ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

自然の中に…

 

 

昔取った杵柄で、

昨年末にアドビイラストレーターの

初歩的なことを伝える機会があった。

伝えた人は高校生。

 

彼女が試行錯誤する中で、タイトル見出しの

変形を「“こうしたいというイメージ”はあるが、

どうしたら良いか分からないから教えて」、という。

 

変形させる希望の形をあれやこれや、と説明されるも、

理解力想像力不足のワタシ故、ピンと来ない。

 

で、ネットで彼女の希望する変形を

探し出したら、「扇形」である、とやっと解った。

内心、「扇」という言葉が、彼女の中に

無かったことが、ワタシは衝撃だった。

「扇子のような、オウギガタ」の言葉で済む事なのであった。

 

 

 

 

彼女はなかなかの読書家で、博学であることは

感じていたけれども、扇形の言葉が彼女には

インプットされていなかったのだ。

 

この一件で判断するのも早計かもしれないが、

若い日本人は、もうすでに西洋化が浸透し切った、

生活なんだなぁ、と改めて実感した。

 

ワタシの子どもの頃は、祖母が着物を日頃着ていたり

着物についての道具や習慣や言葉を母から教わったりして、

江戸時代から昭和初期までの日本を何となく感じる

話題が、時折聞けた。

けれども、現在の若者世代は、すでに和服、着物を

日常で着る人を知らず、日本の習慣や様式、美学は

皆無の状態の生活環境で暮らしている。

 

その世代の親、祖父母がすでに、戦後のアメリカンナイズ

欧ベイ化、人工物・西洋礼賛・カネ経済発展、ボタンひとつで…の

便利礼賛で、育った世代。

自動化が有難く、人工物の畏敬と共に、

自然を軽んじ駆逐することが、是の異常時代。

 

ワタシは似た世代であるけれども、その経緯がアホらしく、

悲哀を込め諦観のような認識をしている。

 

 

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扇形と言えば、扇子である。

図形に扇子の形を当てはめている

「扇」という言葉も、日常で扇子を見る、使う

機会が減れば、自ずと会話から遠ざかっていく。

 

扇の形は自然界を見渡すと、

イチョウの葉っぱの形、

花びらの形、様々な自然の形から、

大昔の人は、扇子を思いついたのかしらン、と。

 

 

さっき、昔読んだ故政木和三氏著書を久しぶりに読み返していたら、

「真理は自然の中にしかない」という言葉が目に飛び込んで来た。

 

 

夏を涼しくしてくれていた道具が、扇子だった時代。

その形を思いついたのは、

きっと自然界にある形だったのではないだろうか。

 

扇子は広げて、逆さにすると、「八」という文字に

見立てることができて、それを末広がり、寿とする、粋な発想。

または、富士山や山の裾野を重ねただろうか。

 

考え過ぎであろうか。

‘物’ 人工物を逆さまに見立てる所動には、

人工への皮肉も含まれているような気がして…。

 

自然を感じない、気付かなくなっている、

 人工世界での暮らしのワレワレは、

発想のみならず、精神活動も萎縮していくのではなかろうか。

 

 

 

平成30年という日本である。

こじつけであるけれども、

西暦では、2018年の八の字に寄せて。

末広がりであることを祈りつつ。

 

 

夏炉冬扇な話題。 (笑)