国の人々の

悲願も背負っていただろう。
また、田中氏が注力した果敢な資源外交は、石油を筆頭に国際社会から受けた
経済封鎖で太平洋戦争(大東亜戦争)に至る、政治事情(秘密裏の偽ユダ長期計画は

別として)で辛酸を舐めた世代の、非武装の国防策であった。

更には、列島改造論を世に広め、土地を値上がりさせ儲けた田中角栄、と
当時のマスコミがバッシングした。
その戦略の中に、ゴルフ場開発も含まれていたのは、戦争などの有事には、
農地への転用を視野に入れた秘策であったという。
窮乏した時代の日本を知る人ならではのアイデアなのだった。
近代文明のシステム(無意識にしろ偽ユダ支配文明の脅威の中)を
生き抜くのに、国を念い大所高所から未来への善処策を

真摯に模索した政治家、リーダーに相応しい

人物だった、と今もワタシにはそう思われる。

 

だがしかし、自然が豊かだった時代に育った人の過ちか。
自然の豊かさは当たり前で、自然を如何に利用するか、という発想に偏る。
戦争の苦い体験、食糧難の経験が、その発想をいっそう強くさせた。
経済こそが生活を豊かにすることを信じ疾走した世代。

金融の流れや偽ユダ支配が巨大化するにつれ、
食糧や物資の多量さと引換えに、自然環境が破壊されつつあった
私たち世代以降の哀しさは、それ以前の親世代の人たちには解らない。

 

日本列島改造が謳われ、ダム建設、水力火力原発_エネルギー供給や
津々浦々の道路整備、護岸工事、あらゆる公共工事
税金の使い道が常態化した。そのあかつきに、
豊かな自然環境を失い続けていることが、甚だ残念だ。
それと同時に古い時代から連綿と築かれてきた知恵を失い、
私たちは西洋的狂育が施された思考の中で、右往左往し苦しんでいる。

明治〜戦後教育で、中世〜江戸時代の真実の様子が
伝えられていたならば…と。

江戸の街の美しい田園風景や庭園が、明治になって樹木は切られ、

池や水辺は埋められ、家々が壊され、道路や建物がどんどん整備されていくことを

悲しんでいた明治初期の人の伝聞が、身につまされる。

便利やキレイさ立派さはお金で手に入る。が、見た目ではない、

真に調和のある美しい風景や理に適った生活は、

お金では買えないものだ。

時間が育む先祖からの心…

知恵、心意気、美意識、慈悲心、人情、公の正義…は、

明治から、時間がお金に化け始めて、先代の心は次第に消えてしまった。

 


いま、教育で教わる歴史ではなく、

マスコミが拡散する(したがる)史観でもなく。
隠されても漏れ出してしまう、史実を見つけ、
大雑把にでもそれを踏まえ社会を観察することが肝要に思う。

現代の嘘にまみれたマスゴミの他人事情報の垂れ流し。
偽ユダに不都合なことを隠蔽し続ける偽歴史や偽科学。
人類1%へ向う一方通行の富、歪み切った虚のマクロ経済。
その代償が、自然環境破壊や他生物危機。
富を持たない生活者を人口削減という陰険な計画。

私たちの生活、人生すべてにそれは関連している。
他人事ではないのだ。


***

 

著者が「行き過ぎた清潔度と倫理観の要求は人間を萎縮させる」と引用する
山本夏彦氏の言葉も、“現代”政治という枠で見れば是であろう。
ニーチェの言葉を引用し、党や時代のみならず、

民族性も含め集団性の狂気を批判する。


無知なワタシが言及することでもないが、
ワタシはもっと素朴に根本を問いたくなってしまう。

ニーチェも偽ユダの御用思想家であろう、それを引用している。
汚染脳が隅々まで行き渡ったこの世界の皮肉を思う。

現代の政治とは西洋から与えられた、
否、押し付けられた思想・理論が元となっている。
偽ユダ世界を肯定し演出する元凶でもあると、常々思う。

現代の教育政治経済文化を束ねるマスコミ情報社会。
その原発巣は、約500年以上前から。固有の民族社会を破壊し続け、
今も尚、西洋貴族が裏舞台から操り続ける社会。
極めて偏向な知識、偽情報の上に、砂の楼閣の如くの幻想なのだ、と。
基礎が無い牙城、あるいは基礎工事が滅茶苦茶…、と喩えたくなる。


民族それぞれ、風土に合わせ暮らしてきた生物としての先祖は、

悠久の時代を生き抜いてきた。

数百年前、まったく知らない土地の人間が突如、大陸諸島各地、日本にもやってきた。
文字、宗教書首っ引きで貴族の頭でっかちなルール・思想を押し付けられた。
暴力強姦強奪で脅され、土着の主権者らが偽ユダの贈賄で嵌められ、
固有の価値観は破壊され、先祖の知恵や記憶は消されていった。
従わなければ殺される…という繰り返しで作られた末期の時代という現代。


地球全体に及んでいるの西洋礼賛型の偽文明。

その中で現代のマスコミが繰り返し取上げる政治事件など、
マスゴミが安価なハンマーを握り絞め、
モグラたたきに興ずるショボいゲームにしか見えない。
そんなつまんないゲームの観客になりたいのか、と。

 


