ただいま日記

洗脳社会〟の手法を「知って。気付いて。」 自分に帰ろう。今に戻ろう。

プチ断食 追記2

 

 

 

家人から勧められ

心が揺さぶられた…本の一節。

少し長いが転載を。

 

 

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「子どもの文化人類学」原ひろ子著(晶文社

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26〜31頁より)

 

もうひとつ、“飢え”によっても、肉体と心を統合した

“自分”を知ることができるのだと、ヘアーインディアンはいいます。

 

 十月になって、河や湖が凍りはじめるという氷結期に入ると、

水中に張ってあった魚網をひきあげ、河や湖を舟で渡ることをさしひかえます。

いったん薄氷ができても、暖かい日が訪れるととけてしまうので、氷結は

一進一退をくりかえしながら、だんだん厚さを増してゆきます。そして氷の

厚さが一メートルぐらいになると、その上を荷物をのせた犬ぞりに、

人が数人ついて歩いても安心だという状態になります。

このような結氷期、一ヶ月前後を要します。ヘアーインディアンの住地は、

多くの湖と、無数の河川におおわれています。河川は、夏は舟、冬は犬ぞり

通路となり、湖はいわば巨大なロータリーとなるのです。

 しかし、湖や河川が多いので、凍らないときには陸づたいに移動できる範囲が

非常に限られてしまいます。ひとつのキャンプ地でまかなえる食糧源がすぐ

枯渇するので、ヘアーインディアンは、キャンプを常に移動して生活するのですが、

氷期にはその自由がなくなります。同様に、五月前後の解氷期にも舟が出せず、

犬ぞりも使えず、魚網も張れない状態が一ヶ月ぐらい続きます。

犬ぞりをひく犬の食糧をけずりすぎると「いざ、移動だ」、「いざカリブ狩だ」

といったときに犬が動けません。ですから、食物が不足してくると、

人の方が我慢するわけです。

 

 たとえば、人の食糧としてウサギ一羽分しかないとき、それを鍋に入れて

水煮にします。生後一年以内の赤ん坊がいるときには、その子の必要量を

確保し、次に、これから狩りに出る二人の男たちにウサギの後ろ足を

一本ずつ食べてもらいます。残りの人間は、スープをすすり、肉は一口だけ

食べて、テントの中で寝袋に入ったまま、ゴロゴロしているのです。

 いつもなら、夜を徹してでも昔話や世間話にうち興じ、冗談を連発して

にぎやかに過ごすことの得意な人たちですが、食糧の枯渇しているときには、

口数も少なくなり、静かに、狩に出た男の帰りを待ちます。でも、ただ

だまっていると、気が滅入りすぎるというわけで、ときおりだれかが

軽い冗談をとばします。すると、皆はクスクス笑って気分をかえるのです。

大笑いするとますますお腹がすくので、クスクス笑うのです

 

 子どもたちも、おとなと同じように飢えをしのびます。

お腹がペコペコでなにか食べたいという感じから、胃がひきしまっていく

ような気分にかわり、そのうちに全身の力が次第に抜けていき、腸の動きも

不活発になります。目はくぼみ、肌のつやも消えて、ねむたいような

ねむれないような気分になっていきます。

 でも、ねむってしまって、火の気を絶やしたら、お腹がすいているだけに

凍死しかねません。ですから、テントでゴロゴロしている人たちは、交代で

薪を割り、ストーブにくべていくのです。

 子どもたちも、テントの外に積んである薪をストーブの脇まで運び込んだり、

点火用のつけ木をこまかく割ったり、いろいろな仕事を分担します。そして

用事が終わると、また寝袋にころがり込んで、狩に出た人が何か獲物をもって

帰るのを、二日でも三日でも待つのです。

 

 こういったことは、結氷期と解氷期に限ったことではありません。夏でも、

そしてとくに冬には、二十四時間から四十八時間ぐらいの間、うすいスープしか

口に入らないことがあります。

 しかし、農村地帯の飢饉とちがって、狩猟民のヘアー・インディアンの場合には、

今日か、明日か、一週間後には、なにか食べ物がみつかるという

希望が常にあります。

 また、獲物を解体するときには内臓まで細かく観察している体験から人間の

からだの内部を類推して、飢えの時期には、内臓の機能などをあれこれと

考えながら、自分のからだに生じる変化をよみとります。

 そのほかに、長く歩くと、どこの筋肉がどういうふうに疲れるかとか、

重い荷物を背負うコツとか、水はどんなペースで飲むといいとかとか

自分のからだのいろいろな部分と常に問答をくり返しています。

 

 機械といったものがほとんどなく、道具も最小限の品で生産し、消費し、

楽しみ、美的感覚を満足させている彼らは、文字どおり、“からだ”そのものを

使って生活しているのですから、からだとつきあうすべてを心得ているのも

無理からぬことでしょう。