ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

普遍の知恵と一過の知識。

 

 

比較しないこと、と思うのだけれど。

己を知る、内省に用いることも少しはあるか、と言い訳しつつ。 

 

 

 

ヘアーインディアンのヘアーとはウサギのことなのだそうだ。

余談。

 

 

さて、 先述の一節を一年程前に、家人に読んでもらった時。

地球に人が暮らし続ける深い知恵に、心を揺さぶられた。

 

人間が生活するために、地球を利用・搾取することではなく、

地球の一部に人も存在している「大いなる仲間」を自覚している、

ヘアーインディアンたちの偉大さを改めて思う。

 

現代人の生活が如何に傲慢で我儘か。

現代人の宗教や倫理観や科学技術や文化文明の…、

軽薄さを感じてしまう

 

 

狩りのために犬の食糧を優先する人たち。

ペットのように従属させるのではない。

家畜のように人間が食べる目的でもない。

他生物同士はお互いの能力を提供し合って「生き抜く」。

自身が命を繋ぐのには、他生物と互いに平等であることを

食をもってして、わきまえている人たち。

地球の掟を体得している。

 

野生動物を狩猟して、その命を頂く食の神聖。

腹が減ること、飢えることを恐れる、文明を標榜する現代人。

その落差。

 

(偽)文明しか知らない私たち現代人はカネで食糧を得ることに

疑問は無く、当たり前”だ、と思っているからこそ、

飢餓が恐しいのだ、と。

一応生物であるワレワレは、他人任せの食糧調達が危ういことを

無意識には感じるからでもあろう。

かつ、教育体制の中の歴史で、メディアビジュアルで、

貧困のステレオタイプ的イメージが頭から離れない汚染脳。 

 

ヘアーインディアンの生き様から想う。

飢える、ことと飢餓は、違うのだ、と。

 

飢餓への恐れは奪い合う、

醜さ、餓鬼を想像させる。

有史に書き込まれている戦いは、

餓鬼同士の争奪戦でもあったから。

文明人と標榜する我々自身の中の醜さから目を逸らすが、故に。

 

 

ヘアーインディアンの人たちは、飢えることは恐怖ではない。

暮らしの中で行事のように受け入れ、

互いが平等に分かち合う。

飢える行事の中で更に、肉体と精神を知る、

崇高な精神を自身の中で深めていく。

きっと、飢えるとは植えるへ繋がる、人の知恵なのだ。

 

(偽)現代文明側の人間には、その気高く繊細な精神性が、

分かることはないだろう。偽食を飽食することが幸福・幸運なのだから。

加えて偽食世界で本物を志向する

極みの卑しさを「セレブ」ごっこに視る。

 

エスキモーの人たちと、時に争奪もあるというが、

(偽)現代文明側の醜悪な独占とは異なろう。

 

すべての大陸で繰り返されているキリスト教徒らによる

宗教の強要が、無念でならない。

 

大地と暮らしている人々を迫害した後、キリスト教者が救済した

だのの美談ばかりが、(偽)現代文明側で、

一人歩きしていることに呆然としてしまう。

 

正に、大地を生きる人々の精神性や生きる知恵を

地球から失ってしまうことは、

この星の哀しみのように想う。

 

現代人は全て外側の世界に翻弄され他人任せ。

果ては、健康の美容の不老の為に、

断食と称し自己の健康維持に活用しご満悦。ワタシもデス(汗)。

死ぬまで自身のことを分からぬまま。

卑近で凡庸な(偽)現代文明の我々。 

 

 

 

笑いというものは逆境の時の心の支え合いの発露でもあり、

優しさ思いやりであることを

昔の日本人たちの慎ましやかな暮らしの中にも

ほのぼのとした笑いがあったことを彷彿とさせる。が、

 

ヘアーインディアンの人々は身体の状況に合わせて、

笑いのトーンをも、自ずと変わる。

品性とは、こういうことなんだ…、と気付かされる。

 

昨今の(偽)現代文明はどこもかしこも、嘲笑であり、

ひん違いの「貧」であることに、気が付きもしなくなっている。

 

 

 

中世の人体解剖図を欧州人の功績として

日本人も周知しているけれども。

日々の中で、動物の命を頂く時に、内臓を知り、

自身と変わらない他生物の肉体の内的宇宙を知ることのセンス。

どちらが、まともな好奇心なのだろうか、と。

 

 

 

自然の中で河や湖の刻々と変化する水、氷の様子を

見て直感的に感じて、命に関わるからこそ、

真剣に想像し嗅ぎ分けている人々。

 

工業製品の精密機器で計測して分析して、記録し…。

何年もかかってやっと自然のひとコマの現象を証明し、

どこだかの賞賛を浴びんとする…(偽)現代文明側の人間。

悠久の自然の中で結局、何になるのであろうか…。

 

一瞬一瞬違う、すべてが流転する

自然を確率として理解し、しばらくは知識になっても

年月を経れば、やがて、どうでもいいデータになろう。

知恵にはなり得ない。

 

大地と暮らす「普遍の知恵」と 偽文明「一過の知識」を…

思い知る。