更には、石油を使う、ウランを使う、エネルギーを消耗して、
しかも環境を破壊してしか、

物質文明が成立たないこと自体に、疑念が湧く。
それまで長い時を経て磨いてきた知恵は、

一体どこへ消えてしまったのか…、と。


無自覚にしても数多の偽ユダによる陰惨な芝居を私たちは見てきたのだから、
そろそろ、偽ユダ配下を価値観を超越していく、

全うなビジョンを描くことではないのか。

教育を、そして政治、経済、科学文化に疑問を持ち、
既存の枠を超えるのに何ができるのかを
想像・創造していかなくては、と思う。

教育の狂育が汚染脳の根幹であることも痛切に感じる。
幼児の柔らかい脳にまずは狂育・汚染脳を施さなければ、
マスゴミ情報を理解できないのだから…。


西洋型政治が人間を救うことはない。
混乱が増すだけである、と気付くべきではないのか。
地球のエネルギー資源を消耗し続けて、
物は溢れても、人生を豊かにしてくれることはない。

時間や空間や地球資源が(偽ユダの)マネーに換算されるほどに、
人間の存在価値は希薄となり、歪な人口増減を辿り、やがては
子孫が消滅してしまうシステムなのだ。


真心が時代を超えることが、真実であった時代を取り戻す…、

せめて150年前の日本人の価値観を
知るべきだ。

もう偽物文明はいらない。

 

ひとりひとりが虚構のループに真実に気付く、真相を知る、
自身の無意識を意識化する。それが、
現行の西洋礼賛型偽文明から脱却する方法ではなかろうか。

 


***************


他、余談であるが本書は、田中氏の政治家としての後半から
佐藤栄作が首相だった頃を始まりの舞台として描かれている。
佐藤氏は当時のアメリカ大統領ニクソン氏との外交で、
繊維貿易摩擦を沖縄領土返還に対しての交換条件とした。
その手腕は戦後から20年にも満たない時期に、なかなか

凄いことだったかもしれない。
フリーメーソン会員ダッタカ?!ダカラ?!

ともかく佐藤氏は日米繊維交渉の煩悶の渦中にあった。佐藤氏は次期、首相の座を
同派閥の三木氏か福田氏に譲るつもりであったが、日米繊維交渉という
難題を押し付ける形で、通産大臣の田中氏がこれにあたり、
国内の繊維産業に大胆にメスを入れ国内での憎まれ役を引受け、外交的に功を奏した。
その実績を買われ番狂わせのようにして、田中内閣が発足したのだった。
昭和40年代末、貿易摩擦で日本が折れる形で、国内代表的な輸出産業の

繊維業界を性急に縮小したことは、業界の衰退となった。が、

後にこの逆境がハイテク繊維の開発にも繋がった、と

著者は、田中氏の先見の明として賞賛している。

 

ところで、ワタシの暮らす街に近い都市では繊維産業で繁栄していた。
子供の頃、大人たちからガチャ万景気という言葉で、

(ガチャ万とは織機を動かせば大儲けという揶揄を込めた意)
知人商売の話を盛衰交え聞かされていた。既にワタシが小学生の頃は
衰退しており、街がどんどん寂れていく様子が聞こえてきた。

なぜ、ガチャ万景気が終ったのか、子供の頃は疑問もなかった。

せいぜい、お金持ちで威張っていた人たちは、

いつか凋落するもの…という内省的な解釈で聞き流していた。
が、この歳になって、沖縄返還を実現するため日本繊維産業の

やむを得ない弱体化・解体が政治的駆け引きの中にあったことを知った。

国際政治の采配が身近なところで個々の人生に大きく影響している。
偽ユダが裏で操る、政治経済の宿命、それは理不尽がつきまとう。


ところで、貿易摩擦は未だにUSAの十八番・茶番劇である。
諸外国が石油メジャーから大量に輸入していても、
USAは貿易赤字を叫び続ける。

 

偽ユダ御用達タックスフリー国に在籍する企業や、

スウェーデン企業と思イキヤ・オランダ免税非営利法人インカB.V(IKEA)。

石油エネルギーや鉱物資源の企業、多国籍企業SNS企業など。

どんなにUSAらしき物品、オシャレ風欧州モドキ雑貨などを消費しても、

大半の富が税としてUSAも含め一般国に還元されない。(ダカラ西洋礼賛ヲヤメナサイ、と)

欧州系偽ユダの裏システムだ。

アマゾンも日本で商売しても、日本に納税しておらず、

法的抜け道を駆使している企業という。

おまけ https://www.zeiri4.com/c_1076/n_485/

‘アマゾン 税金’で検索するとマスゴミのメジャー誌などが、

堂々と話題を取上げている。それも魂胆あってのこと、と

私見としては、NWOに向け納税の不均衡に焦点を当て

各国民の不満を盛上げ多国籍企業を公社化するような流れでヤツらは、

NWO&AI社会の実現を諮るご予定か。

 

つまりは偽ユダ(欧州貴族と元地球人)の、人間も含めた地球全体の私物化ダ。

特に人造ロボット向きと判定されている日本人はターゲットなのだろう。

(品行方正な集団性を利用されんとしている。

 繰り返されるCMや、あらゆる映像で集団を強調し、

 ロボット的なイメージを刷込もうとしているのが見てとれる。)

 

 

(大半の利益がUSAを通り過ぎているようだから、そりゃ赤字にもなるわナ。)

仕組まれた貿易摩擦という建前でUSAから圧力をかけ続けてきた日本の貿易黒字。

今や、日本の優良だった企業はほとんど偽ユダがおおもとの株を独占している。


あるいはまた、近頃の中国への法外な関税。

(中世から同じ事を繰り返している偽ユダ。呆…。)

中国も関税で応酬するようだが。

NWOが実現すれば制裁を加えても諸刃の剣…の、予行演習か?(笑)

日本がUSAの圧力に屈する程に、

偽ユダにカネが向っていく仕組みだから、

USAのみならず世界中の貧富の格差が広がるだけ…。

残念なことである。

 

また、だらだらと同じようなことを長く書いてしまった。
ご容赦を。